2005/05/07

西脇順三郎の政治観

西脇順三郎の自伝的散文「脳髄の日記」の中で、西脇は詩について以下のように語っている。

『詩も美術とか音楽と同じように芸術であって、名誉とか利益を捨てて作らなければ、一時的にもてはやされるかも知れないが、究極において全く価値のないものであることを知らなかったからであろう。本当はそうした究極の価値を望むことさえ精神に反するものであると思う』
(西脇順三郎 「脳髄の日記」から引用)

『究極において全く価値のないもの』を創る詩人を研究したいと思うことは、僕の性に合っていることは間違いない。
西脇も言っているが詩における作品は手段でしかない。詩は詩の世界にしかない。僕はその考えに同意する。詩を読んだときに、その人の中に浮かぶ世界が詩の世界だと思う。だからこそ、詩の作品に社会性を持ち込んではいけない。その考えにおいても同意する。

『真にすぐれた芸術家はいかなる集団にも属しないボヘミアンである。真の芸術は権力のあるところからは生まれてこない。芸術家の精神は権力の側にも民衆の側にも、どちらにも帰属してはならないのだ。 (中略) 彼は「詩の目的は崇高な美を表すことである。特に社会性を出してはいけない」という』
(伊藤勲 「ペイタリアン西脇順三郎」から引用)

また西脇の政治姿勢に関する言葉として次の逸話がある。時は70年安保時代の話である。

『「詩人は奴隷であるべきだ。支配者はだめだ」と順三郎は言い切る。こういう野の人に向かって、「おまえの詩には雑草の名前ばかり出てきて、ちっとも政治のことなど考えていないではないか」と譏(そし)る者があるという。それに対して、「政治の事を考えているから雑草の名前が出てくるのだ」というのが彼の反論であった』
(伊藤勲 「ペイタリアン西脇順三郎」から引用)

詩人にとっては「奴隷」の位置が「権力の側」でもなく「民衆の側」でもない位置なのだろう。そして「支配者」とは「奴隷」の立ち位置から見れば、権力側であり、民衆側なのかもしれない。「奴隷」とは一体何の、もしくは誰の奴隷なのだろう。
上記双方の詩人の言葉を並べると矛盾が頭をもたげる。ただ、矛盾を連結することが大事とした詩人でもあるので、彼の中では繋がっているのだろう。ただ何本も引かれた作詩のための境界線は、自らの存在理由を構築するのでなく、作詩において自らを律する態度に思えるのは、僕の依怙贔屓だけでもないと思う。

西脇順三郎の政治観を語ることは、究極的に無価値な詩を語ることより無意味なことかもしれない。ただ、語られた言葉で西脇が民主主義に疑問を持っているのが感触として伝わる。60年安保から70年安保時代に多少の文化人が民主主義に疑問を述べている。それは現代において、大多数の方が感じている「ベストでないけどベター」の意見とも違い、「ベターでもない」との感じに近い。だからといって詩人にとっては、望むべきものは共産・社会主義でもない。何故なら、彼の詩に階級闘争を見ることが出来ないからだ。明らかに上部構造としての政治をみて、下部構造が上部構造を変えると言ったマルクス主義的な発想はない。
西脇の詩は社会主義において、利己的として排斥される可能性が高い様に思える。仮にそういう状況になったとしても、詩人はそれを甘んじて認める事だろう。

詩人は自分のために作詩した。彼の詩には社会を変える力なく、人と人との諍いを助長することも止める力もない。鎮魂もなければ、人を情動的にする事もない。彼の詩を読めば、そこで感じるのは、もっと根源的なものだと思う。それは彼の言葉「淋しい存在」として「在る」を感じる事ではないだろうか。

究極としての無価値な詩が、生誕110年を越えてもまだ古典にならずにいるのは、東洋と西洋の連結だけでなく、逆説的だが「奴隷」としての立ち位置がそこにあると個人的に思う。

蛇足
小泉首相が提唱した憲法改正がここにきてかなりの高まりを見せている。改正賛成派が有利な状況の中、護憲派が映画「日本国憲法」の上映がぼつぼつ始まっている。映画は4月23日からDVD、ビデオ予約販売も開始している。
改正派と護憲派の単純な境界線は、それぞれの派の中に幾つもある線を見落とす。改正派の中でも、改正すべき条項と内容において合議も為されていないのでないだろうか。護憲派は「改正せず」との意見で一枚岩のように思えるが、主眼としてある9条が改正されなければ、他の条項であれば、との思いの中で揺らぐ事もあるのでないだろうか。つまり、護憲派と改正派の明瞭とも思える境界線自体、何かしら細分化すれば、何本もの境界線で分断され、実体としては不明瞭で曖昧な状況のように思えてくる。単純な境界線を引いて対立構造を描き出すことで、誰が喜ぶのであろうか。実は上記の西脇順三郎の政治観の記事は、この護憲と改正の事を思いながら書いた。つまり、蛇足の視点は「奴隷」の立ち位置からの見方でもある。ただ、この国に住み生活する僕としては、否が応でも巻き込まれていく話でもある。自分の考えはある程度決まってはいるが、ただ、境界線で対立構造となっている状況下で、どちらかに組することを要請されること、他意見を排斥する状況を僕は嫌う。合議不能かも知れないが、この国に住む様々な人の間に、将来にわたる亀裂をまた一つ造られないことを祈るだけである。
そんなことを心配する僕は、極めて軟弱者なのである・・・・

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