2004/10/31

最悪の事態

香田さん死亡、政府に衝撃・自衛隊派遣延長論議に影響も
イスラム武装組織が香田証生さんを殺害したことに、政府は「最 悪の結果」と衝撃を受けている。今後は遺体の受け取りと日本移送への準備を急ぐとともに遺族へのサポートにも万全を期す。サマワで復興支援にあたる自衛隊 の撤退要求を小泉純一郎首相が拒否したことに対する世論の理解は得られるとみているが、12月14日に期限を迎える自衛隊派遣の基本計画の延長論議に影響 するのは必至だ。(NIKKEI-NETより抜粋

色々と政府は慌ただしくなりそうですね。香田さんのご家族の事を思います。なんともやるせない気持ちで一杯です。ただこれ以上はもうやめます。香田さんのご冥福を祈っています。

追記:今後、香田さんの死について色々な話が出てくると思う。できれば、何故助けることが出来なかったのか、どの様に対応すれば助かる可能性が少し は出てくるのかを、関係者で話し合って欲しいと願う。ああいう危険地帯に行かない限り問題ないとの意見が出れば、それこそ危機意識としては最低だと思う。 世界には、そして多分日本でも、危険地帯は至る所にある。テロに屈しない等との無能な意見だけは聞きたくはない。なぜならそれは別次元の話だと思うから だ。
(2004/10/31 21:00)

エマ


秋葉原では3年ほど前からメイド喫茶が流行っているらしい。「らしい」というのは、一度も行ったこともないし、興味もなかったから、あること自体知らなかった。知ったのは友人から教えてもらったからで、妙に和むと彼は言っていた。

どうも店に入った所から演出は始まるらしくて、「お帰りなさいませ、ご主人様」と来るらしい。それらの演出は秋葉原にある、8店舗のメイド喫茶毎に 趣向を凝らしていて違うらしいけど、共通点は全てメイドのコスチューム。コスチュームは白いカチューシャに黒いワンピース、そしておきまりの白いエプロ ン。始まった当初は、男子学生が多かったらしいけど、それからサラリーマンも来だして、今では女性客も多いらしい。ちなみに女性客の場合は「ご主人様」で なくて「お嬢様」となるとの事。(これらの記事は、友人の言葉と、2004年10月30日産経新聞記事を参考にしました)

これは19世紀イギリスの典型的なメイド姿だ。
何故、興味がないと言っている僕がそんなことを知っているかと聞かれれば、話は簡単で、漫画「エマ」にはまってしまっているからだ。

「エ マ」(作者:森 薫)は、メイド正当派の漫画らしく、よく売れているらしい。絵に雰囲気があり、綺麗な装丁だったので立ち読みしたら、思わず引き込まれ て、4巻全部買って本屋から出てしまった。「エマ」に載っていた作者の後書きを読むと、この漫画は作者の好きなものを全て描いているとの事で、確かに楽し んで描いている様子がよくわかる。

それに、あらすじも正当派英国恋愛漫画で、ストーリーも登場人物も時代背景もしっかりと描かれていし、上品だ。英国恋愛漫画と書いたのには理由がある。貴族階級とメイドの恋愛だからである。男性の名前はウィリアムで、その父親がウィリアムに向かって言う言葉がある。「英国には2つの国がある。貴族社会とそのほかだ」いかにも貴族階級の言いそうな言葉だと思う。

漫画が嫌いでなく、まだ「エマ」を読んでいなければ、是非ともお奨めする。現在も月刊コミックビームで連載中だけど、読むのなら既刊の単行本4巻で一気に読んで欲しい。続きが読みたくなり、第5巻目が待ち遠しくなると思う。

「エマ」の雰囲気が知りたい方は、作者のサイト見てください。なかなか綺麗で楽しいサイトです。

「エマ」の話題から少し離れるけど、僕の大好きな映画の1つに「バベットの晩餐会」がある。考えようによっては、あれもメイド映画だったかもしれない。

バベットの晩餐会」は1987年のデンマーク映画、原作はあのアイザック・ディネーセン(「アフリカの日々」しか読んでいないけど・・・)。
あ る貧しい漁村に身寄りのないバペットという女性が、敬虔なクリスチャンである老姉妹の元に来る。そこでメイドとして雇われた彼女は、ある時宝くじに当た り、莫大な賞金をもらう。そしてそのお金を老姉妹の亡き父親の記念日に、村人を招いて晩餐会を行うために使う。当初いがみ合っていた村人達は、バベットの 料理に触れることで、最後には仲良く気持ちが通うようになっていく。そんな話だけど、出てくる料理が素晴らしい。バベットは実はフランスの名シェフだった けど、フランス革命の為に、この漁村に逃れてきたのだ。

全てのお金を、老姉妹の晩餐会のために使ってしまった彼女に、姉妹は「お金を全て使って無くなってしまってよいの?」と聞くと、バベットは答える。
貧しい芸術家はいません

「エマ」の作者も、「バベットの晩餐会」の作者も女性。こういう事に性差もないのかもしれないけど、何か男性である僕から見ると、何かを生み出す力は女性の方があるように思えてくる。

2004/10/30

バーの話

昔からマティーニが大好きだった。それは多分にジェームスボンドの影響が強かったと思う。彼が愛飲するマティーニはウォッカベースでヴェルモットは1・2滴とか、これだけでもボンドの性格が想像できるから小説では重要な小道具だろう。

僕の場合はクラシックマティーニ専門、ジンはタンカレー、ヴェルモットはマルティーニが好み。
勿論自分でも造れるけど、やはりバーに行って飲む方が美味しい。それにバーでは違う楽しみもある。(タンカレージン専門の本がある。面白い本だったけど、友人にあげてしまった。再度購入しようとしたら、既に廃刊・・・・「タンカレー・マティーニA to Z」)

それは、バーテンへのオーダー注文だ。例えば、カウンターに座り、おきまりのマティーニを注文した後に、バーテンダーに話しかける。
「今日は会社で嬉しいことがあったので、色はスカイブルー、ほんのり甘く、飲んだときにすっきりして後口が残らない、その上でフィズ系のを作って」
そう言うと、プロであれば大抵のバーテンダーはイメージ通りに作ってくれる。差し出されたカクテルを見て、彼(彼女)の講釈を聞き、実際に飲んで味の感想を述べる。このやりとりがとても面白い。

実際、バーは僕にとってお酒の遊園地みたいなものだ。ただ一緒に行く人数は、バーテンダーとのやりとりもあるので、大勢よりは一人か二人が望ましいと思っている。

壁に並べられた、ラベルの美しい多くの酒瓶を眺めるのも楽しい。こんなお酒もあったのかと思うこともしばしばある。一杯のカクテルで、長時間楽しめることが出来るので、トータルでは結構安い遊び場だと思う。

勿論、頻繁には行かない。僕はお酒は殆ど飲まないので、バーに行くのは年に3?4回くらいだと思う。よく行く店は渋谷の「門」という老舗だ。「門」 は1つのビルに3店舗入っている。元々は一人のオーナーだったけど、3人の息子さんが引き継いで別々の独立した店になったと聞いた。

僕が行く「門」は地下の「八月の鯨」か3階の「門」のどちらかだ。「八月の鯨」のカクテルは全て映画の題名になっている。勿論客からのオーダーも受け付けている。その場合も映画の題名を言えば、バーテンダーがそのイメージにあったカクテルを作ってくれる。それも又面白い。

3階の「門」は落ち着いた感じが気に入っている。さすがに老舗だけあって、バーテンダーの技術も意識も高いので、十分に遊べる。バーテンダーは一種の職人の感じがして、僕は人には「すし職人」を例えて説明する。そのくらい奥が深いと言いたいのだ。

「門」以外のバーにも立ち寄ることも時にはあるけど、マティーニの味で今後も通うか決める。マティーニは単純なレシピだからこそ、バーテンダーに よって味が大きく変わるカクテルだからだ。技術的には日本のバーテンダーは高いと思っているので、よほどの場所に行かない限り、はずれることはないとは思 うけど、技術的なことで気にする事もいくつかある。

まず、氷を音を出さずにステアすることが必須条件となる。オリーブの種類も重要だ。レモンピールの香り付けの仕方も大事だし、なによりもクラシックタイプとの注文がそのまま通じなければ話にはならない。

名前だけは昔から知っていて、行きたいと思いながら行けずにいるバーがある。「リトルスミス」「バー東京」というバーだ。知っている人も多いと思 う。店長の保志さんは、国際カクテルコンクールで優勝した経験を持つ。保志さんの事だから、きっと素敵な空間を作ってくれるとは思うけど、銀座の高級バー の一角にあるので、怖くて近寄れないのが本音。ちなみに、銀座には保志さん以外にも、日本バーテンダー重鎮の毛利さん(この人のカクテルの本は面白かっ た)、バーテンダー日本一の大槻さん、などの有名なバーテンダーが多く集まっている。彼らのオリジナルカクテルは写真でしか見たことがないけど、とても綺 麗だった。

混乱する香田さん情報

イラクで人質となっている香田さんの情報が二転三転した。発見された遺体が最終的に香田さんでないことが確認されたが、混乱した情報は香田さんのご両親にとっては地獄の責め苦だったと思う。

発見された遺体は誰だったのだろうか?イラクでは路上に多くの死体があるのかもしれないが、その数分だけ、香田さんのご両親にとっては不条理な責め苦になっていると思う。

イラクでは、今回の戦争で既に10万人以上の方が亡くなっていると聞く、戦争前はフセインの圧政でも苦しんでいたとも聞いている、イラクが外国から危険地帯のレッテルをはずす為に、あとどのくらいの期間と死が必要なのだろうか?
もしくは、イラクが危険地帯であることのレッテルなど意味がないのかもしれない、一番大事なことは、イラク国民にとって安心して生活が出来ることだと思う。でもそれがあって、そのレッテルがはずれるだろう事を思えば、あながち無縁でもないと思う。

しかし、今回の香田さんの情報の混乱は凄かった。初め、遺体が見つかったと報道されたとき、すぐにその遺体は香田さんではないと否定された。その後 に香田さんらしき遺体が見つかったとの報道があり、それは時間が経つ毎に、未確認だとしながらも、報道自体は確定の内容を呈していた。その後に、その遺体 も香田さんでないことが確認されたが、その間の僕の気持ちは恥ずかしながら揺れに揺れた。

最初に見つかった遺体と後からの遺体は別の方だったのだろうか?それも含めて報道には謎が多かった様に感じる。ニュースソースとか、誰がどの程度まで確認した話なのかとか、が要領を得ないまま、情報だけが先に来た印象を受ける。

それにしても、何故に僕はこのように香田さんの消息に気持ちが動くのだろう。それは同胞意識からくる感情に他ならないと思う。僕にとって同胞意識とは一体なんだろうとかと考える。でも現時点では、うまく説明が出来ない。

実は、誤りであった「ほぼ確定」報道を聞いた時、僕が最初に思い出したのは、以前に八王子であった強盗殺人事件だった。未だ犯人が捕まっていない事 件だが、その際に女性3人が銃で殺されている。女子高校生二人が至近距離で後頭部に、主婦のパートも同様だったと思う。記憶なので正確ではないかもしれな いが、その無慈悲な殺害を思い出した。

香田さんの事件と八王子の強盗殺人事件を同じ次元で見るのは間違えている。でも、何故かその事件を僕は思い出したのだった。人の行動はその人の考え を表しているとすれば、明らかに八王子での強盗殺人は、お金目的で殺人は証拠隠滅の行動だと思う。その際に、証拠隠滅の相手が人であることは関係なかった のだろう。香田さんを人質に取っている人は、イラクが危険地帯で外国人は入ってくるな、の意思表示により相手を殺すのかもしれない。そのあまりにも自分勝 手な無慈悲な行動に対して、全く無関係な2つの事件が僕の中で結びついたのだと思う。しかも人質を取った側の声明は一切聞かされてもいないので、なおさら その感を深くした。

僕は、今回の報道が誤りであったと聞いた後も、しばらくは上記の思いに囚われていた。

蛇足だが、一部メディアでは「ほぼ確定」を「確定」として取り扱った感じがする。そして街頭でインタビューまで試みている。その行為はマスメディア として恥ずかしい行動ではないのだろうか?聞かれた街の人にとっても迷惑だった事だろうと思う。(後で気がついたら、この記事も含め、一連の誤記事は削除 されていた)

今回のメモを読んでみると、かなり支離滅裂だ。でも日記として自分の気持ちの状態を残すために、そのまま掲載することにした。

2つの家族


新潟県中越地震で土砂崩れに巻き込まれてなくなった、皆川貴子さんと長女真優ちゃんの通夜が29日に行われた。単身赴任で東京に離れて暮らす夫の学さんは妻と長女の優しくて楽しい思い出を語ったとの話を聞いた。
夫であり父である学さんの気持ちを考える。

また、イラク人質事件の香田さんのお母さんとお兄さんが東京の日本外国特派員協会で記者会見した。お母さんは消え入りそうな細い声で息子の事を話された。

この2つの家族は、つい1ヶ月前までは自分たちがこのような状況に身を置かれるとは思いもしなかったと思う。現時点の僕の様に。でも、もしかすると明日にでも自分の身に降りかかるかもしれない話だと考える。もしかすると被害者の立場になっているかもしれない。

だから何だと言われたら、ただそう思ったとしか言いようがない。何の益にもならない話かもしれない。ただそう思うからこそ、この2つの家族に思いは募らせ、かつ身につまされる感情が沸いてくるような気がする。多分僕と同じ気持ちになっている人も多いと思う。

何かおきた時に、自分の力で対応できる人は、ごく限られた人のような気がする。ビルゲイツの様なお金持ちか、どこぞの国のフィクサーの様な人か、腕力が異常に強い人とか・・・

僕などはその点全くだめだ。香田さん一家と同様に、最初は何をしたらよいのか全くわからないと思う。そして実際の対応は人に頼むしか方法はない。

災害時と香田さん救出への対応に、国がどの様な行動をしてくれるかで、安全で安心してこの国で生活を送れるかが見えてくるような気がする。人が自由に発言し行動し、かつ働くためには、安全と安心感が必要だと僕は思うからだ。

依然として8万人以上の方が避難生活を送られている。家は壊れ、先祖から住み慣れた村は廃村の可能性さえある。何とか早く元の生活に戻れるように、そして香田さんが無事に生還できるように、国はどう行動するのだろうか、そして僕は何が出来るのだろうか。

2004/10/28

2004年10月28日に思う事

新潟県長岡市で土砂崩れに巻き込まれた皆川貴子さん(39)ら母子3人。丸一昼夜にわたった救出劇は28日午後、長女の真優ちゃん(3)の死亡確認という 結末に。活動を終えた東京消防庁の隊員は「無念」と唇をかみつつ、前日に救出された長男、優太ちゃん(2)に「お母さん、お姉さんの分まで強く生きて」と 訴えた。(NIKKEI-NETより
多分日本中で固唾を呑んで見守っていた親子3人の救出作業は、真優ちゃんの死亡確認の悲しい結末を迎えた。多分、見守ってきた多くの人の優太君への気持ちは、東京消防庁の隊員の思いと同じだと思う。

「消防庁の隊員の皆様は本当にご苦労さまでした。救助作業の1つ1つに、いのちを救いたい気持ちで溢れていました。まだ救助作業はあると思いますが、ご自身の安全も考えて作業に当たって頂けたらと思いました。」(amehare)

一時、隊員の疲労と度重なる地震による二次災害防止の為に、管理する側が救助活動を停止した時に、非難の電話が連続にあったそうだ。気持ちは理解で きるが、いのちがいのちを救っている、隊員のいのちも考えなくてはいけないと思う。でも、隊員の熱意で活動は予定していたよりかなり早く再開された。それ を聞くと、隊員の方々に頭が下がる思いだ。

避難された方の中にはエコノミークラス症候群で亡くなる方も出てきている。過大なストレスを与えられている事への対処は、早くと思いながらも、少し 時間がかかるかもしれない。ただ、エコノミー症候群への対応は、1時間程度毎に少し立ち上がって、軽い運動をするだけで改善できると聞いている。多分、そ んな事は百も承知の事かもしれない、それ以上にストレスで心身共に参っている状態で、それを望む事さえ酷な事なのかもしれない。
でも、一時は救われたいのちを失って欲しくない気持ちで、老婆心ながら、ずっと座り続けないでと思ってしまう。

イラクで人質になっている香田さんのリミットがこのBlog記入時に過ぎてしまった。状況はどうなっているのかが気になる。

香田さんの実家には、香田さんを非難したり、税金を使うべきではない等の匿名電話が頻繁にかかってきているそうだ。
人それぞれに意見があるのは構わない。でも、イラクに行った事さえ知らないご両親に、その様な匿名電話をかける人の気持ちが、僕はむごいと思う。
親の気持ちは子供のいのちを守る気持ちで一杯だと思うし、それにそれらの意見を香田さんの実家に言ったところで何になるのだろう。今は政府に任せ、静かに状況を見守るしか無いと思う。

もう一つ思う事は、香田さんが愚かな行動に出たとしても、愚かさは死には値しない、と言う事だ。僕は、国が国民のいのちを守るために、税金を使うのは当たり前の事だと思う。自業自得だから死んでも構わない、の気持ちが横行する社会は、何か殺伐とした印象を受ける。

まず香田さんを全力をあげて助けるべきだ、それこそ、優太君を助ける隊員の「これからは一握りの砂も石も車内に落とさない。絶対に助ける」と決意した気持ちをもって。

「動画対応は間違い」とジョブズ氏

「われわれの競争相手がやっていることを見ると、動画の方へと動いている。だが、動画は大きすぎ、重すぎる上に携帯プレーヤーの画面は小さい。動画は、こ れから進む方向としては間違っていると思う。正しいのは写真だ。(デジタル写真の増加により)皆がコンテンツを持ち、著作権を有している」とジョブズ氏は サンノゼで開かれた発表会で語った。(ITMediaより
競争相手とはSONYの事だと思う。iPodと当該SONY製品の売上げ台数をみれば、ジョブズ氏が自信をもって今後の方向性を論じる背景もわかるような気がする。

でも問題は、その製品のコア機能が明確になっているかどうかだと思う。iPodは製品コンセプトを携帯音楽プレイヤーとして明確にし、その後に補足機能とし てメモ帳とかカレンダー等の機能を追加している。勿論そのデザインが秀逸だった事も大きなポイントだと思う。また、コア機能からネット上に音楽販売ポータ ルサイトを立ち上げ、それにも成功している。iPodを含め、これらのAppleの展開は利用者から見ると非常にわかりやすかった。これが成功の要因の大 きな1つだったと思う。

SONYの場合はそれが明確ではなかった感じを受ける。動画機能をコアとした製品であれば、その様に消費者に向かってアピールすべきだった。でもSONYはiPodの呪縛から逃れる事が出来なかったようだ。

また、ジョブズ氏の発言が、現在のiPodにおいての動画展開を言うのであれば、僕も話を理解する事は出来るが、今後の方向性を断じているのであれば、異論をはさむしかない。

なぜなら、それらはジョブズ氏を含むメーカーサイドが言うべき言葉ではないと思うからだ。決めるのは消費者である我々だと思う。

画面が小さいのであれば、その小さな画面に合わせた動画をコンテンツとして提供すればいいと思う。ましてや、今回の「iPod Photo」にはAV外部出 力も可能だと聞いている。自分のお気に入りの動画を、友人宅で見せたい人も中にはいるかもしれない。その人達にとっては、重さや若干の値段の高さは受け入 れられる範囲かもしれないのだ。

ジョブズ氏はもっと明確にわかりやすく言うべきだったと思う。動画機能を追加したiPodは、現状より遙かに値段高くなり、重たくなり、Appleでは売れないと経営判断しましたと。その方がより聞く方としては気持ちが良いと思う。

もしかすると、SONYの様に、iPodの位置づけが曖昧になる事を恐れたのかもしれない。その時は、iPodのコア機能は音楽専用プレイヤーなので、 Appleの音楽ポータルサイトより、ビデオ音楽クリップと音楽を一緒にして配信すれば、iPodの位置づけを変えることなく、サイトの付加価値を高め競 争力がより増すと思うのだが、どうなのだろうか?

