2005/03/13

読み手の時代

▼ブログで毎日記事を書き続けると、ふと思うことがある。この記事を書いたのは本当に僕なのだろうかという疑問だ。時に過去に書いた記事を読み返したときに、その考えは現れる。勿論、過去を含め記事を書いているのは紛れもない僕自身だ。でもそれらのテキストにおいて、主体としての僕の存在はなぜか薄い。

▼僕にとって主体とは、記事のオリジナリティとは少し違う。
オリジナリティは良く、「誰でもない私の何か」と言われる様に、他の人とのネガティブな関係において導かれるものだと思う。
「Aでもなく、Bでもなく」という具合に、差を較べ、残ったものがその人のオリジナリティと言われるような気がする。
僕の場合、多くの記事は僕にとっての現象の書き写しだったり、書籍から影響を受けての言葉だったり、人の話だったりする。多分、記事の中身にオリジナリティは殆どないが、それらの「語り方」が、他の人と少し違う何かが在れば、それが僕のオリジナリティだとは思う。でも、実はその点に関しては全く自信がない。それでも僕は何とか記事を書いていける。

▼でも記事の主体となると少し話が違ってくる。誰でもそう思うかもしれないが、僕が書く以上、僕の記事は書き手である僕の完全な制御下におきたいと思う。でも一度たりともそれを満足したことはない。いつも、記事は書きすぎるか書き足りないかのどちらかでしかない。また、自分が思っても見ない事を書いたり、書きたいことが結果的に少し違ったりする。その点において、僕が書く記事は、僕の意志とは違った場所に存在している。

▼さらに記事は一回性ものだから、書いている時点でパソコントラブルで消去されたりすると、二度と同じ文章は書けない。その時は、以前の消された記事を思い出し書くことになるが、できあがった文章は以前とは違うし、内容も時として結論も違ったりする。消去前の文章も、僕が書いた文章のはずだが、僕にとってその文章は、僕が書いた印象をもてないのだ。これも、僕が書くテキストを制御していないことの証左かもしれない。

▼なにかこんなことを考えていくと、書くという行為においての主体は確かに存在するが、その結果として生成されるテキストに主体はいないような気になってくる。仮にあるとすれば、テキストが生成する前の段階なのかもしれない。生成以前において書き手は、色々なことを考え、構想を練り、文章をイメージする。その時、書き手は頭の中でテキストを制御している感じを受ける。でもそれがテキストとして、書き手の内から表に出たとたんに、書き手を置き去りにする。

▼読み手から見たときの話をすれば、一部の人気作家を除き、殆どの場合は書き手のことを意識することは少ないように思う。例えばグーグルで検索の結果、僕のブログに来た人は、僕という書き手のことは全く意識していないはずだ。そこにあるのはテキストだけだと思う。検索者が望む内容がそこに在れば、彼は読むだろうし、なければ次の検索場所に飛ぶだけだ。彼にとっては書き手は常に不在なのだ。同じ様な傾向は、ネットで公開している多くの小説についても言えるように思う。

▼ただネットツールの中でブログは、ウェブなどに較べると、書き手が表に出ていると思う。それは、「書く」「読む」の単独の行為の他に、「関係」がそこに入っているからかもしれない。その点でブログの考察をおこなえば面白いかもしれない。つまり、ブログは書き手不在の状況から脱却することを目指した結果、多くの利用者が増えたという考え方だ。

▼2年ほど前だったか、僕は村上春樹の全小説を3ヶ月かけて読んだことがあった。丁度「海辺のカフカ」が出版する少し前のことだ。彼の年代順に読むのでなく、思いつくまま読み続けた。その時は僕の空き時間は全て「村上春樹」だった。最後に「ダンス・ダンス・ダンス」を読み終えた時、村上春樹の小説に完全に飽きてしまった。それ以降、彼の小説は一編たりとも読んではいない。

▼彼の小説には、村上春樹のオリジナリティがあった。しかし、それは彼の小説の内容ではない。僕にとって彼のオリジナリティは「文体」であった。語り方と言っても良いかもしれない。でも村上春樹が書く小説は全て同じ語り方だった。語り方が同じであれば、内容が違ったとしても、読み続ければ飽きるということかもしれない。

▼僕にとって、作家の語り方とは一体何だろう。それをうまく伝える術を現在の僕は持っていない。ただ、文体とも違うし、短いセンテンスで得られるものでなく、全体を通じて感じる何かなのだ。僕が村上春樹で思いだすのは、彼の経歴でも、写真に写された彼の姿でもなく、彼の語り方となる。村上春樹を理解することは、その語り方を理解することに等しい。そしてそれは、村上春樹という人を理解することと同じではない。

▼村上春樹をここに登場させた理由は、人気作家においても、ネットでの「書き手」と同じ状況にあるのではないか、ということを言いたかっただけなのだ。名前を意識しているのは、単に商品名としての名前であり、それは例えば「抹茶のアイスを食べた」の「抹茶」に相当するだけで、グーグルで「抹茶」を検索して得られたテキストと同じ重みしかないと思っている。

▼多分、作家は従来の孤独な文筆作業であり続ける結果、さらに自分の語り方を昇華してしまう結果になるような気がする。でもそれは、オリジナリティの追求ではない。読み手からみれば、それは逆にオリジナリティを薄める結果に繋がるのでないだろうか。

▼多分、現在は読み手の時代なのだと思う。作家にとっては大変な時代を迎えたのかもしれない。作家は多分自ら変革して行かなければならない時代なのだとおもう。その中で、実はランディさんに期待している。ランディさんが、作家になったのが遅かったことと、ブログなどで他の書き手(ブログの書き手)と交わろうとする姿に期待してしまうのかもしれない。

0 件のコメント: