2005/12/25

聖夜に

ある人から魯迅を教わった。魯迅の小説は学生時代に何冊かは読んでいた。でも日常の中ですっかりと忘れていた。僕はまだ、魯迅を再び思い出させてくれたその人の本を読んではいない。だから彼が魯迅をどのように書いているかは未だわからない。でも僕は魯迅を思い出させてくれたことに深く感謝する。

静かな夜である。外は穏やかなのだろう。先日まで聞こえた風音も聞こえない。不思議とこの静けさの中で孤独は感じない。この一瞬が過去から何億年も積み重ねの凝縮であり、今後も人間から見ると永劫にも思える時を刻むことを知っていようとも、僕がその狭間で押しつぶされる感覚を持つこともない。不思議なほどの静けさの中で、キリスト教の聖なる恩恵の僅か一欠片を異教徒でもある僕は感じるのである。

そして今僕は彼から教わった魯迅のことを考えている。魯迅の有名な散文詩集「野草」の中の一編「希望」の中で彼はこう言っている。

「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じだ」

この言葉はハンガリーの詩人ペテーフィの詩の一節でもある。真の暗闇を知らなければ光を知ることはない。両者が虚妄だと断定する魯迅の人生は、逆に絶望と希望とを知る人生でもあった。でも両者を知る者は魯迅だけでなく、あらゆる世界のあらゆる人達も、自分を生きていく中で知るのだと僕は思う。

真夜中の暗闇もいずれ明けて朝が訪れる、使い回された歌詞の言葉、でもそれは今を生きる僕等には、信じ裏切られることのない事実でもある。いずれ今年の聖夜も終わり、次の新たな日がくるのだろう。この静かな夜に、紫煙漂う部屋で、僕はたわいのない事をつらづらと考える。

2005/09/24

高倉健さんの「南極のペンギン」を聞く

20050924935ddd17.jpg高倉健さんのエッセイCD「南極のペンギン」を図書館から借りてきて聞いた。朗読は高倉健さん、音楽は宇崎竜童さん。このCDは高倉健さんが制作し図書館に寄贈したと聞いた。だから非売品となる。何故高倉健さんはこのCDを制作し図書館に配布したのだろう。詳しい経緯は僕にはわからない、でもこのCDを聞けば、その理由が何となくわかる。

冒頭のエッセイ「アフリカの少年」で高倉健さんは砂嵐を身を屈めてやり過ごそうとしている少年を見て心の中で語りかける「夢を見ろよ」と。高倉健さんが乗る車を止めて少年を乗せるのは簡単だ、でもそれは少年の為にはならない。厳しい自然の中で砂嵐に耐えるすべを身をもって知らなければ、この地で生きるのは難しい、だから高倉健さんだけでなく現地の人も助けない。それで高倉健さんは心の中で語りかけるのだ。「夢を見ろよ」と。

正直言えば、僕はこのCDを聞いた当初、高倉健さんの声に張りが無いと感じ、これは途中で飽きてしまい、最後まで聞かないかもしれない、などと思った。でもそれは全く間違いであった。高倉健さんの表現力は素晴らしかった。どこか押さえた感がする高倉健さんの声は、この朗読でも感じることが出来る。押さえた感というのは、僕が発する言葉の裏に様々な思いを持っていることを感じたということでもある。

このエッセイ集を書くときに、高倉健さんは題材となったエッセイ一つ一つの記憶の中で、書き足りぬ思いと、書き過ぎることを抑える難しさ、を感じたと僕は思う。本では伝えられないことが沢山あり、それらは声であれば伝えることが出来る、高倉健さんはそう考えたのではないだろうか。CDにしたのは、流通の問題、コストの問題ではなく、おそらくそういった理由で、声でなくてはならなかったからど思うのだ。

人が話す言葉を聞くというのは、彼が書いた文章を読むこととは違う、と僕は思う。特に話す内容が自分の体験からくることであればなおさらであろう。語る言葉、トーン、強弱、間合い等から、語る人の意識を、読むときよりも強く感じ取ることが出来る、と僕は思う。そういう意味で、僕はCD「南極のペンギン」を通じて彼の意識を感じることができたようにも思う。
さらに高倉健さんの語りを遮ることなく、表現力をさらに伸ばしている宇崎竜童さんの音楽も素晴らしかった。

「夢をみろよ」と語りかけているのは「アフリカの少年」だけではない。この本を読み、もしくはこのCDを聞く人に語りかけているのである。さらにエッセイのなかで、「どんな土地にうまれるのか、どんな親に育てられるのか、誰にもわからない、子どもは何も選べず、ただうまれてくる。だが夢なら自由に見ることが出来る」と語っている。

高倉健さんが「アフリカの少年」に向かって言う「夢を見ろよ」は、厳しい自然の中で暮らしたとしても、その中で生きる術を取得するのは必要なことだが、ただそれだけでは人は生きていけない。そんなことを言っているのだと思うのだ。

少し前に子ども達の「夢」がより現実的になったとの、それが残念とも読み取れる記事が新聞に掲載されたのを思い出す。また「夢」は大きいほど良いとも聞くこともある。それらは僕が持っている考えとは少し違う。人はうまれた瞬間から自由に生き、自分がなりたいものになろうと努力する。その意識の具体的な姿が「夢」だと思う。だとすれば、「夢」は人が持っている本質的な欲望の一つであるのは間違いない。僕は多分死ぬその直前までそれを持ち続けることだろう。最後の願いは「もっと生きたい」ということで、元気な姿を夢見るのだろう。

「南極のペンギン」では多くの魅力的な人達(もしくはペンギン)が登場する。高倉健さんのまなざしは、「優しさ」という、見方によっては一段高い目線からではなく、共にこの地に生きる、一緒にがんばろう、といったそういう風に感じる。エッセイの中で、高倉健さんが涙を流す話がある。それはオーストラリアで撮影の合間に鞍をつけずに乗馬を試み、それによりホースメン達から認められた時である。その時彼はぼろぼろと涙をこぼす。お互いを認め合う心、それがお互いがなりたいものになる為の土俵とも言える、と僕は思う。高倉健さんのエッセイでは常にその姿勢を崩すことなく語られているように僕には思えた。だからこそ僕は「南極のペンギン」に共感したのかもしれない。

2005/09/22

8月11日のツーリング記録、オートバイで「走る」ということ

2005年8月11日早朝、僕は夏休みの一日を使ってオートバイでのツーリングに出かけた。日帰りツーリング、それは日常から数センチほど飛び出した程度のたわいのない話だと思う。それでも人は数センチの違いでも、様々なことを考えるものだ、と僕は思う。1ヶ月も経ち、忘れることは忘れてしまった、今残っているのはそのツーリングの肝みたいなものである。出来るだけ簡潔に記述したいと思う。

東北道を下るつもりで家を出た。ところが思わぬ環八の渋滞に嫌気がさし中央道に切り替えた。その時点で、目的地は未定。気ままな、いつも通りの無計画の旅となった。

途中のサービスエリアで地図を広げる。このまま諏訪湖にあたりに行くのも良い。しかし、地図で中央道を辿ると大月JCから富士吉田市にのびる支線がある。この道は以前に友人と富士急ハイランドにスケートに行くために使ったことがあるが、その時はバスであった。オートバイにとっては初めての道である。今回のツーリングの起点はこうして決まったのである。

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富士吉田から青木ヶ原を通る。雲が多いというのに日差しが強い。そういえば富士山方面に向かっているというのに、富士山を意識して探すこともなかった。富士山方向に雲が多く隠れ、その雲の白さが風景にとけ込み、ないことが自然だった。ないことが自然とは僕の感覚が少しズレ始めているのかもしれない。

Lake Motosu

本栖湖に立ち寄る。湖岸で水遊びをしている子ども達、それを見守る夫婦。手を繋いでボートを物色するカップル。夏の日をそれぞれに楽しんでいる。人がそれなりにいるのに、不思議と喧噪を感じない。そして日差しが強く暑いのだが、心地よい風が吹き、空の白さと相まって、全体が幻想的な雰囲気と感じ始めている。その感覚に少し気まずさを覚え僕はその場を立ち去る。

Lake Motosu

このルートを選んだとき、僕には走るべき道があった。国道300号線、本栖湖から山を越え身延町へと続く道だ。地図上で見ると気持ちの良さそうな曲線が続いていたのだ。山道に入るまで本栖湖の湖岸沿いに道は走っている。途中でオートバイを止め本栖湖を眺める。先ほどの姿とは違う姿を見せる。富士山は相変わらず見えない。そしていよいよ日差しは強くなっていった。

村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」の後半に登場する「嫌なカーブ」は実在すると僕は思う。小説上でそれは「あちら側」へと繋がる道であった。オートバイに乗ると、カーブには「嫌なカーブ」と「心地よいカーブ」の二種類があることを実感する。国道300号線の多くのカーブは僕にとって「嫌なカーブ」の連続だった。左手に美しい本栖湖岸、右手に山が迫る。緩やかなカーブだと思い、本栖湖の風景に眼を曲がると、途中からカーブがきつくなった、所謂複合カーブ、曲がりきれなく、下り坂でスピードが出ていた。後輪が滑りながらぎりぎりで曲がりきる。手足の筋肉が固まる。実を言えば一瞬ぶつかるとあきらめかけた、気を緩めるなと自分に言い聞かす。本栖湖で感じた白昼夢的な感覚に囚われ続けていたのかもしれない。

山間の道を抜けると、そこは山村の風景が点在する。途中で道の駅で休む。本栖湖からここまで、殆ど対向車も人も出会うことがなかった。道の駅にいたのは、地元の女性一人と家族連れの4人だけだった。

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身延町につく。身延は久遠寺となるが、南アルプスへの一つの玄関口でもあると思う。着いたのが午後の2時頃だと思う。ある程度知られた町なので、それなりの人混みを予想していたが見事にはずれた。この町でも人に出会うことが滅多になかった。駅前で売っていた「身延まんじゅう」を食べる。空は全体が雲で白く、身延の町並みの不自然なほど白く綺麗な町並みに相乗し、本栖湖での感覚が少し蘇る。富士川がきらきらと日差しを反射して流れる。

Minobe-town

富士川沿いに52号線を使い東海道まで上る。52号線は好きな道だ。ここでも対向車線を含め車と出会うことが少ない。適度なアールのカーブを、心地よくリーンウィズで曲がる。適度な筋肉の緊張が気持ちよい。

国道52号線は東海道の興津港に繋がっている。しばらく国道一号線を走るが、大型トラックを含め相当なスピードの流れに乗り走ることに嫌気がさし、旧道へと入っていく。由井、蒲原と通り過ぎる。ここら辺は桜エビ漁で知られている。知人からここでしか食べることが出来ないという桜エビ丼が旨いぞと聞いていたので、食指が少し動いたが、道沿いにはそれを告げる看板を見ることがなかった。ここから富士市近くまで渋滞となる。今まで感じることが少なかった暑さを感じる。暑い、そして日差しが強い。

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蒲原といえば、小学の時に叔父から貰った切手を思い出す。持っていた中で一番好きな切手だった。安藤広重の図版では確か雪が降っていた。今では想像も出来ない。途中で給油をする。ガソリンスタンドのおばさんと少し話す。旧道沿いの商店が日中だというのに閉まっているのが気になって聞く。おばさんは僕の質問を聞くことなく、ここら辺はいつも渋滞しているのですよ、と答える。僕は、そうですかと言って、店内から外を眺める。

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富士市は東海地方の有数の工業地帯として知られている。特に富士川の水を利用した印刷工場が建ち並ぶ。海岸沿いに立ち並ぶ工場の姿は化学工場も多い。いずれにせよ工場関係の人が多いのでないだろうか。富士市のJR駅前までいき、すこし町を歩く。人が少ない。閉まっている店も多い。そして外国人が多い。この町で生活することを想像する。それは普段と変わらぬ日常を想像することでもある。つまりは今とそれほど変わらぬ生活なのだろう。

東海道を上り沼津市に至る。大きな都市だ。以前来たときはこれほど大きな町と意識することもなかった。富士市の風景と沼津市の風景、恐らく数十年前は両者の見た目の違いは少なかったのではないだろうか。発展することの善し悪しは問えない。ただこの違いに少し驚くだけである。

沼津市から国道246号線を使い帰宅することにした。沼津からは山間を抜けるカーブの多い道となる。しかもそれほどの込むことは少なく、通る車はそれなりに速度を出している。急激に気圧が下がるのを感じる。薄暗かった夕暮れが、上空の黒い雲でいきなり暗く、そして突然に大粒の雨が降り出した。土砂降りの雨には幾度となく遭っているが、闇夜の状態となっての雨は初めてだった。視界が極端に悪くなる。数メートル先が定かでない。それでいて、車は平気で速度を落とすことが無く走っている。流れに乗ることが出来ずに、僕は途中の山際に停車し、雨に濡れるまま、安全になるまでたたずむ。日中に感じた幻惑感は既に無かった。雨は1時間ほどで治まった。濡れた身体は寒かったが、走っているうちに乾き、家に着いたときは何事もなかったかのようであった。

僕にとってオートバイに乗るとは「走る」ということと同意語である。しかもそのオートバイは「走り続け」なくてはならない。走って走って走り疲れて家に戻り泥のように眠るのだ。「走る」ということは、その状態において、眼前の出来事に対処する事が何事においても優先すると言うことだ。ほんの一瞬の気の緩みから事故を起こすこともある。周囲に気を配り、動き去る景色に目を奪われることなく、僕は肢体を常に緊張させ続ける。また、対面で受ける風の感触、気温・湿度の状態、各々が直接乗り手である僕に影響を与え、風景の中に身も心も一体化する感覚を持つ。

「余計なことは考えるな、目の前に集中しろ、感覚を研ぎ澄ませろ、危険を体で予知するのだ」内なる声が僕にささやく。僕はその声に従う。機械を自らの意志で操り、拡張した身体機能で得られる体験は、勿論通常のそれとは違う。それは愉悦を僕にもたらせるが、同時に身近の「死」を意識することでもある。でも人はその状態にも慣れるものだ。いつしかオートバイで感じた愉悦は日常にとってかわる。

走って走って走り疲れて泥のように眠る、それは見方を変えれば、僕の父母もしくは祖父母たちの日常でもあったかもしれない。今でもそのような日常をおくる人々は世界には多いことだろう。それを時として求める気持ち、それは僕の中で些末なことで悩む自分を別の状態におくことでもある。逆に言えば、そういう日常をオートバイという非日常に転換しなければ、僕自身「走る」という意味の「生きる」と言うことを実感できなくなってきているのかもしれない。

2005/09/19

出口調査

9月11日に僕は初めて出口調査に回答した。近くの小学校が投票場所だった、投票後に学校正門に黄色い腕章をつけた女性が立っているのがわかった。来たときには見かけなかったし、何かしら記入用紙を手に持っていたので、出口調査なのかもしれないなどとすぐに思った。一度出口調査なるものに遭遇したいと思っていた僕は、自分に声をかけてくれないかなと期待して女性の脇を通った。ほかに脇を通る人もいなかったのもあるのだろう、彼女は僕に声をかけ青い用紙を手渡した。朝日新聞出口調査と用紙冒頭に印刷しているアンケート用紙には、5?6問の質問がかかれており、質問は選択形式となっていた。一つ一つの質問は実態調査の範疇を超えてはいなかったので、僕は躊躇することなく質問に答えた。ただ一問だけ、「あなたはこの選挙で政治が変わると思いますか」という質問だけ、一瞬の戸惑いがあった。それは一瞬だったが僕の中で戸惑いを意識するには十分だった。そしてその質問には「変わらないと思う」の項目に丸をつけ女性に手渡したのだった。

家に戻る道すがら僕は戸惑いを感じた質問について考えていた。一瞬の戸惑いが起きたのは、その質問が常套であるにもかかわらず僕にとって不意打ちにも似た感触を持ったからだった。僕の中では「政治が変わる」という意味がよく掴めなかった。自民党が敗北し政権が民主党に移行するという意味だったのだろうか、でも質問全体からそれを受け取ることは出来なかったし、その問いは比例選挙でどこに投票したのかの質問に兼ねることが出来る。その質問は間違いなく「政治が変わるか」との問いであった。

一瞬の戸惑いにはもう一つの理由があった。それは選挙によって何かが変わる、という実感をいまだかつて感じたことがなかったのだ。それは一票が軽いとか、大勢の中の一つ、だとかのことではない。例えば学校で職場で数十名の中から代表者を決めるとしたとしても、僕が先ほどと同様の実感を持つかもしれない。数の問題ではなく、政治で何が変わるのかという否定的な問い方を僕自身が持っているということなのだ。それであればなぜ僕は投票をしに小学校まで来ているのかという、自己に向けての素朴な問いかけが、この質問と一緒に飛び込んできたのだった。

「政治が変わる」という質問の意味は何なのだろう。例えば各種法案が立案審議され可決される場合、その法案の目的もしくは中身いかんに関わらず、知っても知らずもその法案に僕が影響を受ける場合があるのは当然だろう。でもそれは政治が変わると言うことではない。山積みの各種問題がこの国にあるのは一国民として意識している、それらの問題の解決の仕方も、その先の展望も未知数のままだけど、それについて政治が変わらなくては届かない、そういう意味で使われているのかもしれない。ではどう変わればいいのだろう。

人は幸せに自由に生き、そして何かになりたいと願うと思う。でも現実にはその願いとうらはらに心中に不全感と常に未達の意識も持つのでないだろうか。この不全感もしくは生き難さの感覚の解消は、個人の気持ちとか能力によって切り開いて行くことが殆どなのかもしれない。何かが変わるという意識は、その個人の内からくるもののように思えるのである。だから、外部としての政治が具体的にどうなろうとも、僕にとって変わるとはならないような気がする。

選挙の結果は多くの人にとって、勿論僕も、当の自民党にとっても驚くような結果だった。自民公明両党による衆議員3分の2以上の議席は今後、様々な議案の提示と、それに基づく多くの議論が起こることが想定できる。今までにない巨大与党の政治の中で、それでもなお僕は政治が変わるとも思えないのである。それは前記のように、政治が変わらなくては先に辿り着けない、という中で、政治が政治を変えることが難しいと思うからなのだ。

変わるためには、この国の政治の根っこにある、人について、人が生きると言うことについて、他者と共生すると言うことについて、それらを考え蓄積し共有化するプロセスが必要と思う。主導する原理的な思想も必要かもしれない。僕はある意味、中島義道の言うところの、この国には哲学者が少ない、と同じ事を言っているのかもしれない。
その道のりは多分相当に長い時間が必要だろう。僕が「変わらない」という意識の中で、殆どの選挙権を行使している理由は、政治に参画していると言うより公共の場に参画しているという気持ちがあるからだと思う。

何か支離滅裂な記事になってきた。この記事を書きながら自分の事を反省すると、様々な思いが交差して、その根幹にあるものが未だに掴めないでいるのがよくわかる。引き続き考えていきたいと思う。

2005/09/16

一年近く前に渋谷で

一年近く前のことの話だ。休みに渋谷を歩いていた。確か公園通り近くにあるバイク屋に行く途中だったと思う。僕は少し大きめの手提げ鞄を持って歩いていた。人は多く、互いに接触しないで歩くのが難しいほどだった。ここで書こうと思っている話は、僕がセンター街から公園通りに向かうためスペイン坂の方へと曲がった時に起こった。背後に視線を感じたのだった。頭だけ振り返ると、そこにはアフリカ系と思われる褐色肌の男性が強い目線で僕のことを睨んでいた。目線が合ったとき、僕は彼が自分の事を睨んでいるとは全く思えなかった。でも彼の視線は僕を捕らえて離さなかった。勿論僕にとっては未知の人である。それに見知った顔かと伺い観る目線ではなかった。それは僕にとっては、理由はわからないが、強い非難を込めているかのように感じられたのだった。

身に覚えのない僕は即座に人違いだろう、彼は何か勘違いをしているのだろうと受け取り、関わらずに先を急ごうと再び前方へと顔を戻した。でもどうあっても、彼の目線の強さが脳裏に浮かんだのだった。数十メートル歩いてから、再び後ろを振り返った。彼はその場に止まり、僕を睨み続けていた。紛れもなくそれは僕に対してであることは間違いなかった。

歩きながら僕は一つの筋書きを想像した。道を曲がったとき、僕が左手に持っていた鞄が彼に当たったのではないだろうか、ということだった。でも当たったのなら僕にもその感触が伝わるはずである。それは全く感じなかった。でも例えば、鞄を前後に振ったとき、人混みの中でそういう風に鞄を持つことはないが、かすかにかすったとすれば僕は気づかなかった可能性はある。さらに彼自身も道を渡ろうとし、僕と一瞬の交差の中で接触が起きたとき、彼にとっては渡るのを阻害されたことと、鞄をぶつけられたことの、二重の意味で僕の行為を不快に感じたのかもしれない。ただそういうことは渋谷の街路では頻繁にあることだろう。彼から受ける目線の強さはそれ以上のものを感じられたのも事実だった、それはたまたま偶然の出来事と解釈することで、己の不快を解消する事さえ出来ない、という目線だった。

仮に鞄が彼に当たったとして、それを彼が僕が故意にしたと考えたとすればどうだろう。その想像だと彼の目線の強さは僕にも理解できる。しかしそれであれば彼は僕のことを人種差別加害者として観ていたことになる。つまり僕は知らないうちに言葉でなく行為によって差別していたことになる。この想像は彼の状況を僕なりに理解する事が出来たが、少しも僕の気持ちを晴らすことはなかった。

以前僕自身は差別に対し、差別と感じたらそれが差別だ、みたいなことを考えていた。でもそれであれば、差別と感じた者が「これは差別だ」というだけで差別が成立することになる。それはそれで無茶な話だと今の僕は思う。そこには差別を受けた者と与えたと思う者とのコミットが存在しないし、「差別」を共有化するプロセスを行うことも出来なってしまう。

「天皇の責任問題」(加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣 径書房)の中で、竹田氏は差別について以下のことを話している。

「近代的な法やルールの根本は、それが何故悪いのか、何故罰せられるべきものなのかを、社会の成員がよく理解でき納得出来るものである、ということです。被差別者とされる人々がこれは「差別」だと異議申し立て、一般の人が市民的原則から見て、なるほどそれはひどい、とかそれはたしかに傷つく、という理解と納得が生じる、そういうものが「差別」と呼べるものです。」
(「天皇の責任問題」から竹田氏発言を引用)

さらに、その行為・言葉が「差別」かどうかを確認するプロセスが大事で、そのプロセスの中ではじめて市民的合意が成立するとも言っている。差別される人が「差別」を決定する場合、普通の人が自分の生活の中につねに生きて少しずつ考えるべき課題であることを、完全に覆い隠してしまい、昔のお上の「お触れ書き」の様になってしまうとも言っている。僕は全面的に竹田氏の発言に同意する。

渋谷での出来事が僕の想像通りだったとして、僕の行為は差別的行為だったのかと自問すれば、その答えは「否」となる。でも彼が差別的行為と感じたのだとすれば、僕と彼とのズレはどう解消すればよいのであろうか。一つ間違いないのは鞄を当てたとき、もしくは後で気がついたとき、一言謝れば済む話なのだと思うが、その筋書きに気がついたときは既に彼はいなかった。

この話は差別が生まれた瞬間なのだろうか。少なくとも僕と彼とでは、その点についても(おそらく)認識は違う。僕にとっては不慮の出来事に対し謝意を伝え、行為に意図は全くないことを語ればそれですむ話である(そうもいかない場合もあるが、それは良心の問題もしくは相手との関係性によって説得も変わるかもしれない)。その認識を埋める事は今では出来ないが、少なくとも僕にとってはズレが生じる瞬間だったとは思うが、差別というところまで思い浮かばない。僕の想像通りだとして、鞄の接触に気がつかない自分の鈍感さに呆れるばかりだ。

僕自身は差別に対し鈍感にも敏感にもなりたいとも思わない。そうではなくて、できれば両者の意識のズレを解消するために、お互いの話を聞きあい了解する、そういうプロセスを持続する力を得たいと思うのである。
一年近く前の話だが、最近思うことがありこの事件を思い出した。多少の自戒を込めて僕はこの記事を書いている。

2005/09/15

Lexmark Z816購入

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プリンターを購入した。レックスマーク社のLexmark Z816、渋谷ビックカメラで9980円だった。それまではプリンターなしのPC利用で、それでも全く不便を感じていなかったのでプリンターはいらないと思っていた。今までに数台プリンターを使ってきたが、結局の所ホコリをかぶり、利用することなく腐っていった。今回購入したのは個人的に印字しなくてはならない文書が幾つか出てきたのが発端だった。で、プリンターを検討したときに、まず頭に浮かんだのが、所謂複合機というもので、スキャナーとプリンターが合わさったモノだった。でも少し悩んだけど、このプリンターを購入することにした。

Lexmark Z816は複合機ではない。安い複合機であればエプソンもしくはHPで1万3千円くらい出せば購入できるが、それだとなにかしら中途半端な気になってしまったのだ。それに今のプリンターはデジタル写真を印刷する用途に機能面が尖っているように思えた。僕の用途で言えば、写真印刷はあれば嬉しいが、結局の所、面倒で殆ど使わないと思ったし、それよりもテキスト文書を高速にしっかりと印字してくれる方が嬉しい、そう思った。印字に重きを置いたプリンターとしてこの製品を選んだのだった。

写真印刷も出来ないことはないが、トナーが黒とカラーの2個で、カラーが4色ということもあり、国産プリンターからみれば見劣りするのは間違いない。ただ、黒トナーをはずし、代わりに写真用トナーを装着すれば6色になり、少しは見栄えがよい印刷は可能とのことだった。でもわざわざそういうことをするユーザがいるとも思えない。多分、このプリンターを購入した人は僕と同じに割り切った使い方をすると思う。

さすがに使用感はよかった。まず思った以上に印字速度が速い。A4で分22枚とカタログに載っているが、それよりも早く感じる。印字時の振動も音も静かで、プリンタも進歩しているのだなぁと感心した。
ただ問題が一つある、それはプリンター共有設定で使おうと思ったのだけど、それがうまくいかない。致命的な問題ではないけど、なんとなく気になる。

とにかく久しぶりのプリンターなので、しばらくは遊んで使えそうだ。 印字目的が文書印字中心であればこのプリンター安いしお奨めします。

2005/09/14

「ブラック・ラグーン」小論

200509143ab0fd3f.jpg人が生きるとは自らの欲望を充足するためだと仮定してみる。そうすると「ブラック・ラグーン」に搭乗するキャラ達の行動が理解できる。