いずれにせよ、技術革新によって、重たさも価格も、今後変化して行く事は間違いないと思うので、Appleが将来に動画用の携帯プレイヤーを販売する様に思えて仕方がない。

その時、ジョブズ氏はどの様に発言するのか、今から楽しみだったりしている。

iPod Photo


新製品が出る時に、仮にその製品が旧製品に比べ高い時に、人は購入判断を何によって決めるのだろうか?

悩みの原因はiPodの新製品「iPod Photo」の発表だ。同じ40GBのiPodはApple Store販売価格が44940円、iPod Photoで同じ容量だと、57540円となり、その差額は12600円となる。

機能の差は、勿論カラー表示と、写真を見る事が出来る事、そして嬉しい事に3時間の連続再生時間が増える事などだ。

写真が見れる事が嬉しいかどうかは、個人の使い方によって変わると思う。僕の場合、仮に購入したら、確かにお気に入りの写真を数点入れる事になるだろう。例えば猫の写真とか、バイクの写真とか、旅行に行ったときのお気に入りの写真とかだ。

でも多分本格的にその機能を使う事にはならないと思う。僕にとってはiPodはあくまで携帯音楽プレイヤーと考えているからだ。その点ではアルバムジャケットの画像も入れる事にはなるかもしれない。

ではその差額分は僕にとっては高いのだろうか?いや、そんな事はないのだ。多分自分の気持ちの中ではかなり揺れている。

音楽プレイヤーだけを考えた時、画面はカラーでなくても十分だの意見には、機能面を考えた時には、その通りだと思う。でも発展途上の機械で、始めモノクロか らカラーに変わった時、機能的にはモノクロで十分でも、売れるのはカラーの方だったと思う。色が付くだけで情報量は随分と変わるものだと思う。そしてやは りカラーの方がその点は優れていると僕は思っている。

今回マンマシンインターフェースの面で、どれだけ踏み込んでカラー化しているのか詳 細はわからないけど、例えば曲名とかアルバム名とかに色を付けられるだけでも、曲数が増えると便利かもしれない。メモ帳とか、住所録とか、ゲームとか色が 付くだけで視認性はだいぶ変わると思う。万が一、今回上記のカラー化が未対応だとしても、今後のバージョンアップでの対応は可能だろう。

つまり気持ちはカラーが欲しいけど、やはりこの差額は大きくて、気持ちは揺れていると言う事なのだ。

でも1つだけはっきりしている事がある、今回一緒に発売するiPod U2 Special Editionがカラー液晶だったら迷わずこれを買っていたと思う。でもそれは、Appleの商品コンセプトではないのだろう。

しかし、今持っているiPodは2世代目で古くなり、今のiPodより機能が劣るので、これを友人に売って新しいiPodを購入しようかなと考えていた矢先の事だった。しばらくは悩ましい日が続く事になりそうだ。

追記:米国ではU2の全曲をiPod用に安く売るらしい。これはU2好きの僕としてはとても羨ましい。またAppleの音楽サイトではU2の新CDを専売するとの事だった。早く日本でiTune Music storeの展開を行って欲しいと思う。

2004/10/27

今年の漢字は

「今年の漢字」の募集が、今週から始まっている。
その年の世相を漢字一文字で表現する、日本漢字能力検定協会(京都市)の恒例行事だ。
もうそんな時期かと、気ぜわしい思いにもかられる。
(神戸新聞 正平調より )

去年の漢字は「虎」だった。阪神大震災の年でもある1995年は「震」だった。
今年はオリンピックの年で日本は東京オリンピック以来のメダルラッシュだった。プロ野球の初めてのストも忘れられない。そして度重なる台風の来襲と今回の新潟県中越地震。

僕が最初に思いついた漢字は「災」と「嵐」だった。でも出来れば明るい漢字にしたい。既に「金」はシドニーオリンピックの年に使われている。僕に とって、思えば今年は色々な意味で「国」を考える年でもあったかもしれない。イラク人質事件での自己責任発言の国民をあげての議論、オリンピックでの日の 丸、災害時の国の対応、中国サッカーサポーターのブーイング、領土問題等だ。現在の日本には様々な人種の人達と文化を併せ持っている。色々な立場の意見も ある。それらをもう一度見つめる意味でも、僕は今年の漢字を最終的に「国」にしたいと思った。

そう考えていると、再度イラクの人質事件がおきていたのを知った。人質となられた香田証生さんが味わっている恐怖を考えると、同情すると共に一刻も早い御生還をと願わずにはいられない。そして間違いなく「虜」という漢字にだけはしたくはないと思う。

南の島の恋の歌

既に本年8月15日に発売していたCoccoの絵本「南の島の恋の歌」を昨日買ってきた。

実を言うと不覚にも発売を全く知らなかったのが本当の話。知っていたらもっと前に買っていたと思う。この本を買うとCoccoのCdを別途買う事が出来るのも購入の大きなポイントになった。いまからCDが届くのが楽しみ。

Coccoの絵本はこれで2作目になる。絵がとっても綺麗だけど、何か生々しさが残る感じの絵だと思う。生々しさと言うと悪い印象を受けると思うけど、そう言うのではなくて、Coccoの歌がそのまま絵になったという感じが一番近いかもしれない。

ああ、Coccoは絵を描いても、やはりCoccoなんだなと思ったのが僕の素直な感想だった。
もう一つ思った事がある。Coccoは人魚の視点で南の島(沖縄)を見ていたのではないだろうか、と言う事。

人魚は海をすみかにしているので、陸(沖縄)にはあがれない。陸に住む僕等とは異世界の生き物だ。当然に視点も違ってくる。人魚が陸の人間を好きに なるアンデルセンの「人魚姫」の物語は、恋を得るために人魚は大きな代償を支払う。口がきけないのだ。その結果好きだった人は別の人と結婚する。

その時の人魚の心情をCoccoの「あなたへの月」の歌詞に見るとしたら、それは考えすぎだろうか?

「あなたが忘れ去った夜空 私が呼んだ雨雲 そして知ることはないでしょう 今もあなたの頭上 高く高く 流れた 宇宙(おそら)は天の川に溺れて」

この「あなたへの月」のイメージは、最初の絵本「南の島の星の砂」に似ている気がする。
人魚は泡となり海に戻る。Coccoの「遺書。」の中の死では「灰」になるのであるが、海に戻る事には変わりはない。

「そして灰になった  この体を  両手に抱いて、  風に乗せて  あの海へと  返して下さい。」

人魚とCoccoの事については、もっと考えてみたいと思う。今回は絵本を買って、読んでみたときに、Coccoは人魚なのでは?と思った事を書い てみた。でも、もし僕のイメージに近かったとしたら、Coccoはまだ沖縄には上がる事が出来ず、周辺の海で切ない思いを抱いている事になる。それはそれ で少し悲しい。

追記:人魚の話と言えば、僕が一番心に残っているのは、小川未明作「赤い蝋燭と人魚」だ。冒頭の書き出しから引き込まれる。

「人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります」

2004/10/26

新幹線脱線の新聞コラム


伝えられる解説や報道を総合すると、「とき325号」の車両は旧式で、いまのスピードアップされた軽量のものにくらべると五割も重い。しかしその古く重い車両が幸いし、地震の激しい揺れにも跳ねなかったそうだ。対向列車が来ていないことも幸運だったという。
(2004/10/26 産経新聞 産経抄から)

産経抄の新幹線の幸運をまとめると以下のようになる。
1.古い車両で重かった
2.対向車両が来ていなかった
3.車輪が「雪おとし」にはまりこんだ

その結果、新幹線の安全神話は結果的に守られた(死者がゼロいうことで)と産経抄では言っているけど、何か素直に聞けない話です。
ただ、上記の3つの幸運が1つでもなければ、大惨事になっていた可能性は高いわけで、本当に幸運だったと思います。

さらに見逃せないのは、人の思い上がりを厳しく戒めるような新幹線脱線だった。今月1日で開業40年、安全の実績が誇らしく語られたばかりの新幹線だというのに、もともと「直下型地震には無力」(専門家)だったといわれてはあぜんとするしかない
(2004/10/25 毎日新聞 余録から)

この手の話は、いつも何かあってから聞かされるのは何故でしょうね。でも考えてみれば、列車って全て直下型地震には無力なのでは、とも思いましたけど。

上越新幹線の「とき」が脱線したとの報には、一瞬耳を疑った。東海道新幹線が開業したのは新潟地震の起きた64年だが、それ以 来、脱線などという事態は聞いたことがない。後で、脱線したが転覆はしていないと分かったものの、列車内の恐怖はどれほどだったか。 (2004/10/24 朝日新聞 天声人語)

本当に列車内の乗客の恐怖を考えると・・・

10/26の天声人語では次の被災者の言葉を掲載していました。

「これから雪が激しく降る冬が来る。それを考えるとパニックになります」

MP3対応ウォークマン、欧州で11月発売

SONYnee95

ATRACオンリーの戦略からの転換後、第一弾となる、1Gバイトのメモリを搭載したMP3ウォークマンが、欧州で発表された。(ITmediaから)

スタイルは日本でも販売している「NW-E95」と同様のようだ。
iPodの様なHDDタイプも良いけど、メモリータイプもスポーツの時などはHDDタイプよりは安心して使える気がしている。

「ソ ニーでは音楽愛好家のニーズと、音楽を楽しむ方法が様々であることを理解している。本日発表した新モデルにより、パーソナルネットワークオーディオ市場で ウォークマンブランドへの信頼が一層高まると確信している」とSONYでは言っていたらしいけど、だったら最初からMP3をサポートして欲しかった。

ところで、SONYのカタログに書いてある収納曲数はATRAC3plus 48kbpsでのレートで、iPodを製造しているAppleでは紛らわしいと、コメントしている。いくらplusだと言っても、音楽を良く聴く人で、低いレートで聞いている人は少ないと思うのは僕だけ?

でもSONYがやっとMP3をサポートし始めた事は嬉しい。日本での早期の販売を望む。

S2Sports話変わって、今度欧州と北米で販売する「S2 Sports™ Network Walkman」ってスタイルが良いって思った。

棟梁 堀江佐吉

以前に西洋館の事に興味を持ち、書籍で現存する色々な写真を眺めた事がある。その中で特に一人の棟梁(注1)の名前が目に付いた。主に明治後期に青森県弘前で活躍した堀江佐吉である。しばらくこの名前を忘れていたが、再び思い出すきっかけになったのが、「斜陽館」の重要文化財指定であった。彼が設計・施工した建築物で重要文化財になったのは3点目となった。

堀江佐吉は幕末に津軽藩お抱え大工の子供として1845年に弘前にて産まれた。産まれながらにして非凡な大工の血筋を受け継ぎ、子供の頃より熱心で 好奇心が旺盛だった彼は、当時大工の必読書と呼ばれる書籍(注1)を朱線を引いて熱心に勉強する。又、15才の頃には当時海外事情を伝える絵入り本「海外 余話」(酔夢痴人著、1851年刊、全5冊)を絵も含め克明に書き写したほか、外国の風俗画を見入っては興味を募らせていたと伝えられている。

幕末で活躍した人達の伝記を読むと、大体は子供の頃に猛勉強をしたとなっている。堀江佐吉もそれにもれずかなりの勉強家だったようだ。それに「海外余話」の 絵は聞くところによると結構細密画に近い絵だったようなので、それを書き写す事は、大工にとって必要な画才と文才が磨かれていった事だと思う。これほど好 奇心が旺盛で、しかも才能豊かな大工である佐吉は、外国に行きたい気持ちは人一倍強かったのではないだろうか。多分、色々な異国の書籍を読みながら、若 かった頃の佐吉は内心色々な思いに駆られた事だろう。

その当時、明治政府は西洋建築の技術を学ぶため英国より才能豊かな一人の若い建築家を雇った。名前をジョサイア・コンドルと いう。イギリスでは一流建築家の登竜門であるソーン賞を受賞した新進気鋭の建築家だった。彼は1877年に来日して工部大学校教師に就任した。彼の元に は、その後、明治の近代建築家を代表する人材が集まり育っていった。辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊と言った面々である。コンドルを含む、彼らの業績を簡単 に記す。

ジョサイア・コンドルは鹿鳴館(1883)の建築がまずあげられる。その後1884年に 工部大学校を解雇させられている。その理由はわからないが、その後に就任したのが彼の一番弟子である辰野金吾である。解雇後も日本にとどまり、建築事務所 を開設し多くの財界人の依頼で建築を行っている。ニコライ堂(1891) 、岩崎久弥邸(1896) 、三井倶楽部(1913) 、諸戸邸(1913)等。日本文化を愛し、日本人の妻をめとり、終生日本で暮らした。彼はその後日本近代建築の父と呼ばれた。

辰野金吾は、コンドルの元で勉強し主席で工部大学校を卒業、その後イギリスに留学し戻ってから工部大学校教授となる。代表作は日本銀行本店(1896)、奈良ホテル(1909)、東京駅(1914) 等
片山東熊は一生を宮廷建築家として活躍した。代表作として赤坂離宮(迎賓館)があげられる。山県有朋の厚い信頼を得ていたと伝えられている。
曽禰達蔵はコンドルと同じ歳であり、特にコンドルとの親交が深く、かつ強い師弟関係の間柄であった、そしてコンドルと共に丸の内の街並(オフィス街)を作った。他に代表作は慶応大学図書館がある。彼には辰野の2番手の印象が強いが、人望に篤く人格者だった。

僕は日本に現存する西洋館の中で、諸戸邸(洋館部)は特に美しい建築だと思っている。諸戸邸は典型的な和洋折衷の建物で、コンドルはその洋館部分を設計した。
こ れら4人の建築物を見てみると、建築における日本の歴史の表舞台といった印象を受ける。政府および財閥からの依頼による建築が殆どなのだ。語られる歴史は 常に中央の歴史かもしれない、でも歴史は中央だけでは造る事は出来ないと思う。いや、もっと踏み込んで言えば、歴史は語り継げる事のない人々によって、実 際は造られているのだとさえ僕は思う。ちなみに、百科事典で上記の4人の名前を探し調べる事が出来る。でも堀江佐吉は百科事典(エンカルタ)には載っても いなかった。

話を堀江に戻す。堀江は外国に行きたいという強い気持ちを抑えながら、父(堀江伊兵衛)の元で修行を続ける。初仕事は16 才、堀江家菩提寺の専徳寺の欄干の竜の彫り物だった。見事な彫り物だったと伝えている。その後21才で結婚(妻の名前はさた)し10人の子宝に恵まれる。 仕事は熱心で骨身を惜しまず、リーダシップもあり、若くして棟梁となる。佐吉は、技は天才、剛胆、無欲、自らが先に率先して動き、義侠心に富み、統率力と 包容力を持っていた。

現代で考えると、僕が書いた佐吉の人柄は完璧すぎるので、疑いをもって見られる事だと思う。でも伝え聞くところによ ると、若い時から棟梁として、数百人の大工を率い、家には一切の貯えがなく、しかし信用は落ちる事がなく、田舎大工の風采で仕事に没頭する。弟子達と部下 の大工を大事にして、息子達には熱心に大工の技を教えていく姿が、今でも伝えられている。彼の碑が弘前市に現存しているが、高さ7mの立派な碑であるとい う。大工棟梁の碑が造られる事自体(多分日本では彼だけだと思う)、佐吉が如何に慕われていたのかがよくわかる。

確かに今では組織がしっ かりして、無能有能に関係なく役職はある程度上がる事が出来る。もう一つ言うと、現代の組織では、役職が上がれば上がるほど、無能になっていくというパラ ドックスを抱え込んでいる。良くある話だが、最初有能な社員として創造性に富み、数多くの改善を行ってきても、上に行けば行くほど具体的な仕事から遠ざか り、ついには何も自分では出来なくなる。判断能力を磨ければ良いと言うが、ある程度の詳細が把握できなくて、どうやって判断すれば良いのだろうか?

