2005/04/12

ビニールのバラン

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シンプル・イズ・ベストと言ったって、単純なものは世の中一つもない。少し前にビジネス書としてベストセラーになった本に「シンプリシティ」というのがあった。簡単に言えば、複雑に見えても絡まっているのを紐解けば単純なものの集まりだという考え方だと思う。その考え方はビジネスでは確かに役に立つ。でもどんな思想にも使用期間と範囲があるように、シンプリシティにも適用範囲が現に存在する。

いわばビジネスは簡単なのだ。ビジネス問題は必ず期間がそこに存在する。だから、ほっておいても時が解決してくれる。それに、えいやと答えてもそれが正しいかどうかなんて誰にもわからない。説得力のある仮説を唱える人の意見に従うしかないけど、それだって保証はない。でもそれも解決と言えば解決だと思う。

でもひとたびビジネスを離れ生活になれば、これは難しい。時が解決してくれることも確かにあるが、ビジネスと違い、自分とか、大切な人の命とか生活に関係するのだから、ビジネスと同じようには行かない。そう考えれば、ビジネスでも経営者になれば大変なのかも知れないが、最近の経営者のモラルをみてみれば、どうもそういう風には思えない。

「バカだなぁ、あれはあれじゃねえか」

などと簡単に言える人が羨ましい。何がって、その頭脳でなく、そのタフな精神に。

などという話をしたいわけではない。書きたい話題はもっと別のことだ。

稲本喜則さんの日記「風情」と「仕事の誇り」を読んで、「グリーンのビラビラ」の記事があったので、その事について書こうと思ったのだ。
稲本さんの文章はいつもの事ながら名文だと思う。これはいつも楽しませて頂いている感謝の印でもある。感謝の印だからといって、稲本さんのブログにトラックバックをするつもりもない。彼の名文を僕の悪文で汚してしまうように思えるからだ。ただ稲本さんに敬意を表し、今回の僕の記事は幾分彼のエクリチュールを採択している(つもりである)。

まず、「グリーンのビラビラ」とは多分「バラン」の事だと思う。お弁当のしきりと彩りの為に入れているあれのことだろう。
『寿司桶に入っている葉っぱを「バラン」または「ハラン」と言います。「葉蘭」というユリ科の植物があります。古来から大きな楕円形の葉っぱを食器としても用います。中国の原産で、元は「婆蘭」「馬蘭」と書いたようです。同じようにお寿司に食器として用いる「笹の葉」をバラン、ハランと呼んだのです。 (中略) いまは、大半がビニール製ですね。もちろん、殺菌作用はありません。仕切と飾りのためのものです。スーパーでも売っています。』
お寿司の美味しい食べ方 から引用)
今でも高級寿司屋に行けば、本物のバラン(葉蘭)をつかっての細工で楽しませてくれると思う。(僕は見たことがない・・・)
ちなみに葉蘭の効果としては、殺菌作用でなく防臭作用とのことらしい。

バランが本物からビニールに変わっていった理由として、稲本さんの言われるとおりに、『本物の葉だと高つくし、時間が経つと変色してくる』だと思う。さらに summercontrail さんがコメントに書かれているように、あるとないとでは売上げに響く結果もうなずける。僕としては、そこにもう一つの考えを付け加えたい。下記の文は、「寿司屋のかみさん おいしい話」(佐川芳枝)より抜粋である。
『夫があまり笹切りをしなくなったのは、7、8年前からだ。あるとき、エビ形に切ったヤマ(笹の葉)を入れて、出前の寿司を届けると、あとで、「笹の葉なんか入ってると、不潔な感じがするから、入れないでください」という電話がきた。ビニール製のバランに馴れた人には、笹の葉が、道ばたに生えている雑草と同じように思えたらしい。
私達には、5、6月の新緑のシーズンに出回る笹の葉は、緑が鮮やかでみずみずしく、季節を感じさせてくれるものだが、人によってはビニール製のバランの方が清潔に感じるのだろう。そう思っているのは、このお宅だけではないかもしれないと、夫と話しあって、出前に使うのはビニール製のバランに統一してしまった。』
この本は1996年の発行だから、ビニールのバランに変えてしまったのは1988年あたりのことになる。つまり、その辺(1980年代)あたりで、人々の衛生感覚が「本物のササは汚い」と変わってしまった感じもするのである。今ではおよびも付かない気持ちでだと思うが、人の世はうつろいやすいものなのだ。