「ブラック・ラグーン」とは「月刊サンデーGX」に連載中のマンガである。掃海艇を使う運び屋のラグーン商会のメンバーを中心に物語は進行する。元軍人の印象を持つラグーン商会トップのダッチ、米国フロリダの大学でハッキング行為によりマフィアとFBIに追われたペニー、二丁拳銃の異名を持つ中国系米国人のレヴィ、そして企業の利益と存続のために見捨てられた「岡島緑郎」ことロック、この4人がラグーン商会のメンバーであるが、物語はロックがラグーン商会に捕まる所から始まる。

マンガのジャンル分けについては、まぁどうでも良いことかもしれない、でもあえて僕のイメージを言えば、「ヘルシンク」のスプラッタ系と萌え系をあわせた感じに近い。僕にとってこのマンガで面白いのは、登場するキャラ達のセリフにある。「ブラック・ラグーン」のキャラ達は実に多弁である。そしてその内容は直線的でとても理解しやすい。さらに各々の物語は筋において破綻が少なく、きちんと作者の世界観が感じられる。これらによって、このマンガは多分多くの人の共感を得られているような気がする。勿論描写が過激な箇所もあるので嫌いな方も多いとは思うが。

僕の中で「ブラック・ラグーン」を語る際どうしても避けられない話がある。これからそれを書こうと思う。「ブラック・ラグーン」の中心人物は誰かと問われれば、言わずもがな、ロックとレヴィにあるのは間違いない。逆に言えば、この二人の関係を考えれば自ずから「ブラック・ラグーン」のことがわかるように思う。

ある時二人は故障により浮上しないまま沈んだナチスドイツ潜水艦に放置された一枚の絵を回収する依頼を受け潜水艦にたどり着く。そこではさながら地下墓地のように白骨遺体が横たわっている。そこでお目当ての絵を回収した後でレヴィは白骨化したドイツ兵の遺体から十字章等の高値で売れる物品を押収してくる。それについてロックはレヴィの行為を否定する。レヴィは骸骨と十字章を両手に持ち、ロックに問いかける。「この二つは何だ」と。ロックは「十字章と骸骨」であることを告げるが、レヴィは「違う」という。これらは還元すれば「もの」であるというのである。さらにこの「もの」には「カネ」という価値がつけられ、「カネ」は力を意味する。レヴィが言うには人の欲望はそこに還元することになる。それを違った言葉に言い直すことも、正面でそれを否定するのは偽善的行為だと彼女は断定する。ロックの否定はレヴィにとって彼女の生き方に対する侮辱である。だからレヴィは金輪際同じことを言うなとロックに言い、言えば殺すと告げる。

次の章でこの話は再び繰り返される。繰り返したのはロックからだった。ロックは「俺は間違っていないし、(お前に)謝るつもりもない」とレヴィに言う。レヴィは怒りロックに銃を向けるが、ロックはレヴィの銃をつかみ弾道をそらし「銃では解決できないこともある」と彼女に対し言い、続けて「カネカネと言うお前には誇りはないのか」と問う。ロックの言いたいことは、人が生きるというのは難しい、それを理解せずに自分の不全感だけを主張し、自分が与えられた状況に悲観するのは卑怯だと言うのだ。そしてレヴィのその考えは、カネと立場を守るためにロックを切り捨てた連中と同根だと言うのである。そして、自分の何かを吹っ切ってくれたレヴィが、それを語ることに拘るのである。

生きるのが難しいとの感覚は誰もが抱いている、と僕は思う。どういうときに難しいと感じるのであろうか。それは様々な関係の中で、自分自身が生きていく何かを見失ったとき、もしくはその実現が難しいとき、生き難さを感じるのではないかと僕は思う。その時人は「モノ」と「カネ」に行きやすい。それらはある程度自分自身で充足可能であるからだ。でも本質的にそれは様々な関係の中で見失った何かではない。だから一時的に行き難さの苦痛を和らげてくれるかもしれないが、モルヒネが切れて痛みが戻るときモルヒネを求めるように、際限なく求め続ける様になると僕は思う。ロックはそのことを知っていた。それ故、レヴィがこのままでは破綻することも見えていた。だから、自分がレヴィに撃たれることを承知で言ったのかもしれない。また、ロックはレヴィに認めてもらいたかった。ロックにとってレヴィは自分の生の中で重く関係する存在なのである。レヴィに認めてもらうことはロック自身の生き難さをある意味和らげることに繋がるのかもしれない。

ロックとレヴィのやりとりでもレヴィの世界観は何も変わらないのかもしれない。それにロックの言い分がレヴィに正確に伝わったとも思えない。その人の一回限りの人生において、何に拘り何をしたいのかの中身が何であれ、生き難さが十分に無くなることなどないとも思うのだ。ただ一つだけ言えることは、レヴィはロックの世界観を、これらの出来事で了解したと言うことは間違いない。その世界観はレヴィとは全く違う、でも彼女はそれを認めた。認めることにより「ブラック・ラグーン」でのレヴィの生き方は少しずつ変化していく。現在進行中の物語(日本編)では、レヴィはロックの「銃」としてロックの命を守るためにだけ在るのである。そういう見方をすれば、このマンガはレヴィというガンマンがロックを通して変化する過程を描いていると言っても良いかもしれない。

2005/09/11

こっそりと復活、そしてローレライ

今春公開した日本映画「ローレライ」をレンタルで見た。この映画に関して、時代背景が戦争末期であることから、様々な考えがあるのは想定できるが、僕はとても面白く観ることが出来た。僕にとって「ローレライ」は完全なファンタジー映画だった。だから役者がどんなに素晴らしい演技をしても僕にとっての現実感はなかった。ファンタジー映画としてみて、その世界観の中に没入し、そこからこの映画を眺めると、配役一人一人の動機は納得がいくものではあるが、それは例えばアニメを観て登場人物の行動に納得するのと似ている、そんな感じで僕はこの映画を面白く観たのだった。

僕はこの映画で大きく分けて二つの感想を持った。これからその話をしたいと思う。一つめは、この物語は何故うまれたのかと言うことだ。戦争時代の、特に対米戦を描くことには、ハリウッドに対する一つの挑戦への意味合いもあるのかもしれないが、日本が敗戦を経験していなければこの映画の誕生はあり得ないのは間違いない、と僕は思う。「ローレライ」において殆どの内容は登場人物それぞれの美学の主張であった。
敗者は美学にすり寄る、と僕は思う。それは過去の失敗における心理的な打ち消し作用があるのかもしれない。
さらに言えば、美学の主張は失敗を共有する者達から観れば、何か癒される印象を持つものだ、とも僕は思う。僕がこの映画を観て、面白いと思い、場面によって登場人物の行動に共感するのは、勿論僕が日本人として、映画の中で尊敬できる同国人の姿を見たのは間違いはない、でも別の側面から観た場合、僕の中に前記のような癒しの部分もあるのも事実だと思う。
逆に言えば、あの戦争を体験した者も、それをしらない世代においても、敗戦という出来事に対し、僕を含めいまだに何らかの決着がついていないと言うことが、「ローレライ」をして多くの人の共感を得られことの事由の様な気もするのである。

二つめは、メディアはメッセージだとすれば、「ローレライ」から僕が受け取ったメッセージについてである。それは、一つめで僕があげた美学の部分を出来るだけ排除し、その上で一番に印象に残ったことでもある。
それは役所広司扮する艦長が、若い男女の乗った特殊潜航艇を切り離し(生き残って欲しいという願いから)、二人に向かって言う言葉である。男が「大切なものとは一体・・・」という言葉に対し艦長は一言「考えろ」と言う。「お前なら考えればわかるはずだ」という言葉に、敗者の美学からのり越えの糸口があるように思えたのだった。考えると言うことは、美学の中に止まるということを許さない状況におくことのように、僕には思えたのだ。それは一つのファンタジーの終わりを告げる言葉でもあった。

上記のように考えていくと、物語の筋からみても「ローレライ」は商業的にみて日本市場に的を絞った商品であることがよくわかる。この映画はあくまでも、日本人が作った日本人のための娯楽作品なのだ、と僕は思う。それでもビジネスとして成功することをこの映画は証明している。

ついでにいえば、僕は美学そのものを否定する気持ちは毛頭無い。ただこの映画に僕は何故共感したのかを探ってみたいと思っただけである。

2005/08/08

2005年8月7日、脈絡なく考えたことをメモとして残す

広島における原爆のテレビ特番が今年は多い。被爆から60年という節目ということでもあるのかもしれない。広島・長崎を考えるとき節目という言葉自体にも多少の抵抗感があるのも事実なのだが、正直言えばこれらのテレビ報道を見る際に、僕は自分の到着点を掴めずにいるのも事実なのである。

原爆の被害に遭われた方の体験を聞くたびに、僕はメディアを通じて体験者に同調し何ともやるせない気持ちになる。やるせないという言葉も違うかもしれない。身が内側から何かを吹き出し崩れていく感じ、何が崩れていくのか、それはある意味現在の僕が暮らし生活することとか、新聞などで論評される政治的なこととか、あるいは事件とか、僕を取り巻く多くの社会的状況が、体験者の一言で無意味に感じられるのである。そうそれは現在の日本の国という単位での共同体が、体験者の一言で戦前と対峙され瞬間的に崩れ去る、大袈裟に言えばそんな一瞬の感覚に襲われるに近い。

多分、戦前の日本と戦後の日本では全く別の共同体と言って良いほど何もかも違うことだろう。僕にとって見ると今の暮らしの中で、戦前の日本という国とその共同体を意識することは殆ど無い。それは歴史的な一項目であり、書籍の中で、もしくは博物館的な諸物の中で、テレビなどのメディアの中で、現時点で結果を知る者として総括され時折提示されるだけなのだ。それが広島・長崎の体験者の話を聞くとき、さらに被爆された多くの方が今でも苦しんでいる姿を見ると、僕は繋がっていない断絶され溝があると認識している戦前から、がっしと鷲掴みにされ、「どうなんだ、どうするのだ」、と問いを投げかけられる様に感じてしまうのである。つまりは、僕自身が思い描いている戦後の日本が新たな国として立ち上がり、戦前の日本とは違うと思うことが妄想なのだと、思えてくるのである。

今では僕も多くのことを知っている。広島・長崎では日本人以外にも少なからず在日の方々も被爆しているという事実。捕虜となった人達の被爆、そして住んでいた外国籍の方々の被爆。メディアは時として、それらの方々を無視し、今回の特番においても登場するのは日本人だけである事実。さらに、核と人間との問題という文脈でなく、第二次世界大戦の文脈の中で見ようとする事の問題。戦争の文脈の中で広島・長崎をみると、人は人の上に原爆を落とせるという事実の認識、他の戦闘を列挙されることにより相対化され、被害者と加害者の双方の言い分の中に埋没されていくだけだろう。広島・長崎の問題は、そこから始まりチェルノブイリと東海臨界事故の一連の核と人との関わり方の中で見ていく必要がある、と僕は思う。そうは思いながらも、体験者の話を聞いてしまえば僕の心は前述の様な思いへと辿ってしまうのである。それは自分にとってのナショナリズムの部分もあるのかもしれない。もしくは自分の捉え方に誤りがあるのかもしれない。

先日のテレビ朝日の特番「ヒロシマ」の後半で、名前を忘れたがエノラゲイに搭乗した科学者と被爆者の対談が流れた。メディアが何をねらったのか不明な企画であり、僕自身途中で聞くに堪えない状況になった。今となってはそれぞれの方々が語る内容を正確には覚えていないが、被爆者の方が語った言葉の中の「申し訳ない」という一言が、相手の科学者に謝罪を要請する事に繋がっていったのだ。被爆者の思いは間違いなく正確に相手に伝わっていなかった。その原因の一つに、些細なことだが通訳者のスキルの問題もあったと思う。「申し訳ない」という一言は、被爆者が突然に訳のわからない悲惨な状況に陥り、その結果身近な人の死に立ち会うことで自分自身を責める気持ちから、自分自身に向けられた言葉でもあったことだろう。彼等被爆者の時間は、被爆した身体と共に、原爆が炸裂したあの時間と場所から一歩も動いてはいない。被爆者達が被爆体験を語る動機は、それを後世に残すこと以上に、間近の多くの死者達に対し語ることではないだろうか。常に死者達と共にいる者達の言葉を、前向きに「生きる」事を良しとした人達に伝える事は難しい、と僕は思う。それに、それらの事柄を知識人然とした、第三者的な論評でまとめた筑紫哲也氏の言動に底の浅さを感じてしまったのもある。

多分、広島・長崎の死者達は、「戦争は悲惨だ」とか「繰り返してはいけない」等の言葉に、自分たちが死んだ理由を見つけ納得することはないだろう。それは空爆で逃げまどい焼かれていった多くの人達に対しても同様だと思う。同様に日本が侵略し傷つけ殺した多くの人達に対しても、「日本は平和な国になりました」と宣言しても納得しないと、僕は思う。それらの死者達を考えるとき、僕は言葉を失う。どこから誤りが始まり、それは一体どこまで続いているのか見当がつかないからだ。そこから僕は抜け出すことが出来ないし、抜けだし論評することで何かがわかるとも思えない。そしてそれでも僕は生きていくしかない。

2005/08/04

8月の暑い空の下で

8月は不思議な月だと、僕は思う。祖先の御霊が戻り、甲子園球児達が白球を追う、広島・長崎の平和祈念の日も忘れてはならないし、玉音放送が流れた時も蝉の声だけが聞こえるうだるような暑さの日だったと聞く。先だって読んだ「八月十五日の神話」(佐藤卓己)では、夏の話題に事欠く新聞社が記事作りのために始めた夏の甲子園について、「高校野球の社会学」(作田啓一)を引用し国民的宗教儀礼としていた。だから極度に「不浄」が忌まれるということになる。そういえば高知県の明徳義塾が喫煙と暴力で大会を辞退したとのニュースが流れた。たかが喫煙ではすまされないものが高校球児には今でも強く残っているのかもしれないが、このニュースに少し違和感を感じてしまった。喫煙の背後に重大な事件が隠されているのではと勘ぐってしまうのである。でもそういう事はなく、やはり高校球児に求められる姿が依然として変わっていない証左なのだろう。

昔から思っていたことだが、僕は人が多く亡くなる月は2月と8月だと思っている。2月は寒すぎ、8月は暑すぎ体力を消耗する。統計的なことは見たことがないので正直不明ではあるが、特に8月は死者の近くまで生者との境界線が動いている感を持つ。これもお盆などで培われた感性と言えばそれまでの話ではあるが。

会社から予定通りにしばらくの休暇を得た。それで今日は久しぶりに図書館に行ってきた。実は昨夜トーマス・ベルンハルトの事を知りたいと色々とネットで検索をしたが、思うように資料を得ることがでいなかったのだ。出来ればドイツ文学者のベルンハルトに関する論文を多く読みたいと思ったのだが、アカデミックの世界は僕のような一般人には門戸を開いていないようで、得られるものといえば目次案とかそういったもので、少しも面白いものはなかった。彼等学者達がドイツ文学を広めようとする気持ちはあるのかもしれないが、それであれば彼等の研究成果の多くを公開してほしいと僕は思う。

8月という時期によるものだと思うが、僕にはトーマス・ベルンハルトに関して一つの直感を持っている。それは今のところ仮説にもならない話なので、それを少しでも確証の種でも得ようと図書館に行ってきたのだ。成果は殆ど無かった。でもその時間、僕はあれやこれやと様々な空想の中で楽しい時間を過ごすことが出来た。

直感とはベルンハルト文学の解釈はオーストリアの歴史の中に鍵を持つと言うことだ。それを言ってしまえば当たり前のことかもしれない。でも僕の言いたいことはこういうことだ。オーストリアは1938年にナチスドイツに併合される。その後第二次大戦ではドイツ兵として徴兵され各地で連合国と戦うことになる。終戦後オーストリアは連合国側にナチス最初の犠牲者として承認され、ドイツ兵として戦ったことについては不問にされる。ただ、ナチスがウィーン入城の際はオーストリア人に熱狂的に受け入れられ、ナチス党幹部にもオーストリア人が多くいたことは事実なのである。だから、戦後オーストリアではナチス大物が長く政界に生き残ることになる。なおかつ東西冷戦状態が中立国としてのオーストリアを有利に導いたのも事実だと僕は思う。

いうなればオーストリアでは戦後の総括がなされないまま過ごしてきたと言うことになる。悪いのはナチスドイツで、自分たちは被害者である。殆どのオーストリア人達はそう思っていることだろう。その中でワルトハイム事件とハイダー現象が起きる。ワルトハイム事件とは、元国連事務総長のワルトハイムがナチスに関わり合ったという過去事実の暴露の中で、1986年にオーストリア大統領になったことからくる世界のオーストリア批判のことである。あり得ざる事が起きた事により、オーストリアの過去の克服は不十分ではないかという批判が世界各国からわき上がる。ハイダー現象とは、オーストリア政治家ハイダーがナチス賛美を演説の中で行った事からくる一連の騒動を言う。

ベルンハルトは1989年に亡くなっている。つまり彼は、ナチスドイツの併合時代、戦後の連合国占領時代、中立国時代、の流れの中でオーストリアが曖昧としてきた、敗戦か開放かの問題、そしてそれらの問題を克服することなく安易に犠牲者であり解放された事で過ごしてきた欺瞞を本質的に彼の文学の中に現しているのでないか、という事なのだ。
彼の文学に現れる、「愚痴」「悪口」「皮肉」とも言える文体、「死」「狂気」「病気」を中心とした展開は、それらの内容をこの方向で子細に読み解くことが可能だと僕は思うのだ。

そしてこの構図、ドイツ人は悪く自分たちは被害者である、は僕たち日本の姿をそのまま投影しているかのように思えてくるのである。この場合、ドイツ人は日本軍閥と政府ということになるのだろう。つまり僕にとってはベルンハルトを研究することは、そのまま日本に跳ね返ってくる事になる。それであれば、日本にベルンハルトのような小説家がいるかと言えば、僕の乏しい知識では思い浮かばない。要するに、僕等に足りない何かがそこにはあるのかもしれない。そんな予感さえしている。

上記のような僕の直感というか空想の線で、既にドイツ文学者の誰かが研究をしているのであれば、僕は是非とも読みたいと思う。
こんな事を考えるのは、やはり8月のなせる技かもしれない。高気圧に覆われた日本で、暑くうだるような図書館の前で、僕は半分目眩を感じながら青い空を見上げる。

2005/08/02

中島敦「山月記」の感想文を夏期宿題として求められた人に

中島敦の「山月記」は中学高校の教科書に長く取り上げられてきている。恐らく夏期宿題で本作品の感想文を課題として与えられた学生も多いことだろう。このブログ記事はその方達を対象に書いている。

なぜ学校の宿題に感想文があるのだろう。例えて言えば、患者が医者の問診に対し、医者の望むような答え方をするよう努めるのと同じだと思う。感想文を書くとき、学生達は自然に先生達が喜ぶ様を求めるようになるのだ。そこで、少し視点を変えて「山月記」の感想を書くための材料を提示したいというのが本ブログ記事の内容となる。

中島敦は1941年6月にそれまで勤めていた横浜高等女子学校を退職しパラオ南洋庁の国語編修書記に転職している。中島敦はパラオで人として扱われない植民地の方々を見て急速に仕事への意欲を失うことになる。その時期、中島敦は植民地主義を批判と受け取れる文章を書いている。

その植民地主義批判の文脈から「山月記」を読み解くことは可能だし、実際にそのような解釈をしている方もいる。この場合、人から虎に変わり兎を食べるものは日本ということになるのであろうか。

確かに中島敦が植民地主義に対しある程度批判的な意見を持っていたのかもしれない。しかしその解釈であれば、中島敦が南方植民地に日本語化政策の片棒を担ぐために来た理由が不明となる。僕からしてみると、単に中島敦は目の前で見た差別に対し嫌悪感を持ったに過ぎないと思う。日本の植民地政策に対し中島敦は致し方なしとの考えが強かったのではないだろうか。それも「山月記」の解釈として成り立つ。

虎になった李徴は嘆き悲しむが、人に戻ろうとは考えない、ましてやその命を自ら絶つ状況に追い込むようなこともしない、別の見方をすれば李徴は虎として生きることを決めている。
『猿サンは感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、
作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か
(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。』
(中島敦「山月記」から引用)
しかし作者である中島敦は李徴に対し最も残酷な方法で対応している。
虎にその身を堕としても繋ぎ続けてきた一連の詩歌。でもその詩は何かが欠けていた。無論、李徴にはそれは理解できない。それは人としての身でなければ理解できないほどの微妙な点なのである。何が欠けていたのであろうか。僕はそれを人と人との間を繋ぐものと考える。

実は、僕は「山月記」の解釈として、そこに日本の植民地主義批判をみない。
それ以前に植民地政策を推し進める人の欺瞞の姿をそこに見る。つまりは中島敦は植民地政策がその国(例えばパラオ)の人々のためになると漠然と思い描いていて、ただその運用に対する批判があるだけというような気がするのだ。
『己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、
憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、
各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。』
   (中島敦「山月記」から引用)
上記引用文は「山月記」の中で李徴が語る有名な箇所である。素直に解釈すれば、人の中には猛獣がいること、それは各人異なること、猛獣の力が強くなると逆に人は己の猛獣に支配されてしまうこととなるだろう。その上で李徴はその状態を受け入れて生きようと決意する。ただ、この独白には何故李徴だけが虎に変身したのかの視点に欠ける。

『人間は誰でも猛獣使い』と言うことで、己の境遇を相対化し、何故自分だけが虎になったのかの意味を軽くしている。まさにその点が李徴の問題であったと僕は思うのだ。

逆に言えば、この物語の背景にある、あまりにも独りよがりの姿、それこそがこの小説を通じてその当時の日本の姿そのものであったのでないだろうか。

中学高校の教科書に長くこの作品が載っている理由。格調高い漢文調の文体、教科書に載せるにはちょうど良い長さ、さらに戦中の作品でありながら戦争の影を見せず汚れていない小説。中島敦が仮に戦後まで生きたとき果たしてこの小説は教科書に載ったであろうか、などと思うのは不埒な想像なのかもしれない。ただ、それらは中島敦の「山月記」をイメージとして作り上げてきた結果に寄るところが大きいのでないかと僕は思う。

作家がその題材を選択するとき、単に格調高さを追い求めるだろうか、基となる物語に作家が生きた時代性をそこに見いだしたからこそ、その話を掘り下げ、その当時として現代性を持って発表したのではないだろうか。教科書に載っている「山月記」とその解説だけを読むのでは、それらの 「ほんとう」の部分は見えてこない、と僕は思う。

逆に言えば、教科書の「山月記」は何を隠したのかということだ。例えば、 「山月記」は「古譚」という4編の小説群の中の一編であること。中島敦は単独で「山月記」を発表してはいないことを教科書の解説では知ることが出来ない。

「古譚」に収められている他の3編は「狐憑」、「木乃伊」、「文字禍」という。それぞれが面白く、「山月記」と較べても遜色なく、逆に印象強さでは「山月記」を凌駕するかもしれない。
「古譚」の4編を通して、その中の一つの小説として捉えなければ、「山月記」の感想にはならないと僕は考える。なおかつ、それらの小説群は、勿論「山月記」を含め、旧仮名遣いで書かれている。教科書に掲載しているのは新仮名遣いに直され、「格調高い漢文調の文体」と解説で述べていても、いささか拍子抜けする感を持ってしまう。

次に「山月記」を発表した時代の雰囲気である。それも教科書では作家の生年と没年から想像するしかない。中島敦が青年期を過ごした大正昭和の戦前は国内では比較的自由な空気が流れていたと推測する。しかし、ひとたび国を出て植民地に行けば、そこには容赦ない現実の姿をさらけ出す。中島敦はパラオでそれを見たのではないだろうか。

中島敦の「山月記」を通じて僕は何を言いたいのだろう。始めは中学高校の夏期休暇課題としての感想文対応について述べると言ったが、本音の部分ではそれは難しいという気持ちが強かった。勿論、提出を指示する先生方に迎合する文章を書いてお茶を濁すという仕方もある。でもそれで満足できない人も中にはいることだろう。ただ、それらの人達はそれなりに自分で道を見つけていくことが出来るようにも思える。

僕が本記事で言いたいことは、国語教科書における各文章のテクスト論的配置にある。「山月記」に見られるように、教科書に掲載している姿は「山月記」だけである。
そしてそれだけで、与えられているテクストだけで、その感想を書けと言われるのである。でもそれは難しいと僕は思う。そこから出てくるのは平面的な感想だけでしかない様に僕には思えるのだ。
それは国語教育という難しさが根底にあるのかもしれない。そもそも国語とはいったい何なのかという問いから発しなくてはいけないかもしれない。ただ本記事では小説の解釈への選択の広さを限定する視点からのみで述べてみた。

メモ的な深みでしかないが掲載する。

2005/08/01

随分と長い間

こんばんは、久しぶりの更新です。

実を言えば暮らしの忙しさの中でブログ更新が滞っていました。一時はこのささやかなブログをしばらく閉めようかなとも思いました。
でも未更新にもかかわらず、何人もの方々から普段通りの何気ないコメントをいただき、少しはこのブログを楽しんでくれる人もいるのではないかという気持ちになりました。逆にそれらのコメントがブログだけでなく、自分の暮らしに対して、日々行動する勇気を与えてもらいました。
皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

今後も以前のように連日の掲載は難しいかもしれませんが、それなりに(笑)続けていくつもりです。至らぬ点もただあるとは思いますが、その際はご教授いただけましたらありがたいと存じます。 では

2005/07/21

ツーリング計画

なにかしら忙しくなるとツーリング計画を立ててしまう。今考えているのは青森までの東北ツーリング。途中に仙台にいる姉のところに寄り、平泉に立ち寄り、青森を目指すコース。のべにして一週間くらいの旅程になる。平泉に寄るのはNHK大河ドラマの影響を受けたから。いけたとしたら中学の卒業旅行以来の訪問となる。

泊まるところは全て親戚宅を利用する予定。具体的には仙台と青森の黒石。ただ黒石を起点にどこまで足を伸ばすかが未定状態。それ以前にこの計画自体が空想のまま終了する可能性も高いのだけど。