最近、ブームとしてのリストラの結果、優秀な人材が抜け組織力が弱まった。その為、やはり一番重要なのは人材であるとの、当たり前の認識に戻り、人材育成が 各会社で流行っている。でも人を育てる為には、その根本から知らなければならないと思う。そしてそれらは、MBA教科書にも、それに類するビジネス書には 載っていないと思う。佐吉を含め、日本には数多くの優秀な教育者がいる(佐吉は勿論、職業としての教育者ではない)、これら先人達の事を識る事が、もっと も近道のような気がする。

堀江佐吉は明治12年(1879)に函館に仕事に行く。これが佐吉にとってそれからの人生に大きな転機となる。 明治12年頃の函館は佐吉にとって外国と同様だった。函館は長崎、神戸、横浜と並ぶ国際港として、各国の領事館があり西洋の情報が集まっていた。しかも、 多くの西洋館が建ち並び、日本でありながら異国そのものだった。その函館で佐吉は異国の空気の中で貪るように西洋建築を学んでいく。生来勉強家で好奇心の 旺盛な佐吉は、スケッチブックを持ち、仕事の合間に函館を歩き回った。そして西洋建築をスケッチしていく。又時には、建築関係者と会い、話を聞き、設計図 をもらったりもした。設計図は勿論、日本のそれとは書き方も違っただろう。でも佐吉にとっては、それも勉強の1つだったと思う。毎日が楽しく、感動する日 々であったと想像できる。たぶん瞬く間の1年間だった事だろう。でもその1年間でそれからの仕事の内容が変わるのである。

弘前に戻ってき た佐吉は精力的に仕事を続ける。この頃が棟梁として円熟期だったかもしれない。仕事の内容も多岐にわたっている。学校、病院、役所、教会、警察署、兵舎、 橋、等々。全ては堀江佐吉の設計・施工の手によるものだ。彼は大勢の部下達を率いているが、設計だけは彼が全て書いていた。彼の名声はこれらの仕事で徐々 に高くなっていった。

明治37年、第五十九銀行本店竣 工。当時の銀行頭取に「堀江さん貴方の好きな様に造ってください。何も言いませんから」の一言に感動した佐吉は、これまでの経験を生かし、かつ今までにな い自由な構想をもって設計を行う。設計はいつものように丹念に、精密に行った。外観はルネッサンス様式。一見すると石造りの印象を受けるが木造2階建であ る。防火のために、内側は土蔵作りの技法を取り込んでいる。頂上には展望台兼用の装飾搭を置いている。木材は佐吉が山中を歩いて、探し回った青森産のヒバ とケヤキを使っている。完成までに2年かかっている。現在は青森銀行記念館として現存している。国の重要文化財指定でもある。そして、この建築によって佐 吉の名前は全国に知られるようになった。

ますます名声が高まる事により、仕事は頻繁に依頼されるようになった。
明治39年、軍都でもあった弘前の第八師団関連の請負工事で得た利益を公共に還元するために佐吉は弘前市立図書館を竣工する。
弘 前に第八師団が設置されたのは明治29年の事だった。当時の陸軍はプロシア、ドイツを範としていた。その為、陸軍の欲する建物は洋風であった。その時に堀 江佐吉を弘前に擁していたのは陸軍にとっても、佐吉にとっても幸運な事だった。結果的に弘前は日本でも西洋舘が多く立ち並ぶ街となった。第八師団関連の請 負工事とは日露戦争とは無縁でないと思う。日露戦争により軍部は色々な面で拡張する事になる。その関連工事での利益だと思う。

この図書館 を造るとき、佐吉は図書館として将来にわたり残り続けるのだからと、予算枠を完全に超えても納得のいく仕事をしたと伝えられている。木造3階建て、八角形 の双塔に赤いドームの屋根をもつ。、漆喰塗りの外壁、縄で開閉する上げ下げ窓、和風造りの庇など、西洋建築の中に日本建築の良い部分を取り入れている。し かし、この建物は佐吉の意図とは逆に、その後売られ民間のアパート、喫茶店として昭和62年まで使われていた。現在は弘前市が買い取り保存している。

弘前市立図書館竣工の頃より、佐吉の体調が悪くなっていく。明治40年には、弘前偕行社(陸軍士官社交クラブ)、斜陽舘などの設計を行うが、施工は息子達が行う事になる。弘前偕行社は現在国の重要文化財に指定されている。
偕行社は現在、弘前女子厚生学院所有となっている。この学校は保母さんの学校で、偕行社は保育園として使われていた。陸軍士官の社交の場が子供達の社交の場になっているのが面白い。

明治40年8月19日、斜陽舘、偕行社の仕事を最後に佐吉は、家族と大勢の弟子達に見守れながら安らかに永眠する。
佐吉は生前に家族に常に言っていた言葉がある。
「わ れのことを世の中の人は、棟梁と呼んでくれるが、棟梁なんてそんな柄ではない。大工の家に産まれ、産まれながらにしてチョウナの音を聞いて育ったのだ。た だよい大工になろうというのがわれの望みだった。大工という仕事に誇りを持ってやってきたのだから。死んで葬式を出す時も、旗に書くときは大工佐吉とだけ 書いてくれ。そのほかはいらない。」

言葉通りに、霊旗には「大工佐吉之霊」と書かれた。しかし、彼を慕って葬式には数千人の人がきたとされる。

弘前は軍都でありながら、京都・奈良・鎌倉と同様に空襲を免れた都市でもある。その結果弘前には佐吉が設計した建物が多く残されている。勿論、佐吉だけではなく、そのほかの古い建物も多く残っている。
又江戸時代から始まった堀江家の大工の血は今でも続いている。そして「堀江組」は今でも弘前で活躍している。

堀江佐吉は、中央でコンドル達が活躍した時と同時代の人である。中央ではイギリスから専門家を招き、西洋建築を基礎から徹底的に学んだ。堀江佐吉はその様な 先生はいなかったけど、彼の想像力と旺盛な好奇心、何よりも大工の誇りをもって、独学で西洋建築を学んでいった。佐吉の時代には形だけ真似ての西洋舘が多 かったが、佐吉の場合は形だけでない西洋建築だった。佐吉は非常に珍しい存在だったとも言える。
両者に接点はないけど、僕はその時代における、中央と東北地方の建築家の相違が面白いと思った。

僕は建築家は芸術家ではないと思っている。それに、少なくともこれらの人達は自分の事を芸術家と考えてはいないと思う。でも彼らの仕事は創造的で独創的だと も思う。特に佐吉の場合はそう思う。そして設計し竣工した建物が時として美しいと感じる。別に僕は芸術家を否定するつもりはないけど、人は美をそうやって 造ってきたと思うのだ。

最後に堀江佐吉は、自分が納得できるまで設計を何枚も書き直したと言われている。又、その結果、予算を超えてしまう事が度々あったそうだ。その時佐吉は自分のお金を使ったと聞いている。大工に誇りを持った佐吉は、大工として見事に自分の人生を建てた様にも思えてくる。

(注1)建築の設計から施工まで一手に行う大工を、棟梁建築家という。堀江佐吉は多くの大工を束ねる親方でもあり、常に人からは棟梁と尊敬をもって呼ばれていたと思う。

(注2)「大工初心図解初編」「新選早引、匠家雛形之編」「番匠町雛形」などの書籍が当時の大工の入門書籍だった。

今回色々な文献にお世話になった。本来であれば、それらの文献をここに列記するべきかとは思うが、なにせ個人が楽しむBlogで遊びとして書いているのだから、その点は容赦してもらいたい。

今回、僕は読んではいないが、堀江佐吉の伝記としては「棟梁 堀江佐吉伝」がある。堀江佐吉を語るときには不可欠の資料となっている。発行は白神書院、著者は船水清氏。この本を読まずに堀江を語るなかれと言われる本だけど、読まずに語ってしまった・・・

2004/10/24

たわいのない夢話


僕は高校の頃、絵にも描けない美しさを文章で表現できないものだろうかと考えた事がある。でも「絵にも描けない美しさ」を文章で表現すると、やはり「絵にも描けない美しさ」にしかなり得なかった。それば僕の語彙不足の問題でもあったかもしれない。もしくは、日本語には絵の美しさ、それを見て感動する人の心を書き表す為の語彙が不足しているのかもしれない。当時の僕は、それを自分の語彙不足とは一切思えなかった。言葉の、つまりは日本語の限界だと思ったのだ。

その思いは無学故の不遜な思いだった様に今では思える。では、今は成長しあのころに書けなかった「絵にも描けない美しさ」を表現できるかと問われれば、諸手を挙げて降参するしかない。いまだに状況はあの頃と何も変わってはいない。

1998年米国制作の「シティ・オブ・エンジェル」は好きな映画の一つだ。元はドイツ映画だったのをハリウッドでリメイクした作品で、主演はメグライアンとニコラス・ケイジ、二人とも好きな俳優だ。
そ の映画の中では小道具としてヘミングウェイの小説が使われている。天使役のニコラスケイジはヘミングウェイの小説、特に食事の味についての記述を好んで読 む、天使には味覚というものがないので彼はそれを知りたいと思うのだ。知りたいと思うきっかけは、一人の人間の女性を愛し始める事だった。
ある時人間になりすました天使であるニコラスケイジはメグライアンに近づき、市場で一緒に洋なしを買う。そしてその洋なしをメグライアンに食べてもらい、味を表現してもらう。
その時のメグライアンのセリフが大好きだ。洋なしの味を香りを含めて見事にしかも簡潔に言い表していた。

その映画の影響もあってか、それからの僕は美味しいと感じた時に、言葉でその味を表現しようと試みている。勿論その表現は、よくある料理漫画の表現のよう な安易で意味不明な言葉であってはいけない。それらは誰もがわかる言葉で、簡潔に美しくなければならない。難しそうに思えるかもしれないが、それは意外に 表現できるものだ。

でも条件がある。それは本当に美味しいと感じ、その味に感動を覚えなければ書く事は難しいという事である。それを翻って考えると、「絵にも描けない美しさ」は、その場にいてその美しさに感動を覚えれば、人はその美しさを書けるのではないかと思う様になった。

ま た映画の話をすると、「コンタクト」という映画があった。出演はジュディ・フォスター。彼女は宇宙人とのコンタクトを調査し続けている天文学者である。あ る時、待ち望んでいた宇宙人とのコンタクトをすることが出来た。宇宙人から送られてきたのは、何かの転送装置の設計図だった。そこで、その図面を元に装置 は作られた。色々な事があり、搭乗者は彼女に決まる。そして彼女は宇宙の深淵と遙かに美しい姿をかいま見る。その時の彼女のセリフは印象的だった。「学者 でなく詩人を連れてくるべきだった」

僕は密かに思っている事がある。もし全てを現す事が可能な真理があったとして、 仮にその一言を書く事が出来れば、それを読んだ人は何の迷いも苦痛もなく自分の人生を全うする事が出来る。人が書くという行為は、描く歌うと同様に自然な 行為だと思うし、何故それらが自然なのかは、そこに生きると同義の意味が隠されているからだと思う。そしてそれらを表現し続ける事で、もしかしたら長い間 に(本当に長い時間をかけて)人は、その真理を表現できるようになるのかもしれない。勿論夢話に限りなく近い話だとは思うけど。

2004/10/23

RUSH HOURを探して


「RUSH HOUR」というパズルゲームがある。昔、何かの賞をとった事があるくらいの名作パズルゲームらしい。日本でも売られていたし、結構人気があったと聞いているので、知っている人も多いと思う。
アメリカでは、既にパズルゲームの定番扱いになっている。僕は随分と後になってから、このパズルゲームの事を知った。

「RUSH HOUR」は、スライドパズルに属するパズルだと思うけど、僕にとってスライドパズルとは、数字の1から15がバラバラになったのを整理する「15パズル」と、「箱入り娘」という、奧の一番大きなコマ(娘のコマ)を表に出すパズルくらいだった。

ネットで遊ぶようになり、一時パズルゲームにはまった事がある。その時にスライドパズルには、色々な種類があるのを知った。「RUSH HOUR」もその時に知ったというわけだ。
「RUSH HOUR」は、駐車場にある赤い車を表に出す事を目的にしているが、制限があり、車はその前後にしか動けない。そして邪魔する車は大小様々な大きさをして いる。邪魔する車を前後に動かし、道を開けて赤い車を出すけど、一見して本当に出せるの、といった問題が多く、発想の転換が必要で、出来たときは嬉しくて 思わず声を出してしまう。
最初売られたのは、基本セット(パズルのコマとデッキと呼ばれる問題集が付いている)のみだが、人気が出たのでシリーズ化されて、デッキだけ 2-4(1つに40問入っている)まで売られた。僕がネットで見つけたときは、デッキ1の40問全てと、デッキ2と3の幾つかを遊ぶ事が出来た。

「RUSH HOUR」は人気があったので、亜流が幾つかできている。「Safari Rush」は車の代わりに動物を形取ったコマになっているし、駐車場を小さくし た子供用の「RUSH HOUR JR.」も出ている。コマの可愛らしさも、このパズルの売りなのかもしれない。
そして今、何故か僕は「RUSH HOUR」をやりたくてしょうがない。勿論欲しいのはデッキ2から4だ。これを探す為に、おもちゃ屋さん巡りを結構している。大手はもちろんの事、町の小 さなおもちゃ屋さんにも見かけると入って探している。ネットで検索すると、銀座のトイパークには売っているらしいが、どうも基本セットのみしか売ってない 感じだ。こうなるとネットを使って海外で購入する事になるけど、それも慣れていないせいか少し怖い。

Plamのゲームとして「RUSH HOUR」があり、購入すると160問(多分デッキ1-4)全て遊べるらしいと聞いた事がある。無料でも40問は遊べるらしい。でも出来れば、実際にあの 車のコマを動かして遊んでみたい。それに較べると、小さなPalm画面だとなんだか寂しい感じがする。

そんな感じで、僕の購入までの道のりは遠くて厳しいようだ。デッキ2?4を実際に持っている方か、売られているのを見た方がいれば、是非とも情報を教えて欲しいと思ってます。
デッキだけはこんな感じのパッケージで売られています。なんかレトロな感じが良いです。
RUSH3
関連スライドパズルサイト(主にRUSH HOUR中心)

Yellow OUT
「RUSH HOUR」と同じ内容のパズルゲーム。題名の通りに黄色の車を表に出すゲーム。ネットで遊べる「RUSH HOUR」タイプのゲームとしては一番問題数が多いような気がする。

・スライドパズル問題集
「箱入り娘」はここで遊べます。昔からあるスライドパズルのサイトです。

・The Sliding Block Puzzle Page
こ のサイトも非常に有名なサイトです。僕はこのサイトでスライドパズルの奥の深さを知りました。紹介しているパズルが殆ど実際に遊べるのが嬉しいです。ここ にある「RUSH HOUR」は、以前デッキ1が全て遊ぶ事が出来ましたが、今では遊べなくなりました。またデッキ2とデッキ3の幾つかも遊べるようです。

・RUSH HOUR
ネットで一番多く流通しているRUSH HOURです。出来は普通です。

・RUSH HOUR
コマが立体的になっています。車を表に出したときに流れるファンファーレは少し恥ずかしいです。

バべルの塔



塔の定義を一言で表すと「有用だけど実用的目的を持たない建築物」となるらしい(注1)。有用だというのは、人の精神的目標を持つからであり、実用 的でないのは、そのほか以外の目的を持たないからであるらしい。又、西洋の塔に関しては「塔は塔である限り、それは常に高見を目指すため未完である」とも 言われる。

西洋の塔と東洋の塔は、両方とも定義の面では共通するが、その塔が持っている根本の思想はだいぶ違うような気がする。西洋の塔は天をめざす。そして 天を目指す事で権力とか力を誇示する、権力を得ると人はさらに権力を得ようとする、それはあたかも塔がさらに高見に向かう考えに似ている。それに引き替え 東洋の塔は地を目指す。未完であることは美しい事ではなく、限りなく天に向かう姿ではない、そこにあるのは自然との調和であると言っていた人がいる(注 2)。

バべルの塔は、その中でももっとも有名な部類に入る西洋の塔かもしれない。 ここに有名な絵がある。ブリューゲルの「バべルの塔」だ。バべルの塔とは、旧約聖書創世記に出てくるバビロニアで作られた塔の事である。人は自分の力を誇 示するため、天を目指す塔を建築するが、神は人間の尊大を懲らしめる為、人の言葉を乱し、お互いの意志が通じ合わないようにした。その結果、建築は中止さ れ人は各地に散っていった。

ブリューゲルは絵を描く時、その題材を深く掘り下げてから描く事でも識られている。その為に現代の状況にあわせてこの絵を解釈する人もいるが、芸術 家が時代の洗礼を受けて創作するように、ブリューゲルも彼の時代の中で、この絵に意味を持たせた事は間違いないと思う。それを承知して、僕はこの絵から受ける印象を少し書きたいと思う。

僕がこの絵を見てまず感じるのが、複雑なシステムそのものだと言う事だ。ブリューゲルのバべルの塔は、見るからに複雑な姿をしている。ローマのコロ シアムを幾層にも積み重ねた姿だ。一つ一つの入り口は、どこに通じるのか皆目わからない。一歩でも中に入れば、巨大な迷路となって、行く手を阻む事になり そうな印象を受ける。作っている所から、すぐに塔は崩壊し始めている。その為、塔の完成がいつになるか全くわからない。そのような姿が、僕にとって現在の 社会システムを表しているように思えてくる。

絵の左下に王様が描かれている。いわばバベルの塔を企画発注したクライアントでもあり、計画を進めるプロジェクトリーダーでもあるかもしれない。王 様の傍に描かれている人達は、色々な行動をしている。無視して仕事を進める人、寝ている人、跪く人。王様は、高台でバべルの塔の建築状況を見ようともしな い。一目でも状況を見れば、混沌がさらに混沌を増殖している姿が、すぐにわかるはずなのに。

ブリューゲルのバべルの塔は港に作られている。しかも街の中央に。塔の近くの街並みを見たときに、この塔の巨大さが浮き彫りになる。それは、この実 用性目的を持たないバべルの塔(しかも完成することのない)の建築が、人の愚かさを全体を通して象徴させているかのような感じもする。

ブリューゲルには、このバべルの塔の絵は3枚あったと言われている。一番有名なのがこの絵だが、後に書いた「バべルの塔」は建築が進んでいる。しかし背景は暗く赤く、暗雲が立ち込み始めている。そして最後の1枚の絵は、残念ながら発見されていない。

よく摩天楼などの高層建築を塔に見立てる人がいる。特に、9・11の米国同時多発テロの時は、攻撃を受けて崩壊した時は、比喩的に「バべルの塔の崩壊」をイメージした方も意外に多かった。 その方のイメージとして、天を目指す高層建築の姿に、塔を見立てる感覚は僕にもよくわかる。 でも、例えばゴミ焼却場の煙突を、それと知ることなく遠くから眺めると、塔に見える事があるが、煙突である事を知ると、それは「塔」に見えるけど、誰も 「塔」とは言わない。実用性として、処理場の排煙を出すための目的に作られているからだ。高層建築においても同様だと思う。面積効率を高めるために、高さを求めているだけに過ぎない。

僕にとっては、高層建築は「塔」ではない。ましてや9・11米国同時多発テロは「神」の逆鱗に触れたわけでもない。どちらが善いか悪いかなどの、政治的問題を言うつもりは全くないが、あれは人間同士の話であることは間違いない。

ただ、神の逆鱗が人々のコミニュケーション能力を奪う事だったとすれば、「バべルの塔」の表現は的を得ているかもしれない。ただしその場合は人の歴史全般に言える事かもしれないが。

注1)マグダ・レヴェツ・アレクサンダー著「塔の思想」(河出書房) 既に廃刊している。僕は図書館で借りて読んだ。この書の中にもバべルの塔の所感が書かれていたけど、読んだのが随分昔の話で忘れてしまった。主要な部分はコピーで残したけど、その中にバべルの塔の部分がなかった。今思うと残念。又借りに行きたいと思っている。

注2)梅原猛 著「塔」(集英社文庫) 梅原猛氏はこの書の中で「塔」に関する様々なイメージを与えてくれていると思う。例えばこの文はどうだろう。
「限りなく高所をのぞみ、限りなく天上へと接近を意識する西洋の塔すら、その背後には死への恐怖を含んでいるように私には思われる。昇天の意志は、死からの脱出の意志なのである。」

2004/10/22

天然パーマ

僕は天然パーマだ。こう断言調子で書き始めると、何事かと思い、内容を読んで「なんだ」と思われる方もいるかもしれない。

確かにたいした話ではない。でも本人にとってはこれは結構(勿論たまにだけど)気になる。 例えば僕は子供の頃から髪の毛を引っ張る癖がある。良く「そんなに引っ張るとハゲになるよ」と言われたものだ。幸いな事にそちらの方向にはいってな いけど、髪の毛を引っ張る癖が何故おきたのかと自分に問えば、天然パーマを直したい気持ちから癖になっていったとしか言いようがない。

子供の頃の写真を見るとかなり凄い。でも歳を取る毎にそのすごさは緩和されていって、今では自然なウェーブになり、床屋で誉められる事も多い。
床屋にしてみればお世辞で言っているのだけど、言われるとわかっていながらも嬉しさのあまり笑みが出るくらいだ。

でも髪の毛を無意識でも引っ張り続けているのは事実なので(勿論頻繁にではありません。)、先天的問題でなく、髪の毛を引っ張るという後天的な理由ではげてしまったとしたら・・・・それはそれで恐ろしい話だ。
冒頭に戻るけど、無意識の中で僕は常に気になっているという事が言えるかもしれない。

