2005/06/02

細見和之「言葉と記憶」を読んで

細見和之氏の「言葉と記憶」(岩波書店)では3人の詩人が登場する。

尹東柱は1917年に当時の中華民国東北部(満州)間島に生まれた、朝鮮人の詩人である。1945年2月に極度の衰弱のすえに27才で獄死している。彼の詩は朝鮮語で書かれ、刊行した詩集と、日本から友人宛に送って詩編は、共に彼の友人の手で地中深く埋めて隠された。

カツェネルソンはポーランド系ユダヤ人、1886年にベラルーシ(白ロシア)ミンスク近郊の寒村に生まれた。第二次大戦前には東方ユダヤ人社会で既に活躍をしていたが、大戦勃発後の数日で地域はナチスに占領、カツェネルソンは家族と共にワルシャワに逃げ延びる。
ワルシャワ・ゲットー蜂起にも参加するが、蜂起指導部から詩人として生き証人を求められ、偽の中米パスポートを使いフランスに辿り着き、そこでナチスに捕まる。ナチスは連合国側の自国捕虜交換の交換要員としてカツェネルソンらを考えていた。
その期間にカツェネルソンは「滅ぼされたユダヤの民の歌」をイディッシェ語で書き上げ、抑留キャンプの地中に隠す。
交換要員としての役に立たないと判明したナチスは、カツェネルソンをアウシュビッツに移送し到着直後その場で直ちに殺してしまう。

ツェラーンは1920年に当時ルーマニア支配下にあったチェルノヴィッツでユダヤ系の家庭に生まれ、ドイツ語を母国語として育った。
ナチス占領により両親は亡くなったが、彼は戦後を生き抜き、それまでに彼が作詩した多くの詩編をドイツ語に翻訳し直す。彼は語学の才能があり、それまでの作品を極めて多彩な言語で作っていたのだった。
しかし、「死のフーガ」が戦後ドイツで高く評価され、教科書にすら採用されるようになったとき、むしろツェラーンは戦後のドイツに現に存在する反ユダヤ主義とナチ時代の犯罪へのアリバイとして機能しているのではないかと真剣に考えるようになる。彼は1970年セーヌ川に入水自殺をする。

上記3人の詩人について細見和之氏は書中で以下に述べている。

『その最後の作品群を抹殺されるという致命的な事態を代償にして、かろうじて残された作品の言葉を「ただしい」宛先に届けえた尹東柱、最後の作品を渾身の力で書き上げながらも、事実上その宛先の多くを失ってしまったカツェネルソン、そして、おびただしい作品を書きながらもそれが「まちがった」宛先に届くという事態を絶えず警戒しなければならなかったツェラーン』
(「言葉と記憶」 細見和之 より引用)

詩人を含め、何かを書き記すとき、何処の言語を使うかで、誰に向けて書き綴っるのかが明示される。そのことに、日本に生まれ育った日本人である僕は気が付きもしなかった。当たり前のように日本語で文章を毎日のように綴る。日常の一環として、弛緩した空気の中で綴られる僕の言葉は、一体誰宛に向けて書いているのであろうか。

確かに今では、日本国内でも英文その他の言語で小説を書いたり、論文を書いたりする日本人は多くいらっしゃる。でもそれは英語圏の人に向けてのテクストという意味合いとは少し違う。それらは不特定多数の多くの方に読まれたい文章であって、上記の3人の詩人の様に特定の誰かに向けて出したテクストではない。
カツェネルソンは何故復活したヘブライ語で書かなかったのか。それはイディッシェ語が当時の東方ユダヤ人達にとっての日常語だったからだ。そして、今ではホロコーストにより失われた言葉の一つとなっている言葉でもある。当時の状況は、カツェネルソンにとってイディッシェ語でしか書き表せなかったのだと思う。

SF作家小松左京が「日本沈没」で描きたかったのは、難民化した日本人の姿だったと思う。だから実際に(小説の中とはいえ)日本を沈没させたかった。それは象徴としての「日本沈没」ではないと思う。難民化するという思いを少しでも日本人に感じて欲しかった、だから、あの作品は「始まり」であって「終わり」ではない。