東北道の車が少なく見晴らしの良い素敵な道を走る空想を巡らせている。空にはぽっかりと夏の雲が漂い。前方には少し濃いめの海が広がる。
そんな光景はないのかもしれない。様々な出来事と忙しさから逃れたいという気持ちが強いのかもしれない。確かにそういう面はあるとは思う。でも僕はそれが悪いことだとは少しも思わない。

このツーリング計画が実行できる可能性は今のところ半々だ。休みについてはリフレッシュ休暇という制度が会社にはあるのでそれを使うつもり。問題は、実際に行くという強い気持ちを持つことだと思っている。ただ、短い期間とはいえ残すものも大きい。さてさてどうなることやら。

2005/07/20

日記として書く「公私」のこと

ブログは広い意味で日記の一形態でもあると思うので、書かれていることはあくまで個人的なことが多いと思う。個人的な事項でなくてもその内容は多くは主観的なことだろう。最近僕は「公私」の切り分けについて考える時、この主観的ということについて思いが行くことが多い。ながく僕に染みついた一つの考え、それは主観的なものは「私」に属し、客観的なことは「公」に属する。意見とは主観的なものでなく、そこに公の視点がはいってこそ人が聞くべき「意見」となる。だからこそ、僕は人前で自分の意見を飲み込む。まずは吐き出す自分の考えがこの場にふさわしいか否かを考えるのだ。

でも最近少し考えが変わってきた。先だってこのブログで書いた記事「他者が僕に」はそういう気持ちで書いた。あの記事はあくまで僕の事だけど、恐らく他の人にもあることだろうと思ったのだ。ただそれでも主観が強すぎたかもしれない。別の言い方をすれば、「意見」とは主観の中に他の人を想定すること成り立つと僕は思っている。他の人だったらどう考えるのだろう、という他者の視点を主観に挿入することだと思う。

「公私」の切り分けは時代性がそこには存在する。きわめて恣意的なものだとさえ思う。ある時代では単なる愚痴と受け取られていた言葉が、ある時代では意見として多くの人の心を掴む。例えば、介護についてがそうだった。石綿についても永く個人の問題として受け取られていたことだろう。

イラク人質事件では「自己責任」という言葉が飛び交った。その他にも「自助努力」という言葉もでた。文字通り「公私のけじめ」もあった様に思う。それらの言葉は一連のあれらの出来事が「私」の要素が大きいとのおおかたの考えからきたのだろう。その反面、現在では少子化による国民の「性」に関すること、漢字の読み書きの程度のことが、「公」として話がされているのだ。勿論国家が国民の「性」への関与は今に始まったことではない。ただ、いずれにせよそれらの話は「有効性」「無効性」もしくは「効率」の面からなされることが多い様に思える。

北朝鮮拉致の話の中で、ある社会学者は国際政治の有効カードの話をだした。確かに国際政治とはそういったものかもしれない。でもそれらの背景にも同様に「有効性」の観点からの視点が強いのではないだろうか。「有効性」の視点からの考えは選民への考えにつながる、と僕は思う。役に立つ立たないの基準で落ちるもの達の声を誰がどのようにして聞き遂げるのであろう。介護が必要な方は無効なのだろうか。そんなことはないと多くの人は語るだろう。そのような方々に向けて様々な法律を整備しているではないかと答える方もいることだろう。でも僕の言いたいことはそういうことではない。それは僕自身の心の中にもあることを認める部分、有効性無効性の社会に暮らすものの奥底にある、それらの方々に向ける目にある僅かでもある侮蔑の目線のことなのだ。

アマルティア・センは公共的価値を「基本的な潜在能力」と考えている。「潜在能力」として例示するのは、『適切な栄養を得ていること、避けられる病気にかかっていないこと、早死にしないこと、文字が読めること、自尊心を持ちうること、友人をもてなすこと、会いたいと思う人に会えること、コミュニティの生活で一定の役割を果たすこと』(公共性 齋藤純一著 から引用)と言っている。
そしてそれらの潜在能力が脅かされるとき、もしくはできないとき、潜在能力の「略奪」として把握すべきだとセンは述べている。

それらが「略奪」されたとき、された側が声を上げる場所としての公共領域の必要性を僕は感じる。それらの領域は共同体ではなく、まさしく差異が共存する領域でなくてはならない。また、そこからの声が政治に結びつかなくてはならないと思う。

実はネットを使い始めた頃、僕は属性をできうる限り排除できるネット空間に公共領域の立ち上がりを期待した。ここには発信者の属性が見えず、それ故にその構築が可能だろうと思ったのだった。でもそれには自分も含め、ネットという環境以前に必要とする何かが未成熟な状態だった様に思える。

2005/07/17

今どきの名前

親戚に男の子が生まれた。名前を聞いてみると「英」と一字書いて、なんと読むかと逆に聞かれたので、「ひで」と素直に読んだら違うという。じゃあ、「えい」とこれはあり得ないだろうなぁと思いながらも聞いたが、やはりそれも違う。これでお手上げ。わからないから教えてと言ったら、なんと「はなぶさ」と読ませるそうだ。「英」で「はなぶさ」とは誰も読めないんじゃないかと言ったら、それが今の時流だという。ああ、そういうものかと少し笑う。

今時の子どもの名前は少し前と較べても全然違う。そういえば少し前に「悪魔」という名前で物議をかもした事もあったっけと思い出すが、ふと思ったのが、こういう名前が多く登場するのは、命名が親が子どもに託す願いであるとすれば、子どもが唯一無二の存在であることを名前でも現そうとしているのでないか、ということだった。
だから名前はどんどん読みづらくなる。滅多にない名前を考える方向になるからだ。それはそれで、子どもを思う親の気持ちだから尊く、それ以上に人様の子どもの名前は僕にはどうでも良いのだが、ここで思ったのが、名前に唯一無二、つまりは周りに同じ名前が滅多にいない名前を付ける時代の雰囲気というのがあって、その時代の雰囲気というのが、逆に唯一無二でない状況、社会における人の軽さみたいなものを親が感じ、それだからこそ子どもにそういった名前を付けるといった事もあるのでないかと言うことだった。

以前、人に聞いたところによると、女の子の名前の最後に「子」を付けるのが流行ったのが大正の終わり頃かららしい。それまでは「てい」とか「さだ」とか、ひらがなが多く最後に「子」はつけなかった。「子」を最後につける事は、昭和初期になんらかの雰囲気があってのことだと思う。僕はその点においても無知なので、理由は正直わからない。でもその当時は「子」をつけることは、現代の名前と同じくらいに、当時の言葉で言えば「新しく」「モダン」な事だったことは理解できる。

時代の変わり目に、恐らく人は自分の子どもの先を幸せにと願い、時代の雰囲気を先取ろうとそういった名前を付けるのかもしれない。昭和の初め、女の子の名前に「子」がつくのは、新しい女性像がそこにあったのだろう。これはあくまで僕の想像で、統計だとか調べたこともないので根拠は全くないのだが、それまでの名前、例えば「てい」、「さだ」、「ちよ」が二語だったが、それに「子」をつけて「さだこ」、「ちよこ」と3語に変わる。「こ」は単純に2語の後ろに組みやすい語だと言うことだ。「子」をつけるのが主なのでなく、たぶん3語にすることが大事だったように思う。「子」は一般に神道では女性をいうらしい。でもそれが理由であれば、もっと前から「子」をつける風習があっても良いと思う。

実は僕の想像はここで終わる。3語にすることで、その時代の雰囲気を現す事になると思うのだが、雰囲気は色々と想像ができるのだが、それぞれの想像と3語が上手くつたわらないのだ。まぁ、不明なことがあるのはよいことだ。今度ゆっくりと図書館で調べてみよう。

2005/07/15

他者が僕に

他者が僕に不愉快にさせる言葉を発したとする。その際僕は相手にその言葉を発した理由を聞くことだろう。でも相手から納得のいく言葉が得られないとき、もしくは無言で黙られたとき、僕は苛立ちを感じることだろう。それは僕にとっては理不尽だと、相手を罵るかもしれない。その際、僕は何に苛立ちを感じたのだろうか。それは自分の意識の中に他者が了解されずに存在することだと思う。了解を受けていない相手が、それでも僕の承認を求めている姿。その姿は「問題はお前にある」と雄弁に語っているかのように僕は受けとる。でも僕は相手を認めたいのだ、しかし了解への糸口を拒否し、それでもなお、承認して欲しいと言っているこの相手は、僕に一つの難問を提示しているかもしれない。それを解かないと先には行けないというような、そんな問題の一つとして。

相手を不愉快にさせたのは、相手にとっては僕であるはずだ。如何にして僕は相手を不愉快にさせたのか、それを聞き、僕は一体何をしようとするのだろう。関係のない相手であれば、もしかすると無視するかもしれない。例えば、街中で知らずのうちに鞄を前を歩く人にぶつけてしまった時のように、振り返る相手の痛がる顔を見ても自分に関係するとは少しも思えないだろう。少し歩いて、あの相手の痛みは僕が与えたものだと気がついても、もうそれは遅い。その際相手が罵る言葉も僕宛には聞こえない。街中の喧騒の一こまとして瞬時に忘れ去られる出来事になることだろう。でもこの相手は無視できる相手ではないのだ。

相手から、僕が不愉快にさせた理由を何故聞きたいのかと問われたとき、この状態が僕にとって理不尽なことであり、それを知ることで僕は貴方を承認したいからと答えるだろう。でもそれはタテマエでしかない。恐らくホンネの部分では、僕は相手に自分の正しさを承認させようと目論んでいるのだ。たぶんその時の僕の行動はこうだ、まず不愉快にさせたことを神妙にして聞く、その次に不愉快にさせたことに対し謝るが意図的でないことを告げる、そのうえで、僕の行為が相手に不愉快にさせるに至ったことを相手の問題として切り出すのである。考えてみれば嫌らしい行為かもしれない。でもそれを行うことで、僕は僕自身のことを守るしかない。

相手は僕の行為を見越している。そう考えるしかない。見越した上で、僕が自分を守る過程の中で、実は相手に謝りながらも相手のことを傷つけることも見逃さないのだろう。仮に意識せずに相手に不愉快にさせた僕の行為が、自分の信念に基づくものであったとしたら、相手の言い分に簡単なことでは納得はしないと思うのだ。それは単純な出来事から無限に続く疑心暗鬼への一歩へと踏み出すことでもあるのかもしれない。そのうちに、お互いの言葉は、どうしてこうなってしまったのだろう、という溜息にも似た呟きになっていくことだろう。その時は、その呟きさえ相手に気づかれないようにと、臆病になっている自分を想像できる。

僕はいったい何を守ろうとしているのだろう。人が生きるということは信念を持つことだと僕は思っている。人は信念の為に死ぬことも出来るかもしれない。その信念は自分の体験とか経験により確信をもって自己の中にあるものなのだ。でもひとたび考えれば、現実の喪失に対しても見失わないほど強い信念を僕は持っているのだろうか。特定の相手を大事に思う気持ち、それも一つの重たい信念と言えるのではないだろうか。それであれば、僕が守っている信念とは、実際はそういうものでなく、単なる生理的な自己保身に近い感情に近いのかもしれない。もし双方とも同じ信念であれば、僕の中で衝突したとき、どちらかが残るかは冷静になればわかるはずだろう。

自分を殺してでも相手を気遣うことが僕に出来るのだろうか。僕の信念は個別のものだ。それゆえ相手の信念も個別のものだと信じ対応しているところがある。でも信念が個別だけだとすれば、「ほんとう」ということ自体無意味となる。仮に相手が「ほんとう」の何かを持って、僕に対応しているのであれば、そしてその「ほんとう」を崩したくないとするのであれば、僕はただ自分の信念を含め自省しなくてはならない。確信をもった信念も一瞬に崩れ去るときがある。僕はもしかすると、そういう崩れを体験しなくてはならない状況に来ているのかもしれない。そんなことをだらだらと考えてみる。

2005/07/14

書籍「八月十五日の神話」感想でなく雑感

「八月十五日の神話」(ちくま新書 佐藤卓己著)はメディア論を中心にし、八月十五日が「終戦記念日」として日本人に受け入れられてきた理由を実証的に解明している。佐藤氏は学究者としての立ち位置を崩すことなく、あくまで実証的な態度で書いている。少なくとも僕にとっては良書だと思う。この問題を扱った他の書籍を読んでいないので較べることができないが、この書籍を出すのに日本は戦後60年の時間を必要としたのではないかという思いを持つ。

実証的な態度で書かれていると僕は言ったが、佐藤氏の背景に「敗戦後論」(加藤典洋著)の影響があるように思える。それは本書中に「八月十五日の神話」が重要な箇所で引用され、その考えが了解されているから感じるのであるが、だとすれば研究する佐藤氏の意識の中に加藤氏のいうところの「ねじれ」があったとしても不思議でない。多くの批判と論争を呼んだ「敗戦後論」について、僕としては加藤氏の意見に全てではないが納得することが多かった。だからこそ僕が佐藤氏のこの書籍に違和感を覚える事が少なかったのかもしれない。

八月十五日が終戦記念日となった理由の一つとして佐藤氏は以下のように書いている。
『進歩派の「八・十五革命」は保守派の「八・十五神話」と背中合わせにもたれあう心地よい終戦史観を生み出した。』
(「八月十五日の神話」 佐藤卓己著 P256から引用)
進歩派の革命とは丸山真男の「八月十五日革命論」のことであり、保守派の方は九月二日の敗戦を象徴する降伏文書調印を忘れ、敗戦を終戦に変える意味である。さらに佐藤氏は、「八・十五革命」は戦前から戦後への連続性を見えなくする効果があるとも言っている。具体的には、敗戦によって破綻したメディア企業はほとんどなく続いているのである。この点が佐藤氏がさらに追求したい核みたいなものだと僕は思う。ただ、この書籍ではこれ以上は続かない。

「八月十五日の神話」の感想とは、具体的な本書の内容を書き表すことではないと僕は思っている。何故僕が今この本を読むのかという問いかけ、それは時代の雰囲気が僕に要請しているかだとは思うが、その問いかけに対して僕がどのように答えるかだと思うのだ。そして読んだ後に何が自分に残ったのかという事。その二つの質問に答えることが、この書籍の感想に値するのではないかと思う。でもそれにはしばらくの時間が必要なのは間違いない。

歴史は政治でもある。以下に本書に現れた主な日にちを記した。どの日を選択するかは、その人の考え方によって変わることだろう。佐藤氏は、沖縄の「慰霊の日」と「平和の日」から以下のように言っている。
『お盆の「八月十五日の心理」を尊重しつつ、それと同時に夏休み明けの教室で「九月二日の論理」を学ぶべきだろう』(同書 P258から引用)

1945年6月23日 沖縄 守備軍組織的戦闘終結「沖縄慰霊の日」
7月2日  沖縄戦米国側終結宣言
8月6日  広島原爆
8月9日  長崎原爆
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 玉音放送 1963年閣議で実質「終戦記念日」と法的に定める。
8月16日 日本軍への戦闘停止命令
9月2日  ミズーリ艦上での降伏調印 米国等の対日戦勝記念日
9月3日  旧ソビエト北方諸島ほぼ占領 ロシア・中国の対日戦勝記念日
9月5日  旧ソビエト歯舞群島占領完了
9月7日  沖縄 残存日本軍降伏調印 「沖縄 市民平和の日」
1951年9月8日  サンフランシスコ講和条約調印
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 日本占領終了
1972年5月15日 米軍沖縄占領終了

ちなみに僕は、8月15日のラジオ放送において、玉音放送(4分37秒)の他に放送委員の解説と再朗読、さらに内閣の国民に対する告論、ポツダム宣言受諾までの経緯と各文書の内容などを放送し、総放送時間は37分30秒に及ぶ時間であったことを知らなかった。終戦詔書の漢文混じりの難解な文体を、即時理解できる能力があったのかと単純に思っていただけだった。その意味では僕は全くこの件に関して無知であったと思う。

2005/07/13

9.11の記憶、八月十五日の神話

200507147924baea.jpgロンドンで同時多発テロが発生し様々なメディアで報道されている。それらは僕に「同時多発テロ」というキーワードで9.11を思い起こさせる。

9.11の事件が起きたあの日あの時間僕は、会社ではなく自宅にいてテレビでの生中継を食い入るように眺めていた。メディアから垂れ流しに放映していた映像は、アナウンサーの絶叫とともに、僕の中で一つの記憶となった。それはメディアが造る一つの社会として共有する記憶に変質する。ただし僕は何故自宅にいたのか、その理由を今でも僕は覚えている。それはあまりにも個人的なことであり、ここで話すことを控えるが、9.11の記憶は僕にとっては、その理由とリンクして意識の中で一つの場を作り出した。それは個別な記憶であり、その記憶が強い事により、メディアが報道し形成する記憶が、個別の記憶を完全に塗り替えることもないと思う。

9.11の映像は、ピンポイントで見ればビルが崩壊し逃げまどう映像であるが、時系列には、同北棟激突、国防総省激突、ペンシルベニア州墜落の事件を知る必要があるし、また米国と中東との歴史を体系的に理解することでさらに奥深く知ることができるだろう。メディアが垂れ流しに放映した映像ではそこまではわからない。それはメディアで繰り返せば繰り返すほど、造られた一つの記憶として社会において一つのイメージを形成する。

ロンドンでの事件が今後どのような姿で、社会の記憶として形成していくのだろう。個別の記憶は必ず変質していく、それは実体験としての記憶だとしても、写真その他の記録された媒体にむかい、整合性をとるように記憶のシステムは動くかのようだ。

「八月十五日の神話」(佐藤卓己、ちくま新書)を読んだ。8月15日とは一般に終戦記念日と呼ばれている日のことである。この書籍の感想は別途自分の中で落ち着いたときに書こうと思う。確か「極東ブログ」の記事「終戦記念日という神話」にもその辺のところが書かれている。いみじくも佐藤さんの書籍と「極東ブログ」の記事タイトルは、ほぼ同じである。でもその立ち位置は若干の違いがある。佐藤さんの場合、メディア論として8月15日が如何にして終戦記念日になっていったのかが語られる。「極東ブログ」の場合、根底には敗戦国になり、現在ではそれを忘れている日本への独特の情感が流れているように感じられる。それはたぶん、現在多くの日本人が、勿論僕も含めて、失った感覚のようにも思える。だから僕はそれを具体的に書くことが難しい。極東ブログさんの書き方は実証的ではあるが、根底には文学があるように僕には思える。そのように書くことで、何かを文体のなかから読み手に感じさせる。その意味では、「極東ブログ」の記事の方に僕の魂は揺れ動かされる。

2005/07/09

「猫への詫び状」、過去を振り返り君を思う

leobike
新規にパソコンを購入し、旧データを整理していたら以下の文章が見つかった。この文章は家の飼い猫であるレオが糖尿病を患ったときの話で、あのとき僕は本当にレオが死んでいくと思っていた。そのレオの予想される死にたいし、彼にその前に詫びたかった。これは僕からレオへの「猫への詫び状」である。
この文章を書いた後、レオは奇跡的に回復する。死に瀕したときから約五日間の入院生活だった。その後レオはインシュリンの注射を朝夕する生活に入る。食事は猫用糖尿病の缶詰。インシュリンは人間と同じものだが、一度に注射する量が違う。また毎日、尿から血糖値を調べた。つまり人間の糖尿病への対応と何ら変わらない。
そういう生活を数ヶ月続けたある日、レオの血糖値は劇的に変化する。通常の状態に戻っていたのだ。治らないと言われた糖尿病が治ったかのように見えた。医者に言ったところ、医者も驚き、インシュリンの注射をやめましょうという話になった。そしてその後は食事制限の取りやめと続き、そしてすっかり完治してしまった。それが2002年4月の話だ。それから2年後にレオは家を出て行ったきり戻ってはこなかった。
猫の意識とはたぶん人間とは違うと思う。人間は意識と自然的身体が一緒にならず、互いに強く影響を与え受けながら、その欲望はとどまることを知らず、また対象も眼前にあるものに限らない。でもおそらく猫たちは、眼前の対象にしか意識がなく、欲望はその都度眼前の対象で自足する。でも、少しでも他の動物と一緒に暮らせばわかるように、僕もレオのことは猫という動物ではなく、僕の意識の中では、人と同様に限りなく深い意識を持っているかのように感じ、接してしまうのである。その中のレオは、ちょうどこのイラストのように、モーターサイクルで長い旅に出た一人の男の様である。旅は戻る場所があり、戻ることを暗黙の中で約束している、しかし実際は家に戻らないのも旅である。行き先で何が待ち受けているのか不明で、もしかすると旅先で定住するかもしれない。僕は今ではそう思っている。彼には彼の猫生を生きる自由があるのだ。
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レオへの詫び状

今回の出来事で僕は君が死ぬかもしれないと覚悟しました。本当です。ですから死んだときの事を考え、レオのいない世界を想像しました。
まず考えたのは、君が死んだときに周りになんて話そうかと言うことでした。多分みんな悲しい思いをする事でしょう。次に、もう猫は飼うのは止めようと思いました。こんな悲しみを味わうのはもういいと思いました。さらに君のいないと後はジュニアだけだな。ジュニアを君の分も含めてかわいがろうとも思いました。

でも突然に君の思い出が、本当に多くの思い出が、僕の心を横切りました。それは一瞬の出来事でしたが、僕はその思い出を意識的に何度も何度も繰り返しました。

君が家に来てから2年半たってます。その間は決して楽ではありませんでした。どちらかと言えば苦しい方だったのかもしれません。仕事のこと、自分のこと、僕の周りの親しい人達のこと等々、誰でも生きていれば問題を抱えています。でも、そういうことで人生は深くなるとは渦中にいる者にとっては無責任な言葉です。
頑張って生きているなかに君が来ました。君が来ることで僕らの心はどんなに安らいだことでしょう。

もう少し細かくかければいいのでしょうけど、つぶさに見てきた君にとっては十分に知っていますよね。僕は君と生活し、最初は君の擁護者としていたと思います。僕は君に与えているだけで君から受けることは期待していなかったし、受け取れる者は何もないと思っていました。
期待していないのは今もそうですけど、君の事を思いだし、君から多くのものを受け取っていたことに僕は気がつきました。それも僕が与えたと思っていた事より多くの事を君は僕に与えてくれたのですね。

きっと君がいないと仮定したこの2年半は殺伐とした2年半になっていたことでしょう。これは僕の実感です。そしてこの差が君が僕に与えてくれたのです。それはとてつもなく大きな物です。僕は君にいなくなって欲しくないと、強くその時に思いました。それは僕の為だけではなく、これからつらい生活が君に待っていようとも、僕は出来るだけの事をしよう、君に感謝の気持ちを持とう、君と離れたくない。そんな感情です。

そんな気持ちが強まったときに、医者から「奇跡です」と言われるくらいに君は立ち直りました。その時うれしさと同時に、君への感謝を伝えられるチャンスを与えてくれた事に喜びました。また僕は命という大きな力を感じることも出来ました。これもあらためて君が僕に教えてくれたことです。

これからも一緒に生活しましょう。共にお互いの命を歩いていきましょう。
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十分に僕は君に感謝を告げることができたのだろうか・・・

2005/07/08

再び「宇宙戦争」の感想、それは一つの妄想

af_blogのfuRuさんの「宇宙戦争」感想記事を読んだ。「宇宙戦争」の映画だけでなく、最近の映画全般にわたる、とても良い記事だと思う。僕とは見方が違うが、それでも納得できる部分も多く、読んでいてとても面白い。なによりfuRuさんの感性に触れることがとても楽しい。

再度「宇宙戦争」感想記事を書くのは、fuRuさんの記事に触発されたというわけではなく、前回記事において書くことを躊躇した内容を、僕の思考の中に留めおくよりはメモとして残しておいたほうが良いと考えたからだ。

ティム・ロビンスは好きと言うより、巧い役者という方が僕にとっては適切だと思う。「ショーシャンクの空に」「ミスティック・リバー」、双方での彼の演技力は素晴らしかった。ただ、やはり僕にとっては「ショーシャンクの空に」のアンディ役が印象に強く残っているせいか、その後の彼が演じる役は巧いとは思うが、多少の違和感を持ってしまうのも事実ではある。再度の「宇宙戦争」記事はティム・ロビンスがメインというわけではないが、彼が演じる役オギルビーとトム・クルーズ演じるレイとの関係について書きたいと思った。
前回も書いたことだが、「宇宙戦争」は主人公であるレイの視点から描かれている。それはかなり意識的なカメラに立ち位置からでもわかる。この映画では、レイが見ることしか見えず、レイが知ることしか観客は知ることが出来ない。それは、同じスピルバーグ監督作品である「プライベート・ライアン」が連合国側という一つの共同体からの視線とは異なり、主はあくまで個人の目線だと思う。「プライベート・ライアン」では、一つの共同体から外れる者たち、つまり枢軸国側兵士の痛みは殆ど観客に伝わらないが、冒頭のノルマンディ上陸での激しい戦闘シーンでもわかるように、連合国側兵士の痛み・人間性は明確に伝わってくる。

「宇宙戦争」の場合、視線はレイという個人の視線であるため、幾つかうがった見方も可能となる。その最たるものは、たぶん、宇宙戦争自体がレイの妄想ではなかったのか、ということだ。レイは生活が荒れ、離婚によるストレスと、子供を愛せない自分を責めている。その結果、精神的に追い詰められ、宇宙戦争という妄想が登場し息子と娘を連れまわす、そんな見方だ。それであれば、「宇宙戦争」において説明不能な様々な出来事も、レイの意識における何かの象徴性ということで説明がつくだろう。

勿論、上記の見方を僕は選択しない。でも似たような見方として、映画の中で一つだけそれらしき場面があると思っている。それがティム・ロビンス演じるオギルビーとレイとの関係である。僕は、この映画をレイの視点で描かれているといったが、実際は数箇所においてレイの視線から外れるときがある。その一つが、レイが娘を守るためにオギルビーを殺害するシーンなのである。このシーンはレイがオギルビーがいる部屋に入りドアを閉めて、しばらくして殺したと観客に思わせる状況で部屋から出てくる。その間の目線は、誰でもなく、ただ娘を映しているだけとなっている。映画全体から言えば、とても奇妙なシーンでもある。

はたしてオギルビーなる男性は存在したのだろうか。これがこの記事の主旨でもある。率直に言えば、僕はオギルビーなる男性は実際には存在せず、彼はレイの幻想だという見方をしている。何故そもそもオギルビーは、逃げ行く大勢の中からレイ親子を見つけ助けようとしたのか、レイ親子を助けるだけではオギルビーが目論む反撃への戦力としては弱いとしか言いようがない。それでいて、反撃を目論むオギルビーはレイを囮にし、その隙に敵を叩くことを考えている。それは自己保身を考えてというのもあるが、オギルビーが娘に近づいたり、レイに娘のことは面倒見ると告げたりと、実はオギルビーの意図は娘をレイから奪うことにある様にもとれる。少なくともレイはそのように見ている。

