2005/01/29

「HyperCard」から生まれたモダンアート

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アランケイがダイナブック構想を立ち上げたとき、現時点で最も具現化した姿として、僕はMacの世界に入り込んだ。その当時の僕はパソコンの将来に「ドラえもんのポケット」の様な姿を見ていたように思う。

ただ当時Macはやたらと高価で、やっとの思いで購入したのが「SE/30」だった。「ハイパーカード」は、その当時のMacに標準添付していて、Macを購入する動機の1つになっていたのは間違いない。僕も幾つか自分のために「ハイパーカード」でアプリを作っては楽しんだ。

当時は本当に多くのスタック作家がいて、Mac同士の場合、ハイパーカード形式のファイルでの流通は一般的であった。

ハイパーカードはオブジェクト同士を結ぶハイパーリンク構想をカード単位で具象化したソフトだったと思う。でも、質の面でWWWへと置き換わっていったような気がする。だから、僕にとっては、ネットというよりはWWWの登場によって、Macを使う理由が無くなっていったように感じている。そして、今から10年以上前に僕は、当時の言葉で言うと「転向者」になった。
丁度その頃あたりに、Appleでは「ハイパーカード」のフルセット版が有料になったとおもう。それ以降はMacに標準添付されたのは機能制限版だった。そんな流れで、Macの世界からハイパーカードは消えていった。それはMacが普通のパソコンに変わっていく流れでもあった。少なくとも僕はそう感じていた。

そんな「ハイパーカード」がモダンアートで生かされているという。記事は「旧型マックと『HyperCard』から生まれたモダンアート」。
『「引退するまでMacintosh Classicを使いつづけ、それでいて作風を決して繰り返さないことだって可能だ」とボーラム氏は話す。「人々はいまだに、鉛筆や絵筆で描くことをやめていない。可能性が尽きていないからだ。私も同じように感じている」』(同記事より引用)
僕はこの記事を読むまで誤解していたことがあった。僕は、人が表現したいことを実現するために、新しいテクノロジーが産み出されるのであれば、その線上にある古いテクノロジーからは新しい物は何も産まれないのではないかという考えを基本に持っていた。
しかしその考えは、幾分古いテクノロジーを、「古さ」の1点だけで自分で限定していた部分がある様に思えたのだった。確かにボーラム氏の言うことはもっともかもしれない。ただそれ以上に感じることは、彼の作品を見るときに、同時に古いテクノロジーで表現する環境も見ている事であり、それらが作品に対して一定の意味を与えていると感じる様にも思える。

新しいテクノロジーは古いテクノロジーを包括しながら発展してきたのでは無かったのだろうか。暗黙のうちに僕らはそう考えると思う。そしてその考えが、ボーラム氏の作品に対する、現代のテクノロジー全体へのアンチテーゼとなっているかの様に捉えてしまう。
でも別の見方をすると、新しいものは古いものの全てを包括して発展してきたのではない、との考えもあると思う。そしてボーラム氏の発言は、彼がその考えであることを示唆しているかのようだ。

包括されていない部分とは一体何だろう。正直僕にはわからないが、1つに上げられることは記事にあるように、「遅さ」かもしれない。ただ、ボーラム氏にとっては、その部分を正確に理解し、それ故にかれが表現したい芸術に「ハイパーカード」を使ったのは間違いないのだろう。

「ハイパーカード」を開発したビル・アトキンソンは、Macに同ソフトを標準添付することを強力に推し進めたそうだ。彼は自分がやりたいことを楽に出来るように、ハイパーカードを開発した。現在は自然写真家になっているビル・アトキンソンは、最新PCとMacを写真加工に使いながら、他にもクラシック環境のMacで自分の作ったハイパーカードアプリを使っているそうだ。

もしかすると、僕がMacに感じた一種の諦めは、期待値が高すぎることの反発もあったとは思うが、時期尚早だったかもしれない等と考えてしまった。

関連サイト
ハイパーカードパーク
ビル・アトキンソンの自然写真サイト

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