2005/05/21

ビョルン・アンドルセンの消息

ブログ「Mercedes's Diary」さんの記事「男の子の気持ち」を読み、そこでビョルン・アンドルセンの文字を見かけたので、彼は今どうしているのかな、と軽い気持ちで検索をして、見つけたブログ「シェイクで乾杯」さんの記事「ベニスで死す」。

そうなのか・・・と言葉を失う。

「シェイクで乾杯」で引用していた今年3月10日号のパリ・マッチ誌の記事で、ビョルン・アンドルセンはこう語っている。

『私が生きることを続けるためにどれだけの努力を費やしているか、あなたたちは想像できないでしょう』

「ベニスに死す」を観ていない方には、多分この記事はよくわからないことだとおもう。観たことがあれば、彼の言葉にある「想像できないでしょう」の重みが伝わってくる。

「ベニスに死す」での彼の役柄「タージオ」は映画により造られたアイデンティティだ。しかしそれがあまりにも美しく鮮烈な印象を人にもたらせたとき、ビョルン・アンドルセンに「タージオ」のアイデンティティを人は無意識にでも求めるようになる。

もとよりビョルン・アンドルセンという生身には、彼自身の連続した複数の「私」がいることだろう。その状態は同じ身体構造をもつ人間として、僕にも想像できる。勿論、その心身まで知ることは出来ないが、少なくとも「タージオ」という造られたアイデンティティではないことは容易にわかる。

たとえば、僕の身体には連続として連なる幾つもの「私」がいるとする。それを仮に切り取ったとき、そこには同一化できない「私」が幾つも出来ることだろう。それらを僕は状況に合わせて使い分けてもいる。また僕は、自分から、もしくは社会から、「択一せよ」と要請される圧迫も同時に感じる。つまり安定しろというわけだ。それは現在の日本においての普通の出来事かも知れない(それが良いとは思わないけど)。

ビョルン・アンドルセンの場合、それが造られた「タージオ」になれとの要請であれば、それは自分自身を生きるなと言われているようなものだとおもう。「タージオ」のアイデンティティはビョルン・アンドルセンの内なる差異の一つではなく、外の虚像のアイデンティティだからだ。それゆえ、彼は常に自己の内を模索し、生きることを続ける努力をしなくては生きられなくなる。

俳優になるためには、そのへんの問題を様々な役をこなすことで相対化して薄めるのだと思う。ただ俳優であっても、一度印象が刻印されれば、そこからの脱却は難しいことだろう。そういえば、TV板「スーパーマン」の俳優がそれで自殺した事を思い出した。そういう話は知られることがなく、数多くあるのかもしれない。僕はそんな思いで彼の言葉を読んだ。

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