何故オギルビーはレイの娘を奪おうと目論むのか。オギルビーは宇宙人によって妻と子供を殺された男である。それは離婚によって妻と子供から去られたレイの境遇を暗喩しているようでもある。レイはオギルビーが登場する場面では、娘を守る父親の対場となっているが、元々は子供と一緒にいるのが面倒と考える男だった。オギルビーは亡くした自分の子供の替わりにレイの娘に近づいたのかもしれないが、想像するに、妻と子供を愛する良き父であり良き夫だったことだろう。ただ、宇宙人が地球人の血を吸う現場を見ることで、オギルビーの行動は一変する。幻想の増援部隊を導くために、地下に穴を掘り始める。それは恐怖から自己の生存だけを願うエゴイスティックな姿でもある。見方を変えれば、それはレイの以前の姿でもある。

つまり僕の言いたいことはこういうことだ。レイはオギルビーの宇宙戦争前の父親像を願い、宇宙戦争前の自分の姿を錯乱したオギルビーの姿に見た。だから、レイはオギルビーを倒さなければならなかった。倒したのは以前のレイの姿である。そして残るのは、宇宙戦争前のオギルビーの良き父親像であるのだ。これらはレイの精神の中で行われたと考えたほうが良いと僕は思う。第一、地下を掘る音がうるさいだけで人を殺す動機になるだろうか、気絶させ手足口を不自由にするだけで事足りると僕は思う。

レイがオギルビーを殺す場面がないのは、実際に殺す相手が実在しないからだと僕は思う。だからそれ以降は、オギルビーの存在そのものがなかったかのように描かれ、観客から彼は忘れ去られる。
僕にとってこの映画は、何故レイ個人の視点だけで描かれなくてはならなかったのか、の問いで記憶に残る映画になったと思う。ただ評価については、前回の記事から変わることはない。

2005/07/07

「私は」から書き始めてみる

「私」から書き出してみる。このブログ記事では「私」と書き出すことは一度もなかった。でも今回の記事は「私」と自分を表現することの方がふさわしい。私の勝手なイメージでは「僕」は「私」より自己中心性が増しているようだ。それはそれで悪くはないのだが、「私は」で始まる自分の文章が「僕は」で始まる文章と何が違うのか、実のところ興味はある。

私は以前に「ほんとうの自分」という事を考えたことがないと記事に書いたことがある。でもその時は「ほんとう」ということに対し、今でもそうなのだが、どちらかというと否定的な気分がまわりに漂っているのを感じ、その上でそれほど考えずに書いていたように思う。実際は私は「ほんとうの自分」というものを常に求めているような気がする。本質的に自己意識が自己価値を求め、自己価値は他者もしくは社会の承認によって得られるのであれば、社会の矛盾を感じる時代性の中で「ほんとう」などないと考える自分がいるのも間違いないが、それでもなお、私の根っこの部分では「ほんとう」を求めているようだ。

私にとっての「ほんとう」は、自己欲求を満足することが即ち他者と社会から承認を受ける事と同義の状態において、絶対的な「ほんとう」ではない。まして、他者も私と同様に自己欲求と承認を求めているのであれば、他者との関係性の中において別の「ほんとう」があるとも思う。他者との関係の中で、もしくはある程度社会との関わりの中で、契機となって私の中で意識される「ほんとう」は、私の「良心」とも言うべきものとして、逆に私の行動を要請することになる。それに準ずることが、私にとっての「ほんとうの自分」に近い様にも思える。だから結局のところ、私の「ほんとう」とは、道徳的な側面は全く持たないとも言える。

私は今までの人生の中で、多くの誤りをしてきた。私にとって「ほんとう」とは、自分が誤りを行う可能性の中で、繰り返し自分に問うことで見つけていくものかもしれない。
時として私は自己欲求を強く推し進め、自己および他者との関係を崩してしまうことも多い。その衝動は時として抑えがたく、私のうちに大きなうねりとなって私を飲み込む。それは時代性をもつ社会の中で常識と呼ばれる道徳性にそぐわない行動ではあるが、私にとってはある意味、誤りといえども「ほんとう」を求める行動によってともいえる。ただ、それは他者との関係性が契機で意識される「ほんとう」とは違うとは思う。

私にとっての「ほんとう」は、社会的な地位もしくは金銭を得ることで自足することではない。他者がそれによって「ほんとう」を得ることにたいし、私は言及する事は一切ないが、それは私の「ほんとう」ではないのは確かなことだ。「ほんとうの仕事」など「ほんとう」を接頭語にする何かは、私にとって、私の「良心」に適ってこそ「ほんとう」と言い得る何かではないかと思う。ただ、「良心」に適うことは私にとって、実際上難しい事ではある。

2005/07/06

我慢できずにパソコンを買ってきた

実はパソコンが3週間ほど前に破損して、しばらくSONY製ノート、しかもC1という誇りをかぶって眠っていたパソコン、を使っていた。でも画面が小さい、遅い、入力がしづらいなどで我慢ができず、このあいだの日曜日に秋葉原に行きパソコンを買ってきた。

以前のパソコンは電源部分が破損してしまっていた。壊れたとき、「パン」と音がしたのだから、その音を聞いただけでも、自分で何とかしようとする気持ちが失せてしまった。案の定、何をしてもどうしようもなかった。でも最近ネットでゲームもやっていなかったし、小さなノートでも我慢ができると思っていた。でもそれは2週間ほど使い無理だと思った。

購入したパソコンは「e-machines」という米国のメーカーだが、とにかく安い。以前のパソコンのディスプレイは残っているので、とにかく本体さえあればそれで満足するのだが、その本体だけ売っているのは少ない。

重たいおもいをして家まで持って帰ってきた。値段の割に性能は良くて、結構満足している。タワー型なだから、旧パソコンのハードディスクも増設するスペースもある。ただ問題なのは、TVチューナーのボードを装着できることはできたのだが、ソフトが起動するごとにシステムエラーになってしまうこと。未だに原因不明だ。

今後は、やはりグラフィックボードの装着だと思う。以前のパソコンにはAGPインターフェースがなかったので、グラフィックボードを装着する事による速度向上が楽しみでもある。さてと、このパソコンでいろいろと遊ぶことにしよう。

2005/07/05

ビジネスにおける情報共有とは?

IT業界の現状は、仕事量は増大しているが、その一方で、コスト削減に対する経営者層からの要望も強く、限られた人員で多くのプロジェクトをこなしていかなければならないというジレンマに苦しんでいる。また業界で働くスタッフは、仕事量の増大によるストレスや、コストの圧縮要請、アウトソーシングの実施などを原因とするモチベーション低下といった問題に悩まされている。これらの問題は今に始まったことではない。昔から言われ続け、問題として挙げること自体が少々恥ずかしい。

昔から良く聴く言葉として、属人化しないように、システマチックに考える、などがあるが、それらはいまだに言われ続けている。それらをスローガンとして掲げているうちは、組織としては確かにその方向に流れてはいる、でも日々の案件に忙殺されるうちに、次第にまた元に戻っていくというわけだ。全体としてみれば、「属人化しないこと」ということ自体、人の本性とは違うのでないかと思うほどである。

最近仕事において、「情報共有」という言葉をよく耳にする。発端は、流動的な人事の流れにおいて、異動者・派遣者・協力会社からの応援・新入社員が当該部署に配属されたときに、最新情報を含む各種ドキュメントがどこにあるのか不明、かといって詳細設計書レベルでは難しすぎるし、基本設計書レベルでも同様かもしれない。そういう異動者はもっと簡単で一目見て理解できるドキュメントを要求する。そしてそれらのドキュメントは、同じ部署内でも多くの人が必要とするだろうというわけである。それが情報共有の意味として使われている。でも僕が思うに、それは資料管理の一環、もしくは社内教育ドキュメント整備の一環でしかないとも思える。

そもそも部署全体でドキュメント化しての、一つの情報共有は難しいのでないか。それに異動者がいたとして、何らかの共通するドキュメントを見たとして、それがどのくらいの意味を持つのだろうか。逆に言えば意味を持つドキュメントとは一体なんだろう。

例えば、各最小単位組織では情報共有と称して当該組織内での定例会を設けているところもある。それの目的は、人が担当している案件の内容を詳しく知り、アイデアがあれば意見を具申するということが第一ではないと思う。目的としては、顔と顔を突き合わせ、誰が何をしているかという「タイトル」部分でのリンク付けがメインだと僕は思う。つまり、何かがあったとき、誰に聞けばその問題解決への道順が短いかを知ることが、定例会としての情報共有の主たる目的ではないだろうか。定例会を実施していない組織では、その場合はいったんリーダーに通すことになる。それではリーダー自身がボトルネックになる可能性が出てくる。

それを部署の情報共有への考え方に導入するとすれば、資料管理の立場から、資料を整備して配置することは、資料の再利用のしやすさ、教育の資料を含め意味があると思うが、それだけでは情報共有とはいえない。資料が有機的に繋がっていなければ、情報としては意味がない。それを必要としているのは「今」なのだ。「今」というタイミングを逃す情報は情報ではない。有機的とは、最低限そのことを知っている人は誰かと言うことの記録だと僕は思う。知りたい人は、その時点で知っている人にアクセスできる様にする、それができる環境を作ることが、「情報の共有化」と僕は考える。情報共有とは業務の効率向上を目的とし、それ以外に目的を見出すことが難しいと思う。そして、「今」必要な情報は、「今」そのことで働いている、社員でもある。彼は忙しいだろうから、親切に説明はできないかもしれないが、糸口としての別のドキュメントを教えてくれるだろう。まずはそれを読むことから始まるのでないだろうか。

さらに先に進み書き続けたい気持ちもあるが・・・別途書きます。

2005/07/04

図書館雑文

利用者の立場で図書館の事を書くつもりでいた。でもそれには少し時間がかかるようだ。利用者の立場で言えば、僕は図書館が抱える様々な問題に無関心というか、問題自体を認識していない。

利用者から見ると、図書館は常に無料のサービスを提供してくれる場所であり、空調が整った快適な空間で、読書もしくは勉強ができる。それは利用者にとって常識的なことであり、先々その提供が途絶えることもしくは変化することをなどないと信じて疑わない。
それらの事などに、利用者として語りたいと思ったのだが、僕の力不足で少し難しい。

図書館でまず思い出すのは映画「ショーシャンクの空に」。アンディーが図書係として刑務所の図書室を整備する。刑務所での図書館。それは「希望」を描くこの映画にふさわしい存在だった。アンディは映画の中で言う。「音楽は誰にも奪えない」と。それは、図書館に寄贈された中に入っていたクラシックレコードを刑務所中に放送する事で、罰則として独房に2週間閉じこめられた後で言う言葉だった。人の心の中のものを他人は侵すことができない。それは図書館に所蔵する様々な書籍・音楽によって象徴的に現されていたように思うのだ。

近くの図書館に行ったとき、所蔵している書籍に囲まれると、時折僕は軽い目眩さえ感じる。知らないことが僕には多すぎる。そのことと、これらの書籍を自分の人生において全て読むことが不可能な事を悟るのだ。勿論、量とかが大事だと言っているのではないが、それらの書籍の中で知らぬ間に、自分の経験とか知識に対し謙虚になっているのは間違いない。

そういえば、以前「東京国立近代美術館フィルムセンター」に度々行った。そこの図書館は映画に関する資料が多かった。最近はどうだろうとネットで調べたら、イベントとして「生誕百年特集 映画監督 豊田四郎」を開催しているようだ。豊田四郎監督作品で未だに印象に残っているのが「地獄変」。中村錦之助・仲代達矢の演技が今でも覚えている。フィルムセンターの図書館に行きがてら映画でも見てこようかなと少し思う。

あと図書館で思い出すのは「国際子ども図書館」。ここには昔の絵本が多い。サイトを見るだけでも楽しくなる。ただ問題は開館時間が社会人にあわないことだ。
元NHKアナウンサーである鈴木健二さんは、昨年まで青森県立図書館長だった。そこで「おはなし会」として朗読と語りを始めた。それは今でも続いているようで、図書館の利用者向けへの一つの文化活動として根付いているようだ。

現在、図書館は様々な問題を抱えている。それに、昨年米国で図書館が市の財政問題で閉館に追い込まれたニュースを何件か聞くように、図書館の維持には相当の費用がかかる。図書館閉館のニュースは対岸の火事ではないのかもしれない。当たり前のように受けているサービスも、今後は様々な社会問題への対応による支出により、図書館への財源割当は減ってゆくように思える。そのとき、今後専門家だけでなく、利用者側の意思表示も必要になるときがくると思う。

2005/07/02

記憶をたどってクレイグ・ライス

米国作家であるクレイグ・ライスのミステリーを、一番読める国は日本だと聞いたことがある。それほど日本ではライスの作品が愛されているということだろう。小泉美喜子は、小説の世界で実際に登場人物と一緒に交じり合いたいと思うのは、ライスのミステリーだけだ、みたいな事を言っていた。その気持ちは僕にもよくわかる。元新聞記者のジェイクとその妻ヘレン、二人の友人である酔いどれ弁護士マローン、とにかくこの3人が繰り広げる会話と行動が絶妙なのだ。

最初に読んだのが、「大はずれ殺人事件」、その軽妙な登場人物の語り口に夢中になり、続編の「大あたり殺人事件」で完全にはまってしまった。ライスの作品は、例えて言えば、P.D.ジェイムスの様な深刻さもなければ、ポーラ・ゴズリングのようなロマンス性も少ない。犯人捜しの面白みも、膝を打つようなトリックの斬新さも明快さも少ないかもしれない。でもライスには、それらを補っても余りある語りの巧みさがある。また魅力的な登場人物が多く、気がつけば彼女の小説世界の中にどっぷりとはまってしまうのである。

『恋人は「貴方なしでは生きてはいけない」という。殺人者は「貴方がいては生きていけない」という』
上記は「おおはずれ殺人事件」でのマローンの言葉だ。うらおぼえなので正確ではないが、意味としては合っていると思う。こんな言葉での会話が頻繁に行われる。

ところで、どっぷりとはまって読むミステリーは、ミステリー本来の読み方からしてみれば少し異質かもしれない。「ミステリーの社会学」(高橋哲雄)であったと思うが、確か小説世界に半分埋没しながら、後の半分は少し離れて、犯人とかトリックを考えながらミステリーは読まれる、みたいなことが書いてあった。それからしてみると、僕のライスの読み方は、ミステリー本来の読み方ではないようだ。でも僕にとっては、この読み方こそが「ライスのミステリー」の読み方と信じている。

ライスは1957年に49歳で急死する。原因として、離婚と仕事のストレスからアルコール依存症に陥った事があげられているが、実際は不明だと言う。作品の中に流れる一種の幸福感を持った軽さは、実生活では違っていたのかもしれない。それらは憶測でしかない。しかし僕としては、マローンとジェイク夫妻を書いているときは、楽しんでいたと思いたい。

2005/06/30

音楽のバトン

図書館員の愛弟子」のroeさんからMusical Batonがまわってきた。とても光栄でうれしい。そう思いながら、6月22日に受けて、だいぶ日にちが経ってしまった・・・

1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

iPod用として6.42GB(1266曲)。PCでは全く音楽は聴かない。iPod用としてMP3ファイルに変換して保存しているのみ。

2.Song playing right now (今聞いている曲)

"Heroes"Symphony by Philip Glass
こうやって文章を考えているときはPhilip Glassを聞くことが多い。"HEROES"はGlassの第4交響楽で、彼の交響楽の中では気に入っている。Glassの曲は聴くと心中穏やかならざる気持ちになる。その不安定さが逆にいろいろな事柄について発想を僕に与える。

3.The last CD I bought (最後に買ったCD)

GLENN GOULD 「...And Serenity」
GOULDに凝って何枚か買った。その中の一枚。

4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

1)「Bach The Goldberg Variations」 Glenn Gould
曲ではないのだが、1曲として扱っても許してくれると思う。本当によく聞く。Bachも大好きだし、Gouldも大好き。何かをしながらでも良いし、僕にとっては読書がすすむ、音量を低めにして静かにただ聞くだけでもとろけてしまいそうになる(笑)

2)「Forgetting」 Linda Ronstadt Philip Glass
「songs from liquid days」(Philip Glass)の一曲。Glassの曲は全般的に大好き。その中で一曲を選ぶこと自体難しいのだが、iPodの中で一番聴く回数多いこの曲を選んだ。Linda Ronstadtの歌声が素晴らしい。このアルバムは好みが分かれるところだと思うが、僕は面白いと思う。GlassのCDとして一番好きなのは、月並みだが「THE HOURS」。映画も好きだが、原作の邦訳「めぐりあう時間たち」を読み、映画は商業的に主題が少し偏り過ぎて造られたと思えた。そのほうがわかりやすいと言えばそれまでだが、やはり原作を読んでしまうとって感じがする。

3)「コーラルリーフ」Cocco
「サングローズ」の一曲。活動停止したときの最後のアルバム。Coccoの曲も全部好き。この曲を選んだのは、Coccoの曲の多くは沖縄への片方向の思いを語っているのだが、「コーラルリーフ」でなにか吹っ切れた感じを受けたから。彼女にとって沖縄は「沖縄」であり地理上の島の名称ではない。でもそれはあの沖縄だと感じる。勿論聴く側にとって、それは変わるのだろう。一時期夢中になって聴き続けた。僕にとって、Coccoが唄う「沖縄」は何に思えたのか、実は今ではよくわからない。

4)「Change Your Mind」 Neil Young
「Sleeps With Angels」の一曲。数多いNeil Youngのアルバムの中で一番好き。曲としてみれば、彼の曲で好きなのは多い。「Tonight's The Night 」、「Like A Hurricane」などなど。アルバムとしては「Mirrorball」とか、映画「デッドマン」のサントラも凄い。以前にNeil Youngの評伝ものを何冊か読んだ。その中で特に気に入った1冊があったが、最近無性に再読したくなり探したのだけど、どういうわけか見つからない。その代わりに、ロバートキャパの写真集なんかが出てきて、それをしばらく眺めていたら、もうどうでも良くなった。

5)「Estreila」Kitaro
5曲目が一番迷った。Mary Blackの「Wonderchild」もよく聴くし、Jackson Browneの「The late show」も名曲だと信じて疑わない・・・。J-POPではLOVE PSYCHEDELICOの「Last Smile」も好きだし。このジレンマを実は楽しんでいたりする。
でもiPodで聴いている回数からKitaroを選んだ。「Thinking of you」の一曲。このアルバムでKitaroは念願のグラミーをとるのだが、確かに良いアルバムだと思う。このアルバムか初期の「絲綢之道」か迷うところ。

5.Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

・「今日が楽しく明日が楽しみ」のすなハハさん
・「ココロのポスト」のジャスパーさん
・「水色の空」のgrey_wagtailさん
・「庭子の部屋」の庭子さん
・「ほえほえぷに」のぷにさん

事前のご連絡もなしに選んでおります・・・いかがでしょうか。
勿論、パスでもかまいません、その時は無視してください(笑)
といっても、上記の方々がここまで読んでくれている保障はまったくないのですが(笑)
それから、僕は止めませんでしたけど、別に自分のところで止めても構わないです。僕としては皆さんが聞く音楽の話を聞きたいなぁっと軽い気持ちからです。

2005/06/29

スピルバーグの「宇宙戦争」

「トム・クルーズの」というより、「ダコタ・ファニングの」とした方が正しい気さえする程、彼女の印象が強い。押さえた演技というより、逆に押さえない演技であることが、少女としての役柄にリアルさが増しているように思う。それほどこの映画での彼女の存在感は大きい。

当初H.G.ウェルズの古典的SFが現代にどのように描かれているのかに興味を持った。解釈の仕方でどのようにもなる原作ではあるが、今回のスピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の場合、僕の見方として最も強く感じたのは、親子関係の再生というモチーフだった。

この映画では、観客である僕らは、トム・クルーズ演じる主人公レイが、見ることしか見えず、知ることしか知らされない。そして映画のほとんどで、圧倒的な力の前に、レイは子供と一緒に逃げ続ける。彼は圧倒的な物理的な力の前に逃げまどうだけでない、それよりもさらにレイは親として、もしくは一人の人間として、自分の子供の前から逃げまどっていたのである。彼は子供を守り逃げまどう中で、逆に子供に対し逃げずに真っ正面から立ち向かうようになる。このレイの成長が主軸となっているように思える。

この映画はレイの視点から描かれている。だから、通常このような人類の危機的な映画としては描かれていないものもある。それは世界各国での危機的状況である。この映画で描かれている舞台は米国だけなのだ。圧倒的な力の前で混乱し、攻撃される理由さえ思い浮かばない。突然に振り下ろされた力に翻弄され続ける人たち。攻撃される理由、攻撃者の正体と背景、それらは最後まで明らかにされることはない。それは実際の戦闘と同じ状況なのかもしれない。

映画の中で一人の男がレイに向かって、「ウジ虫の様に駆除しようとしている」という。ウジ虫であれば、駆除するのに何の良心の呵責もいらないだろう。でも、宇宙人が地球人を地球に蠢くウジ虫と見るのであれば、地球人なき地球を支配した宇宙人も、やはり地球に蠢くウジ虫でしかない。その意味において両者は同根かもしれない。だとすれば、この映画における宇宙人とは何を現すのであろうか。

「未知との遭遇」で宇宙人という他者との友好関係を描いたスピルバーグは、この映画では一転して攻撃を描いている。この映画を見る米国人たちは、一体どのようなことを記憶に蘇らせるのであろうか。突然の攻撃、無差別に攻撃され殺される人たち、そして逃げまどう人たち。それはグランドゼロのあの記憶ではないだろうか。見終わったとき、そんな一瞬の思いつきに、しばらく僕は囚われていた。それは見方として、批判的な方向に偏りすぎているかもしれない。

いやいや、やはりこの映画は、よけいなことを考えずに、トム・クルーズ主演の娯楽大作として見るべきなのだろう。

昔の「宇宙戦争」(1953年)の最後のシーンを思い出した。なすすべもなく教会で最後の時を待ち祈り続ける人たち、その描き方の方が、僕にとっては、今回よりも強く受け入れることができたのも事実だった。それは宗教がどうかという話でなく、「祈り」の持つ本質的な何かが、この手の映画にふさわしいと感じたからであった。今回の「宇宙戦争」にはその「祈り」という感じは微塵もない。

2005/06/27

「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」を読み高校時代の友人を思う

現象学研究会で紹介してあった金泰明さんの著書「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」を読んだ。書籍の内容であるとか書評であるとかは、現象学研究会の公式サイトに詳しく書かれているので、興味がある方はそちらを参照して欲しい。ここでは僕が読後に感じた幾つかをメモとして残した。

実を言えばこの書籍を読みながら、僕は一人の男のことを思い出していた。彼は高校時代に友人として付き合った男だった。男女を含め友人は何人かいたが、彼ほど僕の心に残る友人はいない。高校時代の僕は、どちらかといえば一人でいることが殆どだった。それを苦にすることなく、どちらかといえばそれが自然というような、そんな男だった。彼もどちらかといえばそういうタイプで、自分のことを思春期のナルシズムから「一匹狼」的な存在と捉えていたようだ。そして、僕のことも同類とみなし、彼のほうから近づいてきたのだった。彼は在日中国人だった。

彼とはよく話をした。高校時代に誰もやりたがらない生徒会を一緒にやっていたこともあり、校則で規定されていた服装などの緩和の必要性とか、文化祭のテーマだとか、様々な等についてよく議論をした。また彼から音楽についても多くを教わった。ロック、ボサノヴァ、ジャズ、彼の趣味は広く、しかも音楽の知識は深かった。今でもそれらの音楽を聴くたびに彼のことを思い出す。

その彼に一度だけ「今までに差別を受けたことがあるか」と聞いたことがある。そのとき彼は「あるよ」とぶっきらぼうに答えたので、僕は「でもお前と話をしていても、違いなんて少しも感じない」と言った。そのとき彼は眩しそうに、いやそれはタバコが煙たくて目を細めるしぐさに近い、僕をみつめ「それはそういう風な印象を与えないように俺が意識しているだけだ」と答えたのを今でも覚えている。彼にとって差別とは、差別する側が意識しなくても、受けるほうがそれを感じたら、それは差別だし、しかし、受けるほうも自分から違いを前面に出すことであってはだめだ、見たいな事を言っていた。つまり違いは違いとして、しかし公共性をもった同じ社会に暮らしている、公共性を論じるとき、やはり一緒に同じ人間として論じ合いたい、それが学校の校則問題としても、と彼は言っていたと思う。そのことを、この書籍を読んで思い出したのだった。

金泰明さんは40半ばにして大学院にてドクター取得の勉強を開始している。だからだろうか、彼の論説は僕にとってはとても現実的な意味で説得力がある。まず彼は西洋における思想家達の人権概念が二つの原理に大別できる事を仮定として設定する。「価値的人権原理」と「ルール的人権原理」の二つの原理設定は、基礎原理としても十分に耐えうる可能性を持っている。この二つの原理説明は西研さんの書評でわかりやすい。

『人権に関する二つの異なった原理を見出している。ロックの「自然権」やカントの「人間の尊厳」の立場は、個々人それ自体にあらかじめ権利がそなわっており、それを何者からも侵されてはならない「絶対的な価値」であるとみなすもので、これを筆者は「価値的人権原理」と名づける。しかし筆者は、あらかじめ個々人の人格に権利が備わっているとは考えない。人権はもともと、人びとが「「各人の生の欲望」と自由とを互いに認め合うこと」によって生まれたのであり、その面からいえば、人権とは一種のルールなのである。この考えは、ホッブズ、ルソー、ヘーゲルらの立場にはっきりと表明されており、筆者はこれを「ルール的人権原理」と呼ぶ』
(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報・第1号 西研 から引用)

その上で、キムリッカの「多文化的市民権論」を中心にマイノリティの権利論を原理的に考察しているのであるが、その考察の根本に著者である金さんの在日朝鮮人として、今後の日本社会での関わり方があるのは間違い無い。キムリッカの「多文化的市民権論」の要点は、「集団別権利」と「対外的保護」及び「体内的規制の禁止」とがあげられる。ただもともと、キムリッカの思想の背景にあるのが、カナダのケベックのフランス語系住民と北米先住民のため、在日においての適用は難しいと考えざるを得ない。金さんもその事を認めてはいるし、キムリッカの「多文化的市民権論」を原理面から見ると「価値的人権原理」の面が強い点もあげられており、その点においても、今後再検討と基礎付けがし直すべきといっている。