ここで1980年代の時代背景を論じるつもりはない。それにビニールのバラン化は徐々になされたと思うから、起点はもっと古い話だと思う。ただビニール化になっていったのは、それを賛同する人(もしくは元々バランなんて意識しなかった人)がいたから、変わっていったと思うのだ。

バランの種類は豊富である。新ケミカル・オーナメント工業株式会社のサイトに、そこで造っているバランが載っている。特に「波に富士」などは銭湯の背景画にも似て、日本人である僕の心情に深く突き刺さる。

その他にも、スーパーなどでは、キャラクターを配した絵柄タイプが出回っている。キャラクターは、お弁当を一所懸命に造る時期でもある、お子さんが幼稚園児にあわせて選ばれているようでもある。

うーん、ビニールのバランは、旧来の形だけ受け継いでいるとはいえ、なかなか奥が深そうだ。ビニールのバランの美術館だってサイト上に作れそうな気がしてくる。今のところバラン収集家を宣言している人がいないから、意外に穴かもしれない。(って僕はしませんけど)

現在では、やはりビニールのバランに対する風当たりは強そうである。まずは、ゴミ捨ての問題。バランで検索すればわかるが、ゴミとしてのバランの処置について大抵書いてある。ちなみに「燃えるゴミ」としているところが多いようだ。
また堂々と地球環境の為に、バランを拒否しましょうと言っている方もいらした。まずは身近なところからとして、わかりやすい例として言っているのであろうが、バランが何かを知らなければ元の木阿弥でもある。
そう言えば昔テレビでビニールのバランの袋詰めを見たことがあった。袋詰めは内職による手作業のようだ。勿論手は洗ってからの作業となるが、バランと袋の大きさがほぼ同じなので、入れるのに苦労されていた。なかなか大変な仕事である。

下関の食堂「きんかん」の掲示板が面白かった。

『昨日、うな重とアイスクリームをいただきました、うな重はタレがあっさりしていて、くどくなくて美味しゅうございました。
追伸
うな重の紅生姜が載っているビニールのバランはコンビニ弁当みたいでチョット、イヤでした。』

面白かったのは、「アイス」と「うな重」を一緒に食べたと言うことではなく、追伸の所である。「ビニールのバランはコンビニ弁当みたい」と書いてある。しかも「ビニール」と「バラン」が他の文字と較べ4倍ほど拡大してあり、掲示板に書かれた方の並々ならぬ決意を感じてしまった。そうかぁ、そんなに嫌だったのか・・・と妙に納得させる迫力がここにはあった。

僕などはちっともコンビニ弁当は嫌だと思わないけど、ビニールのバランは今では「コンビニ弁当」を象徴させる記号でもあるのかと、この人の感覚の鋭さにただただ敬服するばかりである。しかし、ビニールのバラン危うしである。

たらこビニールのバランの使い方として極めつけを最後に紹介しておく。ああ、こういう使い方もあるのかと思うと同時に、ますますビニールのバランの地位を低める使い方でもある。これは「コンビニの弁当」ごときではすまされない。
上の写真が、開封前、下が開封後。これは上げ底ならぬ、バラン隠しである。皆様もくれぐれもご用心されたし。

なんか、バランの話だけ合ってバランバランの内容になってしまった。少しはバランすをもって書きたかったが、まぁざっくバランに書いたので、その点は許して頂きたい。

とここまで書いて、この記事全体が稲本さんの記事を弁当と見立てたとき、「ビニールのバラン」のような位置になってしまったかも知れない。たしか、稲本さんは「ビニールのひらひら追放運動」を展開していたっけ・・・この記事も追放されるかも知れない。まず稲本さんの名文に流れる遊びが少ないのが致命的かも知れない。まぁその程度の記事だと思って、あとは読まれる方の広い心に頼るだけである。

あ、最後に稲本さんのブログでは「ビニールのひらひら追放運動」を展開中である。彼の記事を読んで面白いと感じ、しゃれとしてご賛同して頂ける方がいらっしゃれば、是非とも稲本さんのブログ にコメントをしていただきたい。

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