2005/02/24

恋人の携帯、盗み見たことってあります?

「携帯といえば、いまや「プライバシーの固まり」。電話帳を見れば持ち主の交友関係が分かるし、メールを読めばその人の生活が相当分かってしまう。」
(IT?Mediaから「恋人の携帯、盗み見たことってあります?」引用)

以前、友人の女性が旦那のPCメールを盗み読みしたら、浮気の内容のメールを見つけ、かなりショックを受けた話を聞いた事がある。勿論その女性は旦那の行動に疑問を持ったからPCメールを覗いたわけで、疑いがなければ気にもしなかっただろう。PCの場合、立ち上げるときにパスワードでもしておけばよいと思ったが、友人の旦那は奥さんがPCには疎いと思い安心していたらしい。

携帯の時代になっても、男女の仲は基本的に有史以来そんなに変わりはないかもしれない。つまりは疑惑をもたれたら、持った方はますます膨らみ、何らかの行動をとらなければ自分の気持ちが収まらないと言うことだ。例えば、デート中に度々メールの着信音が聞こえたり、ちょいと手洗いに行って戻ってきたときに相手が電話をしているのを見かけたり、さらに戻ってきた自分を見て即時に電話を切ったりすると、これはもう疑惑の種を蒔いたのと同じ事だろう。

記事によれば、相手の携帯を盗み見するのは、全体で約28%。そのうち男女別は男性18%、女性38%。まぁ、大体が盗み見しても、友人の女性のケースの方が希で、殆どは何の問題がないことの方が多いとは思う。
「思ったほど自分の亭主(恋人、奥さん、なんでも入れて下さい)はもてはせず。」の例えは現代でも通用するような気がする。

でも何故男女間はそういう疑惑の思いを持ってしまうのだろう。こういう問いをしても、回答はそれこそ人の数ほど出てくるのかもしれない。そういえば最近読んだ本「街場の現代思想」(内田樹)に面白いことが書いてあった。
「男女関係においては、相手のふるまいに、何となく違和感をもたらすような変化を感じた場合に、それをとりあえず「愛情が失われつつある予兆」と解釈しておくことの方が、おそらく人間にとって「自然」なのである。私たちは愛については、何がおきても穏やかな気持ちでいることより、ささいなきっかけで絶望することの方を好む。」
(「街場の現代思想」内田樹 P174から引用)
つまりは「誰にとっても、愛の終わりは構造的に不可避」だと内田樹さんは言っている。もしかすると、携帯の盗み見はその始まりなのかもしれない。でも内田樹さんの文章はさらに続く。内田樹さんの名誉のためにも続けて引用する。
「私たちが破局に向かって加速しているとき、実は私たちは思考の自由も想像力も奪われ、そう「妄想」する事を強いられているのである。愛において自由であろうと望むのなら、私たちがなすすべきことはとりあえず1つしかない。それは愛する人の「よくわからない言動」に安易な解釈をあてはめないことである。「私にはこの人はよくわからない(でも好き)」という涼しい諦念のうちに踏みとどまることのできる人だけが愛の主体になりうるのである。」
(「街場の現代思想」内田樹 P176から引用)
内田さんの文章にある「諦念」が難しい。涼しい諦念を持っている人は、多分携帯を盗み見しないような気がする。僕自身も盗み見は一度もしたことがないけど、それは諦念ではなく、自分の仕事が通信分野で「通信の秘密」を教育されているからに過ぎない。いわば、身体がそういうふうに染みついているだけの話だ。見ようとする人の気持ちも、興味ないという人の気持ちもよくわかってしまう。簡単に言えば善い悪いの単純な問題では当然にない。

しかも「構造的に不可避」であるのなら、疑惑を持つ前に「諦念」の状態にある事が必要となる。でも「諦念」って個人的な感想を言えば、夫婦歴数十年のカップルで成し遂げる事ができる大事業のようなものだろう。それを若い男女に求めるのは難しいかもしれない。仮に得られたとしても、様々な恋の経験がそこには必要な気がする。

そういえば以前、別の友人に「貴女にとって愛って何?」って聞いたことがある。
老婆心ながら言い訳をすると、随分と不躾な質問のように聞こえるかもしれないが、勿論この質問に至る背景があり、それはこの場の趣旨ではないので省いているだけなので、あしからず。その時にその女性は即座にこう答えた。
「相手に何も求めないことです。」
その答えを聞いて、僕は全てが腑に落ちた事を、今でもこの言葉と共に覚えている。勿論、僕の質問に対する正解などない。それぞれに思っていることが正解だと思う。でも、その言葉は内田さんの言うところの「諦念」に近い様に思える。

なにやら携帯の盗み見から、全然違うところに話が来てしまった。だいたい「盗み見る」という表現が良くない。まずは疑念を持ってしまったら、相手に自分の気持ちをぶつけることから始まるような気がする。そしてその時の相手の言葉を信じるのだ。そう言うことを何回か繰り返すことで、もしかしたら、内田さんの言うところの「諦念」に少しでも近づけられるような気もする。信じられないときは・・・その先は僕にはわからない。

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