『キムリッカの他文化的市民権は、伝統的人権論を主に「価値的人権原理」でもって補完しようとしたものであるが、長期的にはそれが価値対立の根本的解決に資するためには、むしろキムリッカの理論を「ルール的人権原理」によって再検討し、基礎づけし直さなければなるまい。なぜならば、「価値対立」を内包する市民社会において、一つの理論がマイノリティの政治的承認と社会統合を目標とするかぎり、自らの権利主張だけでなく、社会の成員が相互に承認しあう関係の原理が求められるからである』
(「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」 P275 から引用)

金氏の視点は現実的で示唆に富んだものだと思う。特に世代が交代するたびに在日コリアン達の意識は多様化し、日本という社会で生活をする意識を持っている人も多い。その意識は僕と何ら変わるところはない。そのうえで金氏は、自己中心性から出発することと、公共性・公共的なるものへの志向性が大事であると述べている。自己中心性とは、利己主義とは違う。自分がしたい事を明確な意思を持ち描く事が、他者の中の「自分性」を大事にする事に繋がると述べている。また「私の欲望」から出発しながら常に「共通の利益」を考え判断するべきとも述べている。その違いを違いとして、公共性を考える事が、開かれた社会を作る、僕はその考えに賛成する。

本書には述べられていないが、キムリッカの理論においてもっとも重要な批判は、キムリッカが先住民などの征服などによって包含される場合をマルチネーション・ステートとして、自発的移民と明確に分けた事である。これにより、エスニック文化・亡命者・難民・外国人労働者などが人達が、そこからこぼれ落ちてしまうことになる。また二分法に分ける事自体が問題となる事も多い。

金氏は上記のようなキムリッカの二分法の視点はないようだが、キムリッカ理論を元にマイノリティ人権理論を構築する場合、気をつけなければならない点だと考える。その上で公共性を鍵語にして、なおかつ「ルール的人権原理」での捉えなおしを考えられているとすれば、金氏の理論は全く違う様相を呈するものになると想像できる。そしてそれは、今後の日本社会において重要な理論になる可能性を持っている。いや、重要度は日本だけでないのかもしれない。

僕がこの書籍を読んで、高校時代の友人の事を思い出したのは、金氏が述べる開かれた社会の条件に、友人が既に考え方として同じものを感じたからだった。違う民族ではあるが、共生したい。その願いの深いところを、まだ子供だった僕が知る事はなかった。高校を卒業した後、彼は理科系の大学で化学の勉強を始めた。当初、頻繁に電話のやり取りを行っていたのだが、次第に連絡を取り合う事が無くなってしまった。その理由は主に僕が自分の事に精一杯だったことが大きい。連絡を再びとりたいと願ったとき、彼は既に転居した後だった。今でも年一回送られてくる、高校の連絡簿から彼の消息を知ろうと思うが、行方知れずらしい。出来れば元気に生活していて欲しいと切に願う。

2005/06/26

猿橋

saru-bashi

ツーリングで甲州街道を使うとき、いつも気にしながら素通りしていた山梨県大月の「猿橋」に行ってきた。はじめから猿橋が目的というわけではなく、帰りに橋の事を思いだし、それじゃあついでに寄ってみようと思っただけなので、たいした話ではないが日記のつもりで書いてみる。

猿橋は「日本三奇橋」の一つだそうだ。現地でそんなものがある事を初めて知った。何事も3つを並べるのが好きな国民性からなのだろう、その他にも色々とあるのは知っている。その中の一つなのだろう、でも奇橋までつくるとはと少し可笑しい。ちなみに、日本三○○のこととか、3奇橋についてはこちら、また猿橋についてはこちらをどうぞ。

何も知識も無く、ただ名前が面白いからというだけで寄ってみただけだった。でもそれで、逆にすごく面白く感じた。谷が深い。橋から底まで約30mあるそうだ。橋の左側に下に降りる道があり、猿橋展望場所とか書いた看板が下りる方向を示していた。多分、谷底からの景観を堪能できるのではと、階段ばかりの細い道を下った。階段は途中できれて、ごつごつとした岩場となり、やがて川を真下に見下ろせるところまでたどり着いた。川の流れはゆったりとして、深そうだ。川の色は濃緑色だが、なんとなくミルクぽい。つまり濃い緑色のミルクといった感じの川だった。

底から猿橋を見上げようと振り返るが、猿橋は谷のせり出した岩と木々に隠れ見る事が出来なかった。展望とは何の事だろう・・・。ここまでの苦労を思い出す。
川ではドコモのTシャツを着た中年男性が一人釣りをしていた。もう少し川辺に近づきたかったが、釣りをしている人に迷惑がかかりそうだった。仕方なく、僕はまた来た道を戻った。

猿橋の正面に戻る。大勢の観光客がたむろしている。バスツアーで来たようだ。バスは5ー6台とまっていた。ツアーの目的はさまざまだが、猿橋は立ち寄る場所としては同じみたいだ。観光客達は、一通り猿橋を眺め、写真を撮り、それから例の展望場所の指示の通りに左側の道を下っていく。一言いってあげようかなと思うが、これも旅の思い出かもしれないと、そのまま何も言わずに猿橋から離れた。猿橋の隣には小さな祠があり、少ないが土産物屋も何店かあった。国定忠治に関連する屋号の店もあった。国定忠治もここに立ち寄ったらしい。

日本の風景というのは、日本の文化が背景にあるのかもしれない。それ以上に風景が文化というものかもしれない。そういえば、図書館から借りているサイモン・シャーマの大著「風景と記憶」が数ページ読んだだけで積読状態なのを思い出す。読む気は強く持っている。それに、もう少しで読み始める事も出来る。それを読むと、今僕が猿橋を眺める風景も変わるかもしれない。

猿橋は広重の浮世絵でも知られているらしい。その猿橋の浮世絵を分析しているサイトをネットで見つけた。分析をとても真面目にしていて、読んでも面白かった。
サイト:広重再考

2005/06/24

アートに関する「もやっ」とした思い

杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読んだが、自分なりの感想が思いつかない。それ以前に、杉田敦とのアートに関する考え方の違いが、一つの想いとなって行ったり来たりしている。リヒター、グールド、ベルンハルトの3人の個別の論評が面白かっただけに、それが少し残念である。僕の読みが足りないのかもしれない、そんな気持ちにもなる。再読しようかと思う。

考え方の違いは、杉田敦氏がプラトンのイデア論を持ち出した時点から明確であった。彼はイデアを目的因として、それに隷属するアートをイメージしている。アートはアートとして自己回帰的にし、そこに物語を産み出すことを否定する。
確かにプラトンのイデア論は実念論として、時として批判されている。僕にとっては、竹田青嗣氏が語るように、イデアとは、共通了解事項としての本質であり、もしくは芸術家が個々に求める美である。だから、リヒター、グールド、ベルンハルトにしろ、彼らが思い浮かべるアートがあり、それをアートとして追求する、そこにイデアがあるのでないかと思うのだ。

『物語の死というポスト・モダニズムが目指してきた地点。アートは、そこに向かって牽引的な役割を果たしてきた。しかし、その役割を成し遂げつつあるいま、最後に自分自身のなかに巣食う物語を解体して姿を消さなくてはならない。アートは存在の理由を失い、いや存在理由として列挙されたものをすべてやり尽くし、死を迎えつつある』
(杉田敦「リヒター、グールド、ベルンハルト」から引用)

杉田氏の考えが導く先は、上記の通りに「アートの死」である事は必然だと思う。でもそこには大きな錯誤があるのでないだろうか。僕はまだアートは死んでいないと思う。死を迎えたのは、フランス思想としてのアートの死だけでないのだろうか。
そんなことを色々と考えてしまう。ただ、杉田氏の意見に対し反発する自分の論拠は、実は心もとない。

僕はなにゆえに反発するのだろう。ただ一つの意見として、杉田氏の考えを承認できない自分がそこにはいる。それは一つの情念に近いかもしれない。
忘れてしまったものは、アートがアートとして目指す本質のように思える。つまりアートが一つの思想の牽引車を任じてしまったことが、いや牽引車として引きうけてしまったアートだけが、その身を袋小路に陥らせてしまったように思えるのだ。でもそれ以上先へと言葉が続かない。頭の中では幾つもの考えが巡っているのに。

やはりこの本は再読しなければならない。

2005/06/23

サイト「コネスール」でのシガー好きの方々の文章

コネスールというシガー専門店及びシガーバーのサイトにある、シガー好きの方々の文章が面白い。そのなかから幾つか引用して感想をメモしたい。
(以下の文章は全てここにあります)

『ところで、「ハバナシガー」とは言うけれど、なぜ「キューバシガー」とは言わないのだろう。それは、最高級シガーの原料となる葉たばこは、ハバナ市の西側にあるごく限られた地域でしか産しないため、あえて「ハバナシガー」と呼ぶのだ。
経済制裁によってキューバからシガーを輸入できなくなったアメリカ人は、プエルトリコやフロリダなどで、ハバナシガーと同じ葉たばこの種子や耕作方法を取り入れ、キューバ出身の職人にシガーを巻かせている。それでも、ハバナシガーの品質、特にシガーの根本といわれる「香り」には、いまだに到達できずにいる。理由は簡単で、葉たばこを育てる土壌が微妙に違うからだ。』(北方謙三氏)

北方謙三さんの文章で情けない事に初めてハバナ産とキューバ産の違いがわかった。
タバコは植物なので土壌の違いはその味に大きく影響するのは間違い無い。お茶などが好きな方は土壌の違いによる紅茶の違いを実感できると思う。それと同じ事がシガーにもいえる。パイプ・シガレットの場合、刻み方とか熟成の仕方とか、もしくは別のフレーバーを加えたり、ブレンドすることで、味を整える事ができる。整えるといっても、それはそれでとても難しい事ではあるが、ただシガーほどには、植物としてのタバコの葉のもつ個性を強く求めるというわけでもないと思う。でもハバナ産は高い。ハバナ産と銘打っているだけで価格は倍以上違ってくる。

『人間は火に対して、激しさ・静けさ・妖しさなどを感じてきました。少し大げさに言えば、火は、宇宙的な象徴として人々の心に深く入り込んでいるようです。喫煙という行為が今日まで続いてきた根源には、この火に対する信仰にも似た想いが深く横たわっているのかもしれません。「煙」「香り」「味」からなるたばこは、嗜好品として最高だと思います。この中のどの1つが欠けてもたばこは旨くありません。そして、これらは、人間の感覚、すなわち五感を楽しく刺激するところに妙味があります。』(藤本義一氏)

藤本さんのこの説に僕はかなり同意する。かつてインディアン達がタバコを儀式に使ったのは、「火」を受け渡すという意味、もしくは「火」そのものを体内に沁みこませる、という意味合いがあるように思う。逆にいえば、現在の自動販売機などで売られているタバコは、そういう儀式的なものを割愛し過ぎている様に思える。あれらのタバコは、産業革命以後の近代に合った規格化された工業製品だと思うし、タバコを吸うというよりも、もっと受動的なもののような感じをもつ。でも本来タバコというのは、自らその世界に入り、そこで遊ぶというような、能動的なものと思っている。タバコに遊びを求めるとしたら、多分シガーとかパイプとかにこだわらないと出来なくなっているが、それらを遊ぶには時間的な余裕とか空間がないのも事実かもしれない。

『シガーを吸いながら頭に浮かぶのは、昔の旅のことでもなければ、この先の旅のことでもありません。今の生活のことでもない。まったく関係のない“何か”が、ぼんやりと浮かんでは消える。それが優雅で心地いい。』(ロバート・ハリス)

ロバート・ハリスさんの言う事もよくわかる。その通りなのだ。頭に浮かぶ「何か」がとても心地良い。吐き出した紫煙の行方を目で追う。それは形を保ちながら暫く漂うが、そのうちに拡散して靄のようになる。頭に浮かぶ「何か」も同じようなものだ。

そういえば、今日渋谷のタバコ屋でオランダのシガーを買ってきた。「CAFE CREME」というミニシガーなのだが、ジョニーディップがミニシガー美味しそうに吸っていたので、一度短いのも吸ってみようと、彼と同じ銘柄ではないが安いので買ってきた。香りと味が少々淡白。それに短いので、煙が熱く、味わう感じになれない。この長さは、この長さなりの吸い方があるのかもしれない。そんな事を思った。でもパッケージデザインは現代的で好感を持った。

2005/06/21

シガーの事など

新宿に会社があったとき、今は別の場所に移転したのだが、紀伊国屋ビルの1階にあるタバコ屋さんに時々いった。シガーを買うのである。キューバ産のシガーは一本数千円する。しかもそれらのシガーはワイン貯蔵庫のように冷蔵され保管されている。その一本一本を吟味し、今日買って楽しむのはどれにしようかと考えるのである。結局、垂涎のシガーは見るだけで、一本千円位ので我慢することになるのだが、色々と迷うのは楽しい。

シガーはカッティングが命だから、カッターが重要となる。ギロチンの様に一気に均等に切る。よく西部劇などで、シガーを歯で噛み切るシーンがあるが、あれは決して、してはいけないことだ。噛み切るくらいなら、爪でちぎったほうがよっぽど美味しい。

喫味はカット面が大きいほど薄くなり、小さいほど濃くなる。勿論、火はマッチで擦ってつける、マッチもシガー用マッチでつけなければ美味しくはない。シガー用のマッチは長くて、成分としてイオウ分が少ない。

吸うときは、煙を口の中で転がす様に、肺に入れるのは少なめ、シガーは煙の味を楽しむ遊びなのだ。逆にだからこそ、喫煙場所は選ぶ事になる。一本吸い終るのに数十分かかる。匂いもシガーによって独特なので、街中で吸うわけにはいかない。どこかの適切な場所、例えばシガーバーなどに行く事になる。もしくは自宅でしかすえない。バーなどでも、匂いがきついため、お酒の匂いを楽しむ人にとって、パイプと同様に嫌がられることもある。まずは吸って良いか聞く事から始まるのは、今に始まったことではない。

考え様によっては、タバコ自体、今では吸う場所がかなり制限されている。でも、シガーもしくはパイプ好きにとっては、本当に昔から吸う場所は少なかった。

映画俳優でヘビースモーカーといえば、現在ではまずジョニーディップがあげられるだろう。ジョニーディップがタバコを吸っている写真は多い。ある写真を見たが、どうもシガレットでなくシガーだった様にみえた。少なくとも紙巻タバコではなかった。煙たそうにタバコをすう姿が似合っている。

聞くところによれば、ジョニーディップが出演した映画「デッドマン」では、彼が演じる役はタバコが吸えない男だった。そして、その彼はまわりから「たばこがないか」と聞かれ、「俺は吸わない」と答えるそうだ。そのセリフはジョニーディップがヘビースモーカーである事をしって監督がわざと付け加えたのだそうだ。

日本人でシガーが似合う男といえば、やはり吉田茂だと思う。彼のシガーはキューバでの最古ブランドである「ラ・コロナ」であった。彼は、伝説のブランドであるキューバ産シガーを吸う事で、政治家として一つの演出効果をだす事でもあったと思う。

吉田茂と同じ時期の政治家としては、チャーチルもシガー好きであった。彼のシガーはハバナ産だった。

政治家で忘れてならないのは、ケネディだろう。これはあるサイトで知ったのだが、ケネディはキューバ産のシガーを愛好していた。彼はそのシガーを大量に買い占めた後に、キューバ経済封鎖にゴーサインを出したといわれている。本当かどうかわからない逸話だが、僕は信じている。

最近僕はシガーを買っていない。好きなことは好きなのだが、わざわざ買いに行くほど好きでもないのかもしれない。それに一本数千円というのは、よほどのときでない限り吸えないのも事実でもある。ジンクスとして、映画では吸っていないシガーを胸ポケットにいれ、成功したときに吸うシーンが出てくる。日本で言えば、達磨に目を入れるのと同じだろう。できれば、そのまま達磨に目を入れるジンクスでいて欲しいと願う。選挙当選でシガーを吸えば、きっとシガーのイメージが悪くなるように思えるからだ。まぁ、そんな願いはしなくても大丈夫だとは思うが(笑

2005/06/20

バットマン・リターンズ、見終わった直後の感想

バットマン・ビギンズ」を見てきた。何故今バットマンなのかは別にして、バットマン好きの僕としては見なくてはいけない。それに大変におもしろい映画だった。展開も早いし、あのバットマンの世界観も現代的にアレンジされているとはいえ、十分に醸し出している。従来はゴッサムシティという都市世界を描く事がバットマンを描く事でもあったのに対し、今回のビギンズは、バットマンであるブルース・ウェイン個人を描く方にさらにシフトした感じがする。そして、その点においては成功したかもしれない。少なくとも僕の中では、バットマン映画として過去の作品と較べても上位にランクする内容だった。

ただ、ビキンズはスターウォーズのエピソード1から3へのダースヴェーダ誕生までの物語と重なって仕方が無かった。少なくとも僕にとって、バットマンの作り方は、ダースヴェーダーの作り方と同じだったし、しかもバットマンが武道を学ぶ師匠としてリーアム・ニーソンが登場する事から、さらにそれは強まったのも事実だった。それはアナキン・スカイウォーカーを見出したクワイ=ガン・ジン(同じくリーアム・ニーソン)と重なる。なぜ、ダースヴェーダーとバットマンが重なるのかよくわからない。たんに見え方としてのコスチュームが似ているからとかというのでなく、大元の所で両者は似ているような気がするのだ。

ビギンズでは「正義」という言葉が多く語られるが、それはこの映画におけるゴッサムシティでの概念であって、観客が映画に没頭する事が出来る「わかりやすさ」があればそれでいい内容である。映画が終わり、観客達が連れ立った友人達と早速に始める、映画の「つっこみどころ」は、映画への没頭に対する逆作用と考えれば、その量の多さは映画の成功を現しているのかもしれない。そう、この映画は突込み所満載だった。ただ、僕はその点も含めて楽しむ事が出来た。

「正義」だとかゴッサムシティの「都市論」だとかは、この映画では無縁だと僕は思う。単純に思う事は、ビギンズは「父性」について考えさせられる映画だということだ。それはダースヴェーダーが「母性」に関することと対照的でもある。ビギンズでは、主に父親の事が語られ、一緒に暴漢に合い殺された母親の事は殆ど出てこない。バットマンを鍛えるリーアム・ニーソン、見捨てることなく愛情を注ぐ執事マイケル・ケイン、彼に知性を授けるモーガン・フリーマン。彼らは、それぞれに父親の一つの姿を現しているかのようだ。しかも、少年時代に井戸に落ちた逸話は、オスライオンが我が子を谷底に落とす逸話と同じだ。

父親を喚起するイメージが多く登場するビギンズは、それが多く登場するがゆえに、逆に「父親の不在」が前面にでていると思う。
「何故井戸に落ちた」
「這い上がるためだ」

何故今バットマンなのか、それは商業的にはスターウォーズの最後の作品公開前という思惑があったことだろう。スターウォーズとこの映画は、僕にとっては完全に競合する。スターウォーズはダースヴェーダーが誕生し、ビギンズはバットマンが誕生する。それぞれの誕生が何を現すのか僕にはわからないが、ただ両者とも面白い映画であることは間違いなさそうだ。次はいよいよスターウォーズである。

2005/06/19

2005年6月19日の日記

■今日は久しぶりに朝よりツーリング。行き先を決めずにまずは東名に入る。走りつづける。しかしいやにハーレーが多いなぁとおもうが、気にしない。気になるのは、行き交うハーレー乗りが挨拶をしてくる事だ。昔であれば、ツーリング時は所謂ピースサインがすれ違いざまに交わされていたが、現在ではそういう共同体幻想は既に崩れているので(笑)、滅多に交わす事はない。
それを考えると今日はすごい。
時間を決めず、のんびりと、つまりはPAとSAに止まり止まり走り、御殿場で東名を降りる。箱根に行こうかと思ったが、箱根方面には嫌な雲がかかっている。そこで、山中湖方面にいき、そこから中央道に入って東京に戻る事にする。途中で、昼食を取り、見知らぬ土地を散歩し、またオートバイに乗る。そんな事の繰り返し。
時間と共に、オートバイの何台も見かける、しかも同じメーカー、行き交うオートバイは全て僕と同じと思えるほどだ。少し不思議に思い始める。
途中で右のウィンカーが電装系トラブルと思える状態で、点滅しなくなる。そこでコンビニエンスに立ち寄り状況を確認する。そこにたまたま一緒になったライダーと語る。勿論その方も同じメーカー。
「なんでこんなにハーレーが多いのでしょう」
と聞く僕に、彼は驚いて僕を見る。
「え、貴方はあれに来たんじゃないの}
「はぁ???」
聞けば、年に一度開催しているハーレーの祭典「富士ブルースカイヘブン」が行われていたとの事。そう云えばそういうのあったなぁ、と思い出す。しかも僕は入場券もバイク屋からもらっていたっけ・・・
気がつかずに、開催地と同じ場所に向かっていて、知ったときは終わっていたという、なんというこの身のアホさ加減。まぁ知っていたとしても行かなかったとは思うけど、その物言いが、負け惜しみに聞こえるのが不思議なところ。

■本当は別途記事をあらたに立ち上げたいほど最近気にしている事がある。それはブドウだ!
東京世田谷の自由が丘の近くにぶどう園があって、そこのブドウがたまらなく美味しい。世田谷で昔から果物を栽培していた農家があった。飯田さんといいう方で、その方のブドウは手間隙をかけつくられとても美味であった。その飯田さんのを師匠として、高橋さんがブドウを作り始める。僕が毎年行くぶどう園は高橋ぶどう園である。高橋さんのブドウへのこだわりは大きい。(世田谷ブドウ研究会のサイト
ブドウの品種は本当に多いが、高橋ぶどう園で食べる事が出来るのは、黒系では「高尾」と「高墨」「ピオーネ」、赤系では「紅瑞宝」「安芸クイーン」と「ハニーレッド」。
殆どの方のお目当ては「高尾」である。「高尾」は東京生まれの巨峰系ブドウであり、巨峰より若干小粒だが、甘味が強く、巨砲より断然に美味しい。種無し。
美味しいブドウを食べたくて、山梨まで行こうと思っていたとき、ためしに高橋ぶどう園の「高尾」を食したとき、他に行く気がしなくなった。黒系でこれに次ぐのは、藤沢のブドウくらいかも。
といっても全国には、食した事がない美味しいブドウがたくさんあると思うので一概には言えないとは思うが。でも出来れば一度「世田谷のぶどう」を食べて欲しい。
8月の一日、今だ決まらぬ日にちだが、指折り数えるブドウの日である。

2005/06/18

携帯短歌

NHKスペシャルで「携帯短歌」の話があった。帰宅してテレビをつけたら ニュースの後に放映していたのだが、その日のニュースで倉橋由美子の訃報もあったので、そちらに気をとられ、番組の中盤くらいで消してしまった。ただ、後から考えると様々なことが思い浮かび、最後まで見るべきだったのかもと少し後悔した。

番組では15歳の少女を紹介していた。彼女が表現手段としてなぜ短歌を選んだのか、そのことについていっていた言葉が気になってきたのだ。既に僕の記憶は曖昧だが、確か彼女はこう言っていたよう思う。
「詩だと長すぎるし、話としては上手くまとめることができない。5・7・5・7・7の定型の短歌であれば丁度よいし、ストレートに自分の気持ちを表現できる」と。

別に彼女のことを話そうと思っているのではない。何らかの表現手段を持っていることはよい事だと思う。そう、それは今僕がこのブログで、メモと称して何かを書き綴っていることと似ているのかもしれない。

番組のはじめに女の子の声で、言葉の氾濫ということを言っていた。確かに世の中は言葉に満ち溢れている。携帯電話でのメールを作成する姿は既に日常化している。それらは、主に友人から友人への伝言であり、近況報告であるのだろう。携帯短歌での宛先は誰だろうか。そんな事をつらつらと考える。

ロシアの詩人マンデリシュターム(1891?1938)はエッセイ「対話者について」の中で、「投壜通信=詩」であると語っている。もしかして携帯短歌も同様なのかもしれない。投壜通信とは航海者が遭難時に海に投じる瓶に詰めた手紙の事を言っている。何も携帯短歌をしている方が遭難者といっているわけでなく、マンデリシュタームの言葉を借りれば、今でなく未来に、その短歌を見つけた人に向けての発信という事だ。未来の人といっても、もしかするとそれは自分自身宛かもしれないが、それはそれで振り返ったときに笑って人に話せればと思う。

身近な家族・知人・友人に話をするのでなく、携帯短歌として発信するのは、身近な人との会話は、身近であるがゆえに限定されるからだと思う。身近だからこそ話せない事も多い。それは僕がブログをしていることから想像できる。距離を遠く離れてしまった恋人同士は、逆に電話・メールなどの交信が頻繁になるだろう。距離はあると云う事は、相手が見えないという事は、もしかすると言葉を産み出すのかもしれない。

同じくマンデリシュタームは、政治家・散文作家・演説家は今を語り、聞こうとしている者達を歓迎する、でも詩人はそうではない、逆に現在の人達に向けての詩は時として詩の美しさを犠牲にする、とも語っていた。それは、詩がアフォリズムになってしまう事への危惧を言っている様にも感じている。

『したがって散文作家は、社会より「高く」、「優れて」いなければならない。散文の中枢は教訓である。だから作家は台座が必要なのだ。詩は別物である。詩人は摂理による対話者とのみ結びつく。詩人は必ずしも自己の時代より高く、自己の社会より優れていなくても良い』
(マンデリシュターム「対話者について」 早川真理訳より引用)

短歌を考えるのはとても楽しい。それらは心の断片でもあり、記憶の一こまでもあるだろう。ストレート過ぎる短歌とか、格言にもにた短歌は、個人的な好みではないが、時としてはっとさせられる物も多いのは確かだ。それらの中の幾つかが残され、後の人に伝える事が出来たらと思う。

これらの事を考えたとき、ブログと携帯短歌とは似ているようで少し違うものだと思い始めている。ブログが広い意味での日記であるのなら、やはりそれは記録に近いものかもしれない。ただ、宛先については投壜通信に似たものを感じてはいる。