友人の一人に若くして髪の毛が薄くなった男がいる。本人をみるとその事に気にしているそぶりを見せた事がない。かといって、他人からしてみると、その事に話題を振る事自体はばかられる。
でもたまたま友人自身からその話題になったとき、僕は髪の毛の事を聞いてみた。すると、そんなに気にしていないというのだ。彼が言うには、まず鏡を見ない限り自分ではわからない(見えない)、その気になればアデランスとか対処法はいくらでもある、との事だった。

でもその彼でも、アデランスとかを使う事は絶対に嫌だと言っていた。それは自然ではないというのだ。それを使うくらいなら、いっそのこと頭を全部剃ってしまうとも言っていた。

「あっぱれ、あっぱれ」と僕は彼の心意気に感心した。考えてみれば天然パーマを一時的に直毛にする薬剤は売っているのは知っているけど、僕もそれを試す気持ちさえ起きない。

現代はストレス社会で、それが髪の毛に影響を与える場合が多いと聞いた。特に女性で円形脱毛症になったりすると可哀想だなぁと思う。それにくらべると大した話題ではないのは確かだけど、僕にしてみれば髪の毛を引っ張るのもトラウマの一つかもしれないと思ったりもしている。

天然パーマ関連のサイト
「世界のマイノリティシリーズ 天然パーマ編」

おお天然パーマはマイノリティだったのか!(笑)と気がつかせてくれるタイトルには脱帽。
天然パーマヘアチェック自己診断は結構楽しませてくれる。ちなみに僕はチェックが付いたのは2個。まだまだ甘いのかもしれない。

「10%研究所」
副題として「天然パーマの天然パーマによる天然パーマのためのWEBサイト」とあるだけに、コンテンツ量はすごい。天然パーマ人の中では有名なサイト。

パタゴニアのアロハシャツ


パタゴニアの製品は子供の頃から既にブランドであり、僕は一種のあこがれをもって眺めていた。やっと パタゴニアの製品を手に入れた時は本当に嬉しかった。そのパタゴニアにアロハシャツがある事を知ったのもその時分だと思う。パタゴニアのアロハシャツと聞 いたとき、なかなかイメージが出来なかった。パタゴニアでは「パタロハ」と呼んでいるらしいそのシャツは、始めて現物を見たときデザイン的にもなかなか秀 逸だと感じた。

ただし、このパタロハは期間限定品で毎年デザインが変わるので、気がついたときには既に在庫が残っていない事も多いようだ。
実際今年こそは買うぞと何回思った事だろう。でも僕の事だから、夏の喧噪の中ですぐに忘れ、思い出すのは秋風の吹く時期になってからが殆どだった。

パタゴニアは僕にとっては特別のブランドであることは間違いない。使い道のなかった使用済みペットボトルからフリース素材を始めて作ったし、農薬の 少ないオーガニックコットンを全面的に使っている。また利益の1%を環境団体に寄付したりもしている。その取り組みは僕が子供の頃から行い続けていた。最 初は器具を使ったロッククライミングから山を傷つけないクライミングへの提唱を始めた会社なのだ。そんな事を言っている所はほとんどない時代の話である。

でも残念な事にパタゴニア製品は全般的に言って高い。「パタロハ」だって日本円で1万数千円もする。レーヨンのアロハシャツだったら、渋谷にでもいけば、流行の柄でも千円台で購入可能だというのに。

でもアメリカでは(日本でも)パタゴニア製品は売れている。ローハス(LOHAS)と呼ばれている層がある。健康と環境を意識して生活する人々の事 だけど、最近アメリカではこのローハス層が消費に影響を持っていて、この層に支持を受けている企業は成長しているという話も聞いた事がある。
そしてパタゴニアはローハス層に支持をもっとも受けている企業である。

その状況は勿論日本でも同様だと思う。企業の環境を考慮している各種の広告を見ればよくわかる。でも実体はどうなんだろうと、同じ会社員として組織の中で行動する時、疑問を持つ時が多々ある。

以前、請求書の紙を再生紙に切り替えようと提案した事があった。今では再生紙となっている紙も、その時点ではコストが高いからと言って担当部署は受け付け てもくれなかった。その後ブームになり、ブランド作りの一環から再生紙に切り替えようと逆に相談を受けた事がある。その時は再生紙を作る過程で(紙を白く するために)化学薬品を大量に使う事を知り、僕は逆に反対した。でも結果的に力およばずで再生紙に切り替わった。つまり企業は利益を追求し成長し続ける事 が目的だから、経済的動機につながらない環境問題は昔からポーズの様に感じられるときがあるのだ。

でも時代は確実にポーズだけではすまされない所まで来ていると思う。そして消費者もその点を十分に認識していると思う。それがローハス層として企業に影響を与える消費層になっているのだと思う。

ところで、既に季節は初冬、まだパタロハは在庫が残っているだろうか・・・

2004/10/21

岐阜の路面電車

昔国道246号線には玉電と親しみを込めて呼ばれた路面電車が走っていた。明治40年に開業した玉電は、日本での歴史の古い電車だったけど、時代のモータリゼーションの波に飲み込まれ、昭和44年5月にその長かった歴史に幕を閉じる。

しかし一部区間(三軒茶屋から下高井戸)は残されて、新型電車も配備して「世田谷線」として今でも頑張っている。世田谷線が残された理由は、専用軌道であること、代換手段としての交通機関がその区間において発達していなかった事などがあげられている。

しかし現代では、地球温暖化への対策として路面電車は見直され、政府は導入に積極的になっている。路面電車と今では呼ばれないらしい、欧米と同様に LRT(次世代型路面電車)と呼ばれるようになった。次世代というのは路面電車を街の交通機関として積極的に利用するために、駅とか電車をバリアフリーを 考慮し利便性を高めたと言う事だと思う。
しかしここに来て岐阜の路面電車が2005年3月末で廃止と決まった。岐阜の路面電車が廃止になる原因はやはり車に負けたのだと思う。

特に岐阜の場合、行政・警察側が電車と車の運行に打開策を提示してなく、双方の交通機関にとって運行が難しい状況になってきているらしい。逆に言えば行政側は路面電車でなく車を選択したという事だと思う。(玉電の時の状況と同じかもしれない)

世界的には路面電車は社会的資産と捉え、インフラは行政側、運行は民間委託の形を取っているのが通常らしい。日本の場合は鉄道会社がリスクを含めて丸抱えとなっいるので、行政側に見捨てられた路面電車が赤字になっていくのは目に見えている。
(つまりホームが危険、遅い、車の邪魔等の視点で路面電車が見られるようになっていったのだと思う)

国が積極的に推進し環境問題の順風の中で、実際は路面電車の経営が厳しく運行廃止になっていくのはなんとも皮肉な話だと思う。
そう思っていたら、なんとヨーロッパのコネックスという会社が、岐阜の路面電車の支援に乗り出し、11月中に事業計画書を提出するらしい。路面電車のイメージは地域密接型交通だと思っていた僕にとって、外資の登場は謎だった。

コネックス社はヨーロッパでの地域交通を手がけている会社で結構大手との事だから、十分に採算がとれての名乗りだと思う。でもこれで一時は廃止に決まった路面電車も生き残れる可能性が出てきたという事だと思う。

僕は岐阜の人ではない、当然に話題になっている路面電車にも乗った事がない。でも例えばサンフランシスコとかヨーロッパの都市の様に、路面電車を街の構想に取り込むと、きっと将来その街の為になるような気がしてならない。

なくすのは簡単だけど、なくした物は二度と取り戻せない。コネックス社の登場で、存続に対しもう一度話し合う機会が出来ただけでも良い事だと思っている。

2004/10/20

水の話

以前、家では井戸水を使っていた。今では水道も引いてるけど、それは近くにビルが建ち水脈と水質が変わったせいだった。
それまでは家で使う水は全て井戸水だった。子供の頃、東京で記憶に残るほどの水不足になった事がある。その時も井戸水は涸れることなく水を供給してくれたし、水を近所に分ける事も出来た。夏は冷たく、冬は少し暖かい。それに本当においしい水だった。
だから、マンションが建って水質が変わったときは残念で貯まらなかったし憤りを覚えたものだ。
マンション工事現場では、基礎工事の際に水脈にぶつかったらしく(家の水脈ではなかったけど)、涸れるまでホースでずーっと水を出し続けていた。それに対し苦情を言った人もいたらしいけど、建築現場の人にそれを言っても埒もなかったらしい。
これが僕が意識した初めての環境問題だった。
地球は水の惑星とも言われるほど水が多い。でも人が飲める水の割合はほとんどない。水の多くは海水で、淡水は全体の2.5%くらいしかない事を知っ たのは、その環境問題のおかげかもしれない。2.5%の淡水の中で、極地の氷が65%も占めている。生物が生存のために頼りにしている水は全体の0.8% の水なのだ。その水を得られる者(国)と得られない者がいる。
日本の場合、消費される水と同量の水を輸入していると知ったのは最近のことだ。ヴァーチャルウォーターと言って、食物(野菜、果物、肉など)を育て る為に必要な水分の事だけど、日本が結果的に輸入しているバーチャルウォーターの量が、国内で消費される量とほぼ同じだそうだ。
知っての通りに、世界は森林破壊と温暖化から砂漠化していっている。多分日本ではまず輸入食料の不足か値上がりで水不足の影響を受ける事になりそうだ。
最近友人達と雑談で、今もっとも良い生活とはなんだろうと話し合った事がある。「物がないホテル住まいの様な生活」とか「自分にとって良いデザイン に囲まれた生活」とか「美人に囲まれた生活(これは半分冗談)」とか色々と出たけど、「環境に優しい生活」の一言には誰も反対意見は出なかった。
ただし、この生活は否が応でもする事になるのは間違いないと思う。

めぐりあう時間たち・・・その後



「めぐりあう時間たち」の原作訳本を読み始めたのが、10月3日のlogに書いてあったので、既に2週間以上経った事になる。

人によって、もしくは状況によって、人が本を読む早さは様々だと思うけど、たいてい僕の場合は集中して一気に読んでしまう事が多かった。それなのにこの「めぐりあう時間たち」はこんなにも時間がかかっている。現在、やっと半分迄の箇所に来たところだ。
ではつまらないのか?、いえいえその逆でもの凄く面白いのだ。半分のところで感じた点をいくつかメモしておこうと思う。

1.映画は原作を概ね忠実に再現していると思う。原作を読んでから映画を観たとき失望する事が多かったけど、「めぐりあう時間たち」の場合は双方とも満足する事が出来そうだった。これは映画を先に観た事と関係するかもしれない。

2.原作は結構ウィットに富んでいて、2001年のクラリッサ(映画ではメリル・ストリープ)はニューヨークで撮影隊を見かけるが、その時の話題に メリル・ストリープが出てきたりする。原作の時点で映画俳優が決まっているとは思えないけど、作者はクラリッサをストリープイメージで作っていたのかもし れない。

3.1951年のローラが死に向かって行くのが、男性である僕の謎の一つだった。映画を観たときに、これは男性であるが故に不明な部分なんだと思う 事にしていたけど、原作ではその点のディテールが細かく描写しているのでわかりやすい期待を持った。今のところ思うのは、性差による苦悩からの突発的な衝 動行動ではなかったという事。ローラは夫が望む妻を演じる事に単純に疲れていたという事ではなく、彼女自体が結婚(男女の)に向いていなかったのではと思 われるところがあった。

4.ヴァージニアウルフの「ダロウェイ夫人」は最初ダロウェイ夫人自身が人から見たときにたわいのない理由で自殺をする事を想定してした。その役割は「めぐりあう時間たち」ではローラになるのかもしれないけど、最後まで読まなければ不明な事だと思う。

5.2001年のリチャード(リチャードの名前はウルフの夫の名前と同じだったのが思しろい)は訳本真ん中当たりまでは死の予感が一切現れていない ように思える。エイズだから自殺というのでは短絡的だし、それだけでは読み手としては納得は出来ないので、今後の展開に期待している。

6.ウルフの言う「普段の生活の中にこそ、人の心の持ちようで様々な事件がある」という考えに同感した。多分これは作者の意見でもあると思う。3つ の時代ではそれぞれパーティー(イベント)を開催するべく3人の女性達が動くけど(小説ダロウェイ夫人も同様)、イベント自体には何もなく、イベントを何 故開催するのかの理由付けと開催まで色々と準備を進める時に、各の心に様々な事件が起きている様に感じられた。

7.登場人物の名前の付け方が、「ダロウェイ夫人」登場人物と作者であるウルフ関係者の名前が使われているのが多いと思った。この名前の付け方にも作者の意図があるとしたら、どういう事なのか気になった。

8.作者はゲイ関連の書籍を書いている方で、その方面においても詳しい方だと思う。(作者がゲイなのかは別として・・・)

この小説は「ダロウェイ夫人」同様に「人生の選択」を主要テーマにしているけど、ゲイの考え方とかが背景にあるかもしれない。その観点を中心にこの本を読み解くと別の解釈も出てくるかもしれないと思った。(主要登場人物の大体はゲイだった)

しかし本から離れるけど、日本には潜在も含めるとゲイ人口はどのくらいなんだろう?
少し前にあったのは「結婚しない女性、結婚できない男性」だったけど、最近は違うようで、男性も女性に向かっていかない傾向だとどこかの雑誌で読んだ事がある。少子化だし、環境ホルモンの問題もあるし・・・・

「Yomiuri Weekly」という週刊誌の今週の特集が「セックスレス夫婦」だった。その中で夫婦間の性を拒む例として乗っていたのが殆ど男性側だった。この国は性の情報に溢れているけど、性の問題でもしかしたら衰退していくのかもしれない、そんな事もこの本を読んで(大いに脱線しているけど)少し思いをはべらせてしまった。

2004/10/19

ハーレー窃盗の容疑で台湾出身の7人逮捕

外国製の大型オートバイ「ハーレーダビッドソン」を盗んだとして、警視庁捜査三課は19日までに、窃盗の疑いで埼玉県熊谷市の無職李志祥容疑者(28)ら台湾出身の7人を逮捕した。
(中略)
調べでは、李容疑者らは10月15日夕、東京都渋谷区神南の路上にあったハーレーダビッドソン1台を盗んだ疑い。このオートバイは熊谷市上中条の資材置き場で解体、輸出する準備がされていた。(NIKKEI-NETからの抜粋)


新聞記事にもなったようです。ちなみに熊谷市の解体場所では3台のハーレーが解体輸出する準備が整っていたそうです。勿論その内の1台が僕のバイクです。

記事の中にも書いてあったのですが、台湾は世界貿易機関(WTO)に2002年に加盟し、大型オートバイの輸入販売が解禁となったそうです。その為、中古車価格は日本の価格の倍近くまで値上がったそうで、これが窃盗団の日本で活躍の背景になったそうです。

バイクが見つかった!

16日の日に渋谷の東急ハンズの前で盗難にあったバイクが見つかりました。

18日の日中に警察から電話がありました。僕には盗難の件だなとすぐにわかりましたけど、内容は事情を聞くだけと勝手に思い話を聞き 始めました。警察の方は男性で、とても丁寧で親切な印象を受けました。そして16日に盗難届を提出していますねと確認した上で、窃盗団を一網打尽にした事 と、僕のバイクが見つかった事を教えてくれました。

窃盗団は外国のグループで、プロの集団とのことでした。僕のバイクは船積みの為に既に解体されてバラバラの状況だったそうです。その事に電話をかけてくれた方は何度も、もう一歩早ければといって謝りました。勿論彼のせいではありません。一番悪いのは窃盗団の人たちです。

今後捕まえた窃盗団の捜査を継続していくので、捜査に協力して欲しいお願いと、バイクが手元に戻るのはしばらく後になるとの事を言われました。

本当に嬉しいです。でも一抹の苦さは解体されたバイクの事です。機械で道具ですけど、愛着があるせいかとても可哀想に感じました。でも他の人に色々と聞いて みると、盗難に遭ったバイクが解体されているとはいえ、船に積まれる前に見つかったのは殆ど奇蹟に近いとの事でした。最近日本では外国の窃盗団が横行して いて、そういう人たちからは日本は結構やりやすい国らしいとのことです。まず窃盗団が横行している事実認識が薄いので危機管理の意識が外国の人から見れば 足りないとの事でした。

今回の事では色々と勉強になりました。僕の危機管理の甘さは多分無くならないとは思いますが(少なくとも日本で生活 している時はそうです。人を見たら泥棒に思えと、昔から言われますけどなかなか思える物ではありませんよね。)、今後はバイクの防犯装備は今まで以上に増 やすつもりではいます。

僕の以前の記事を読み、ご心配をして頂いた皆さんにお礼と共に報告致します。

今回の事で参考にさせて頂いたサイトです。

バイク盗難撲滅計画
盗難リスト
窃盗団から財産を守れ

猫の王国


家の近くにある公園は大きい。なにしろ昔にオリンピックが行われた場所だ。

その公園に隣接して大学があった。大学は建物の老朽化と手狭になったので場所を変えることになった。そして取り壊された跡には広大な空き地が出来た。空き地をどうするかで色々な人達がアイデアを持ち込んで議論したけど、結局ゴミ処理場で落ち着いた。

そしたら今度は付近の住民たちが騒ぎ出した。環境に悪いというのだ。しかもゴミ集積用のトラックが頻繁にくるので子供たちにとっても危ないとの声も 出て、住民たちは猛反対運動を繰り広げた。すると持ち主である都も「じゃいいよ、勝手にして」という事になって土地を業者に売ってしまった。

今度はそこに大きなマンションが出来る事になった。

でも決まるまでに長い時間がかかったので、その空き地はそのままほっておかれた。そしてそのうちにその空き地は猫たちの住処になっていった。

僕がその話を聞いたのは偶然だった。たまたま空き地の側を歩いている時に、土地を管理している人同士でその事を話し合っているのが聞こえたのだ。僕は中の状況が無性に気になった。空き地は背の高い塀に囲まれているので、中がどうなっているのか皆目見当もつかない。時折塀の隙間から猫が出入りしているのを見か けた。その隙間から空き地を覗き込んでも、見えるのは草がぼうぼうと茂っているのが見えるだけだった。

ある日の夕方に僕はその空き地の側を歩いていた。ちょうど塀の隙間のところに差し掛かった時、目の前を一匹の猫が目の前を横切った。あれって思って足を止めて猫の行く先を眺めた。そしたらそこには既に十匹近い猫たちが集まって思い思いの格好でいた。

そこにおばあちゃんが買い物カーとを引いてやってきた。おばあちゃんは猫達の側に止まると、買い物カートから猫の食事を順次出し始めた。猫達は「にゃあにゃあ」といっておばあちゃんの側に寄っていく。

僕はしばらくその様子を眺めていた。すると足下を何匹もの猫達が通り過ぎていくのがわかった。振り返ると例の空き地との隙間から、何匹もの猫がお婆ちゃんの所に行くために出てくるのが見えた。

最終的には20匹くらいの猫の集団が現れた。唖然とするしかなかった。季節は初夏の頃だ。噂には聞いていたけど本当の事だった。

おばあちゃんは猫達の食事が終わるとまた何事もなかったかのようにその場を立ち去っていった。二言三言、僕はおばあちゃんに声をかけたけど、今では内容は すっかり忘れてしまった。ただ、そのおばあちゃんは猫一匹一匹に名前を付けているようで、呼びかけて話をしている姿が印象的だった。

