2005/03/29

村上春樹「パン屋再襲撃」、物語の行方

200503306e9d9c82.jpg村上春樹の短編小説「パン屋再襲撃」は1985年に雑誌「マリー・クレール」8月号に掲載された。8月号となってはいるが、実際に発売されたのは7月のことだと思う。新聞は豊田商事の永野一男会長刺殺事件が占めていたことだろう。多くの報道陣が自宅マンション前に陣取るなか、暴漢2名が押し入り、永野会長を刺殺した事件は未だに僕の記憶にある。しかし、それから1ヶ月後、新聞は更に大きな事件報道を行う。あの御巣鷹山への日航機墜落で、520名もの乗客乗員が帰らぬ人となったのだ。

「パン屋再襲撃」のあらすじを簡単に記すとこうなる。「僕」と妻は夜中に同時に目が醒める。そして二人とも異様なほどの空腹感を覚える。その中で「僕」は、その圧倒的な空腹感を過去にも味わったことを思い出す。それと同時に過去の「パン屋襲撃」の記憶が蘇る。妻はその話を聞き、呪われた状況がそこにあり、その呪いを解消するために、異様な空腹感がある今こそ、再度パン屋を襲撃すべきだと主張する。妻に引っ張られる形で、「僕」は深夜のマクドナルドを襲撃し、ビックマックを30個強奪する。

豊田商事の商法は主に一人暮らしのお年寄りに歩み寄り、徹底的に人情と親切を道具にして信頼を得るというものだった。被害者の中には、夕食の材料を老人宅に持ち込んで、「おばあちゃん、僕を息子だと思って、今日はすき焼きを作るから一緒に食べましょう」と云われた人もいたという。その方にとっては、優しい息子の登場で新たな物語を自分に語り始めたことだろう。突然に、その男が息子でなく、自分の貯えを狙う他人であると知ったときの驚きはどれほどだったであろうか。考えるだにおぞましい話だが、語り始めた被害者の物語は何処にいったのであろうか。多分それは物語の終焉でしかない。新たな物語はそこからは産まれない。僕はそう思う。

人は物語の中で生きているのかもしれないが、その物言いには誤解が生じるかもしれない。でも少なくとも僕にとっては、人は物語の中で、自分が幸せであることを実感する時もあるような気がしてならない。

「パン屋再襲撃」も物語の終焉を現しているような気がする。パン屋はなぜ再襲撃されなくてはならなかったのか。それは最初の襲撃が物語として成り立っていなかったからだ。
物語として成り立たずに放置することで物語は呪いに変質していく。物語として成り立たせるためには、主体はあくまで主体として振るまい続けなければならない。
桃太郎の物語が、途中で鬼が主人公になったら物語として成立しないのとそれは同じだろう。
最初のパン屋襲撃において、途中で襲われたはずのパン屋がワグナーの曲を聴いたらパンを好きなだけやると取引を求め、それに応じることで、物語は主客逆転してしまう。
成立できなかった物語は伝わることなく封印される。

「パン屋の主人は??何のためにそんなことをしたのかいまだに理解することができないけれど、とにかく??ワグナーのプロバカンダをすることができたし、我々は腹いっぱいのパンを食べることができた。にもかかわらず、そこに何か重大な間違いが存在していると我々は感じたんだ。そしてその誤謬は原理のわからないままに、我々の生活に暗い影を落とすようになったんだ。僕がさっき呪いという言葉を使ったのはそのせいなんだ。それは疑いの余地なく呪いのようなものだった」
(村上春樹「パン屋再襲撃」から引用)

封印された物語は熟成されることはない。それは未完の状態でもない。そして封印された物語は意識の下に追いやられる事になる。
物語は消えることはなく、腐ることもなく、ただそこに不成立のまま横たわる。それが「呪い」に変質したとしても不思議ではないかもしれない。

「パン屋再襲撃」は成功したのだろうか。確かに彼らは、襲撃には成功しビックマックを貪る事が出来た。飢餓感は一時的にせよ緩和されたことだろう。
でも僕は成功したとは思ってはいない。物語は作る物でなく、出来てしまうものだと思うからだ。事前に計画的な物語などないような気がする。それは物語不在の世界だからこそ意識的に作り出したと思うのだ。物語が成立しない以上、多分再襲撃は新たな呪いとなって二人に横たわることだろう。

「作家の死」、「物語の終焉」と云われる。それは時代と共に何回か云われ続けてきている。明治の頃、ある民俗学者は「物語の衰退」を示唆した。それは印刷本の普及による、手と口の伝承による物語の衰退のことだった。
確かに、物語とは伝承されなくてはならない。となれば、時代毎に批評家達の間で云われてきた「物語の終焉」の物語とはいったい何なのだろう。
それは1980年代の一連の事件と無縁ではないような気がする。僕はそれらを精査したわけではない、でも1980年代からオーム真理教事件、そして拉致問題へと様々な事件が物語として成立せず、大きな呪いとして社会に横たわっているといたとしても、案外僕はそれを信ずることが出来るように思えるのだ。勿論個人的で文学的な妄想に近いかもしれないが。

日航機墜落から20年経つ。一瞬の出来事で途絶された520名の御霊の物語は未だに語り続けられている。そしてこれからも語り続けて欲しいと願わずにはいられない。

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