2005/06/16

冬の日光金精峠で幽霊を見たと勘違いした話

昔の事だが忘れられない話がある。会社有志でスキーに行く事になり、僕が幹事になったことがある。色々とスキー場はあるが、僕は自分の趣味から奥日光湯元スキー場に決めた。理由は簡単、冬の日光に行きたかったのだ。本当に我侭な幹事だと思う。自分のことしか考えていない。でも何故だか、その企画を友人達に言ったとき、反対は一人もいなかった。それも面白いんじゃないかと言うのだ。湯元スキー場は雪質が良いといわれていたので、それもあったのかもしれない。

というわけで、僕らは2月頃だと思うが、日光に向けて出発した。実の所、僕はスキー以外にもう一つ計画があった。それは一緒に行く友人達には話さなかったが、湯元から金精峠を越えて菅沼まで歩いてみるということだった。雪がなければ、湯元から菅沼までは観光用の有料道路があり、金精トンネルを抜ければすぐに菅沼だったので、そのイメージがあった僕は割と気楽に考えていた。

着いて翌日早朝に、友人達にちょっと金精峠に行ってくると言って出かけた。気持ちで言えば、本当に「ちょいと」という感じであった。でもそれは、有料道路を歩くといってもやはり冬山であって、雪が浅い場所でも膝くらいまでの深さを、汗をかきながら少しずつ進むといった状況であった。その日は朝から珍しく晴天で、それも行って見ようと言う気持ちにさせた理由の一つだが、一人の雪山を大いに楽しんだ。

金精トンネルの入り口に着いたとき。少し曇り始め、雪がちらほらと降り始めた。でもまだまだ視界はよく、そこから見下ろす冬の戦場ヶ原は、なんというか圧巻だった。また戦場ヶ原のむこうには中禅寺湖も見ることが出来、僕は一人その景色を楽しんだ。
金精トンネルは、雪が中に入り込まない様に、木製の大きな蓋のようなもので塞がれていたが、人が入る事が出来る程度の隙間があって、そこからトンネル内部に入る事が出来た。
トンネルを抜けるとすぐに菅沼だ。菅沼の静かな冬の情景を見ることが出来る。そんな気持ちで、僕はトンネルの中に入っていった。

トンネルの中は、蓋をしているとはいえ隙間が幾つもあり、入り口付近は案外明るかった。しかし、トンネルの出口のほうは全くの闇だった。ほんのり出口の明かりも見えないかと、僕は凝視したが、それは全く見ることが出来なかった。それでも別に構わないと、僕はトンネルの中へと歩いていった。折から、雪と風が激しくなりトンネルの蓋が細かな音を立てた。暫く歩いていると、だいぶ暗闇に目が慣れてきた。それでも出口らしき明かりは全く見えない。後ろを振り返ると入り口は小さく、ほのかな明かりとなっていた。歩く方向は闇であり、立ち止まって周りを見ると一人でやはり闇の中であった。

そのとき、前方に何体かの人影が見えた。えっと思い、目を凝らし見ると確かに人影がある。でもそんなはずはなかった。二月の封鎖された雪山のトンネルの中に、数人もしくは数十人の人がいるとは思えなかった。急に怖くなった。それは背筋から頭に突き抜ける悪寒と共に、さらに強まった。その人影は数体どころではなかった。数十という数で、微動だにせずそこに立ちつくしている。高さにして160から180cmくらい。僕は後ずさりし、そして来た道を戻ろうかと思い始める。でもそれ以上に、その正体が何かが気になった僕は、その人影に向かい歩いた。

それは氷の柱だった。トンネルの上部隙間から漏れ出した水分が下に落ち、それが瞬く間に氷って柱になったのだった。傍に行き、氷の柱を触る。気がつくと、僕が今まで歩いてきたところにも、周囲に何本も立っていた。気がつかずに傍を歩いてきていたのだった。風と雪がさらに激しくなってきたらしい。トンネルの蓋ががたがたと音を立ててゆれ始める。その時だった、僕は自分がこの闇の中に一人でいる事を強く実感したのだった。周囲には無言で立ち尽くす氷の柱。恐怖が僕を襲った。僕はトンネルの入り口に向かい走った。

トンネルを出ると激しい吹雪だった。風が強い。暫くはトンネルの中にいた方が良いかもしれないと少し思ったが、僕はトンネルの中に入りたくはなかった。そこは幽霊達のいる場所で、人がいてはいけない場所、そんな気がしたのだった。とにかくこの場から立ち去りたかった。だから、迷わず有料道路を湯元に向かって歩いた。来るときは楽しかった景色は、雪に覆われた木々があたかも僕を襲うかのように思えた。僕は、まさしく転がる様に、みっともなく、汗でドロドロになってスキー場にたどり着いたのだった。

スキー場で楽しく談笑している友人の一人が、とぼとぼと歩いている僕を見つけ、顔が真っ青だといったが、僕はただ笑うしかなかった。

2005/06/15

グレン・グールド雑感

■グールドに興味が尽きない。『「草枕」変奏曲』(横田庄一郎)と『漱石とグールド』を読んだ。『漱石とグールド』は8人のグールドに関する評論を、しかも「草枕」を通じて、集めたものだ。特にその中で、グールドが漱石の「草枕」に傾倒した事実を早くに発表した、翻訳家のサダコ・グエン氏の文章があり、彼女の文章が読みたかった。横田さんの『「草枕」変奏曲』も面白かったが、サダコ・グエン氏を含めた8名の評論の方が、それぞれ個性的でより楽しめた。

■そういえば、グールドが百数十回も見た映画があるとかで、それが安部公房原作の「砂の女」だというので、正直驚いた。グールドの愛読書「草枕」といい、映画といい、日本のものに興味があったようだ。でもグエン氏が評論で言うように、グールドの演奏、もしくは解釈に東洋的なものは感じる事はできない。東洋的な憧れというより、もっと直接的にグールドの肌に合ったということなのかもしれない。

■安部公房の「砂の女」は僕にとっても印象的な作品である。高校時代に安部公房に僕は熱中していた。それは一種の格好付けの熱中でもあったかもしれないが、動機はどうあれ、「砂の女」は本当に面白かった。勿論映画も見た。勅使河原宏監督作品だが、監督を気にするよりも、岸田今日子の演技が印象的だった。しかし、百数十回も通してみる事は僕には出来ない。

■その他、「文藝別冊 グレン・グールド」も読んだ。2000年4月に出版したこの雑誌で一番面白かったのは、伊東乾さんの評論であった。その中で、伊東さんは、グールドが率先して活用したレコードが、現在のコンサートビジネスにおいて収益の一つの柱であり、その結果楽団に頻繁なる特定楽曲の演奏を強い、練習などの修練をする時間不足による、全体を見ての技術の低下があることを示唆していた。また、各登竜門としてのコンクールの発展も、このコンサートビジネスとともに発展してきたとも述べていた。音楽といえども、市場経済を背景にした、コピーによる低品質だが低価格の大量販売という、工場製品的な製造から逃れられないのは事実なのだとあらためて考えた。さらに、現在のデジタル編集技術では、売れる音楽へと、いかなる音楽も編集可能なのかもしれない、そうなると必要なのは、ブランド化した演奏家もしくは指揮者を造る事なのだと思い至った。これもグールドが先鞭をつけたことなのだが、彼にとっては自分の音楽を完璧にするためでもあったはずなのに、流れとしてはその逆に流れている様に少し思う。

■グールドがコンサートから撤退した理由、グールドに関する評論で様々に語られる理由はそれぞれに理解はできるが、どうも腑に落ちることが少ない。その中でも一番わかりやすかったのは、ある一人の演奏家の言葉だった。彼は逆にグールドが聴衆の反応に影響を受けやすかったのでは、と言っていた。彼は、「まじめに受け取らないでくださいよ」、と前置きをいれていたのだが、同じ演奏家としての言葉が、なんだかんだといっても一番グールドの気持ちに近いのではないかと思う。

■この演奏家の言葉は説得力があるが、やはりレコード技術の発達がなければグールドのコンサート撤退は実現不能だと思う。それは音の録音と編集の技術であり、コピーアンドペーストの技術といっても良いのかもしれない。

■グールドが撤退したコンサートとは、コンサートホールという場での聴衆と音楽家とのコミュニケーションであり、そこでは同一時間と同一空間を共有し合う。グールドにとっては、聴衆とのコミュニケーションは、自分の音楽を追求する上で不必要であったということだろう。コミュニケーションをとる場合、相手に対する配慮とか気遣いを人は意識せずに行っている。その結果、自分の意見を相手に受け入れられるように少し変える事もある。それが普通といえば普通の話ではあるが、グールドにとっては耐えられないことでもあったようだ。

■別の云い方をすれば、グールドは音楽に完璧を追求するために、不純物を削ぎ落としていったのだ。そしてその不純物の一つに、聴衆との直接のコミュニケーションがある。それはある意味、演奏家として、聴衆との会話の断絶を意味している様に僕は思っている。ではグールドは個人として友人・知人との会話も苦手だったかといえば、そうでもない。グールドはユーモアを交え楽しく明るい会話をする。少なくとも表面上はそうだったようだ。でも彼は、例えば彼の書簡・著作物で語る程は、自分の信念を会話において吐露している様には思えない。

■完璧を追求する時、人は孤独の中で、自己の思考の中で、それを求めるのかもしれない。完璧でなく、成熟もしくは円熟をグールドが求めたのであれば、多分コンサートとは決別する事はなかったと僕は思う。成熟もしくは円熟は人との会話の経験・体験を必要とすると思うからだ。

■実はグールドを考える時、僕の中では「会話の喪失」という状況に思い至るが、それらはまだうまく説明できない。まさにその点でグールドは僕と現在の社会を考えるときに繋がっているように感じる。

2005/06/14

倉橋由美子さん死去に思う

倉橋由美子さんの書籍で思い出すのは、「スミヤキストQの冒険」、「聖少女」、「暗い旅」、そして「アマノン国往還記」。とくに僕が面白いと思ったのは「アマノン国往還記」だった。
つい先週、図書館で久しぶりに倉橋さんの小説が読みたいと思い、倉橋さんの小説が並ぶ棚の前でしばし迷った。「スミヤキストQの冒険」を手に取り迷いながら、結局借りずに帰ってきた。今から思うと、なぜ急に倉橋さんの小説を読みたいなどと思ったのだろう。今日、帰宅してニュースで訃報を耳にすると、偶然とは言いながら少し気になった。

僕にとって倉橋由美子の小説は、変な言い方だが、小説らしい小説、それも飛び切りうまい小説、そんな印象をもっている。「アマノン国往還記」を始めて読んだとき、その筆力と構成力とに驚いて、日本にもこのような小説家がいたのかと喜んだのを覚えている。考えてみれば、それが始めての倉橋さんの小説との出会いであった。1986年の出版だから、今から約20年近い昔のことだ。

これまた変な例えかもしれないが、夏目漱石は「非人情」という言葉で、小説における作家の姿を書き表している。それは「不人情」ということでなく、漱石に言わせると、親が子供に対するがごとく、ということらしい。つまりは、子供がおもちゃが欲しいと泣いているとき、親は一緒に子供の気持ちになって泣かない、作家も物語の中で親が子供に対するがごとく小説を書くべきとの意味らしい。間違えているかもしれないが、僕はそんな感じに受け取っている。それと同じ精神を、漱石とは全く違う小説家である倉橋さんに重ねてしまう。

彼女のベストセラーとなった「大人のための残酷童話」では、物語は読み手の望むほうには決して流れない。それは童話から物語への変換であり、そのためには漱石の言うところの「非人情」が要素として必要だと思う。でも倉橋さんにとっては、あらためて考慮するまでもなく、それは物語作家として当然であり、だからこそ、あれらの作品は彼女にとって必然だったのだと思うのだ。

底が浅い追悼のブログ記事になってしまいましたが、倉橋さん、残していただいた作品に感謝します。

2005/06/12

極上のソファーあるいはグレン・グールドの椅子

6年ほど前に僕は自分にとっての極上のソファーを探し続けた。ある1つのイメージが僕にはあった。それは僕にとっての理想のソファーだった。自分の読書専用のソファー。僕はそこに座り、時には包まれるように横たわり、本を読むのだ。ソファーと一体になり、僕自身を無くすのだ。そうすれば至福の読書をすることが出来る。

部屋の大きさからおけるサイズは自ずから限界がある。二人用の大きさ、所謂ラブチェアと呼ばれているサイズで少し大きめのソファ。構造は木枠フレームでがっしりしているもの。張り地は、出来れば牛革が良いのはわかるが、合成皮革を選択する。布張りは長期間の使用に不安を残すし、何より至福の読書をするためのソファーには布張りは似合わない。肘掛けは、横になったとき枕代わりであり、足を乗せる台になるので小さめが良い。なるべくソファーとの一体感を得るために、ロータイプは選ばない。ロータイプは部屋の環境に調和し、逆にそれが読書に没頭するために疎外になるように思うからだ。

しかし何よりも大事なことは、もちろんのこと、ソファーの座り心地にあるのは間違いない。そのために購入検討対象となるソファーには、店の方が嫌がる迄、長時間座り続ける必要がある。逆に言えば、それでソファー売り場の質というのが解る。短時間であれこれと説明をし続ける店員がいるところではソファーは買うことが出来ない。ブランドは最初から考えていなかった。それはなんというか、ソファーは個性的なものなのだ。自分に合うソファーというものが世の中には必ずひとつはある。それを見つけるには、ブランドは逆に選択する目を覆ってしまう事になる。だから、僕にとってはブランドは邪魔だと思った。

そうやって手に入れたのが、今の読書用のソファーである。ただ購入しただけでは、そのソファーは完璧とはいえない。あとは育てなければいけない。育てるために、まず自分が気に入ったソファーを購入する所から始まるのだ。「本を読む」という行為は、環境を必要とする。環境はその人の身体がそこに受け容れられることから始まるような気がする。違和感がある環境の元では「本を読む」こと自体難しい。その環境として、自宅で本を読む場所としてのソファー、勿論それは必ず読書はそのソファーですべきと言う話ではなく、選択肢としての場所のひとつでもあるのだが、それらインテリアを「本を読む」という行為を基準にして選択すること、それが僕にとっては何かひとつのまとまりをもった、自分の空間を作ることでもあるような気がしている。

カナダの演奏芸術家グレン・グールドには愛用の椅子があった。それは彼の父親が造り息子に与えたものだった。グールドにとってピアノを演奏すると言うことは、ピアノと一体になることだったと思う。まさに演奏するための機械になること。それはバッハを演奏する際に、バッハ?グールド?ピアノの連鎖の中で、出来るだけグールドをなくし、バッハ?ピアノに持っていくことでもあった。そのために必要だったのが父親が造った椅子であった。その椅子がなければグールドはピアノを演奏することは出来なかった。

写真集「グレン・グールド写真による組曲」では、様々なグールドを見ることが出来るが、最後に掲載していた写真は「グールドの椅子」であった。もしくは、CD「アンド セレニティ」では、彼が音楽に求めたのは絶えざる響きとおだやかな心として選曲しているが、CDを取ったときに現れる画像も「グールドの椅子」であった。まるでその椅子は、1982年に脳卒中で亡くなったのはグールドの体だけであり、あくまで精神はそこに顕在しているかのように、そう、まるで真のグールドのように写っていたのだった。つまり僕にとっては、グールドの椅子は象徴ではなく、変なことを言うが、グールドそのものの様な錯覚に囚われているのだ。

極上のソファーを探し回った僕は、グレン・グールドとは較べることさえできない凡人であるが、グールドが何故その椅子にこだわり続けたのかが、なんとなくだけど理解できる。身体が触れるもの、たとえばそれはパソコンのキーボードだったりマウスだったりも含めて、それらはまさに触れることで、単なる物質的なものから自分の身体の一部になると思う。身体は慣れるという。それは間違いないと僕は実感する。慣れるのであれば、それらを選ぶ必要はないのかも知れない。でも無理矢理に身体を慣らしてまで受け容れる必要性も僕に感じられない。

自分にとって極上のソファーは、まず慣れるという点で、既に自分の身体が自発的に受け容れている。あとはそこで数多くの書籍に出会う体験を得ることなのだ。そうすることで、ソファーは育てることが出来る。書籍1冊1冊の記憶と思い出によって。

2005/06/11

トーマス・ベルンハルト「破滅者」

「リヒター、グールド、ベルンハルト」(杉田敦)で何故この3人が並べて語られているのか、この本を読み始めたときは僕には少しもわかっていなかった。第一、これら3人の作品、リヒターの作品、グールドの演奏、ベルンハルトの小説、を一度も、見たことも、聞いたことも、読んだこともなかった。
そこで一旦中断しグールドを聞きベルンハルトを読もうと思った。実際にはグールドを聞きながらベルンハルトの小説「破滅者」を読むという事なのだが、これがやり始めると癖になるというか、僕にとってはとても心地好かった。グールドとベルンハルトは、音楽と小説のジャンルは違えども、とても相性が良かったのだ。

グールドの演奏曲は勿論バッハのゴールドベルグ変奏曲であるが、ベルンハルトの小説を読むことでグールドの何かが解り、グールドを聞くことでベルンハルトの何かが解る、そんな気さえする。
解る何かとは一体何だろう、それはグールドを聞いている最中、ベルンハルトを読んでいる最中に、僕の耳と眼、そして時々自然と黙読するために動く口、それらから僕の身体の中に、渾然一体となるグールドとベルンハルトのイメージを体験する事によって、漠然とそこにあらわれるもの、と言うしかないのが事実なのだ。
でもその時、杉田敦氏が、リヒターについては未だ僕には不明なのだが、少なくともグールドとベルンハルトに関しては、並び語る事がとても自然だと、僕は感じたのだった。

ベルンハルトの小説は、「破滅者」の訳者のあとがきによれば、とても読みづらい小説なのだそうだ。どういう小説なのかはこの「訳者あとがき」の一文を読めばよく分かる。

『一般の小説のように何か特別の出来事があって、それが展開し結末を迎えるというわけではなく、そのため、いわゆるあら筋というものはほとんど述べることができない。全体が書き手である「私」の<思い>なのであって、それが微妙に形を変えながら多層的に進行し、膨大な思考の流れを形成してゆく。なんと原書では、第一ページのこの三つの短い段落の後、全編にわたってまったく段落の切れ目がなく、「私」の思いが、長いセンテンスの積み重ねによって、つねに止まることなく進行し増殖するかたちで綴られてゆくのである』
(トーマス・ベルンハルト「破滅者」 岩下真好訳 「訳者あとがき」から引用)

人の思考というのは整理され秩序だって流れているわけではない。それは繰り返し繰り返し、一つの言葉、出来事、思い、記憶、イメージが現れては消え、もしくはそれを補足肉付けし、言葉として形づけられ、自分の信じる形となって表に出てくるものの様な気がする。さらに、前記の僕の言葉だけでも足りない出来事がこころの中でおこなわれている。それらを、そのまま何も手を加えずに差し出した時、この小説のようなものになるように思う。

この小説では、ほとんどの文は、「と私は思った」で終わる。一つの長いセンテンスの中に、この「と私は思った」は頻繁に使われる。

『途方もない巨大さをもったひとつの世界になろうとしていたものが、終わってみれば笑止な細部としてしか残らなかった、と彼はいったっけ、と私は思った。全て同じさ。いわゆる偉大さというものも最後には、その笑止千万さ、哀れさに感動を覚えるような段階に到達する。シェークスピアだって、ぼくらの見る目が鋭ければ、笑止千万なものに収縮してしまう、と彼はいったっけ、と私は思った。神々がぼくらの前に現れるのは、もう長いこと、髭を生やした姿で陶製のビア・ジョッキの植えにおわすときだけなのさ、と彼はいったっけ、と私は思った。』
(トーマス・ベルンハルト「破滅者」 岩下真好訳 から引用)

「と、私は思った」が頻繁に使われること、また同じ内容が執拗に繰り返される文体。しかし、まったく同じように見えても、少しずつ違い、それらが繰り返されることにより、最初とはまったく違う場所に知らずに連れられる。しかも、それらを読み手は意識することなく、読んでいると小説中の語りが、まるで自分の思考と同一化するようになり、登場人物である友人とグレングールドに対する気持ちが、そのうえで「私」と一緒になる。

登場人物の3人は、いうなれば大人になってからの引きこもりと言っても良い。あらすじは特にないと「訳者あとがき」では語っていたが、実際は「私」の友人の自殺とグレングールドの、二つの中心に「私」の思考は楕円でもって周回する。それは、片方の中心に近づくたびに速度を増し、離れると、また片方に向かって速度を増す。周回しながら、双方の点からの様々な記憶が「私」に付着し、それにより「私」の思考は肥大していく。

僕は「破滅者」をもうそろそろ読み終える。でもトーマス・ベルンハルトへの傾倒は始まったばかりだ。彼の小説をもっと読みたい、そう思う。「リヒター、グールド、ベルンハルト」を一旦中断していたが、とりあえずは元に戻れそうである。元に戻ると言っても、手ぶらのまま戻ったのでないことは確かで、逆に「リヒター、グールド、ベルンハルト」自体が脇道のひとつであるという事実を知ったことが一番大きいのかも知れない。

トーマス・ベルンハルト著作一覧(実際には小説30編・戯曲20編近くある)
・詩集『地上にて地獄にて』(1957) デビュー作品
・『霜』(1963)
・『石灰工場』(1970、邦訳あり) 在庫なし、中期代表作、これは図書館でしか読めなさそう
・『理由』(1975)
・『地下室』(1976)
・『呼吸』(1978)
・『寒さ』(1981)
・『子供』(1982)   上記『理由』から『子供』までの5作は自伝的小説
・『ヴィトゲンシュタインの甥』(1982、邦訳あり) 在庫なし、購入希望
・『破滅者』(1983、邦訳あり) 書店で多少の在庫あり、図書館から借りたが別途購入予定
・『消去』(1986、邦訳あり) 昨年邦訳されたばかりの代表作、購入済み

戯曲家としても『しばい屋』(1985)『リッチー、デーネ、フォス』(1986)『ヘルデンプラッツ』(1988)など多数の作品があるが、全て邦訳はされていない)

補足:最初にベルンハルトの事を知ったとき、何故だかユイスマンスを思い出した。勿論まったく違う。ベルンハルトには、三島が言うところのユイスマンスのデカダンスの香りは微塵もない。なぜ、ユイスマンスを最初に思い出したのか、単なる無知の技とは思うが、それこそ笑止であった。

2005/06/10

グレングールド著作集で見つけた謎の紙片

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図書館から本を借りたとき、その本に赤ペンで線引きがされていたり、思いつくままの言葉が書き込まれていたり、マーカがついていたりと、前回もしくはそれ以前に借りた人の痕跡が残っている時がある。図書館の書籍なので、それは様々な方の手から手に伝わっているのは間違いないが、それらが頁をめくるその刹那に眼にはいると、本の内容から少し離れ、その方の思いを僕の目を通して伝わってしまうのだ。以前に読まれた方の思いが伝わる。その形は様々だ、赤ペンで線引きをされた人は、その箇所をどういう思いで読み取ったのであろうかとか、頁の隅に書き込まれた言葉は一体何を伝えたかったのだろうかとか、そんな事だ。

ある時は、「日本の巨樹」という図鑑のある頁に、鉛筆で「後で連絡すること」と走り書きがされてあった。栃木の日光街道の杉並木のあたりだったと思う。書き込んだ人は日光街道の杉並木の写真を見ているときに、何かを思い出したのかも知れない。そんな想像をする。

今回借りた「グレン・グールド著作集2」(みすず書房)には、今までにない痕跡が残っていた。それは本ブログの写真として掲載したので見て欲しいが、横10cm・縦14cmの紙片に書き込まれた謎の絵柄である。グレン・グールド著作集の頁220と221の間に栞の様にして挟まっていた。その箇所は「音楽としてのラジオ」というタイトルで、グレン・グールドがラジオでの活動をしていたときのインタビュー記事の所であった。

紙片は栞として挟み込んだのか、もしくはわざとなのか、僕にはまったく解らない。また、紙片に書き込まれている内容も、単なる落書きなのか、もしくは何らかの意味があるのかも不明だ。そんなに突っ込んで考えることはしない質だが、面白いので少し興味がわく。書いた人の思いを想像する。その中でこの紙片は、彼(彼女)がグレン・グールドに思いを馳せる際に湧き出たアイデアのイメージとして現れる。そのアイデアは、この絵、しかも点対象で描かれるべき、ものだったのだろう。中の絵は人の顔の部分だと思う。「見る」と「語る」、「嗅ぐ」と「すぼむ」だろうか。それらは相互に関連している。様々な事柄が現れては消える。もしこれがわざとであれば、僕は見事に彼の術中にはまってしまったことになるのだろう。

丁度その謎の栞が示していた頁で、グレン・グールドは彼のドキュメント番組「北の理念」を通じて、モノラル放送とステレオ放送の技術的な長所短所を語っている。このインタビューのグレン・グールドはさながら優秀なプロデューサーの印象を受ける。
今読んでいるトーマス・ベルンハルトの小説「破滅者」で描かれているグレン・グールドは音楽そのものの存在として描かれていた。「破滅者」は小説なので、現実に存在したグレン・グールドとはまったく違うかも知れない。ただ、読み始めたばかりではあるが、僕はこの小説に、正確にはベルンハルトの小説に圧倒され続けている。この小説については読後感想は無理だと思う。読んだその都度僕は感想をメモしていきたい。

バッハの自筆楽譜がドイツのワイマールの図書館で見つかったと新聞報道していた。バッハ関連のことなので思わず新聞記事に目がいく。勿論、世の中の出来事は偶然で起きているのは間違いない。ただ、このような記事に、ベルンハルトの小説に、そしてグールド著作集にはさまれていた謎の栞に、僕自身が出会うのは、現実に客観に存在する世界への僕の見方が、大袈裟でなく以前とは少し変質している、そんな気がしている。

2005/06/09

自分に向けての拙い備忘的な宣言

現場でしか書くことが出来ない文章というのは確かにある。それらの一部は僕らの目の前に差し出される。たとえば今僕の手元にある有名なラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」はその一例かも知れない。その中でラス・カサスは1つ1つ具体的にインディアスが受けた虐殺を描いている。ラス・カサスはどちらかと言えば加害者側に属し、その報告書はされる側からの文章ではない。される側の文章は、する側に較べ多くは残っていないことだろう。それでも残されているのも多い。問題は残されることが出来なかった人たちの記録かも知れない。

