2005/03/30

村上春樹「パン屋再襲撃」、逆転の物語

世の中は物語に満ちている。僕らは、多分物語でしか人になにかを伝えられないかもしれない。それに考えてみれば僕自身も一つの物語と言えるだろう。それは自分自身が再読不能な物語であり、人にとっては断片でしか語れない物語でもある。新聞を開いても、ネットをあけても、あるのは物語だけだ。「作者の不在」が語られても、「物語の死」などあり得ないかのようだ。

その物語の中には、同じ話を二度繰り替えさなければならないものが在るように思える。たとえば、「こぶ取り爺さん」や「花咲き爺さん」は同じ物語が繰り返され、それでひとつの物語となっている。
二つ繰り返されるのは二項対立により差異を明確にするためだろう。初めがあり、次があり、そして初めと次の結果は違う。何故違ってしまったのだろう、そう聞き手に思わせることが、この物語を持続的に伝承させる。

「こぶとり爺さん」で繰り返される話は、「鬼の前で踊る」という事だ。その結果、最初のお爺さんはこぶがなくなり、次のお爺さんはこぶが増える。最初と次とで何が違ったのだろうか。
最初のお爺さんが「鬼の前で踊る」のは極めて偶発的な出来事だった。しかし、次のお爺さんは、最初のお爺さんから状況と内容を聞き、偶発を装った意図的な出来事で対応した。しかし、その結果は次のお爺さんの意図に反しこぶが増える事になる。

ここでは「こぶとり爺さん」が物語として意図することを追及するつもりはない。明らかにしたいのは、一つの物語で二つの物語が繰り返し語られる事があるということなのだ。
「こぶとり爺さん」が「鬼の前で踊りこぶを取ってもらいました。めでたしめでたし」で完了したとしたら、僕らはこの物語を伝承し続けたであろうか。

村上春樹の小説「パン屋再襲撃」でもパン屋の襲撃は二回行われる。何故二回襲撃されなくてはならないか、それはこの物語も二回繰り返すことで一つの物語となるからではないだろうか。
仮にそうであれば小説「パン屋再襲撃」も「こぶとりじいさん」と同じ構造を持つ事になる。その構造とは、「こぶを気にしている二人のおじいさんがいる」、「最初のおじいさんが偶発的に鬼の前で踊る」、「こぶをとられる」、「次のおじいさんは意図的に鬼の前で踊る」、「こぶを増やされる」。となるだろう。

「こぶ」とは圧倒的な空腹感がそれにあたるだろう。そうだとしても、パン屋襲撃にかんして言えば、最初と次の順番が、こぶとりじいさんの構造に反することになる。最初のパン屋襲撃の結果、「僕」は何か間違えた感触を持ち、呪われたと感じた。だから、パン屋を再襲撃するきっかけになったはずなのだ。これは「こぶ」を増やされた次の話に相当することになる。パン屋襲撃の最初と次を逆転させると良いかもしれないが、今度は再襲撃の意図的な状況が最初に来るので、これも不明だ。
でも「偶発的」と「意図的」の順番が良いとすれば、その主体が誰であろうと良いのかもしれない。さすれば、この「パン屋再襲撃」が示す方向は僕にとって一つしかない。

それは、「こぶとり爺さん」になぞって見れば、「僕」と「妻」は鬼に相当するのでないかということだった。つまり「パン屋再襲撃」とは「鬼」側から見た物語という事なのだ。
鬼が主人公となる物語。それは人の物語ではない。鬼だけしか知らないルールがそこに横たわる。だから、マクドナルドの店員にとってルールを理解する事ができない。
だからなんだと、言われてしまえば今のところそこまででしかない。ただ鬼とは何かと考えれば、それは「他者」の象徴のような気がする。

物語は人に伝えることを前提にしている。人は同じ言葉と文化より物語りは他人に伝わる事を信じて疑わない。でもそれが伝わらないとすればどうなのだろう。それが鬼を主人公とする「パン屋再襲撃」の物語の意味ではないだろうか。人に伝える事ができない物語。それは物語の一つの死を意味している。そしてそれは語るべき言葉を失う事でもあるのかもしれない。

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