塀の 内側ではきっと素敵な猫の王国が在るに違いない。僕はすっかりその気になった。他国にはむやみに侵入すべきではない、塀があって良かったかもしれない。猫 の王国がどんな物なのかを想像するだけの力は僕にはなかったけど、きっと猫達の事だから勝手に頑張っているのだろう。

そのうちにその空き 地でマンションの工事が始まった。今ではすっかり巨大なマンションが完成している。付近の住民達はマンション建築反対の住民運動を繰り広げ、現在訴訟中で ある。僕はと言えば、束の間に現れ消えていった猫の王国の事を思い出し、国民達が無事に移民していってくれていればと願っている。

イラストは「アルテミス巨猫ファンタジー」から使わせて頂きました。

2004/10/18

長寿の白い猫


以前レオが糖尿病だった頃、僕は週に何回も動物病院に通った。

その動物病院は昔「ナガイ動物病院」と看板に書いてあったので、子供の頃の僕は「ナガイ先生」という立派な医者がそこにいるのだろうと思っていた。「ナガイ先生」は立派な体格で立派な口ひげを持ち、そして円形脱毛症の犬や、不眠症の猫達を治してくれるのだ。僕はそんなイメージを持っていた。

レオをその病院に連れて行き始めた時、その病院の名前が「ナガイキ動物病院」に変わっていたのをしった。当然に出てきた先生は「ナガイ先生」ではなかった。

まだ学生然としたその先生はレオを、不安な顔つきで診てくれていた。僕はその先生の顔つきをみて、さらにレオの事が心配になった。

その病院には、当たり前だけど待合室という物があって、広さ3畳くらいの大きさに長椅子が一つと丸い椅子が2個置いてあった。ある時、僕がレオを連れてその待合室で待っていたら、病室から女性の声で先生に哀願する声が聞こえてきた。どうも彼女が連れてきた猫は老衰で弱っていたらしく、何とか元気にしてくださ いと先生に頼んでいる感じだった。

彼女も先生の不安げな顔つきにますます不安になっていったのでは?と僕は待合室で二人の会話を聞いていた。

先生は彼女に、**ちゃんは既に18才ですから、人間で言えば本当に凄い歳なんですよ、と言って栄養剤かなにかを投与してくれたみたいだった。診察が終わり、待合室に現れた**ちゃんは、それでもやっぱりぐったりしていた。

**ちゃんの同居人である彼女は、僕に会釈をすると同時にレオの事をみて「おいくつですか」と聞いてきたので「3才くらいです」と曖昧に返事をした。僕の返事を聞いているのかいないのかわからなかったけど、彼女は間髪をおかずに**ちゃんの年齢の事を話し、もう寿命なんですと寂しそうに笑った。でも僕は猫の歳 は外見からは全くわからなかった。**ちゃんは真っ白な長毛の猫で、レオに較べると由緒正しい王女様という感じの綺麗な猫だった。僕がその事を彼女に告げ ると、かすかに**ちゃんが「にゃ」とないた様な気がした。

それからも頻繁に動物病院には行ったけど、**ちゃんとはそれから一回も合わなかった。

イラストは「アルテミス巨猫ファンタジー」さんから使わせて頂きました

2004/10/17

夢を見た


夢を見た。

夢の中で家で一緒に暮らしているネコのジュニアとレオが人間のように立って話していた。背筋をピンと伸ばして、威厳をもって。僕は実体もなく彼らの周りを漂い眺めている。

二人が立っている場所は窓際で、いつもなら「表に行きたいよ」とせがむ所だ。でも夢の中の二人はそんな雰囲気はみじんもない。

窓越しに外で は時折稲妻が走る、雨は降っていない、しかも夜空には煌々とした大きな満月。稲光の光で二人の顔の表情が見える。二人とも青年の顔つきをしている。そう大 人になる一歩手前の顔つき。しかも不安におびえる顔つきでなく、これから自分の道を歩こうと決意した表情に見える。

ジュニアが喋る。「お前これからどうするつもりだ?」

レオがそれに答える。「おれはこの家を出るつもりだ」

「そうか・・・」とジュニア、続けて「俺も考えているところなんだ」

そうか二人はどこかに行くつもりなのか・・・。僕は自分が大きな衝撃を受けていない事にも気がつかない。ただ観察者として漂っている。二人の背後でまた稲妻が光る。

そこで目が覚めた。起きて変な夢だったと苦笑する。レオとジュニアを見ると、いつものように布団のうえで、この世の幸せを一身に集めているかのように、昏々と丸くなり寝ている。

ミュー ジカル「Cats」の中で猫には本来猫らしい名前を持っていると言っていた。それは人間が付けた名前とは違う。夢の中で互いに名前を呼び合っていたような 気がするけど、それは聞き取れなかった。でも確かにジュニアとレオではない様だった。夢の中とはいえ、その名前が聞き取れなかったのが残念と言えば残念 だった。

 (イラストは「First Moon」さんのを使わせて頂きました。)

斜陽館、旧朝倉邸等が重要文化財に

長谷寺本堂が国宝、斜陽館は重文に 文化審議会が答申 文化審議会(高階秀爾会長)は15日、長谷寺本堂(奈良県桜井市)を国宝に、斜陽館の名で知られる作家太宰治の生家「旧津島家住宅主屋ほか」(青森県金木 町)など12件の建造物を重要文化財に、篠山保存地区(兵庫県篠山市)など2地区を重要伝統的建造物群保存地区にそれぞれ指定するよう中山文科相に答申し た。(asahi.comより抜粋)
太宰が言うところの「風情が何もないだた大きいのである」家が国の重要文化財に指定されました。斜陽館があるのは津軽半島の真ん中の街金木です。も ともと津軽は幕藩体制時代の津軽藩が統治していた地域を言い城下町は弘前です。青森県は津軽藩と南部藩の北部が合併して出来た県ですけど、津軽藩と南部藩 は古くから犬猿の仲で、青森県が出来た際はその中間の位置にある寂れた漁村の青森が県庁所在地になったと聞いた事があります。太宰自身も自分が青森県民と 言うより「津軽人」としての意識を持っていたのではないかという気がします。

ところで、斜陽館は戦後に津島家が手放し、旅館となっていましたが平成8年に金木町が買い取り「太宰治記念館」として保存されています。
今回その他に重要文化財指定を受けた家屋に「旧朝倉邸」 があります。こちらの方は斜陽館と違い、はじめは個人の邸宅から政府の会議所として大事に使用され、結果的に保存状態も良く残されてきましたが、国の経済 状態の悪化から整理対象になる恐れがあった建物でした。今回重要文化財になりひとまず保存される事になると思いますが、今後どのような形で維持されていく のかは未知数だと認識しています。

片方は行政側が買い取り保存に向かい、もう片方は行政側が手放そうとし保存が危ぶまれている。その2つが同時期に重要文化財になったことに、何か不思議な物を感じます。
と ころで僕は勿論国宝とか重要文化財、地方自治体の各文化財は大事にして行かなくてはいけないと考えています。元々日本人は古くからの事物を大事に扱ってき ています。それらを僕等の世代で壊してはいけないと思いますし、後世に残していかなければならないとも考えています。でもそれらは「何々文化財」という冠 が付いているから残すべきだとの考えではないと思います。多くの人は両親、祖父母から託された事物とか思い出の品物は大事にしていく気持ちを持っていま す。その気持ちの延長線上にある気持ちが、これらの事物を大事に取り扱う気持ちになっていくのだと思っているからです。

家から小学校に向か う道の途中に小さなお地蔵様がいます。昔からそこにいらっしゃるので、街並みや風景が変わっても、その中にとけ込んで佇んでいます。首がない事から。地域 の人たちは「首なし地蔵」と少し物騒な名前を付けていますが、愛着をもって接していて、常にお供え物や生花は添えられています。どこの町にもあるごく普通 の風景だと思います。勿論そのお地蔵さんは「何々文化財」になっているわけではありません。でも地域の自然な気持ちから綺麗に残されています。そう言う物 だと僕は思います。

今回の重要文化財の指定を批判しているつもりは毛頭ありません、その逆です。ただ、「何々文化財」の冠が付こうが付くま いが、今回指定を受けた建物達は地域の方から愛されている事に間違いはないと信じております。勿論維持保存するためにはお金が必要で、人が生きていくため にやむを得ない形で取り壊す事もあるかもしれません。それはとても残念な事です。その中で、旧朝倉邸の様に指定を受ける事で、何らかの形で維持されていく 事ができそうで良かったと思っています。

余談ですけど、以前「満月 MR.MOONLIGHT」という映画がありました。時任委三郎と原田 知世主演の楽しい映画でした。今回津軽経由の連想で、この映画の事を思い出しました。確かあの映画で始めて僕は「シャクシャインの乱」の事を知ったのでし た。この映画の最後の方で、二人が弘前城からロープを使い脱出する場面があり(E.Tにそっくりでした)、とても素敵なシーンでした。

2004/10/16

バイクが盗まれた

バイクが盗まれました。

バイク盗難は多いと聞いていたけど、自分が盗難に遭うとは思ってもいなかったのが正直な気持ちです。事件は本日(2004/10/16)18時から19時半頃の間で起きました。車種はハーレーダビットソン・ダイナ・ローライダー2001年型です。

僕は渋谷の東急ハンズに買い物に行き、バイクは人通りが多い東急ハンズ前に止めました。防犯は標準のハンドルロックだけでした。買い物が終わり止めてある場所に行くと、バイクは跡形もなく消えていました。その間およそ1時間30分間。

はじめ状況がつかめず夢の中にいるようでしたけど、とにかく周囲(東急ハンズ前は無数のバイクが駐車しています)を探し回りました。
邪魔なので移動されたかもと考えたからです。でも当然にバイクは見つかりませんでした。30分くらい探したと思います。ちょうど東急ハンズの目の前がハー レーダビッドソンのお店で、店の知っている方が僕を見かけ来てくれたので状況を説明しました。彼は、警察のレッカー車での撤去は今夜なかったと告げ、盗難 と考えた方が良いと言いました。
探した30分間で、漠然とした思いが確信に変わっていった事もあり、僕は彼の「盗難」という言葉を現実として呑む事が出来ました。そして近くの交番にいき盗難届を提出しました。

バイク店の彼は、ハーレーの盗難は、組織的なプロが行う事が多く、手際は早くて防犯装備に関係なく盗まれる事、盗難車は分解され海外に売られていくケースが多い事、盗まれたバイクが戻る事は経験上少ない事、等を僕の質問に答える形で教えてくれました。

盗 難に遭ったバイクは乗り始めて約5年です。走行距離はおよそ1万2千キロ。その1万2千キロ分の思い出が詰まっているバイクなのです。盗難に遭った事で、 その思い出も汚される様に感じました。思い出と一言で言っても、その時の気持ちにより楽しいだけではなく、休みなどで出かける時に、生活の一部としてそこ に在ったバイクなのです。少し感傷的になってこの文章を書いているとしてもご容赦いただきたくお願いします。何しろ本日盗まれたばかりの状況なのですか ら。

今現在僕のバイクは見知らぬ人がどこかの道を走っているかもしれません。それを考えるとたまらなくなります。出来れば見つかって欲しいと心から思っています。バイクに乗られている皆さんも本当に盗難には気をつけてください。それも心からのお願いです。

携帯はiPodを超えられない

携帯に様々な機能が付く事は利用者としては嬉しい事だと思う。選択肢が広がるし、その中で使いたい機能だけを使えば良いと思うからだ。その立場にた てば、今回の「EZ着うたフル」のサービスに対し僕がこんなにもこだわる必要はないのかもしれない。サービスを受けたい人が受ければ良いし、失敗しても利用者には痛くも痒くもない。

本サービスが1X WINとダブル定額の新規獲得の為の位置づけである事は間違いないと思う。またiPodがPC所有が前提である事を考えれば、本音楽利用の期待値はPCは持ってないが携帯は持っている層となり、それなりの利用者数を確保できるかもしれない。

でも現段階では携帯は決してメインの携帯音楽プレイヤーにはなり得ないと思う。それは人は最新音楽ばかりを追い求めているわけではないからだ。心に残り好き な音楽は既にCDとして、もしくはMDにして聞いている事だろう。そして新旧織り交ぜて音楽を楽しんでいると思う。これはコーディックとか著作権保護とか の問題ではない。音楽の持つ情緒面の問題なのだと思う。

ある新曲は携帯電話で、自分の好きな曲はMDかCDでと人は使いこなすであろうか?僕はそうは思わない、人は出来るだけ途切れることなく好きな音楽を聴き続けたいと思う。そういう情緒面をKDDI側は考えてくれていないように思えるのだ。

米国ではiPodに収納した音楽のプレイリスト自慢があると聞いた事がある。iPodの場合、途切れることなく自分の好きな音楽を聞く事が出来る。だからこ そプレイリスト自慢がはやると思うし、iPodがメイン携帯音楽プレイヤーになり得ていると思う。音楽をビジネスとして捉える事は別に良いけど、音楽の情 緒面を考慮しない限り音楽はビジネス面でも成功しないと思う。

iPodの場合、利用者の好みに合わせてコーディックもレートも変える事が出来る(元々Appleの標準MP3レートは160kbpsである)。iPodは何故大容量のHDDタイプとなったのかは上記の通りだと思う。
「携帯はiPodを超える」 auが狙う音楽配信ビジネス
KDDI社長小野寺氏は、着うたフルは人を感動させるクオリティを持つとして、auは「感動ケータイ」を目指すとコメント。「auは感動ケータイへ。これからも進化を続ける」とうたった。
ITmediaより抜粋
こうして考えてみると、僕が「EZ着うたフル」にこだわる理由が見えてきた。僕はこのサービスに対してこだわりがあるのではなく、音楽の持つ情緒面 を理解することなくサービス化しようとするビジネスマン達に対して憤りを感じているのだと思う。そう言う目で見ると、小野寺社長のいう「感動ケータイ」も 陳腐な響きに聞こえてくるから不思議だ

2004/10/15

青木繁の未発表作発見


明治を代表する洋画家の一人、青木繁(1882-1911)が28歳で亡くなる前年に描いたとみられる未発表の油彩画が見つかり、代表作の多くを所 蔵する石橋美術館(福岡県久留米市)が真作と確認した。同美術館の担当者は「油彩は100点ほどしか残されておらず、貴重な作品。放浪していた晩年の足跡 を知る手がかりになる」と話している。作品は長野県東御市の梅野記念絵画館で展示されている。(asahi.comから抜粋)

青木繁の絵を始めて見たのは東京の「ブリジストン美術館」に展示していた「海の幸」でした。元々この絵は九州の「石橋美術館」所有の絵だけど、「ブリジストン美術館」とは姉妹美術館なので時折絵の交換展示を行っていたらしく、たまたま僕はその時期に訪れたというわけです。

勿 論、青木繁と代表作である「海の幸」の名前くらいは知っていましたし、写真で見た事もありました。でも実際に見る「海の幸」は僕が知識としてイメージして いた物とは何もかもが違っていました。ブリジストン美術館が所有する名画の中でもこの絵は圧倒的な存在感をもって光っていた様に見えたのです。特に、収穫 である魚を持って行進する男達の間に、こちらを眺めている顔が印象的でした。その顔は僕には女性の顔にみえたのです。男性の行進の中にある生々しい女性の顔。

後から青木繁の生涯をしった僕は、その顔が青木繁の伴侶であった女性の顔である事をしりました。それと同時に、彼の波乱に満ちた(本当に言葉通りの)短い人生の中で幸福だった一瞬の時にこの絵が描かれた事も知ったのです。時に青木繁22才の夏のことでした。

まだ僕はかれの作品をそんなに多く見てはいません。観賞出来た作品は、「わだつみのいろこの宮」「大穴牟知命」「男の顔」くらいなものです。正直言って今回 彼の絵が発見されたとの新聞記事は驚きました。彼が病死する迄の2年間は放浪生活だったと聞いています。その時の一枚の絵だったとの事ですが、故郷をすて 家族を捨てた彼がどんな気持ちでその絵を描いたのかとても興味はあります。

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安房文化遺産フォーラム:2009-02-08 (日) 02:20
●青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会● 1904(明治37)年夏、青木繁が滞在し、《海の幸》を描いた房州布良(館山市富崎地区)は、神話のふるさとです。この地でも古事記を読みふけっていたようです。 このとき、青木が滞在した漁家・小谷邸は100年を超えた今、明治の漁村を代表する住宅として市の指定文化財の審議がすすめられています。 青木没後50年に建立された《海の幸》記念碑は、平成10年に地元住民の強い熱意により撤去の危機を免れました。設計者は、近代建築を翻訳紹介した東大教授の生田勉です。隣接していた同氏設計の館山ユースホステルが解体されてしまったことは悔やまれてなりません。 私たちは2つの文化遺産の保存・活用を通じて、教育と地域づくりをすすめています。ぜひ一度、ご来訪ください。お待ちしています。

2004/10/14

EZ「着うたフル」 ケータイが音楽プレーヤーに



KDDIは2004年11月下旬から音楽配信サービス EZ「着うたフル」を開始すると発表した。「着うたフル」のサービスは、1楽曲を全てダウンロードする配信サービスで、「HE AAC」コーディックでの高音質楽曲を1曲数百円で提供するというもの。またこのサービスに対応した新携帯電話を4機種発売する。

同様にKDDIはこのサービスに対応した携帯向け音楽ポータルサイト「EZ Music!」を新たに立ち上げる。このサイト では「着うたフル」の楽曲販売(現在提供している「EZ FM」と連携しての購入も可能)と共に通信会社として初めて通常の音楽CDも販売するとの事だった。
詳細はKDDIニュースリリース参照

本サービスが同社が提供する最大2.4Mbpsの通信速度とパケット通信料定額サービス「ダブル定額」を前提にしているのは間違いない。同社にとって本サー ビスがキラーサービスになり得るかは現時点ではわからないけど、僕はこのサービスが成功して欲しいと願っている。それは別の見方をすれば、この試験的?な サービスの成否で今後のモバイル音楽の展開が左右されると考えるからだ。勿論ユーザの立場から言えば成否に関係なくサービスの選択肢が増える事は嬉しい事 だ、でも多くのユーザに支持されるかは現段階で未知数である事は間違いない。

今回のKDDI発表を見れば、同社はAPPLE社が運営し成功 している「iTunes Music Store 」と「iPod」を意識していると思われる。「iTunes Music Store 」は「EZ Music!」であり、「au携帯端末」が「iPod」という図式が出来上がる。KDDIの小野寺正社長は、「日本もiPodのおかげで音楽配信サービス 市場が拡大しつつある」と述べ「iPod」を意識している事がわかる。確かに米国ではこのAPPLEのビジネスモデルは成功した。

KDDI側が述べるには、今回のサービスは携帯に直接配信する事で顧客の利便性は増したとなっている。つまり「iPod」の様にPCが仲介する必要 がない事を言っているのだと思う。でも僕の考えは違う、時としてPCの仲介も必要な時があるのだと思う、レンタルCD業界がうまく機能している日本では特 にそう思う。iPodMiniが「iTunes Music Store 」提供を行っていない日本で好評を得た理由は端的にそれを物語っていると思う。人は自分が買った音楽を自由に色々な環境と道具で聞きたいものなのだ。