今実際に何処かでおこなわれている殺人と虐殺。それらを少しでも想像する。その中で記録として書き綴っている人もいるかもしれない。それが後世にどの様な形で伝わるのか、もしくは伝わるのかも含めて、僕には不明だが、その心情は想像が出来るだけに、考えるだけでその立場にいることの恐怖が伝染する。

スーダン政府は民衆を虐殺している。そのスーダンで油田の採掘権を日本のNGOが得たと毎日新聞に掲載されていた。NGOと言えども、その子会社は会社組織としてあるのだろうから、企業と本質は何も変わらないと思うがどうなのだろう。
その企業がスーダンの油田採掘権を得るためには、様々な困難と、それに立ち向かい知恵と工夫で乗り越えてきた事だと思う。担当者も日々あれこれと考え、企画を策定し、会議を開き方針を決め、細かなアクション項目をリスト化し、優先順位を決め、スケジュールを定め、それを基に進捗管理を行い進めてきたのだと思う。新聞記事でもそれは一つのサクセスストーリーとして書かれていた。でも何かが違う。それは、スーダンの今の姿を語る物語ではない。当事者でないラス・カサスが書いた報告書と同じものを、何故企業には書けないのだろう。

それぞれの企業には企業文化というものがある。人それぞれにより考え方は様々だが、企業としては、ビジネスをするという観点から、様々であっては困るというわけだ。それはなるべく一つに集約しなければならない。その考え方で企業文化の基として、企業は「顧客」を造った。常にお客様のことを考えようと言うわけだ。でもそれはどだい無理な話だ。大体「顧客」とは一体誰のことだろう。

顧客を作り上げたもう一つの理由としては、以前のモデルとしての出世=人間形成が立ちゆかなくなったからだ。終身雇用制が崩れている以上、変わりのモデルを企業は造らなければならなかった。そしてそれを外部に求めた。しかし人として働くということは、それを外部に求めることではないし、それは原理的に不可能だ。だから結果的に「顧客」は一人一人の信念として、個々にそれぞれの姿を持ち、それ故に、それは声の大きな社員の意見を尤もらしく見せるための道具に成り下がっている。

たとえば、西日本JRの顧客の命を預かる責任、それはあらためて言うことでもなく、だれでも解っていたことだったと思う。西日本JRがどの様な対応をしていくのか、それは日本の企業における一つの模範となってくれれば良いとは思うが、出発点が少し違うような気もしている。

企業文化に一つ足りない箇所があるとしたら、それは一体何だろう。それは企業としての倫理観に他ならないと僕は思う。たしかに、個人情報の保護については各企業の意識は高い。それはとても重要なことだと思う。社会に利益を還元することとか、地球環境を考えることとか、1つ1つの言葉はとても美しい。でもそれでも僕は倫理ということを企業は考えることが出来ないと思う。それは企業というものの本質が、もしくは考える為の軸が、そこにはないからだ。

やっていいことと悪いこと、それは人間として個人のレベルで解ることが、企業としては不明となる。その上で僕が企業人として出来ることとは一体何だろう。多分、それは企業内で声を出すことだと思う。たとえば或る一つのサービスを立ち上げるとき、それがビジネスプランとして成立するか否かの視点だけでなく、やって良いことか悪いことかの意見を言うべきなのだ。伝えるためにはビジネスの現場としての言葉でそれを語らなければならない。それが少々やっかいではあるが、とりあえずその意識を持って始めてみようと思う。

この拙く言葉が足りない小文は、僕が僕に向けての一つの宣言です。

2005/06/07

グレン・グールド、はじめのいっぽ

結局、杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」から読み始めた。読み始めると、そこから宛もなく出口を求めて彷徨う蔦のように、関連する書籍へと流れていく。時には一時中断して違う道を歩むときもある。読書の仕方は紛れもなく散歩の仕方に相通じる。
たとえば、今僕の手元にトーマス・ベルンハルトの「破滅者」とグレン・グールド著作集がある。両者とも杉田敦氏の著作で引用していた書籍である。そして僕は「リヒター、グールド、ベルンハルト」に栞をはさんで閉じ、ベルンハルトの「破壊者」を読もうとしているのだ。また元の道に戻れるのであろうか、多少不安になるが、これも性分だから致し方ない。

グールドを起点に脇道として考えたことが二つある。一つはクラシックを演奏すると言うことについて、もう一つはフィリップ・グラスの音楽と言うこと。
クラシックを演奏すると言うこと、については別にクラシックでなくても何でも良い。僕が一脈通じるかなと思ったのは、朗読劇を聞くと言うことであった。高嶋政伸は朗読劇をライフワークにしている。彼のサイトには貴重な朗読劇を幾つか見ることが出来る。僕は彼のサイトで、泉鏡花の「天守物語」とか、チェーホフの「桜の園」とかの朗読劇を見て、その面白さに夢中になったことがある。「天守物語」には泉鏡花という作者がいる。その「天守物語」を書籍で一人で読むのと、朗読劇で聞く違いとは一体何なのだろう。そう言うことを考えたとき、それはクラシックを演奏するのを聞くのと一脈通じると思ったというわけだ。

中学の時、ベートーベンの交響楽第三番が大好きでカセットテープがすり切れるまで聞き続けた。あの時僕はベートーベン交響楽第三番を聞いていたと思ったし、だから指揮者とか楽団の事は一切気にもしなかった。カセットテープがすり切れ、別途ダビングしなくてはいけなくなったとき、僕は少し困った。なぜならその曲はCDでなく、カセットテープで購入したものだったからだ。そこで、CD屋に行き、学生だったのでお金もないことから、一番手頃な価格の第三番を購入したのだった。で、家に帰って聞いてみると、それは以前のとまったく違っていた。勿論曲としては同じなのだが、それを聞く僕としては、新たに買った方は聞くに堪えられないほど違っていた。

同じ楽譜、そこにはベートーベンによる細かな指示が書き込まれていることだろう。だから、誰が演奏しても同じになると中学の頃の僕は単純に思っていた。それに僕は、ベートーベンを聴きたいのであって、某の指揮者による、どこそこの楽団の演奏が聴きたいわけではなかったのだ。それが人によってこうも違ってくるのだろうか、そう思ったのだった。そう考えると、僕は以前に聞いたものは一体何だったのか解らなくなった。それはベートーベンの曲であって、ベートーベンの曲ではないような、そんな感触にさえ囚われたものだった。

それらのことを、再びグールドによって思い出したのだった。グールドは自らのことをこう語る。

『グレン・スタインウェイ、スタインウェイ・グレン、ただバッハのためだけの』

バッハ~演奏者~聴衆、バッハと演奏者の間には楽譜が存在するし、演奏者と聴衆の間には語る者とそれを聞く者の関係がある。グレンはピアノ(スタインウェイ)と一体化する事でバッハとの距離を縮めようとしたのでないだろうか。しかも、コンサートを拒否し、映画を編集するかのように自分の演奏を編集することで、さらにバッハとの距離を縮めようと試みた。

勿論、グレンが求めるバッハは、グレンが信じ確信する「グレンのバッハ」であるのは間違いない。それでも、そのバッハは追い求めるだけの価値があった。そんなふうに思っていたのかも知れない。

まだ、生半可なグレン・グールド感であるので、僕がこんな事を書いてもちゃんちゃら可笑しい事だろう。だから、この辺でひとまず終わる。朗読劇のこととか、演奏することとは、については、もう少し整理してから書きたいと思う。

もう一つのフィリップ・グラスについて考えたのは大したことではない。単に、「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読みながらフィリップ・グラスを聞いていただけの繋がりなのだ。

でも、フィリップ・グラスの音楽について、上記に取るに足らないベートーベンの思い出から、なにかを直感的に感じたのだ。それが実は上手く言葉にならないで、内にもやとして漂っている。反復する旋律、高低差の少ないトーン、それは浜辺に寄せては返す波の動きに似ていると言えば似ている。でも簡単にそうは言いたくない気持ちが強い。彼の音楽は、反復の面では同じではあるが、本質的にはまったく違う、そんな気がしている。そのうちに言葉となって出てくるかも知れない。

2005/06/06

高浜虚子の「斑鳩物語」

高浜虚子の小説「斑鳩物語」は面白い。「斑鳩物語」だけが面白いというのでなく、僕自身が五重塔とか三重の塔などに興味を持っているから、その延長として、この「斑鳩物語」を読んでしまうので、ことさら面白みを感じてしまうのだ。

高浜虚子が斑鳩の里で、法起寺の三重の塔を見て、中に入りたいと寺の小僧に言うが、その気持ちがよく分かる。確かに図面などで塔の構造はわかるが、やはり中に入り、上に上がり、欄干からの景色を眺めてみたいと思う。
小説中で虚子は塔の構造を知らなかったようでもあるが、その覗きたい気持ちは、だからとても理解できる。その願いを聞いた寺の小僧の言い分が、「きたのうおまっせ」である。
虚子の中を覗きたいロマン的な気分を、「汚いですよ」の一言で返す寺の小僧との微妙なすれ違いがおもしろい。

でも確かに汚いのだ。中は薄暗く気味が悪い、埃と煤で汚れているし、しかも構造上、上に登るのにアクロバット的な行動が必要となる箇所もある。
途中で虚子も嫌気がさし、小僧に「もうやめよう」などと弱音を吐く。しかし、先を登る小僧は「もう少しだ」といってそれを聞かない。虚子はその小僧の言葉に権威を感じ従うだけとなる。
もう少し登ると、上はまだまだ遠く、下も同じように遠い。どちらに行っても命を張るならばと、虚子は観念して上へと登る。その言い回しが、面白みを醸しだし、自然と読んで笑みが出る部分でもある。

最上階の迄登り、雀の糞で白くなった欄干の手すりにつかまって虚子が見たものは、景色でなく、斑鳩の宿屋で仲居のお手伝いをしていて、好感を持った女性「お道」と小坊主「了然」の逢い引きであった。二人の逢い引きは、丁度三重の塔の下だった。その姿を見て、一緒に登った小僧が言う。

『私お道すきや、私が了然やったら坊主をやめてしもて、お道の亭主になってやるのに、了然は思いきりのわるい男や。ははははは』
(高浜虚子「斑鳩物語」から引用)

小僧は兄弟子の了然とお道について、了然が修行途中で添い遂げる決心がつかないこととか、お道が了然に捨てられれば死ぬまで思い抜くと思い詰めていること等を虚子に話してから、上記の言葉を吐いて、たからかに笑うのである。勿論、法起寺の三重の塔の欄干で。
この小僧の笑いは、お道の行く末とか、了然の揺れる男心とかを、読者に考えさせる事を停止させる程の力があり、妙な面白みだけが前面に出る。

『所は奈良で、物寂びた春の宿に梭の音が聞えると云う光景が眼前に浮んで飽く迄これに耽り得る丈の趣味を持って居ないと面白くない。お道さんとか云う女がどうしましたねとお道さんの運命ばかり気にして居ては極めて詰らない』
(高浜虚子著『鶏頭』序 夏目漱石)

なんというかこの小説にあるのは風景である。それも油絵とかそういうものでなく、色鉛筆でのスケッチ、しかも色数は少ない、と言う感じで斑鳩での滞在記録を描いている。
この物語を読むとき、何を気にするかで、随分と印象は違ったものになるのかも知れない。僕にとっては、お道のことも気になるが、やはり塔の中をよじ登る描写と、寺の小僧とのやりとりが面白い。

2005/06/05

書籍備忘録

・塔の思想  マグダ・レヴェツ・アレクサンダー
何回か読んでいる本。塔好きの僕にとって、塔を美術史もしくは建築史的でない視点で論述しているこの書を始めて読んだとき新鮮な感動を味わった。
佐原六郎の「世界の古塔」と同様に塔に関心ある者にとっては必読書かもしれない。日本で同様の立場で書かれている本は、梅原猛氏の「塔」くらいだと思う。ただ、彼の「塔」は、いまいち実感が僕には伝わらなかった。「塔の思想」は何故か時折読みたくなる。ヨーロッパの塔中心なので、日本の塔を含めそのほかの地域の塔を考えると違和感をもつのは正直言ってあるし、それを含め、感想文を書きたいと思っているのだが、なかなか難しい。

・マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究  金泰明
現象学研究会のサイトで紹介していたので読む気になった本。目黒区と世田谷区の図書館に所蔵してなく、他区図書館から回ってきた。案外早く手に入った事から、この手の本は人気がないなぁと思った。目次をぱらぱらとめくってみると、どうもキムリッカの多文化主義に影響を受けているようだ。少し前に読んだ杉田敦氏の「境界線の政治学」では、リベラリスト、共同体論者、多文化主義者の問題点が洗い出されていたので、その批判に対し、この書ではどのような回答をしているのか興味が出てきている。しかし、厚い本だ・・・

・記憶 物語  岡真理
岩波の思考のフロンティアシリーズの一冊。読みやすくさらっと読み終えてしまった。とくに可もなく不可もなくという感じ。ただ、「プライベートライアン」の映画評が面白かった。
また、最初のほうで「物語」と「小説」を切り分けている事に、少々疑問を感じた。ポストモダニスト達の文章は面白いと思うが、だから何?と言いたくなるのはどうしてなのだろう。

・リヒター、グールド、ベルンハルト  杉田敦
政治学者でないほうの、評論家の杉田敦氏の本。この本は以前より読みたかった。3人の芸術家に関する評論みたいなもの。中心はゲルハルト・リヒター。
『この本は、グールドやベルンハルトが、その背後にいるリヒターの方を指し示すように、リヒターのさらに背後の何ものかを指し示している。それがアートだ。』
うーん、なかなかこのフレーズが良い、と一人悦にいっている。

・時の娘たち  鷲津浩子
実は、今回図書館から借りて、一番はまりそうな本がこれ。最近発売されたばかりの本だが、誰も予約者がいなくてすんなり借りることができた。人気作家であればこうはいかない。
アメリカ文学に関する研究書だけど、その見方というか、筆者の論の進め方がユニークだと思い、それが面白そうなので読みたいと思った。テーマは「アメリカ」文学とは何か。なぜ、アメリカ文学だけが、国名をつけているのかという素朴な疑問からこの研究書が出発している。しかも、手がかりとして、「アート」と「ネイチャー」から始める。ぱらぱらとページをめくると、不思議なからくり機械とか、そういうものが少なからず登場してくる。第一印象は不思議な本。

・詩集「石」 オシップ・マンデリシュターム
エッセイ「対話者について」を読みたくて借りてきた。このエッセイに、以前にブログで書いた投壜通信のイメージが書かれている。短いエッセイだが、さらっと読むのに抵抗があり、何回か繰り返し読もうと思っている。

・ジャンケレヴィッチ  合田正人
合田さんの文章が好きである。この人は哲学者よりも詩人の素養を持っているのでないかと、失礼ながら文章を読むとそう感じてしまう。正直言って文章はわかりづらさがあるし、明解ではない。なにより、合田さん自身がわからなくて悩んで書いているような、そんな印象をもってしまう。とくに、「レヴィナスを読む」を読んでそれを強く感じてしまった。でも言葉の使い方が、とても美しい。だから、合田さんの文章は僕にとっては言葉に身をゆだねるという、およそこの手を書籍にふさわしくない読み方をしてしまう。読み終えたときに、具体的には何も残らないが、全体のなんというかイメージが身に残る。でも結構そういうほうが忘れなかったりするものだ。あ、この本はジャンケレヴィッチの評伝みたいな本。

さてと・・・こんなに読めるのかと自分では思っているが、何とかなるだろう。途中でつまらなかったり、何が言いたいのかがわかったら、さらっと流すと思うし。でも言葉というか、文字というか、その中にどっぷりとつかりたい派なので、できればさらっと流す部分は少ない事を願ったりもしている。

2005/06/03

北斎漫画制作キットで遊ぶ

皇子

北斎漫画制作キットで遊ぶ。なかなか難しい。実は3作作ったがどれもいまいち。今見ると、何がなんだかちっともわからん!大変失礼しました・・・
サイト:北斎漫画制作キット

2005/06/02

細見和之「言葉と記憶」を読んで

細見和之氏の「言葉と記憶」(岩波書店)では3人の詩人が登場する。

尹東柱は1917年に当時の中華民国東北部(満州)間島に生まれた、朝鮮人の詩人である。1945年2月に極度の衰弱のすえに27才で獄死している。彼の詩は朝鮮語で書かれ、刊行した詩集と、日本から友人宛に送って詩編は、共に彼の友人の手で地中深く埋めて隠された。

カツェネルソンはポーランド系ユダヤ人、1886年にベラルーシ(白ロシア)ミンスク近郊の寒村に生まれた。第二次大戦前には東方ユダヤ人社会で既に活躍をしていたが、大戦勃発後の数日で地域はナチスに占領、カツェネルソンは家族と共にワルシャワに逃げ延びる。
ワルシャワ・ゲットー蜂起にも参加するが、蜂起指導部から詩人として生き証人を求められ、偽の中米パスポートを使いフランスに辿り着き、そこでナチスに捕まる。ナチスは連合国側の自国捕虜交換の交換要員としてカツェネルソンらを考えていた。
その期間にカツェネルソンは「滅ぼされたユダヤの民の歌」をイディッシェ語で書き上げ、抑留キャンプの地中に隠す。
交換要員としての役に立たないと判明したナチスは、カツェネルソンをアウシュビッツに移送し到着直後その場で直ちに殺してしまう。

ツェラーンは1920年に当時ルーマニア支配下にあったチェルノヴィッツでユダヤ系の家庭に生まれ、ドイツ語を母国語として育った。
ナチス占領により両親は亡くなったが、彼は戦後を生き抜き、それまでに彼が作詩した多くの詩編をドイツ語に翻訳し直す。彼は語学の才能があり、それまでの作品を極めて多彩な言語で作っていたのだった。
しかし、「死のフーガ」が戦後ドイツで高く評価され、教科書にすら採用されるようになったとき、むしろツェラーンは戦後のドイツに現に存在する反ユダヤ主義とナチ時代の犯罪へのアリバイとして機能しているのではないかと真剣に考えるようになる。彼は1970年セーヌ川に入水自殺をする。

上記3人の詩人について細見和之氏は書中で以下に述べている。

『その最後の作品群を抹殺されるという致命的な事態を代償にして、かろうじて残された作品の言葉を「ただしい」宛先に届けえた尹東柱、最後の作品を渾身の力で書き上げながらも、事実上その宛先の多くを失ってしまったカツェネルソン、そして、おびただしい作品を書きながらもそれが「まちがった」宛先に届くという事態を絶えず警戒しなければならなかったツェラーン』
(「言葉と記憶」 細見和之 より引用)

詩人を含め、何かを書き記すとき、何処の言語を使うかで、誰に向けて書き綴っるのかが明示される。そのことに、日本に生まれ育った日本人である僕は気が付きもしなかった。当たり前のように日本語で文章を毎日のように綴る。日常の一環として、弛緩した空気の中で綴られる僕の言葉は、一体誰宛に向けて書いているのであろうか。

確かに今では、日本国内でも英文その他の言語で小説を書いたり、論文を書いたりする日本人は多くいらっしゃる。でもそれは英語圏の人に向けてのテクストという意味合いとは少し違う。それらは不特定多数の多くの方に読まれたい文章であって、上記の3人の詩人の様に特定の誰かに向けて出したテクストではない。
カツェネルソンは何故復活したヘブライ語で書かなかったのか。それはイディッシェ語が当時の東方ユダヤ人達にとっての日常語だったからだ。そして、今ではホロコーストにより失われた言葉の一つとなっている言葉でもある。当時の状況は、カツェネルソンにとってイディッシェ語でしか書き表せなかったのだと思う。

SF作家小松左京が「日本沈没」で描きたかったのは、難民化した日本人の姿だったと思う。だから実際に(小説の中とはいえ)日本を沈没させたかった。それは象徴としての「日本沈没」ではないと思う。難民化するという思いを少しでも日本人に感じて欲しかった、だから、あの作品は「始まり」であって「終わり」ではない。

この「言葉と記憶」ではもう一つ示唆をいただいた言葉があった。それはツェラーンがいう「投壜通信」という言葉だ。ツェラーンが啓示を受けたのは、ロシアのユダヤ系詩人オシップ・マンディシュターム(1891ー1938)の以下のエッセイからである。

『航海者は遭難の危機に臨んで、自分の名と自分の運命を記した手紙を瓶に封じ込め海へ投じる。幾多の歳月を経て、砂浜をそぞろ歩いていて、わたしは砂に埋もれた瓶を見つけ、手紙を読んで遭難の日付と遭難者の最後の意志を知る。私はそうする権利がある。わたしは他人あての手紙を開封したりはしない。海に封じ込められた手紙は、瓶を見つけた者へあてて書かれているのだ。見つけたのは、わたしだ。つまり、このわたしこそ秘められた名宛人なのである』
(「石」 オシップ・マンディシュターム 早川真理訳 より引用)

ツェラーンは、詩=投壜通信であると言っている。
それは遙か以前に書かれた詩であっても、今でも波間を漂っている。たまたま浜辺に打ち寄せられた投壜を開けて中の手紙を読んだとする。確かに、拾った方が「秘められた宛先」だとは思う。でも、瓶を見つけることとは、拾うこととはどういうことなのだろう。また瓶の中を開けて手紙を読むこととは。

変な例えをするが、通信技術で一般的なものとしてカプセル化がある。違うプロトコルを通す場合、カプセル化して、あたかも通すプロトコルに準じた形に変えて通すのだ。カプセルを開ける者だけが、その情報を正しく受け取る事が出来る。途中ではそれは意味もなく、他のデータと区別さえ付かない。つまり、投壜を見つけるという時点で、その人は既に正しい宛先なのだと思うし、他の人はそこに瓶があることはわかっても、それが投壜通信だとはわからないだろう。

瓶は言語の違いで隠すことが出来る。もしくは、詩編の1つ1つの言葉の使われ方により隠すことが出来る。そしてそれらは瓶を見つけた者だけが、封入した手紙を読むことが出来る。
投壜通信に封入された手紙は、遭難者の存在通知でもあるし、記憶の断片でもある。ツェラーンにとってみれば、現代の詩人はある意味遭難者と同じなのかもしれない。

ブログ世界の中でも時として遭難者の投壜通信のような記事を見かけることがある。もしかすると現在では、おびただしい数の壜がネットの海へと投げ込まれているのかもしれない。しかし、海は果てしなく広く、その中において投げ込まれた瓶の存在は果てしなく小さい。社会を形成する一人一人が遭難者の時代。そんなイメージが突如として湧き上がる。

細見和之氏の「言葉と記憶」を読んで、少し気になったことがあった。「投壜通信」としての詩のありかた。言葉の断片に刻み込まれた詩人の記憶。それらは従来のテクスト理論では解釈不能な状況になっているのでないのだろうか。しかし、細見和之氏はそれらのことを書きながらも、尚、デリダの「作家の死」からのポストモダニズム的なテクスト解釈を堅持する姿勢が感じられた。
所々、テクスト論のルールを破る所を見せながら、小論最後で『作品はあくまで作品それ自体から理解されなければならない』としている。そしてそれは「原則」としていながらも、ツェラーンの詩は例外としてあつかっているのだ。思うにツェラーンの詩だけが例外ではない。

その他にも細見和之氏とは歴史認識の違いも感じた。僕自身が自分の歴史認識について、その根底にまで遡っての検証を怠っている面が、そこにあるのはゆがめない事実ではあるが、所々何を根拠に氏は言っているのだろうと思う点があったのも事実。それを本ブログで書くつもりはまったくないが、氏の信念とする歴史認識が、一体何をどの様になることを望んでいるのか、この書籍で読み取れなかったのが残念ではあった。勿論、それは「投壜通信」として、僕が瓶を見つけることが出来なかっただけの話かも知れないのだが。

2005/06/01

二子山親方死去に思うこと

プリンスと呼ばれ土俵際の魔術師と呼ばれた男が、その短い生涯を閉じた。元貴ノ花関の死去に際し各方面からあがる追悼の言葉に、彼が与えた大きさを感じる。それは貴乃花関が僕らに向けて与えたものだけでなく、僕らが貴乃花関を通して求めていたものへの、回顧であり、その時代の気分でもあり、今を生きる者として確認する己の信念に近いものかも知れない。

テレビでインタビューを受けた人の答えは様々であった。
「サラリーマンで言えば、勝っても負けても立ち向かう頑張り屋でした」
「弱さが良かった。弱弱大関で50場所居続けたことが良い」
「小さい体で大きな体にぶつかっていく姿が良かった」
それぞれの回答は、貴ノ花関を見る自分の生き様に反映する言葉かも知れない。貴ノ花関に自分を投影することが出来たからこそ、記憶に残る力士になり得たのだと思うのだ。

相撲の力士を英語では「sumo wrestler」という。「wrestler」の意味が「組み打ちする人」(新英和中辞典 第6版 (C) 研究社)という意味であれば、確かにそうなのかも知れないが、やはり僕のイメージでは「レスリング選手」の意味合いが強い。初めて「sumo wrestler」が力士であることを知ったとき、随分と違和感を感じた物だった。その違和感はどこから来るのか、その時はわからなかったし、今でも同様だろう。

たとえば同じ興行で成り立つ大相撲とプロレスは、似て非なるものなのは間違いないと思う。なるほど両者とも、個人戦としての格闘技であり、金を貰って見せるという面でエンターティメント性も持ち合わせているだろう。また両者とも殆ど裸体で闘うことも同じではある。

ただ、プロレスにはそこに物語が必要であるが、大相撲の一番には物語性はないと思う。強いて言えば、1場所の15日間での物語が一人の力士を中心に見れば現れるかも知れないが、それでも物語を見つけるのは至難と思うのだ。大相撲の物語性は力士誕生から断髪式までの長い期間で語られるものに違いない。つまりプロレスとは物語の時間の流れが違う。

プロレスは一試合の中で、ギリシャ演劇とも思える程の、そこには悲劇があり喜劇があり、倒すべき悪役がいて、一人の英雄が血を流し、天に向かい血塗られた顔で叫ぶ、そういう物語性があるし、見に来る人もそれを密かに期待する。それは八百長だとか、そうではないとか言われる前に一つの完成されたエンターティメントだと思う。