この「言葉と記憶」ではもう一つ示唆をいただいた言葉があった。それはツェラーンがいう「投壜通信」という言葉だ。ツェラーンが啓示を受けたのは、ロシアのユダヤ系詩人オシップ・マンディシュターム(1891ー1938)の以下のエッセイからである。

『航海者は遭難の危機に臨んで、自分の名と自分の運命を記した手紙を瓶に封じ込め海へ投じる。幾多の歳月を経て、砂浜をそぞろ歩いていて、わたしは砂に埋もれた瓶を見つけ、手紙を読んで遭難の日付と遭難者の最後の意志を知る。私はそうする権利がある。わたしは他人あての手紙を開封したりはしない。海に封じ込められた手紙は、瓶を見つけた者へあてて書かれているのだ。見つけたのは、わたしだ。つまり、このわたしこそ秘められた名宛人なのである』
(「石」 オシップ・マンディシュターム 早川真理訳 より引用)

ツェラーンは、詩=投壜通信であると言っている。
それは遙か以前に書かれた詩であっても、今でも波間を漂っている。たまたま浜辺に打ち寄せられた投壜を開けて中の手紙を読んだとする。確かに、拾った方が「秘められた宛先」だとは思う。でも、瓶を見つけることとは、拾うこととはどういうことなのだろう。また瓶の中を開けて手紙を読むこととは。

変な例えをするが、通信技術で一般的なものとしてカプセル化がある。違うプロトコルを通す場合、カプセル化して、あたかも通すプロトコルに準じた形に変えて通すのだ。カプセルを開ける者だけが、その情報を正しく受け取る事が出来る。途中ではそれは意味もなく、他のデータと区別さえ付かない。つまり、投壜を見つけるという時点で、その人は既に正しい宛先なのだと思うし、他の人はそこに瓶があることはわかっても、それが投壜通信だとはわからないだろう。

瓶は言語の違いで隠すことが出来る。もしくは、詩編の1つ1つの言葉の使われ方により隠すことが出来る。そしてそれらは瓶を見つけた者だけが、封入した手紙を読むことが出来る。
投壜通信に封入された手紙は、遭難者の存在通知でもあるし、記憶の断片でもある。ツェラーンにとってみれば、現代の詩人はある意味遭難者と同じなのかもしれない。

ブログ世界の中でも時として遭難者の投壜通信のような記事を見かけることがある。もしかすると現在では、おびただしい数の壜がネットの海へと投げ込まれているのかもしれない。しかし、海は果てしなく広く、その中において投げ込まれた瓶の存在は果てしなく小さい。社会を形成する一人一人が遭難者の時代。そんなイメージが突如として湧き上がる。

細見和之氏の「言葉と記憶」を読んで、少し気になったことがあった。「投壜通信」としての詩のありかた。言葉の断片に刻み込まれた詩人の記憶。それらは従来のテクスト理論では解釈不能な状況になっているのでないのだろうか。しかし、細見和之氏はそれらのことを書きながらも、尚、デリダの「作家の死」からのポストモダニズム的なテクスト解釈を堅持する姿勢が感じられた。
所々、テクスト論のルールを破る所を見せながら、小論最後で『作品はあくまで作品それ自体から理解されなければならない』としている。そしてそれは「原則」としていながらも、ツェラーンの詩は例外としてあつかっているのだ。思うにツェラーンの詩だけが例外ではない。

その他にも細見和之氏とは歴史認識の違いも感じた。僕自身が自分の歴史認識について、その根底にまで遡っての検証を怠っている面が、そこにあるのはゆがめない事実ではあるが、所々何を根拠に氏は言っているのだろうと思う点があったのも事実。それを本ブログで書くつもりはまったくないが、氏の信念とする歴史認識が、一体何をどの様になることを望んでいるのか、この書籍で読み取れなかったのが残念ではあった。勿論、それは「投壜通信」として、僕が瓶を見つけることが出来なかっただけの話かも知れないのだが。

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