「EZ Music!」では購入した楽曲を外部大容量メモリーに格納する事が出来るとなっているが、一般に使用する外部メモリーの容量はせいぜい256MBだと思 う。つまり外部メモリーに格納できる楽曲は100曲未満だと思う。この100曲は「EZ Music!」で購入する曲数としては多いと思うが、仮に何らかの方法で購入したCDをその外部メモリーに格納することが出来る場合、個人的には何か物足 りない。その為に外部メモリーを新たに購入する事になると思うけど、外部メモリーは高価だ。

今回著作権保護技術を何を使うかわからないけど、発表によれば購入した携帯端末でしか聞く事は出来ないらしい。また別途PC等を使って個人が貯めた音楽データを携帯端末側(もしくは外部メモリー)に転送して聞く事が出来るのかは明らかになっていない。
仮に携帯端末が故障もしくは買い換えた時、購入した楽曲の保証はされるかも気になるところだが、その点も明らかになっていない。

色々と脈略もなく書いてしまったけど、僕が考えるサービス成功の為の条件を書くとすれば以下の感じになると思う。

・ポータル音楽サイトで提供する音楽はCDSで販売している曲だけでなく、CDの中の一曲も行う。(CDレンタル利用者の取り込み)
・楽曲数は少なくともApple提供と同程度。
・1曲は100円程度(Appleの1曲99セントの感覚は日本では100円から120円くらいの感覚に近いと思う)
・PCに楽曲のバックアップを可能とする。
・PCでフォーマットした楽曲データを携帯端末(もしくは外部メモリー)に格納し聞けるようにする。(EZ Music!で購入したCDをau端末でも聞ける様にするのは自然だと思う。)
・出来れば携帯側で聞けるフォーマットは「HE AAC」以外に「MP3」も対応して欲しい。
・音楽を聴いている時に着信があったとき、設定で一旦音楽が停止し着信終了後に自動再開することが出来る。勿論ヘッドホン着装しているときはヘッドホンを通して着信がわかるようにする。
・携帯で一般利用しても2時間位は音楽が聴けるようにする。

こ のサービスがビジネス的に成功するか否かは通信会社だけの問題ではないと思う。携帯メーカの努力もあるだろう。でも最もキーとなる業界は音楽業界だと思 う。Appleが成功した理由で最も大きいのは、制限のやや緩い著作保護システム(デジタル権利管理システム)と安い著作権料で5大メジャーレーベルと契 約成立が出来た事だと思うからだ。

日本と米国では音楽業界の考え方も背景も違うと思う。コピープロテクトCDの順次撤廃を行う事を決めるなど、徐々に変化は見られるが、ネット配信の広がりの為にはさらに踏み込んだ変化と対応が必要に思える。

個人的な感想をいえば、多分携帯のみを利用対象とした今回の音楽配信サービスは成功が難しいと思っている。でも、その中でKDDIがどのようなアイデアで対応していくのかは大いに期待している。冒頭に言ったように、僕はこのサービスが成功して欲しいと願っているのだ。

Coccoの新CD発売

2001年2月に突然の活動停止宣言をしてから、絵本2冊出版とゴミゼロ活動等の活動を行っているCoccoがプロデューサーに岸田繁氏(くるり)を迎えてタワーレコード日本25周年記念としてタワーレコードのレーベル“bounce records” から11月23日にCDSが発売される。タワーレコードで現在予約受付中

曲は「SING A SONG?NO MUSIC, NO LOVE LIFE?」(英語詞はここに)

たしかこの曲は「ベスト+裏ベスト+未発表曲集」のDISC2に収録されている英語の曲だけど、今回日本語訳で新たに収録している。実はこの情報は友人ブルーから教えてもらいました。感謝感謝です。勿論予約します^^

Cocco が活動停止宣言を行った時、彼女は「沖縄」への思いを吐露している。その時に彼女の詞にある断絶感と強く求める愛の対象が「沖縄」である様に思えた。「沖 縄」を愛し、しかしその「沖縄」から拒絶されている孤独感のようなものを感じたのだ。そのCoccoが沖縄に戻る事を決めた心中を推し量ることは難しいけ ど、沖縄に戻ってからの彼女の活動の中心はやはり「沖縄」だった。Coccoと「沖縄」はお互いが受け入れあうことができたのだろうかと願わずにはいられ ない。

Coccoの曲は今でも心が揺さぶられる。作り手の動機は様々だけど、多分人はその気持ちを感じ、自分に投影して感動するのかもしれない。試聴ではなく全てを早く聞いてみたいと思う。

Coccoの公式サイトはここ。ただし彼女は大のインタネット嫌いで知られているのでサイトの内容は淡々としています。

Coccoの活動停止までの全タイトルをまとめました。1ページだけの拙いサイトですが、参考までにどうぞ。ここから。

2004/10/13

iPodの話


iPodを使っている。と言っても最新式ではなく2世代目だ、本当は1世代目から欲しかったがWindows版はなかったので購入できなかった。後からXplayというソフトでWindowsでも使える事がわかったけど、その時は既にiPodは2世代目になっていた。ただ個人的な趣味では1世代目のより機械的なギミックの方が好きだった。
(注)Xplay日本語版は現在Xplay2への期間限定(2004/11月末まで)の無償バージョンアップ中。


そのiPodは今までに2回全ての音楽データがなくなった事がある。1回目はiTuneの使い方がわからなくて、2回目はiPodドライバーの更新で・・・・
今 まで苦労して貯めてきた音楽が消える事が、これほど悲しいとは想像も出来なかった。僕の場合、音楽収集はとりあえずiPodに取り込む事から始める。そし て気に入らなければそれを消していく。そうすれば最後には好きな音楽だけのライブラリーができあがるという事になる。そうやって時間をかけて作り上げたラ イブラリーは大げさな言い方をすれば僕のアイデンティティと言えるかもしれない。
でも2回の消去で気がついた事もある。最初と次、そして現 在の収集している音楽は微妙だけど同じではないと言う事。新しくて好みに合う音楽は常に出てくるとはいえ、やはり好みも少しづつ変化して言っていると言う 事なのかもしれない。その変化を見るのも自己満足の世界だけど面白い。

こういうパーソナリティがでる機械とか道具は時代を現している様にも 思える。確かに全ての道具は長く使う事で自分の個性が出てくると思う。例えばトンカチでも長く使えば自分の持つ手形にあう形になるかもしれない。車でも人 の車を借りたときは所有者の癖が出て運転しづらい時もある。特に人の身体に密接な関係にある道具は昔からそうだった(メガネとか歯ブラシとか補聴器と か・・・)。でもそれらの道具とiPod(同じ範疇に携帯電話、パソコン等々、勿論iPodと同じ内容のプレイヤーも含みます)は、何かしら少し違うよう に思えてくる。

その違いは、道具の持つ本質的な部分では同じだとしても、道具に個性が表れる時間と無関係ではないと思う。なにしろiPod は買った最初からそこに自分の個性を入れる事から始めるのだから。それに、仮にiPodが故障したとき、僕が気にするのは故障したハードの事ではなく iPodの中に入っている音楽データである事は間違いない。そして音楽データは僕のアイデンティティの一部なのだ。うまく言葉で表現できないが、道具が表 す個性には外面的個性と内面的個性の両面があり、iPodは内面性の割合が高い様に思える点で、他とは違うような気がする。勿論この意見はiPodの所有 者の自己満足的意見かもしれないけど(笑)

iPod関連サイト
ありがとう iPod
iPod Style

2004/10/12

日本人女性がマラソンでロシア横断


岡山県の主婦・貝畑和子さん(50)。マラソンで7カ月、約9000キロ走破しウラジオストクに。(産経新聞サイトから)

快挙としか言いようがないと思う。そしてこのニュースを聞いて元気をもらったような気がする。

僕はランニングの世界の事は全く知らないけど、9000Kmの距離を走り抜ける事の凄さは想像できる。調べてみると貝畑さんはウルト ラマラソンではかなり知られた人で、数多くの記録も持っていられる方らしい。例えば「ラン・アクロス・アメリカ」というレースがある(実は今回始めて知り ました)。ロサンゼルス?ニューヨーク間の約5千キロを71日間かけて走るレースとの事。過酷なレースなので毎年開くレースではないけど、貝畑さんは出場 し見事完走している。その時の貝畑さんのインタビューが印象的だった。なぜマラソンを始めたのですかとの質問に彼女はこう答えている。

  「19年前に次男を6歳で亡くしました。白血病でした。全身全霊をかけて看病してきた息子がいなくなり、自分というものが無くなってしまったような気がし て、何もやる気が起こらなくなっていました。でも、残った3人の子どもを見ていたら、このままじゃいけない、元気で健康なお母さんにならないと、と思い直 し、ジョギングを始めました。(以下略)」

また続けてママさんランナーへのアドバイスとしてこう話している。

「記録を追ってもいいけど、走ることは仕事じゃない。市民ランナーなら、きついと感じるより、幸せを感じられる走りをした方がいいと思う。(中略)今後も、地球のいろんな大自然の中を走り、多くの人たちと出会いたい」

今回彼女の気持ちがまた一つ実を結んだ。素晴らしい事だとあらためて思う。この7ヶ月間苦しい事も多かったと思うけど、貝畑さんの言葉を借りるのなら幸せを感じる時間でもあったと思う。

でも快挙のわりに取り扱いが小さいと思うのは僕だけでしょうか・・・・

(関連サイト)
「シベリアの風だより」今回の貝畑さんのランニング日記

貝原和子さんのHP

「ラン・アクロス・アメリカ」日本語サイト

World RUN Project

知識は信念

「知識は正当化された真なる信念である。」

この言葉の意味を僕はしばらく実感が出来なかった。この言葉は野中郁次郎氏が知識の定義として最初に掲げ ている言葉である。まず「正当化」「真なる信念」の意味が問題だったし、これらが哲学的思索を通じての解釈であれば、まずもって僕がする事は難解な哲学辞 書を紐解く事から始まる事になる。その過程を考えてもうんざりするし、またその事がこの言葉に対し思考を停止させていた大きな要因の一つである事は間違い なかった。

でも最近ふとした事でこの言葉の意味を実感する事が出来た。それはささいな母との口論からであった。内容はさておいてお互いに閉口し たのが二人が話す事は、お互いに意味は通じ、理解し合い、かつ認め合っているけど、お互いに自分の言う事の方がより良いと信じている事だった。この信じて いる根拠はお互いの経験から現実に学んだ事から来ているので埒もなかった。だから、どちらか片方の話す内容に統一する事はお互いが出来なかった。たいした 内容ではないけど、その件に関してはお互いに正しい(自分が正当化した)信念を持っていたという事だ。

僕もそうだけど、多くの人は現実を見 て自分の信念を正当化すると思う。例えば、自分の家から東京に行く場合。まず乗り物を決め、ルートを決め、時間を決め、使う金額を決め、もしくはその人に 付帯するその他の様々な条件を考え決めると思う。そして決めた事を現状をみて正当化する。仮にその決定事項に意見を言われたら多分抵抗するだろう、それで も意見の相違がある時は人それぞれの考えだからと納得するしかない時もあるだろう。

こういう口喧嘩は世の中いくらでもある。そして、僕は母とのささいな口論を通じて「知識は正当化された真なる信念である」事を実感したのであった。

では、知識はお互いに歩み寄る事は出来ないのであろうか?勿論そんな事はない。日常ではいくらでもお互いの知識を持ち寄り、さらに新しい知識を創造してい る。例えば、AさんとBさんのお互いのカレーの作り方の雑談からお互いに新しい工夫を加える事はあると思う。2チャンネルで話題になり書籍にもなった「電 車男」も同様だと思う。母との口論で歩み寄りが出来なかったのは最終的には意地の張り合いになったせいだと思う。

つまり、異なる知識が歩み寄り新しい知識になるためには、当事者同士の深い信頼関係と会話、そして共通した目的に向う気持ちが大事だと思う。

色々な事に信念を強く持っている人は、逆に強いがゆえに新しい考えを受け入れる事が出来ない事が多いように思える。それは結果として良い場合もあると思うけど、その逆も多いような気がする。
また、「知識が新たな知識を作る」考えには一つの素朴な疑問もあるのは事実だ。それは、その伝播による積み重ねでは小進化しか産まれないのではないのだろうか?って事。

知識については仕事で考える事が多い。この分野は全く初めてなので、このBlogを使い自分の考えを整理していきたいと思う。何でも良いので何かありましたら宜しくお願いいたします。

2004/10/11

休日は恋愛小説でも書こうかな


僕の独断と偏見で言えば、小説の中で一番面白いのは恋愛小説だと思う。恋愛小説も色々とあるけど、出来れば男女の恋愛小説がいい。男女であれば主人公の二人の年齢は全くこだわらない。惹かれあう男女が織りなす緊張感を持ったドラマがそこにあった方がより面白いと思う。

フランスでの恋愛小説のパターンは始め次の様な感じであったみたいだ。

1.男より高い身分の貴婦人で既婚

2.男は常に忍耐を持ち、貴婦人をプラトニックな関係を保ちながら、女性からの愛を待ち続ける

このパターンで言えば、現代ではこんな感じの恋愛小説になるのかもしれない。

「あ る俳優の子供の家庭教師をする事になった某大学の学生は、俳優の家で美しい女性と出会う。スターの妻であるその女性は凛とした聡明な女性で、学生は一目見 たときから好感をもつ。夫である俳優は舞台演劇での中堅として活躍し、誠実な人柄とリーダーシップで頭角を現してきていた。その似合いの二人の子供は可愛 い男の子で、学生はその子の家庭教師として一緒に勉強したり遊んだりしていた。一見どこから見ても素敵な家族であるけど、俳優の妻は人知れず悩んでいた。 彼女は夫である俳優の妻として自分をかなり抑えていたのだった。ふとした事から彼女の悩みを聞く事になった学生は自分が彼女の事を好きだと言う事を意識す る。でも学生は自分の気持ちを抑えて誠実に彼女に対し友人として接していくのだった・・・・・・・」

ダメだ(大笑)、これでは「若きウォルテルの悩み」そのものだし、こんなシチュエーション現代にあるわけがない。

高 い身分の貴婦人から、身分はどんどん下がっていき、ついには娼婦との恋愛につながっていく。でも先ほどと変わらないものがある。それは男性が愛する女性に 対する気持ちだ。身分の違いがどうであれ、恋する男から見れば、対象となる女性は崇高なクィーンで、男は命令一つで死地にでも赴くナイトなのである。

と ここまでが、19世紀前半までのヨーロッパ恋愛小説の状況だと思う。それからアメリカの映画を主とした恋愛のパターンが出てくる。アメリカだから身分とか の代わりに出てくるのが金持ちと金持ち以外の組み合わせになる。でも大抵は男の方が女性より金持ちクラスの場合が多いように思える。そのパターンの物語で 有名なのは「ある愛の唄」かもしれない。ただアメリカの場合もう一つ要素が加わる様な気がする。それは競争率の高い異性を獲得する成功物語のシチュエー ションだ。このパターンで恋愛小説を考えると・・・・

「彼には好きな女性がいたけど彼女は学校でミスに選ばれる程の美人だった。しかも彼女 には既にボーイフレンドがいた。彼は今まで女性とつきあった事がなかったので、それを妹に相談する。妹は親友の女性に相談し、そこからその3人の彼女獲得 作戦が開始する。あの手この手の作戦で好きな女性にアタックする彼ら3人。そしてとうとう3人の作戦で彼女とボーイフレンドは喧嘩するはめになり、同時に 彼は彼女と初めてのデートをする。でもその時に彼は自分が本当に好きなのは妹の親友だった事がわかる。急いでデートを取りやめる彼。自分のプライドが傷つ き、彼を追ってくる彼女。そこに彼女のボーフレンドも加わりてんやわんやの大騒動。しかし結果的には全て丸く収まりハッピーエンド」

って・・・・・・最悪(笑)、これじゃどこにでもある学園物ラブコメディではないか!

今 はどうなっているのだろうか・・・・韓国ドラマは人気あると思うけど、結構この身分とか問題を乗り越えてのパターンが多いような気がする。やはり、古今東 西でも恋愛が面白いのは、その抱えている問題の量と内容なのかもしれない。現実には人は何事もなく熱烈な恋愛を望むのにね。

でもこの恋愛小説を考え作る話題はこれからも続けるつもり。

上記の恋愛論もどきはAmehareの勝手な想像で根拠はありません。(笑)

昔この国にオリンピックがやってきた


1964年(昭和39年)10月10日に第18回オリンピックが東京で開催された。アジアで最初のオリンピックでもあり、オリンピックに向けて日本が莫大なエネルギーを集中した時期でもあったと思う。例えば、神宮外苑にある国立競技場は昭和32年に起工、33年には竣工という早さで、2ヶ月後のアジア大会ではメイン会場となっている。

よくオリンピック以前と以後というように、東京はオリンピックを境にその姿が大きく変わった。首都高が出来、新幹線が開通し、道が拡張舗装され、ホテル等の建物が建築された。特に会場となる運動場の周辺は大きく変わったと聞いている。駒沢総合運動場はオリンピック以前は駒沢球場で東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)のメイン球場だった。駒沢球場の周辺は何もない湿地帯だったと聞いた事がある。なにしろその前はゴルフ場であり、明治帝の御狩り場だったこともある地域だ。駒沢運動場の周りで舗装されている道路は国道246号線くらい(戦前246号線は戦車道路と呼ばれた。厚木基地と首都圏との連絡道路の役割のため早いうちから整備されていたと聞いている)

僕は経済には疎いけど、その時期はオリンピック景気と呼ばれ主に土木建築業界と鉄鋼業界がこの国の経済を引っ張っていったのだと思う。そしてそれが後年の「日本列島改造論」に結びついていくような気がしている。

脇目もふらず、ただ前を向き目的に向かって全力で走り抜ける。その結果、東京オリンピックは大成功を収める。でもなくした物も沢山あったのではないのだろうか・・・・

市川混監督の記録映画「東京オリンピック」はまずビルの破壊のシーンから始まる。破壊そして建築。それは悪い事ではないかもしれない。でも破壊された物は二度と戻らない。新たに建築されたとしても、それは破壊した物の代わりではないのだから。

お江戸日本橋の上に首都高が通っている。初めて日本橋を見に行った時、勿論随分昔の事だけど、広重の浮世絵のイメージが強かったせいか日本橋を見つける事が出来なかった。人に聞きやっとたどり着いたのは、探しながら何回も通った橋だった。川の上に首都高が通っている、確かに川の上に作る方が用地買収などで楽だったのかもしれない。竣工までの期間が短い建築だったと思うので、合理的な方法をとったのかもしれないと思うけど、道路起点の場所としては少し寂しいものを感じる。

東京オリンピック以降、東京への一極集中はさらに強まった様に感じる。その結果前記の「日本列島改造論」が出る事になるのだけど、改造論では地方に東京並の街を作り一極集中を緩和しようとの目論見ではなかったのだろうか。結果は益々の一極集中となっている。

僕は「東京オリンピック」は戦後復興における一大イベントであり、それが素晴らしく成功した事を同じ日本人として誇りに思う。それと同時に僕は戦後復興から現在まで続くこの国がなくした物達を偲ばずにはいられない、それはこれから続く道の大事な指標になり得ると思うからだ。

