2005/03/18

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」感想(その2)

僕らがいくら「愛」を語ろうと、語る瞬間から言葉は迷宮の暗闇へと誘う。迷宮の奧には何がいるのだろう。それは犠牲を拒んだ結果産まれた、人肉を食らう異形の者が住むだけなのかもしれない。もしくは聖なる秘宝が冒険者の手に委ねられるのを待っているのかもしれない。でもひとたび、語り漂う言葉を求め迷宮を彷徨えば、僕らは自力ではそこから抜け出ることが出来ない。迷宮の奧から戻るには、愛する者が提供する麻糸をたどるしかないのだ。

レイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」の感想を書くつもりでいた。実際に少し書いてもいた。でもいま僕はそれを放棄しようかと思い始めている。
のど元まで出かかった様々な思いが、言葉となって出てこないのだ。僕の中には確かに、この小説を読み、感じた想いが在る。それは、僕らが「愛」を語ろうとしても語れない事だったり、「愛」を成就する為に必要な「第三者の死」という供物の話だったりする。しかし、それらを物語の「あらすじ」と小説の「引用」で説明することの限界を僕は感じている。

もっと自由に、膨らんだイメージだけで読後の感想を書き表すことが出来ないだろうか。そんなことを考える。それこそない物ねだりということかもしれない。結局僕は出来るだけ、慎重に進んでいくことしか出来ないのかもしれない。でも、あらすじの説明と引用は最小限に控えよう。それより自分のイメージを言語化することを考えよう。うまくいかないかもしれないが。

「愛について語るとき」に「愛」そのものを語ることは難しい。「我々の語ること」は「愛」にまつわると信じる経験を語るしかない。その語る言葉は「愛」の回りを漂うだけだ。
タイトルで僕が感じることは、愛について語ろうとするとき、我々は愛とは別の何かを語ってしまうと言うことだった。「愛」に言葉で辿り着くことは難しい。それは語れない何かだからだ。

この小説は2組4人が集まり、ジンを飲んでいる設定から始まる。2組4人とは、僕(ニック)、僕の妻ローラ、心臓の専門医である友人のメル、そしてメルの妻であるテリ、で仲の良い友人同士。
小説のあらすじは、この4人がメルの家の台所で語り合って終始する。レイモンド・カーヴァーの他の小説と同様に、何も特別なことは起こらないし変わらない。何気ない些細な日常の中にある一抹の不安が顔をだす寸前の所で、この物語は終わる。

彼ら4人は「愛」について語り合う。その中で色々な話が登場する。テリが前に一緒に過ごした男性、メルの愛についての考察、事故にあった老夫婦の話、メルが生まれ変わりたい中世の騎士の事。メルの前の細君の話。
それらの話題に共通するものは何だろう。それが逆に言えば「我々が語ること」の何かに繋がると思う。まずは、テリが以前に一緒に暮らしていた男の話をみてみる。

『私がメルと一緒になる前に暮らしていた男は愛するあまり私を殺そうとしたのよ、とテリは言った。「ある夜、彼は私をさんざん殴りつけたの」とテリは言った。「そして私の足首をつかんで居間じゅう引きずり回したの。彼はこう言い続けていたわ、『愛しているよ、愛しているよ、こん畜生』って』

メルはテリの以前の男の行動が「愛」によるものだとは信じることが出来ない。
「僕が話している愛というのは、人を殺そうとしたりはしないものなのさ」
でもテリは頑として、前の男は私を愛していたと譲らない。そういう愛の姿もあるというのだ。

「愛」には対象となるものがそこには在る。そして、そのものとの関係性の中でしか理解できない状況と「愛」がある様に思う。テリはそういう「愛」を理解して欲しいわけではなく、ただ認めて欲しいとメルに望む。

テリの以前の男は、テリとメルの愛が成就する事によりピストル自殺を試みるが失敗する。彼は頭が通常の倍以上に膨れ、3日間意識が戻らないまま死んでいく。その彼をテリは3日間病室で看病する。テリにとっては、自分を愛する故の死なのだから、彼女は彼に何らかのお返しをしなくてはならないと思う。でもメルはその気持ちがわからない。

本ブログは単なる感想なので、自殺について記述するつもりはまったくない。ここで書きたいことは、メルとテリの関係の外に、一人の男の死があったということなのだ。
このパターンは彼らが「愛」を語る話題に全てあてはまる。それは第三者の死、とでも名付ける事が出来る。第三者とは、愛し合う二人に関係ない者の死のことだ。

例えば、事故にあった老夫婦の話の場合には、事故の原因としての「酔っぱらい運転の少年」が登場しハンドルが胸骨を突き破り即死する。メルが時空を越えて生まれ変わりたい中世の騎士は、逆に馬から転落し身動きが取れない状態の中で、見知らぬ相手に愛のために殺される。別れたメルの細君をメルは死んで欲しいと願い、妄想の中で蜂を使って殺す姿を想像している。

愛の成就の為に必要な「第三者の死」の図式に何があるのか、実は僕にはよくわからない。ただ、「愛について語るとき我々が語ること」は「死」についてということであるかのようだ。
(その3に続きます。ただし不定期です)

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