大相撲の場合、少し次元が違ってくる。貴ノ花関について語られるとき、決まって登場するのはお兄さんである初代若乃花関である。お兄さんが開いた双子山部屋に入門した時、兄弟の縁を絶ちきり、兄は竹刀を持って弟を鍛える。そこにあるのは、ただ強い力士を育てるという強い気持ちと、それに応えようとする気持ちのぶつかり合いである。兄も弟も「辛抱」という言葉をよく使った。確かに、「辛抱」でなく「我慢」であれば、兄の竹刀による特訓に弟は限界を迎えたことだろう。我慢には限界がある。辛抱は、多分、字の如く身体に辛さを抱え、身体と同一化すると言うことなのかもしれない。

プロレスでは、悪役の度重なる反則技に、我慢の限界を超えた英雄が血みどろになりながら、反撃をして打ち倒す。その時に発する雄叫びは、我慢し蓄えた力の最後の発散に近い。

辛抱の姿は、昭和47年初場所での横綱北の富士と当時関脇貴ノ花の一戦に現れる。新聞で脅威の粘り腰と賞賛された戦いだが、結果は横綱の右手のかばい手により、貴ノ花関は黒星となる。元横綱北の富士は貴ノ花関の追悼の言葉として、その一番を振り返り、「あれは、俺の負けだった」と語る。そして、自分にとって何もかもを出し尽くした勝負であったとも言っている。テレビで見た元横綱の表情から、かばい手を使うこと自体からして負けなのだという気持ちが表れていたのが印象的だった。その時の貴ノ花関の脅威の粘り腰が、身体として抱え込んだ「辛抱」が表に出た一番だったと僕は思う。

貴ノ花関が国民的な人気力士になり得たのは、体の小さなものが大きなものに立ち向かうという、国民感情としての判官贔屓が根にあるだけでない。プリンスという、決して王にはなれないものへの「悲しみ」をそこに観たのでもない。そこには「辛抱」がキーワードとしてあるような気がする。「辛抱」を身体として見事に発揮した姿を見ることで、日常のそれぞれが抱える辛さに対する一種のカルタシスに近いものが得られたからと僕は思う。

元貴ノ花関(二子山親方)は若すぎるその死と共に、大相撲の歴史の中で忘れられない力士になったのは間違いないと思うのだ。

ご苦労様でした。安らかにお眠り下さい。

2005/05/31

雪の女王

毎週日曜日に放映しているNHKアニメ「雪の女王」が面白い。毎放映分は、それ毎に話が完結していて、とてもわかりやすい。それでいて無理がなく、すーっと物語が入ってくるし、絵も丁寧で、全体的にみて好感が持てる。こういう品質が高いアニメを造るのは、制作側のご苦労が多いことだろうなと思うが、視聴者とすればとても嬉しい。

「雪の女王」はだいぶ前に、高校の頃に、読んだ記憶がある。細かな流れは既に忘れてしまった。確か、雪の女王に連れ去られた男の子カイを探すために、女の子ゲルダが一人で旅に出ると言う話だった様に思うが、おいおいアニメを見ることで思い出していくことだろう。先が楽しみだ。

「雪の女王」は冷戦時代のソビエトでアニメ映画化されている。残念ながら未だ見ていないが、その映画でのゲルダは闘う女性として描かれていると聞いた。
そのイメージもあるのかもしれないけど、今回テレビアニメ板に登場するゲルダを見ていると、毎回ハラハラしてしまう。たとえば1回目では、大人が「行ってはダメ」と言っている「迷いの森」に友達を連れて入っていくし、2回目ではおばあさんの熱冷ましの薬草を探しに、カイのお母さんが寝ている隙に雪の河原まで行ってしまう。つまり、大人の禁止を破る子でもあるようだ。

それぞれにゲルダにとっては言い分があるのはわかるし、アニメを見ている僕などは納得してしまう。それに、多くの物語がいうように、子供は自分の住んでいる世界から外に飛び出していくものなのかもしれない。大人が禁止するには、それなりの理由がある。それは社会の中で大人達が生きていくための了解事項であり、大人達は子供達にそれらを禁止として伝えているとはおもう。でも子供達にとっては、「外」にこそ何か新しい物、素晴らしい物が待ち受けているかのように思うのかも知れない。動機はどうあれ、旅が主となる物語は多いのは、そういうロマンを求める気持ちを、逆に物語を通じて何かを伝えようとしているような、そんな気持ちになる。

雑感:身体がだるいと感じていたが、昨日からだが寒くてどうしようもなかった。それで熱を測ったら、39度近くあった。久しぶりの発熱だ。昨晩から今朝にかけて、随分と汗が出て、熱も少しは引いたが、それでもまだ熱が少しある感じがする。昨日に較べたら、本当に楽になったのは間違いないのだが。

2005/05/29

ここ1週間ほど身体が「だるい」

ここ一週間ほど身体が少しだるい。熱があるわけでもなく、風邪を引いたという自覚もない。ただ、ここしばらく続いていている寒さと暑さに身体の疲れが取れないだけだとは思っている。同じように、季節の変わり目でだるさを感じられている方も多いのではないだろうか。
そう言う状態の時、やはりうブログで書く文章もそれに反映しているようだ。

ブログに書く材料が無くて困ることなど現実社会には少ない。問題はその材料を書くだけの価値があるのかと言うことだとは思うが、それはブログの書き手の判断に委ねられることになる。ただ身体に「だるさ」を感じる場合、そもそも考えること自体億劫なので、何かを書いても通り一遍になりがちになる。そんな文章であれば新聞サイトに行って読めばいいのであって、自分としては書く気にもなれない。

しかし、この「だるさ」の感じは不思議なものだとお思う。何処かに痛みがあれば、その痛みを取り除くべく、なんらかの対策を講じるだろう。たとえば痛み止めの薬を飲むとか、傷口があれば絆創膏を貼るとか。熱があれば、熱冷ましの薬を飲むことだろう。さらに熱が高ければ氷枕をして眠るのも良い。

でも今の僕の場合、多少、手足の筋肉の痛みはあるが、「だるさ」は内から奇妙な泡のようなものが、身体の穴から外に向かって浸み出していくような感じに近い。浸み出す過程の中で、少し筋肉の痛みに伴う張りのような、緊張と弛緩とが同時に出るような、そんな何ともいえない気分になっている。

考えてみれば、僕は「だるさ」も含めて、「痛み」、「吐き気」、「痒み」、等の身体に起こる幾つかの変化を言葉で語るとき、多少のとまどいを持って、上手く表現できないもどかしさの中でしていることを思い出す。体温計、血圧計などのスケールがあれば話は簡単かと言えば、どうもそうでもないように思う。人によって目安にばらつきがあると思うからだ。
身体が幻想的であると語る人は多い。僕もそれに同意する。

昔友人との雑談で、手鏡で女子高校生のスカートの中を覗こうとして捕まった大学教授の話をしたとき、友人は、男は女の身体に幻想を抱く、スカートの中にはパンツがあるだけだが、そんなこと誰もが解ってはいるが、スカートで隠されいる結果、そこにはある種の物語が隠されていると思うようだ、などと言っていたのを思い出す。勿論、破廉恥で反社会的な行為であることは間違いない。でも元々、痴漢とは「アホな男」と書くのであるし、そういう男は自分が造る幻想的世界と現実社会の区別が付かないのだろう。

ただ、女と男の身体が幻想的であるとは僕も思う。自分のことを「おじさん」と語る哲学者もいる。「少年」、「青年」、に続く「壮年」を「おじさん」と言うのかもしれないが、その線引きはあくまで恣意的だろう。間違いなく、その方は「おじさん」と語ることで、語る相手を限定していることになり、それを承知で半分冗句として言っていると思う。大人同士の語らいの中で、自分を「おじさん」と言う人はいないのは間違いない。「おじさん」ということで、自分を曖昧として、語る内容にある種の免罪符を手に入れている。ある意味上手い戦略かも知れない。
「だるさ」を言い訳にして、意味もなくだらだら書き連ねている僕が言うことではないのも間違いない。

2005/05/28

2005年5月28日の日記 カットアウト

■結晶作用

スタンダールは恋愛論のなかで恋の初めに見られる不思議な現象として「結晶作用」をあげている。

『私が結晶作用というのは、つぎつぎに起こるあらゆる現象から、愛するものの新しい美点を発見する精神作用のことである』
(スタンダール「恋愛論」 訳:前川堅市)

恋する相手をみつめる、息を呑む美しさと切なさ、そして動作のひとつひとつから新たな美しさを発見し続ける。恋する者の家の近くを通るだけで、胸が高鳴り、ふと目を上げると、眼前に立ち我が身を見詰めているかのような錯覚にとらわれる。そうそれは、「マイフェアレディ」の中で「君住む街角」を歌うフレディの様に。

恋愛論を語るつもりではなく、結晶作用で思ったことを書きたいと思っただけなのだ。でもひとたび、この手の話になると筆に勢いが付きすぎて、何かを話してしまいそうになる。

以前に書いたかも知れないが、映画「ドクトルジバゴ」が恋人ララの為に、一晩寝ずに作り上げた一編の詩。あのジバゴは内なる結晶を言葉に紡ぎ出そうとしていた姿だったと思う。そして作り出された詩も結晶化されていた。
その美しい詩を読み、ララは「これが私?」とジバゴに言う。ララの一言は、この詩に書かれている姿は私ではない、と言いたかったのではない。恋人の胸の内に住む自分の姿に、愛を感じ取り感動したのだと僕は思う。

美しく、言葉を結晶化し紡いだテクストを読みたいと思う。論理的でなくてもよい、明晰でなくてもよい、日本語として美しくなくても良い。勿論それらがあることにこしたことはない。ただ、出来ればそれらの言葉は、行為と共にあるべきの様な気がしている。行為、もしくは行為する状況をつぶさに理解できるような、結晶化された言葉。

■今日群馬の友人の所で

今日、モータサイクルで群馬の友人の所まで行ってきた。高速を使えば片道2時間半。近いものだ。彼との話で、お互いに共通する友人の話題になった。その共通する友人は、ここ4ー5年まったく音信不通となっている。便りのないことは無事な証拠として、忙しいのだと、気にもとめなかったが、今日行った群馬の彼は最近、その友人が4年前に語った言葉が気になるという。

4年前に、いきなりぶらりと尋ねてきて、話があるからお茶でも飲みに行こうと誘い、なんだろうと思って一緒に出かけると、普段の通りの雑談ばかり。ただ、最後に語った一言が妙に気になるというのだ。その言葉って?と聞き返すと。ありふれた言葉が返ってきた。
「おれはお前のそう言う所を、ずっと尊敬してきたんだ」

もっと大袈裟な言葉を期待していた僕は苦笑する。その苦笑する様を見て、彼は言う。あいつは滅多に人のことを誉めない奴だよな。うん、そうだ。

そのあいつが、俺を茶店にさそって、真面目な顔で別れ際に言ったんだぜ。その時はさほど気にならなかったけど、最近になって急に思い出し、それからは気になって仕方がない。でも電話をかけても音信不通だし。あいつの状況も別の所で聞いているので、電話を掛けづらさもあるし。

たしかに彼の言うとおりだ。話を聞いて、僕の心も妙にざわつき始めてきた。時折、共通の友人の姉さんから状況は聞いているので、それを彼に話すが、でも確かにその友人と直接話をしなくなってから随分とたつ。

2005/05/27

石津謙介氏死去に思うこと

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『アイビールックを世に出した石津謙介さんが亡くなった。九十三歳だった。タンスの奥深くで眠る紺のブレザーに、ふと袖を通してみたくなった人もいるのではなかろうか。体形は様変わりしてしまったが…。
▼「はやりに左右されない、男の生きざまがうかがえる組み合わせこそおしゃれの神髄」「形を着るのでなく、男としての誇りを着る」。ダンディーの神様が残した語録は味わいがあり、ボタンダウンシャツを愛した世代には、男の粋の伝道師のような存在だった。』
(2005年5月26日 産経新聞「産経抄」から引用
石津謙介氏と僕とではまったく世代が違うが、学生の頃より現在に至るまでアイビーもしくはトラッド一辺倒なこともあり、名前くらいは聞いたことがある。
両親が最初に東京に出てきたとき、現在住んでいる場所の近くに一軒家を借りて住んだ。大家の娘さんが、随分と年は離れていたが、幼かった僕と姉の遊び相手になってくれた。その娘さんは随分とおしゃれな方で、アイビーに夢中であった。でも女性向けのアイビー雑誌はなかったので、メンズクラブを見て自分なりに工夫して造って着ていたらしい。多分、僕のトラッド好きは彼女から受けた影響が大きいと思う。

アイビー、トラッドには基本が幾つかあると思う。でもそれらをマスターしてしまえば、あとは結構楽である。基本的に服装に無頓着な僕にとっては、何も考えなくても良いのがとてもいい。
それに、ファッションは螺旋階段のように、流行があたかも繰り返されるような印象を持っているので、たとえばベーシックなダッフルコートを冬のコートの通常アイテムとしておけば、流行に先なときもあれば、遅れの時もあり、その感じが時として面白い。こちらは一向に気にしてなくて、常に変わらぬ服装をしているだけなのに、回りが変わっていく、そんな印象を受けるのだ。

石津謙介氏が「VAN」を創立したのは昭和26年(1951年)のことだという。「VAN」とはライトバンのバンのことであるが、その他の意味として「先駆者」もあり、アパレル業界の先駆者の意味を込めて命名したらしい。ただ、実際は昭和21年にイブニングスター社から発刊した月刊風刺雑誌が「VAN」という名前で、石津謙介氏はその雑誌を見て、えらくこの名前が気に入ったらしく、自分の会社名は創立前からこの名前に決めていたとのことだ。

石津謙介氏のもとで働いていた、くろすとしゆき氏によれば、石津氏は好みとしては、どちらかといえばヨーロピアンで、アイビーは好きではなかったらしい。昭和29年に月刊誌婦人画報の増刊として「男の服飾図鑑」を発刊し、それが後のメンズクラブへと繋がっていくのだが、そうそうたる執筆陣の一人としてアイビーについて書くことから、石津氏がアイビー好きの人に一目置かれる存在になっていったようだ。

平凡パンチの創刊、みゆき族の出現、アイビーの大流行のなかで、「VAN」は成長を続けるが、低年齢化よりアイビーは子供のファッションだとのイメージを一般に与え、徐々に廃れていく。そして昭和53年に倒産、破産宣告を受けることになる。

日本ではファッションのひとつの姿としてアイビーは紹介されているが、実際の所、アメリカではまったく違う。アイビーはアイビーリーグというアメリカ東海岸の名門8大学を指し、プレッピーというプレップスクールを卒業したアメリカ特権階級のことを象徴する。彼らはWASP主義でエリート意識が強く、代々アイビーリーグを卒業している。現在でも上記のイメージはそんなに変わっていないはずと思う。何故なら、アイビーになくてはならないボタンダウンシャツだが、エール大学出身のブッシュ親子(やはり代々アイビーリーグ出身)はボタンダウンシャツは着ない、それは選挙基盤となる米国中西部の人たちの票を失いかねないからだ。同様に、ハーバード大出身のジョン・エフ・ケネディも最後まで着ることはなかった。

イメージとして、アメリカではボタンダウンシャツは階級を表しているとも言える。多分、東海岸の選挙区の議員達は逆にボタンダウンシャツを常に着ていることだろう。

ボタンダウンシャツだけを取り上げてもこうなのだから、それに引き替え、日本でのアイビー流行は無邪気そのものだったといえるだろう。
僕はリアルでは知らないが、銀座を昭和39年後半に出現した「みゆき族」とは一体何だったのだろう。あとから思うに、東京オリンピックの「そわそわ感」に日本全国があった時代だった。「みゆき族」にはリーダーはいなかったという。それまでの男性の価値観が変わり、力ではなく服装のセンスが良いか悪いかで評価が分かれる。ファッションのセンスの問題なので、地方も都市も関係ない。まず男たちがセンスを競うために銀座に集まり、格好がよい男性が集まるというので、噂を聞いた若い女性が集まってきたという。「みゆき族」、今では忘れられた一種のサブカルチャーを考えると、そこに何か面白いものが隠されているように思えてくる。

石津謙介氏はセンスの良いネーミングをするのが得意だったらしい。「トレーナー」、「ホンコンシャツ」、「スウィングシャツ」、「ランチコート」など今でも知らずに使われているものが多い。それ以上に、僕が彼の言葉から、今でも使っているのが「TPO」だろう。「TPO」とは、「Time(時)」、「Place(場)」、「Occasion(状況)」を繋げている。つまり、服装とは人に対する気遣いであると、石津氏は言っているのである。この考えが、僕がアイビー、トラッドにおいて一番教わったことなのかも知れない。

石津謙介氏のサイト Club1911
(出来れば残り続けて欲しい)

現在のVAN JACKET INC サイト  

2005/05/26

「アソーレス、孤独の群島」から教わるタブッキ「島とクジラと女をめぐる断片」 (その2)

アントニオ・タブッキの小説集「島とクジラと女をめぐる断片」の一編「ピム港の女?ある物語」は、1995年に発行した単行本(青土社)で20ページの小編である。あらすじは、アソーレス群島の一つであるファイアル島に、欧州戦線から逃れてきた女性と島の男性との痴情のもつれから、男性が女性を殺害するというありふれた内容となっている。設定では、その話をタブッキはファイアル島のピーターズ・カフェで知り合った、一人の酔っぱらいから、過去の話(30年以上昔の話)として聞いたとなっている。

「アソーシス、孤独の群島」で杉田敦はこの物語について以下のように語っている。

『この物語を、ピム港の酒場で実際に出会った男の話に着想を得たとして、フィクションともそうでもないともとれる曖昧な状態に置いている。自分自身とは異なる別の語り手を得ることで、本来タブッキ自身では書くことが出来ないようなステレオタイプな物語を語ることが可能になったのだ』
(「アソーシス、孤独の群島」 杉田敦 から引用)

そして、杉田氏はタブッキが酒場の男を通してそうした物語を語らせた理由として、まず事件が起きた時代背景が第二次世界大戦の切迫とした状況にあること、そしてその時代は、ピム港では捕鯨がおこなわれていたこと、などをあげている。

つまり、ピム港はその当時、米国の重要な基地であると同時に、欧州から南北アメリカに亡命する人が立ち寄る場所としてあり、女性はそんな避難者であること。その時代捕鯨がおこなわれていたことにより、ピム港自体がクジラの臭いが立ちこめ、港は黒みを帯びた血の色に染まっていたイメージがそこに出てくる。

しかも、女性が物語のなかで住んだ場所は、現在でも実際に残っていて、元はクジラの解体場所でもあったらしい。物語では男性が女性の血を浴びる場所が、実際上はクジラの血を浴びる場所であったという隠喩がそこにある。

『港を舞台とした女と男の出会いと別れという俗世界の物語は、急に神話めいた血と愛情の寓話のような色合いを帯びてきた。さらに、男の最後の言葉が追い打ちをかける。父親と二人で捕鯨と、捕鯨の合間にウツボ漁で生計を立てていた男が、ウツボを突きに行くと父親に嘘をついて出かけた夜、銛で突き刺した女の名前は、女が男に話した唯一の真実だった。イェボラシュ。イブを連想させる名前と蛇との距離は近い。彼はまさしくウツボを突いたのだ』

男が女に惹かれたのは、島にないものを秘めた美しさであった。男は女を見詰め続け、さらに女の後を追い住み場所を見つけ、部屋に入れてくれと哀願する。女は最初見向きもしないが、男が島に古くから伝わるウツボを穴から追い出す歌、それは聞いたことがないほど切ない歌、を女の家の前で歌う。そうすると女は家のドアを開け男をなかに導く。しかし、ある日女の家に行くと、そこには見知らぬ男がいる。別の男に連れて行かれることに耐えられなくなり、男は女を突き殺す。(イェボラシュの意味については、本記事最後に掲載する)

『タブッキは、一見するとありふれた物語を前面に出しながら、その背後に奇妙な神話とその挫折を忍ばせたのかもしれない。その時代と、その時代の島について少しだけ想いを巡らすだけで現れてくる物語。そんな物語を包み隠すには、飲んだくれの男の言葉が必要だったのだ』
(「アソーシス、孤独の群島」 杉田敦 から引用)

これらが、僕が「アソーシス、孤独の群島」に書かれている、「ピム港の女?ある物語」の読みである。「アソーシス、孤独の群島」は評論ではなく旅行記なので、突っ込んだタブッキの評論はおこなってはいない。でもアソーシスに滞在し、その空気に触れた杉田氏の読みは適切であると僕は感じた。ただ、僕自身は杉田氏の読みを概ねで受け容れながら、それでも杉田氏が思う、「タブッキが酒場の男を通してそうした物語を語らせた理由」が若干根拠が薄いように思えているのも事実である。

確かにこの小説において、「タブッキが酒場の男を通してそうした物語を語らせた理由」を問いとするのは重要なことだと思う。タブッキは「島とクジラと女をめぐる断片」の「まえがき」で、この小説についてこう語っている。

『それから、巻末の短編は、僕がピム港の居酒屋で出会ったある男から打ち明けられたのではなかったか。とはいっても、ひとつの人生の物語には、ひとつの人生の意味しかないと信じる人間の思い上がった理屈から、それにいくつかの事柄をつけ足して、男が話してくれた物語に改変を加えたことは否定しない。この話を聞いた居酒屋では大量のアルコール類が消費されていて、そんなとき、通常にふるまっては礼儀を失すると僕が判断したことを告白すれば、少しは情状酌量していただけるだろうか』
(「島とクジラと女をめぐる断片」 アントニオ・タブッキ 須賀敦子・訳から引用)

タブッキは作品に置いて隠喩を提示することで知られる作家でもある。ただ、この「まえがき」を読むことで僕が感じることは、タブッキ自身のアリバイ工作である。つまり、この短編は自分が語っていないことを強調している姿である。「まえがき」で書かれていることは、短編のなかでも既に書かれていることであり、この説明は二重になっている。強いて、「まえがき」にしか書かれていないことをあげれば、それはこの話は尾ひれが付いて針小棒大となっていると言っているだけであるが、小説であればそれは改めて説明する話でもない。

アリバイ工作をしてもなお、タブッキが造った短編を「居酒屋で出会った男」に話をさせる必要があったのだろうか。僕が思うに、それはタブッキが話せない内容だったからだと思う。また、小説という形であっても、タブッキが造った話と思われてはいけない話だったのだと思うのだ。それは杉田氏の考えのように、覆い隠すためでなかったように思う。それよりも、この事件は島の男が起こさなくてはいけなかったと僕は思うのだ。

殺される女性はヨーロッパ戦線から逃れてきている、いわば「大陸」の女性である。その女性は島にない美しさを持っている、それはいわば「大陸」の象徴としての女性だったのではないだろうか。そして、その女性を殺める男は「島」を象徴している。そう考えれば、「大陸」の男であるタブッキがこの話を語れない理由が見えてくると思う。小説の最後で、島の男が女性と会い、殺意を固める場面がある。そこでは象徴的に、「大陸」が「島」に対し、「下男」という言葉で表しているように思える。

『あした、発つの。女が言った。待ってた人が帰って来たのよ。まるで、おれに礼をいうみたいに笑っていたのを、どういうわけだったのだろう、おれは、あの歌のことを考えているな、と思った。部屋の奥でだれかが動いた。年かさの男で、服を着るところだった。なんの用だ。いまおれも理解できるようになったあの国の言葉で、男が訊いた。酔っぱらいよ。女が言った。むかしは捕鯨手だったけれど、銛をヴィオラに変えたのよ。あんたのいないあいだ、あたしの下男だったの。追っぱらいな。男はおれを見もしないで言った』
(「島とクジラと女をめぐる断片」 アントニオ・タブッキ 須賀敦子・訳から引用)

「大陸」からの旅行者は「島」に「大陸」から逃げるようにしてやってくる。「島」に来た「大陸」の旅行者は、「島」を気が付かないまでも、ある種の尊大なそぶりで「島」を眺める。まさしく、「大陸」にとって「島」は小説のなかで女性が言うように、下男として、「大陸」から好きなように使われる。
それが一番顕著に表れたのが、物語の時代設定である第二次世界大戦中だったように思える。中立国であるポルトガルは、枢軸国と連合国の双方に危ない綱渡り的な政治を行っていたが、独自色が強いアソーレス群島にとっては、米国基地の設置と大量の避難民が押し寄せる事態をどう思っていたのであろうか。

アソーレス群島では1980年代後半まで捕鯨がおこなわれていた。捕鯨をアソーレスにもたらしたのはアメリカからというのが一般的らしい。捕鯨と言っても日本と違い鯨油を得るためだけにおこなう。でも島の人たちにとって、カヌーで巨大なクジラを銛で突く漁は、まさしく誇りに思う男の仕事であっただろう。でもクジラを解体し血にまみれる「島」の男たちを「大陸」の人は、「島」の人と同様の眼で見ていたとも思えないのだ。やはりそこには下男にやらせる仕事の意識があったように思える。

「島」は「大陸」を目指すが、「大陸」は「島」を本気で相手にするわけではない。結局、短編の女性のように「大陸」の男に連れて行かれることになる。それに対する反抗をこの物語では語っているのでないだろうか。そして、島の男は罰を受け、「島」は「島」であることをあきらめと共に受け容れる。

この物語は、全体構成がアソーレス群島と密接な関係にある「島とクジラと女をめぐる断片」の一編であることを考えれば、1個の独立した短編と見ることが出来ないのでないかと思う。この短編も群島のひとつの島として、アソーレスの実体を語る要素もそこには含まれていると僕は思っている。

杉田氏の読みを否定しているのではない。僕は杉田氏の読みを受け容れている。ただ、それだけではないように思えた。それだけの話である。

補足:イェボラシュの意味(「アソーシス、孤独の群島」 杉田敦 から引用)
ポルトガルのアレンテージョ地方の古都、エヴォラは、アラブの支配下にあった時期に"Yeborath"と呼ばれていた。エヴォラの街の名前の由来は、エプローネス人によるものなど諸説ある。イェボラシュの発音は、テトラグラマトン(神聖四文字、YHWH)を誤用したとされるエホヴァ(Yehova)にも近い。エホヴァは、ユダヤでは蛇神と表現されることもある。一方イヴの周囲にも、エデンの園の物語に限らず、蛇の物語が見え隠れする。アラビア語では、イヴは、生命と蛇の名を兼ねた"hayyat"である。

追記:
イラク戦争直前の米国・イギリス・スペインの各首脳会談の場所も、上手く説明できないが、なんというか、欧州と米国の中間という地理的意味だけでなく、「島」だから選ばれたという印象も僕には多少はある。
これで「アソーシス、孤独の群島」を図書館に返却できる(笑)。