追記:実は円谷選手のことを書きたいと常々思っている。東京オリンピックのことを書きたいと思っていた背景には円谷選手の事が脳裏から離れないためだった。でも結局かけなかった。彼の死を書くにはあまりにも僕の筆力では足りなすぎる、そんな気がしたのだ。人は視点によって、見る内容は著しく変わる。そして彼の死をその土俵に乗せることは僕にとっては不遜の様にも思えた。「頑張れ」と常に言われ。それに答えようとした円谷選手に当時の光と影を見てしまうのは、これも結果を知っての「後出しじゃんけん」なのかもしれない。

2004/10/10

Googleニュースに感じた違和感


僕はWebブラウザーとしてIEを使っている。最近IEのホームサイトをGoogleニュースに切り替えた。ここで言いたい事は切り替えた理由ではない。僕にとって、本年9月頭からスタートしたGoogleニュース日本語版は長く望んでいた Google提供のサービスの一つだった、ネットの目的の一つが情報の検索であるならば、それは当然の帰着と言えると思う。でも最近GoogleニュースのTOPページを見て、何かしら違和感を感じ始めている。

始めそれがどこから来るのかわからなかった。例えて言えばネットで見つけた最高のデザインのTシャツが家に届き、初めて袖を通して着心地が多少悪かった時の感じに似ている。デザインも色も最高なのに何か自分の身体に合っていない着心地の悪さだ。それは素材の違いかもしれないし、微妙なサイズの違いかもしれない。

最近その違和感の理由が見えてきた。それは今回のイチロー選手の活躍に負うところが大きい。僕の知る限りにおいて、イチロー選手の活躍がGoogleニュースのTOPページを飾った事は一度もなかった。勿論それは分単位で更新するGoogoleの事だから、たまたまの事かもしれない。でも少なくとも僕にとってはイチロー選手の記事を読みたいときはGoogleニュースは役に立たなかった。Googleニュースでイチローの記事を見つけるには、スポーツカテゴリからさらに一段深い所を探さなくてはならなかったからだ。イチローの件で役に立ったのは各新聞サイト(TOP記事としてイチローの記事を掲載しているのが多かった)もしくは大リーグサイト日本語版だった。

そのような目でGoogleニュースのTOPページを見てみると、違和感は具体的になっていった。例えば2004年10月4日16:45時点での「Googleニュース」と「読売新聞サイト」のTOPニュースの項目は以下の様であった。

どちらがより身近に感じる事が出来ただろうか?個人差が当然あるので優劣を決める事は出来ないと思うけど、僕にとっては読売新聞サイトの方が性に合っている感じがする。

Google ニュースは、さまざまなニュースソースからニュースを検索して集めたうえでグループ化(クラスタリング)や分析技術を利用して、ポータルのようにまとめて見やすくしたWebページ。(中略)同じような記事のうち、どの記事が上位に表示されるのか。その点についてチャン氏は、「PageRankの応用で 100以上の要素によって決まる」と述べる。
(Googleニュース日本語版、直リンク問題を抱えてスタート)

つまりはGoogleニュースに何が載るかはGoogleのアルゴリズムによって決まる。今回技術的にはGoogleで培われた物ばかりなので、ニュース検索サイト構築においては日本語という2バイトコード処理に関する事のみであった様に思われる。

>米グーグルが英語版のGoogleニュース(ベータ版)を開始したのは2002年9月。それから日本語版の提供まで2年近くかかった。その理由の1つとしてチャン氏が挙げたのは、「日本語などの2バイト言語の処理などの開発作業」だ。(Googleニュース日本語版、直リンク問題を抱えてスタート)

でもちょっと待って欲しい。ニュース検索サイトと言えどもどのニュースを載せるかは大事な話だと思う。そしてどのニュースを載せるかの判断はその国の状況(例えば歴史、文化、流行、経済状況、等々)を反映していなければならない様に思える。
僕にとってGoogleニュースはその点において(他のニュースサイトに較べ)まだ未熟のように思えてしまう。出来れば2年の期間の間に技術的な側面だけでなく、日本の状況をもっと識る事が必要だったのではないかと思うのだ。

そうであれば、単純にGoogleニュースを使わなければ良いのでないかと言われるかもしれない。でも僕はしばらくはこの着心地の悪さを承知しながら Googleニュースをホームサイトとして使い続けると思う。理由は簡単だ。着心地が悪いからと行っても最高のデザインのTシャツだからやはり着てしまうのだ。もっと良くなると期待も込めているのも事実だけど。

運営してから一ヶ月経ったGoogleニュースの評価は高いようだ。
「Googleニュース」登場の衝撃(デジタル ARENA)

いくつものサイトが書いている事だが、問題は著作権の考え方で、大手通信社と新聞社の中には強い拒否反応を示したところがいくつかあったようである。でも別な視点で存続を危ぶむ声もある。

『Googleニュース』、3年経ってもベータ版であり続ける理由(HOT WIRED日本語版)
それはGoogleニュースが収益を上げられないという事実だ。チャン氏も素直にその点を認めている。「ビジネスモデルはない。いいビジネスモデルがあれば教えてほしい」

確かにGoogleニュースの仕組みを考えれば収益をあげる事の難しさがわかる。でも数少ない「わくわくさせる企業」の一つであるGoogleにはがんばって欲しいと思わざるを得ない。そしてもっと僕たちを色々な意味で楽しませて欲しいと思っている。

2004/10/09

「慶次郎縁側日記」


NHKの金曜時代劇「慶次郎縁側日記」が面白い。既に7回を迎えた。全10話だから、あと3回しか見る事が出来ないのが残念。

主人公の慶次郎は高橋英樹が好演している。今までの彼のイメージとは違う役柄だけど、これがまた良い。なんか深みがあるというか、一言で言うと渋い。 原作は北原亞以子さんの慶次郎縁側日記シリーズから、脚本は宮村優子さん(声優の宮村優子さんとは同名別人です。念のため)と山本むつみさんとの事。

昨日放送した7回目「春の出来事」の内容

慶次郎(高橋英樹)は、往来で若い女・おせん(坂井真紀)とぶつかり、怪我を負わせてしまう。おせんの見舞いを切っ掛け に、二人の逢瀬が始まる。人目も憚らぬ二人を、「年甲斐もなく、若い女に騙されて」と、周りのみなが心配する。だが慶次郎は、何も無くなる老いの寂しさよ りは、「騙されてもいい、面倒を背負い込みたい」のだ。やがてこの恋は、おせんの夫・卯之吉(永岡佑)が慶次郎を襲うという事件を引き起こしてしま う。(慶次郎縁側日記サイトから)

そのうちに卯之吉が盗みの現行犯で捕まってしまう。その知らせを聞いたおせんは番屋まで駆けつけ、卯之吉が盗みをはたらいた原因は自分にあるから自 分も牢屋に入れて欲しいと哀願する。その際に慶次郎との事は単なる金ずるだったと告白するおせんだったけど、そのおせんに対して慶次郎は「俺は恋だった ぜ」と一言告げる。

このシーンにぐっと来てしまった。なかなか言える一言ではない。それを聞いたおせんは下を向き涙をこらえる。このしぐさでおせんも又慶次郎の事が好きだった事がわかる。慶次郎と卯之吉の為におせんは(慶次郎の事を)金ずると話していたのだった。

こ の一言は慶次郎だからこそ言える言葉かもしれないけど、それ以前に僕にとっては原作者と脚本家が慶次郎に言って欲しい一言の様に思えてしかたがない。原作 者と脚本家は女性だから、別の見方をすれば慶次郎は女性が思い浮かべる男性の理想像なのかもしれない、こう考えるのは偏見だろうか?でもそう思わせるほど に慶次郎は寛容で優しい。

慶次郎縁側日記」のタイトルとエンディングの絵が味があって良いと思い調べたら、CGクリエイター・保谷瑠美子さんとの事。保谷さんのHP(モノカタリ)には色々な作品があって面白かった。

台風がやってくる


こんな記事があった。思わず笑ってしまった。余計なお世話だ(笑)

「日記つける人は不健康?」 日記をつける人は、つけない人に比べて不健康な人が多い?。こんな研究結果が英国心理学会で発表され、話題になっているという。(以下略、日刊スポーツより抜粋)

そこで日記をつける事にした。といっても僕は日記を続けた事がない。それを言うと、根気がないからだと人から言われ自分でもそう思っていたけど、あ る時、父の日記を見たら姉の誕生少し前から始まる日記はちょうど三日間で終っていた。これを見たとき、根気以前にこれは遺伝なのだと自分の根気のなさの ルーツをしり、少し安心した事があった。

何か本題とは全く関係ない話から始めている。本題でいきなり「日記をつける人は不健康!」とする事に抵抗があったからだけど、自分がそう思っていない題名は付けたくない気持ちも強かった。

台風がやってくる。今東京で降っている雨は秋雨前線の雨だそうだけど、昨日から降り続けている。しかしどうもいまいち頭がすっきりしない。明け方まで起きて いたのも原因の一つだと思うけど、台風が近づいていることも原因の一つかもしれない、低気圧に弱いのだ昔から。こう言うときは何をしようか、家で猫と一緒 に戯れていようか、いやいや、やっぱし日記を書こう!

昨日塾をやっている友人のAさんが、ペットの癒しについてその方面の方々を集めて講演 会を開いて成功したと聞いた。Aさんは塾の他に心理学の研究もされているので、その副業の方でのお仕事だったらしい。そのAさんとペットの癒しについて話 をした時に、「人によってそれほど癒しになるのだったら、逆にペットが亡くなったときの喪失感も強いのだと思うけど、その対処はどうするの?」と聞いたら 「うーん」とうなっていた。やはりこれは本当に難しい問題なんだろう。僕にとって家の猫達がそうなったらどういう気持ちになるのだろうか?考えた事もないけど、自然のままが気持ちも身体も一番良いとは思っている。

とここまで書いたら、家の猫たちの事が気になった。探してみると2匹とも丸く なって寝ている。やはり猫たちも低気圧に弱いのかもしれない。それに根拠がない事だけど、雨の音と低気圧は眠りに関連性があるのかもしれない・・・・ 「うーん」やっぱし少し寝ようかな・・・・何か支離滅裂な内容になってしまったけど、これも低気圧の影響だと思ってご容赦勘弁。今回の台風は東日本直撃の 中では過去最大規模との事。何事もなく通り過ぎて欲しいと思う。

写真は本文とは全く関係ないバイク。1949年のノートンの広告。登場して いるバイクは「モーターサイクル・ダイアリーズ」のNorton500と同じ感じです。 ノスタルジックな感じがして、Nortonはこの広告で言いたかった、人とバイクの関係がわかるような気がします。これ以前のNortonの広告は戦争中 と言う事もあってか、とても軍事色が強い感じがします。

2004/10/08

Late For The Sky


不思議と秋になると聞きたくなるアルバムがある。その中の一枚がJackson Browneの「Late For The Sky」だ。1974年の発売だから相当に昔のアルバムだけど、ロック名盤に数えられているタイトルでもあるので聞かれた方も多いと思う。

ピアノやアコースティックギターの素朴なサウンド中心なので秋の夜に合っているのかもしれない。「Late For The Sky」以降のアルバム(「The Pretender」「Running On Empty」「Hold Out」)もすばらしいと思うけど、僕にとっては秋のイメージではないし。
2003年発売のベストにも「Late For The Sky」が入っているけど、多分新しく録音した曲だと思う。曲の感じが全く違って聞こえる。どちらが好きかと問われれば、僕にとっては断然に1974年盤の方だ。

アルバムの中で特に気に入っている曲は4曲目の「The Late Show」。曲の終わりに一旦メロディーが止まり、それから車のドアの閉まる音と出発する排気音が出て、それから再びメロディーが始まる、この部分は何度 聞いても良い。恋人同士が新たな出発をするイメージがよく出ていると思うし、挿入する事が必然と思われるほど自然で心地よいと感じる。

古く ても長く聞かれる音楽にはそれなりの理由があると思う。理由は個人に帰属するのか、それとも人が共有する何かに帰属するのか僕にはわからないけど、その理 由が年月に風化しない強さを与えているように感じる。僕にとっては「Late For The Sky」は、後から知った音楽ではあるけど、その中の一枚であるのは確かだと思う。

Jackson Browneは1948年10月9日産まれだから、明日が誕生日。
Happy Birthday Jackson Browne!

「Late For The Sky」の歌詞はここにあります。

モーターサイクル・ダイアリーズ

10月9日より全国でロードショー公開される「モーターサイクル・ダイアリーズ」は見に行こうと思っている映画の一つだ。日本公式サイト公式サイト(写真はこちらの方が大きくて良い)

23歳の医学生エルネストは、親友アルベルトとともに中古のおんぼろバイクに駆(の)って南米大陸を縦断する冒険の旅に出 る。それは金も、泊まるあてもなく、好奇心のままに10,000キロを走破する無鉄砲な計画だった(中略)冒険心、情熱的な魂、旅を愛する心でつながれた 二人のゆるぎない友情。心をふれあったすべての人に、惜しみない愛を捧げた、エルネストの瞳に映る南米大陸の様々な風景。その記憶が彼の未来を変えた。日本公式サイトから、エルネストは将来チェ・ゲバラとよばれる事になるあの革命家です)

内容も面白そうだ、でも僕がこの映画で一番見たいのは1939年製のバイクNorton500だ。
多分OHVシングルエンジ ンだと思うけど、昔に写真をみて美しいと思ったエンジンだった。Nortonは1898年に英国で誕生した名門メーカーだ。実質的には1969年製造の Norton Commandoが最後のバイクになったと思っていたけど、20世紀末に復活した。

昔の話だけど僕はブリティッシュバイクが大好きだった。しかもシングルもしくはツィンのバーチカル(直立)エンジンで形式はOHVもしくはOHC。日本製のDOHC4気筒エンジンはエンジンのヘッドが大きく美しいと思った事は一度もなかった(それは今でもそうだ)。
そうなると必然にクラッシックバイクに向かうようになる。そんな時、家の近くにNorton Commandoが時々駐車しており、羨望の眼差しでそれを見ていたのを思い出す。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」は東京では恵比寿ガーデンシネマで公開する事になっている。恵比寿ガーデンシネマと言えば「スモーク」をロードショー公開した映画館。スモークの原作脚本のポール・オースターが大好きで期待を込めて見に行った記憶がある。その期待は裏切られる事はなかった。記憶に残る映画になった。またこれはレンタルで初めて見た映画だけど「ボーリング・フォ・コロンバイン」もこの映画館で封切り公開されたと思う。その恵比寿ガーデンシネマの開館10周年記念として上映するのがこの映画となる。それらも含めて十分に僕のツボに入っている映画だと思う。これは行くしかない。

2004/10/07

レオの紹介


レオは「わーん」となく。時折「にゃーとないてごらん」とレオに言うけど、そんな事お構いなしに「わーん」となき続ける。こちらも「にゃー」とい う。レオは「わーん」と返す。そう言う事を何回か繰り返す。見知らぬ人が見たら、側に寄らずに立ち去る事だろう。その時のレオはきょとんとした顔でこちら を見ている。

レオは僕から言うと猫顔ではない。これもレオにしてみれば随分と失礼な話かもしれない。なき声と同様に、何故人間は自分の定義 に当てはめようとするのだろうと思っている事だろう。以前に友人が来てレオを初めて見た時、狸を飼っているのだと一瞬思ったそうだ。で、狸はないだろうと 僕に聞いてきた「猫ですよね・・・・」

確かに近くの公園に沢山いる野良猫たちの中を見渡しても、レオの様な容姿の猫にお目にかかった事がない。レオは6年くらい前に知人が拾って、それから家にきた雑種の雄猫だ。だからもしかすると知人の家の周りにはレオと同じ容姿の猫達がいるのかもしれない。

以前にレオは糖尿病になったことがある。家に来てから2年くらい経ってからの話だ。その時の話は機会があればBlogに載せたいと思うけど、この場で言いた いのはその事ではなく、診察してくれた獣医さんがレオが背骨の繋ぎ目の骨が二本くらい足りないと言った事だ。日本猫では1本少ないのは多いそうだ(本当に 多いそうだ)、でも2本となれば珍しいとの事。「うーん、どおりで胴が短いと思った・・・」 猫が短胴というのは良い事ではないと思う。まず格好悪い。その上に容貌が猫らしくないし・・・・

でも性格はとても穏やかだし、おしゃべりだ。ジュニアの方が綺麗だと思うけど、この性格で彼女はレオの 方が先に出来た。しかももてるみたいだ。ある日、レオと彼女が一緒に塀の上でひなたぼっこをしていたので、思わず「レオ」と声をかけた。するとするすると後ろを振り返らずに(つまり彼女の方を見ずに)こちらに向かって歩いてきた。彼女の方はじっとレオの方を見ている、「あれ」って顔をしているようだった。 その時はこの薄情者って思ったけど、呼びかけて来るとなればそれだけで可愛いと感じるのが猫バカの僕。

画像は風呂場でのレオ、逃げたくて しょうがないといった表情をしている。今回はあくまでレオ紹介の掲載です。ちなみにレオという名前は拾ってきた知人が付けた名前で、毛の色がライオンにに ているからだとの事。ま、同じ猫仲間だしいいかも、でも僕がつけるとすれば「レオ」じゃなく「ドラ」とすると思う。勿論「どらえもん」の「どら」だ。

2004/10/06

風呂で本を読む

湯船に浸かりながらの読書が習慣になって久しい。多分人知れず風呂場での読書を楽しんでいる方も結構多いと思う。これは一度やったら病みつきにな る。人にも依るかもしれないけど、僕の場合はそうだ。僕の場合、風呂場で本を読むからといって最新式の浴槽ではない。10年以上前の普通のステンレスユ ニットバスだ。狭いし深い。昔ながらの浴槽のイメージに近いと思う。本を読むときはまず浴槽の蓋を半分閉める。浴槽の蓋はよくある厚いすだれみたいな感じ の物なので、半分は折り返しておく事になる。折り返した蓋の上にタオルを1-2枚半分におって敷く。このタオルの上に手で添えて本を立てて読むのだ。これ で準備は万端。あとは、出来ればアロマか香りの良い入浴剤かを入れれば最高だと思う。ただし、間違いなく入浴時間は長くなる。平気で2時間くらいは風呂場 にいる事になる。勿論湯船に浸かりっぱなしと言うわけではないけど。

周りの友人達に風呂場で読書するかと聞いたら、大半の人が驚いていた。風呂場は水場、本は水には弱いと言うわけだ。確かに本を大事に扱う方から見れば言語道断かもしれない。
それでは湯に浸かりながらの読書は市民権を得ていないのかなと思えばそう言うわけでもない。例えば、YAMAHAの浴槽のイラストには音楽を聴きながら本を読んでいる男性が描かれているし、積水ホームテクノではイメージ写真として本とウィスキーまで登場している。

>たとえば浴槽のふちに設けた腰掛けスペースは、浴槽へのスムーズな出入りをサポートするほか、雑誌を持ち込んだり、飲み物を置いてくつろぐなど、さまざまな使い方を想像させる。(積水ホームテクノサイトより)

