2005/06/09

自分に向けての拙い備忘的な宣言

現場でしか書くことが出来ない文章というのは確かにある。それらの一部は僕らの目の前に差し出される。たとえば今僕の手元にある有名なラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」はその一例かも知れない。その中でラス・カサスは1つ1つ具体的にインディアスが受けた虐殺を描いている。ラス・カサスはどちらかと言えば加害者側に属し、その報告書はされる側からの文章ではない。される側の文章は、する側に較べ多くは残っていないことだろう。それでも残されているのも多い。問題は残されることが出来なかった人たちの記録かも知れない。

今実際に何処かでおこなわれている殺人と虐殺。それらを少しでも想像する。その中で記録として書き綴っている人もいるかもしれない。それが後世にどの様な形で伝わるのか、もしくは伝わるのかも含めて、僕には不明だが、その心情は想像が出来るだけに、考えるだけでその立場にいることの恐怖が伝染する。

スーダン政府は民衆を虐殺している。そのスーダンで油田の採掘権を日本のNGOが得たと毎日新聞に掲載されていた。NGOと言えども、その子会社は会社組織としてあるのだろうから、企業と本質は何も変わらないと思うがどうなのだろう。
その企業がスーダンの油田採掘権を得るためには、様々な困難と、それに立ち向かい知恵と工夫で乗り越えてきた事だと思う。担当者も日々あれこれと考え、企画を策定し、会議を開き方針を決め、細かなアクション項目をリスト化し、優先順位を決め、スケジュールを定め、それを基に進捗管理を行い進めてきたのだと思う。新聞記事でもそれは一つのサクセスストーリーとして書かれていた。でも何かが違う。それは、スーダンの今の姿を語る物語ではない。当事者でないラス・カサスが書いた報告書と同じものを、何故企業には書けないのだろう。

それぞれの企業には企業文化というものがある。人それぞれにより考え方は様々だが、企業としては、ビジネスをするという観点から、様々であっては困るというわけだ。それはなるべく一つに集約しなければならない。その考え方で企業文化の基として、企業は「顧客」を造った。常にお客様のことを考えようと言うわけだ。でもそれはどだい無理な話だ。大体「顧客」とは一体誰のことだろう。

顧客を作り上げたもう一つの理由としては、以前のモデルとしての出世=人間形成が立ちゆかなくなったからだ。終身雇用制が崩れている以上、変わりのモデルを企業は造らなければならなかった。そしてそれを外部に求めた。しかし人として働くということは、それを外部に求めることではないし、それは原理的に不可能だ。だから結果的に「顧客」は一人一人の信念として、個々にそれぞれの姿を持ち、それ故に、それは声の大きな社員の意見を尤もらしく見せるための道具に成り下がっている。

たとえば、西日本JRの顧客の命を預かる責任、それはあらためて言うことでもなく、だれでも解っていたことだったと思う。西日本JRがどの様な対応をしていくのか、それは日本の企業における一つの模範となってくれれば良いとは思うが、出発点が少し違うような気もしている。

企業文化に一つ足りない箇所があるとしたら、それは一体何だろう。それは企業としての倫理観に他ならないと僕は思う。たしかに、個人情報の保護については各企業の意識は高い。それはとても重要なことだと思う。社会に利益を還元することとか、地球環境を考えることとか、1つ1つの言葉はとても美しい。でもそれでも僕は倫理ということを企業は考えることが出来ないと思う。それは企業というものの本質が、もしくは考える為の軸が、そこにはないからだ。

やっていいことと悪いこと、それは人間として個人のレベルで解ることが、企業としては不明となる。その上で僕が企業人として出来ることとは一体何だろう。多分、それは企業内で声を出すことだと思う。たとえば或る一つのサービスを立ち上げるとき、それがビジネスプランとして成立するか否かの視点だけでなく、やって良いことか悪いことかの意見を言うべきなのだ。伝えるためにはビジネスの現場としての言葉でそれを語らなければならない。それが少々やっかいではあるが、とりあえずその意識を持って始めてみようと思う。

この拙く言葉が足りない小文は、僕が僕に向けての一つの宣言です。

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