2005/05/25

「アソーレス、孤独の群島」から教わるタブッキ「島とクジラと女をめぐる断片」 (その1)

アンドレ・タブッキの小説集「島とクジラと女をめぐる断片」について、杉田敦氏の旅行記「アソーレス、孤独の群島」から様々なことを教えてもらった。それをMEMOとして残す。

「アソーレス、孤独の群島」で杉田敦氏は「群島的」という表現でアソーレス群島の印象を総括して以下のように語っている。少し長いが引用する。

『ピーターズにいると、孤独ということの意味が揺らいでくる。一人でいるということ、それだけではおそらく孤独ではない。自分が一人だけだということは、理想的であって現実的ではない。この言い回しは、フランス人の思想家、ジル・ドゥルーズが無人島について論じる言い方を借りたものだ。
実際には同じような人間が何人もいるということはあえて自覚するまでもない。言ってみればそのことに対する甘えこそが孤独を忍び込ませることになる。

(中略)

ドゥルーズは、地理学者に倣って島を2種類に分けた。大陸から分離し、そして離れていった島と、大洋のそこから突如として出現したもの。アソーレスの場合はこの後者に属する。

(中略)

島の周囲を取り囲む広漠とした大洋こそが、孤独を静かに溶解させるのだ。けれども、考えてみればそれはおかしなことだ。それこそがまさに孤独を生み出しているにもかかわらず。同じものがまさに孤独を溶かすのだから。

グローバリゼーションと共同体の関係を、中心となる島と群島の関係に置き換えて論じたのはイタリア人の思想家マッシモ・カッチャーリだった。ヴェネツィア市長も務めたカチャーリが念頭においたのが、ドゥルーズの分類による前者の島であるのは明らかだ。

カッチャーリの隠喩は、アソーレスを巡る状況とは随分とかけ離れている。僕にはむしろ、ヴェネツィアを念頭に置いたカッチャーリの方が孤独を肥大させるような気がしてならない。

つまり孤独というのは、グローバルな共同体からの疎外であり、グローバルな共同体に属しているメンバーの存在の気配なのだ。けれども少なくともドゥルーズが分類する後者の島、しかもその集まりである群島には、実体的な本島が存在しない。

それらを束ねているのは、あくまで想像上の大鷲の視線であり、一方それとは対極的な、極めて物質的な地理学上の事実なのだ。そこには疎外も疎外されてもいないはずの存在も存在しない。だからこそそこでは、まったく見知らぬ関係であっても、なおかつ言葉を交わすことなどなくても、孤独が忍び込むような余地がないのだ』

(「アソーレス、孤独の群島」 杉田敦 P219?P220)

上記のアソーレスについての文は、前日には書き記さなかったが、本書で杉田氏が一番言いたかったことかもしれない。僕はアソーレス群島には行ったことはないが、杉田氏はアソーレス群島を正しく認識しているように思える。勿論それは旅行者の立場での認識かも知れないが。
またこの「本島が存在しない、島の集まりとしての群島」のイメージは、アンドレ・タブッキの小説集「島とクジラと女をめぐる断片」の構成にも通じていると僕は思う。

「島とクジラと女をめぐる断片」は短編小説集ではないと僕は思っている。収められているのは、1つ1つが独立していながら、しかも全体として一つのまとまりを持った、アソーレス群島を舞台とした小説である。しかも、中心となる(本島の位置づけとなる)小説はここにはない。それは杉田氏がいみじくも「群島」と称した意味合いに近いと僕は感じている。タブッキは「まえがき」で以下のように述べている。

『もし、この小さな本の読者が旅行記に類するものを期待されるのだったら、僕のなかの幼稚な律儀さがすぐさま、ちょっと待ってください、と言うだろう。旅行記というジャンルに属する本は、時代に合った文章でなければならないと同時に、ともすると記憶がひとりでに紡ぎだしてしまう空想には浸食されない種類の記憶を必要とする。逆説的なリアリズム感覚のおかげで、僕はそうした本は書くまいと思った。

(中略)

またとかく嘘をつきたがる僕ではあっても、これらの文章は、基本的には僕自身がアソーレス諸島で過ごした日々に存在を負っている』

(「島とクジラと女をめぐる断片」 アンドレ・タブッキ 訳:須賀敦子)

「島とクジラと女をめぐる断片」の構成としては、「はじめに」と「おわりに」を含めると、全部で9つの文章となっている。これはアソーレス群島の島の数と同じだ。また、冒頭のエッセイとも散文ともいえる文「ヘスペリデス。手紙の形式による夢」は、アソーレス群島の島々を1つ1つ抽象的に語った内容となっている。

収められた小説は、旅行記の形をとったもの、小説の形をとったもの、法規文をそのまま載せたもの、記録としてのもの、など形式は様々だ。1つ1つが個性があり、似たようなもの同士は少ない。これらはタブッキが意図的にアソーレス群島を構成の中に組み込んだように思えるのだ。
そして、タブッキのイメージするアソーレス群島は、極めて杉田氏のイメージするものに近いと、僕は双方を読んで感じたのである。

「一つの小説でありながら、複数の形式の小説を内包する」、それが「島とクジラと女をめぐる断片」であり、同時に、1つ1つが様々な文化と個性を持つ島が複数で構成する群島(しかもアソーレスとして一つ)としてのアソーレス。
タブッキと杉田氏が、アソーレスで過ごしたなかで、お互いが感じ取ったものが似通っているとしても、それは不思議ではないように思う。

群島として成り立つアソーレスの中で、杉田氏はファイアル島で過ごし、それを旅行記とした。僕はタブッキの「島とクジラと女をめぐる断片」の中の一編「ピム港の女?ある物語」の感想を行う。
両者とも、「群島的」なもの同士のなかで一つを選ぶことは、間違いかも知れないが、杉田氏がファイアル島を選択した理由が「ピム港の女?ある物語」にあり、それゆえその小説の記述が多いのである。本記事はMEMOなので、それに準じた。

少し長くなるので、「ピム港の女?ある物語」のMEMOについては、別途新たに記述することにする。

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