さらに映画では頻繁に登場していると思っている。ちょい昔の映画だけど、「情熱と冷静のあいだ」ではケリー・チャン扮する「あおい」がバスタブに浸かりながら詩集を読んでいた。(あの時読んでいた本は?)
sweet-bサイトのコラム「映画に見るバススタイル」はその点において我が意を得たりと思ってしまった。

> さて皆さんの中にも「お風呂読書族」が結構いるのでは? かく言う私も大のお風呂読書派。バタバタと慌ただしい現実から一休みして集中力を高めるのに、お 風呂の中ほどうってつけの場所はないと確信しています。自然と長湯になるのでダイエット効果も期待出来るしね。(sweet-bサイトより)

それにやはり風呂場で読書の季節は秋だと思う。暑すぎても寒すぎても快適さから少しはずれてしまう。さてと長風呂の秋の到来だ。

2004/10/05

見たい映画

今一番みたい映画は二本あるけど、両方とも日本映画だ。一つは「笑いの大学」、もう一つは「隠し剣 鬼の爪」。両方とも10月30日封切り予定となっている。

「笑いの大学」は元々三谷幸喜原作脚本の舞台劇だけど、今回の映画化にあたり新たに脚本を書き直しエンディングも舞台とは違うらしい。舞台劇の方は見た事がないので(名前だけは知っていた)結末がどのように変わるのか比べようがないけど、三谷幸喜さんの脚本だったら面白いに違いない。それにキャスティングで役所広司も好きだし。「笑いの大学」の公式サイトのTOPページにある観劇で笑っている観衆(多分最後のシーンかも)のFlashがあるんだけど、何故か見飽きなくてしばらく眺めていました。

「隠し剣 鬼の爪」は「たそがれ清兵衛」が好きだったので、同じ原作、同じキャストでの映画に強く惹かれたのが発端。役者も期待できそうだし。主演の永瀬正敏さんなんだけど、頭・・・勿論カツラだよね?あまりにもはまりすぎて(特に中央の薄い毛が・・・)もしかしてこの映画のためにマゲを結ったのかとちょいと思ってしまいました。

ちなみに藤沢修平の隠し剣シリーズを少し読んでみたくて本屋さんに行ったけど、この映画に該当する短編が見あたらなくてそのまま買わずに帰ってきました。藤沢修平の本は人気があるようですけど、残念な事に未だ一冊も読んでいません。今回が良い機会かもしれませんね。

話が少し変わりますけど、「隠し剣 鬼の爪」のヒロインとして出演する松たか子さんは、ミュージカル『ラ・マンチャの男』アルドンサ役で再度出演するそうです。ドン・キホーテは勿論松本幸四郎です。

2002年、博多座(福岡)・帝国劇場(東京)にて上演された「ラ・マンチャの男」が、2005年5月名鉄ホール(名古屋)、6月帝国劇場(東京)にて上演されることが決定しました。
前回、大抜擢されましたアルドンサ役に、松たか子が再び挑みます!!(松たか子公式サイトから)

僕 は1995年のアントニア役でミュージカル『ラ・マンチャの男』(青山劇場)で見ました。その時のアルドンサ役は鳳 蘭さんでした。でもアルドンサ役が出 来るようになったとはたいした物ですね。2002年から俳優が若返ったと聞いています。素晴らしい舞台ですし、また見に行きたくなってしまいました。

2004/10/04

Late For The Sky

不思議と秋になると聞きたくなるアルバムがある。その中の一枚がJackson Browneの「Late For The Sky」だ。1974年の発売だから相当に昔のアルバムだけど、ロック名盤に数えられているタイトルでもあるので聞かれた方も多いと思う。

ピアノやアコースティックギターの素朴なサウンド中心なので秋の夜に合っているのかもしれない。「Late For The Sky」以降のアルバム(「The Pretender」「Running On Empty」「Hold Out」)もすばらしいと思うけど、僕にとっては秋のイメージではないし。
2003年発売のベストにも「Late For The Sky」が入っているけど、多分新しく録音した曲だと思う。曲の感じが全く違って聞こえる。どちらが好きかと問われれば、僕にとっては断然に1974年盤の方だ。

ア ルバムの中で特に気に入っている曲は4曲目の「The Late Show」。曲の終わりに一旦メロディーが止まり、それから車のドアの閉まる音と出発する排気音が出て、それから再びメロディーが始まる、この部分は何度 聞いても良い。恋人同士が新たな出発をするイメージがよく出ていると思うし、挿入する事が必然と思われるほど自然で心地よいと感じる。

古く ても長く聞かれる音楽にはそれなりの理由があると思う。理由は個人に帰属するのか、それとも人が共有する何かに帰属するのか僕にはわからないけど、その理 由が年月に風化しない強さを与えているように感じる。僕にとっては「Late For The Sky」は、後から知った音楽ではあるけど、その中の一枚であるのは確かだと思う。

Jackson Browneは1948年10月9日産まれだから、明日が誕生日。
Happy Birthday Jackson Browne!

「Late For The Sky」の歌詞はここにあります。

2004/10/03

ジュニア、その育て方

家には猫が2匹いる。2匹とも雄の雑種。最初の猫はジュニアといいミルクから育てたけど育て方に失敗してしまいもの凄く神経質な猫になってしまった。

ジュニアは白く黒の斑点が所々にあるとても綺麗な猫だ。仕草一つ一つにも醸し出す色気がある。僕はこのジュニアを育てる事ですっかり猫にはまってしまった。

どちらかというと最初ジュニアの育て方は、猫という事もあり放任主義だった。獣医さんのところで予防接種を受けた時に猫エイズの話を聞き、あまり表に出さな い事が良いと言われた。家にずーっといるとストレスがたまるようで、それを家の中で発散する事になり色々と問題を引き起こした。襖は何回か張り直したし、 障子はもう張り替えるのもあきらめたほど。物は壊すし、しかも木綿のTシャツは食べるし。

そこに登場したのがAさんだ。Aさんは母の知人で 猫の育て方に一家言持っている人だった。Aさんは小振りな顔立ちの割に大きな目を持っていて、ぎょろりと僕を見つめ、ゆっくりと力強く「猫は叩いて躾けな ければいけません」と話した。その何とも言えぬ迫力に僕は圧倒されすっかりその気になってしまった。なにせこちらは猫と一緒に生活するのが初めてなのだ。 右も左もわからない中で専門家から金言をいただいた気持ちになってしまった。

こうしてジュニアが1才頃からの約1年間がしつけ受難時代となる。ちょっとした事でジュニアは叩かれる事になる。そのうちにジュニアはこちらが近づくだけで自分の身を守ろうとするようになった。

Aさんから教えられた躾が誤りである事に気がついたのは、猫関連の様々なネットを読んでからであった。多くの人たちは言っていた。

「叩いたりする事は特に猫にとっては躾になりません」

それはそうだよな・・・人間だって叩くよりは誉めたほうがいいに決まってるし・・・猫だって同じだよな・・・

でもなんでAさんは僕にあんな事を言ったのだろう・・・Aさんと猫の関係は勿論わからないけど、そうやってAさんも教えられてきたと思う。でも考えてみれば Aさんの時代と今とでは随分と猫と人間の関係も変わっているのは事実だと思う。昔はネズミを捕る為の猫だったけど、今では誰も猫たちにそれを要求したりは しないし。

それからは叩く事はなくなったけど、その1年間の躾期間はジュニアにとって、神経質な猫になるには十分すぎる時間だったようだ。 さわろうとするだけで怒り出すし、抱かせてもくれなくなってしまった。まぁ年齢と共にジュニアも性格が円くなっていったので、今では短時間であれば抱く事 は出来るけど。

勿論ジュニアが神経質な猫になったのは、Aさんの一言だけが原因ではない。ジュニアが本来持っている性格もあるし、僕の接し方にも原因があったと思う。でもジュニアの生活環境を変えてしまったAさんのあの一言はやはり重たいと思うのだ。

そのAさんは今から5年くらい前に病気で亡くなった。今でもジュニアが怒る度にAさんのぎょろりとした目で僕に語った姿を懐かしく思い出す。そしてそのたびに何故Aさんはあんな事を言ったんだろうと苦笑するのだ。

いまさら「めぐりあう時間たち」しかも途中

東京の下高井戸に小さな映画館がある。小さいと言っても比較的新しく清潔で設備も整っているので、気持ちよく映画鑑賞が出来る。僕のお気に入りの映画館でもある。上映する映画も選別された良質の映画が多いし、ロードショーが終わった映画を再上映するので見損ねた映画を見れるのも良い。

下高井戸シネマ:http://www.shimotakaidocinema.com/


少し前に、その下高井戸シネマで「めぐりあう時間たち」を見た。
この映画はアカデミー賞をいくつか取り話題性も高かった映画なので、多くの人が様々な切り口で語ってもいる。Googleで検索すると約1万件以上もでてくる。

何を今更と思うかもしれないけど、僕にとってこの映画の位置づけが未だになされていない。僕はこの映画を見て感動したけど、感動の理由が見えないのだ。それ で未だにこの映画を引きずっている。1回だけ見た映画なのに、結構細部まで鮮明に覚えている。DVDで発売された時に、購入もしくはレンタルで再度見よう かと思った時も何回もあるけど、一度も行動してはいない。買う寸前、もしくは借りる寸前で自分を押しとどめるなにかがあるのだ。そのなにかは、最初に下高 井戸シネマで見終わった時に感じた「得体の知れぬ何かの重さ」を再び感じたくないと言う保身の心境に近い物がある。その「得体の知れぬ何かの重さ」がわか らぬまま今に至っていて、気になる映画の一つになっている。勿論日々の生活の中では忘れている事でもあるのは事実だけど。

先月本屋で別の本 を探しているときに、たまたま偶然に「めぐりあう時間たち」の訳本を見つけ購入してきた。それを昨日から読み始めた。読了まで少し時間がかかるかもしれな いけど、読み終えたら感想はここに書くつもり。読み終えたら再度映画を見てみようかなとも思っている。そしたら別の視点で見る事が出来るような気がするのだ。

ちなみに映画について、登場する俳優達は誰もが素晴らしかった。この映画には僕の好きな俳優達が多く出ている。筆頭はやはりニコール・ キッドマン、メリル・ストリープ、それからエドハリスも大好きだ。内容について言えばヴァージニアウルフが登場するだけでもわくわくする。キャストも素晴 らしいしカメラワークも素晴らしいと思う。でも特に素晴らしいと思ったのは音楽だ。音響担当はフィリップ・グラスという人で、とても有名な人らしい。実は この映画を通じて初めて知った。

「めぐりあう時間たち」公式ページ:http://www.jikantachi.com/home.php
公式ページに載っていた原作者のインタビュー「なぜヴァージニア・ウルフなのか」は時間があったら読んでみて欲しい。少なくとも僕は共感しました。(本ブログの下に掲載)

フィリップ・グラス:http://www.philipglass.com/

まだまだ僕はこの映画で色々と楽しむ事が出来そうだ。

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なぜヴァージニア・ウルフなのか? マイケル・カニンガム(原作者)

「なぜヴァージニア・ウルフなのか?」 私は幾度となくこの質問を受けた。「現代小説を書くのに、なぜヴァージニア・ウルフのように硬派で近寄りがたい、シリアスな人生と作品をモチーフに選んだのか?」ということである。肩をすくめるだけのときもあった。小説に何を書こうといいじゃないか? 余裕があるときはこう答えた。「ヴァージニア・ウルフは天才で、先見の明があったから」、「ロックスターのような存在だったから」、「小説界の画期的な存在だから」、「大好きな作家だから」、「彼女は誰もが私小説の主人公であることをわかっていたから」という具合に答えを用意した。

人生に対する見方が違うだけで、平凡な人生など一つとしてない。そう主張するウルフに、彼女の偉大さを感じた。ほとんどの人生が、表面的には平凡に映るかもしれない。でも、内実は違うことを、ウルフはわかっていた。たとえ仕事と雑務に追われながら、食べて眠るだけの毎日としても、本人にとっては、人生は偉大で魅力に満ちているものだ。ヴァージニア・ウルフは生涯、特異なことをするわけではない人々を見事に描いた。もし偉大な作家たちを、大きな宇宙を観察する天体物理学者に例えるなら、ウルフは微細な部分を鋭く見抜く微生物学者のようだ。彼女の著作を通し、素粒子の働きはどの観点でみても銀河の働きと同じように不可思議で巨大であることを、私たちは教わるのである。

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毎日の生活のすばらしさ スティーヴン ダルドリー(監督)


デイヴィッド・ヘアの脚本を読んだ時、最初に感じたのは、時代と女3人の人生の間をスムーズに流れていく展開に非常によくできた脚本ということ。原作と脚本どちらとも、人生と死、母と息子、芸術と狂気、記憶と後悔といった多様な面を豊穣に含んでいた。死にゆく者に尊厳を与えようとする介護者、人生を変えるしかない母親、創作のために精神を病む危険を犯す作家……そのような人が下す様々な選択の代償と、その選択の意義の重さを描いた物語であることがよくわかった。

3人の女の人生のたった1日を探っていくのが面白い。一瞬一瞬、彼女たちが選ぶ人生の旅が勇気あるものに思えた。女性が人生で見せる勇敢な行為は伏せられているか、背後に隠れて見えないか、男性の公の活躍のために影が薄くなるかしかないような気がする。それでも、女性も思いっきり勇気を振り絞って生きてきたことは男と同じである。

撮影中に留意した点は、原作にも脚本にも通じて流れるヴァージニア・ウルフ魂から逸れないこと。もちろんウルフや小説『ダロウェイ夫人』に触れたことがない人でも、映画が楽しめることに変わりない。しかし、『ダロウェイ夫人』を読んだ人なら、小説の奥深さはわかっているし、それを別角度から捉え直した映画を私たち同様に楽しんでもらえるだろう。
そして、素晴らしい役者たちがこの物語に魂を吹き込んでくれた。そのプロ意識、努力、気遣いには、目を見張るものがあった。メリル、ジュリアン、ニコールを迎えられただけでなく、並はずれた技量と才能を持った脇役たちにも恵まれた。それぞれまったく異なる演じ方が一つにまとまっていく様は見ていて楽しかった。いわば、参加者全員が深く関わり合ったプロセスといえる。

もっとも苦労したのが、ウルフの溺死シーンの撮影だ。かなり危険を伴う撮影だったが、ニコール本人に代役を立てるという考えはなかった。ウルフの死体が川底で流れに引きずられるシーンも含め、撮影には数日を要した。その場面を見ると、しっかりニコールが映っている。渾身の演技だ。

本作は複雑で色々な感情を呼び起こし、それぞれのストーリーに違う反応が出ると思っている。ローラ・ブラウンの物語では、母と息子の関係に誰でも何らかの意見はあるだろうし、母子関係の強さを再確認し、さらに興味を惹かれることだろう。

他にも、多くの観客が語りたくなる役にクラリッサ・ヴォーンがあるだろう。他人を幸せにすることがひいては自分の人生に意義をもたらすと期待しつつ、他人の面倒をみる女性である。多くの人がクラリッサやその選択の結末に、強く心を揺さぶられるに違いない。それからもちろん、ヴァージニア・ウルフも登場する。彼女は創作過程に避けられないものとして、精神が壊れる覚悟で狂気に足を踏み出すが、その選択には議論や異なる反応が出てきてもおかしくない。

こうしたことから、本作はまさしく20世紀の女性がときに断腸の思いで下すしかなかった難しい選択を追究していく。ローラ、クラリッサ、ウルフにとって、選択とは、他ならぬ死と謳歌すべく生とを賭けたものだったのである。

2004/10/02

落花生堀りに

知人から生落花生の塩ゆでをいただいて食べたらとても美味しかったので、早速川崎市麻生区の黒川まで落花生掘りに行ってきた。

家からだと、まず多摩川を越えて川崎の玉堤通りに、そして下り鶴見街道にはいり黒川に。距離にしてはそんなにないんだけど、なにせ車が多かった・・・渋滞、抜けたと思ったらまた渋滞で到着までに2時間以上・・・遠かった

落花生は一束100円で6束抜いてきました。これでも落花生の量としては十分。
落花生の塩ゆでは30分から40分くらい長く煮ます。結構美味しいから楽しみです。
でも落花生を掘ったときは(抜くといった方が感覚的に近い)、土の中から落花生そのままの形で出てきたときは何か楽しくなりました。よく見ると落花生も大きいのから赤ちゃんのまで様々。赤ちゃん落花生は見ているだけで可愛いと思ってしまいました。
その農園では紫芋も売っていたのでついでに1本購入。

ま た隣の栗園では、今年は栗のできが悪かったとの事で、落ちている栗だったら持って行って良いよと、持ち主のお婆ちゃんが言うので遠慮なく拾って持ってきて しまいました。約1Kも(笑)。でも落ちている栗はよーく見ないと虫に食われているのが多いからと言われ、拾った栗を調べたら約三分の一は捨てる事 に・・・

晩夏だと思っていたら、やっぱし秋なんですね。空も秋空だし。なんかほっとする一日でした。

2004/10/01

サガンの死

「悲しみよこんにちは」など多くの世界的ベストセラーを生み出したフランスの女性作家フランソワーズ・サガンさんが24日、仏北部ノルマンディー地方オンフルールの病院で心臓病のため死去した。69歳だった。」

僕が初めてサガンを知ったのは姉からであった。姉が高校の時に「悲しみよこんにちは」(新潮文庫)を読み大いに共感し強く僕に読む事を薦めたのがきっかけだった。
僕は薦められるままに読んでは見たけど面白いとは感じなかったし、ましてや共感を得る事もなかった。姉は続けて「ブラームスはお好き」(新潮文庫)を読んで、これも面白いと言っていたけど、僕が共感しなかった事は知っていたので、二度と僕に薦める事はなかった。姉はそれ以降もサガンを読んでいたらしい。時折サガンの文庫本が居間に置かれていた。

「悲しみよこんにちは」はサガンが18才の時に書き上げた処女作で、姉が読んで共感を得た 歳もやはり同じ18才だったと思う。同世代の少女の多感さを、当時も(勿論今も)知るよしもなかった僕は、「悲しみよこんにちは」の文体と内容にどこかし ら自分が拒絶されている印象を持ち入り込めなかった様に思える。それは僕自身が作り上げた一種の壁のような物だったかもしれないが、とにかくそれ以降の僕 にとって、サガンは書店で背表紙を見せるだけの存在でしかなかった。

5年程前の事だった。たまたま深夜にTVをつけたら映画をやっていたの で何となく見た。題名も何も知らない初めての映画だった。白黒の古いアメリカ映画だ。いつもだったら30分もすれば眠るために消してしまうところだったけ ど、その映画は面白かった。以前に見た事があるように思えた。映像ではなくセリフと登場人物名に記憶があったのだ。映画の後半に入る頃、もしやと思い新聞 のTV欄を見たら、はたして「悲しみよこんにちは」だった。「え、こんな内容だったのか・・・」とその時はとても新鮮な気持ちになった。高校の時に姉に勧 められて読んだ時の印象とは違っていた。映画と文学の違いは当然にあるが、主人公の少女の気持ちに共感が出来た。

姉も結婚し今では3人の子供と仙台にいる。サガンの死を聞いて姉はどんな気持ちになった事だろう?もしかするとサガンの名前と共に少女時代の鮮やかな思い出と感覚が沸き上がったかもしれない。

サガンのご冥福をお祈りします。