2005/07/21

ツーリング計画

なにかしら忙しくなるとツーリング計画を立ててしまう。今考えているのは青森までの東北ツーリング。途中に仙台にいる姉のところに寄り、平泉に立ち寄り、青森を目指すコース。のべにして一週間くらいの旅程になる。平泉に寄るのはNHK大河ドラマの影響を受けたから。いけたとしたら中学の卒業旅行以来の訪問となる。

泊まるところは全て親戚宅を利用する予定。具体的には仙台と青森の黒石。ただ黒石を起点にどこまで足を伸ばすかが未定状態。それ以前にこの計画自体が空想のまま終了する可能性も高いのだけど。

東北道の車が少なく見晴らしの良い素敵な道を走る空想を巡らせている。空にはぽっかりと夏の雲が漂い。前方には少し濃いめの海が広がる。
そんな光景はないのかもしれない。様々な出来事と忙しさから逃れたいという気持ちが強いのかもしれない。確かにそういう面はあるとは思う。でも僕はそれが悪いことだとは少しも思わない。

このツーリング計画が実行できる可能性は今のところ半々だ。休みについてはリフレッシュ休暇という制度が会社にはあるのでそれを使うつもり。問題は、実際に行くという強い気持ちを持つことだと思っている。ただ、短い期間とはいえ残すものも大きい。さてさてどうなることやら。

2005/07/20

日記として書く「公私」のこと

ブログは広い意味で日記の一形態でもあると思うので、書かれていることはあくまで個人的なことが多いと思う。個人的な事項でなくてもその内容は多くは主観的なことだろう。最近僕は「公私」の切り分けについて考える時、この主観的ということについて思いが行くことが多い。ながく僕に染みついた一つの考え、それは主観的なものは「私」に属し、客観的なことは「公」に属する。意見とは主観的なものでなく、そこに公の視点がはいってこそ人が聞くべき「意見」となる。だからこそ、僕は人前で自分の意見を飲み込む。まずは吐き出す自分の考えがこの場にふさわしいか否かを考えるのだ。

でも最近少し考えが変わってきた。先だってこのブログで書いた記事「他者が僕に」はそういう気持ちで書いた。あの記事はあくまで僕の事だけど、恐らく他の人にもあることだろうと思ったのだ。ただそれでも主観が強すぎたかもしれない。別の言い方をすれば、「意見」とは主観の中に他の人を想定すること成り立つと僕は思っている。他の人だったらどう考えるのだろう、という他者の視点を主観に挿入することだと思う。

「公私」の切り分けは時代性がそこには存在する。きわめて恣意的なものだとさえ思う。ある時代では単なる愚痴と受け取られていた言葉が、ある時代では意見として多くの人の心を掴む。例えば、介護についてがそうだった。石綿についても永く個人の問題として受け取られていたことだろう。

イラク人質事件では「自己責任」という言葉が飛び交った。その他にも「自助努力」という言葉もでた。文字通り「公私のけじめ」もあった様に思う。それらの言葉は一連のあれらの出来事が「私」の要素が大きいとのおおかたの考えからきたのだろう。その反面、現在では少子化による国民の「性」に関すること、漢字の読み書きの程度のことが、「公」として話がされているのだ。勿論国家が国民の「性」への関与は今に始まったことではない。ただ、いずれにせよそれらの話は「有効性」「無効性」もしくは「効率」の面からなされることが多い様に思える。

北朝鮮拉致の話の中で、ある社会学者は国際政治の有効カードの話をだした。確かに国際政治とはそういったものかもしれない。でもそれらの背景にも同様に「有効性」の観点からの視点が強いのではないだろうか。「有効性」の視点からの考えは選民への考えにつながる、と僕は思う。役に立つ立たないの基準で落ちるもの達の声を誰がどのようにして聞き遂げるのであろう。介護が必要な方は無効なのだろうか。そんなことはないと多くの人は語るだろう。そのような方々に向けて様々な法律を整備しているではないかと答える方もいることだろう。でも僕の言いたいことはそういうことではない。それは僕自身の心の中にもあることを認める部分、有効性無効性の社会に暮らすものの奥底にある、それらの方々に向ける目にある僅かでもある侮蔑の目線のことなのだ。

アマルティア・センは公共的価値を「基本的な潜在能力」と考えている。「潜在能力」として例示するのは、『適切な栄養を得ていること、避けられる病気にかかっていないこと、早死にしないこと、文字が読めること、自尊心を持ちうること、友人をもてなすこと、会いたいと思う人に会えること、コミュニティの生活で一定の役割を果たすこと』(公共性 齋藤純一著 から引用)と言っている。
そしてそれらの潜在能力が脅かされるとき、もしくはできないとき、潜在能力の「略奪」として把握すべきだとセンは述べている。

それらが「略奪」されたとき、された側が声を上げる場所としての公共領域の必要性を僕は感じる。それらの領域は共同体ではなく、まさしく差異が共存する領域でなくてはならない。また、そこからの声が政治に結びつかなくてはならないと思う。

実はネットを使い始めた頃、僕は属性をできうる限り排除できるネット空間に公共領域の立ち上がりを期待した。ここには発信者の属性が見えず、それ故にその構築が可能だろうと思ったのだった。でもそれには自分も含め、ネットという環境以前に必要とする何かが未成熟な状態だった様に思える。

2005/07/17

今どきの名前

親戚に男の子が生まれた。名前を聞いてみると「英」と一字書いて、なんと読むかと逆に聞かれたので、「ひで」と素直に読んだら違うという。じゃあ、「えい」とこれはあり得ないだろうなぁと思いながらも聞いたが、やはりそれも違う。これでお手上げ。わからないから教えてと言ったら、なんと「はなぶさ」と読ませるそうだ。「英」で「はなぶさ」とは誰も読めないんじゃないかと言ったら、それが今の時流だという。ああ、そういうものかと少し笑う。

今時の子どもの名前は少し前と較べても全然違う。そういえば少し前に「悪魔」という名前で物議をかもした事もあったっけと思い出すが、ふと思ったのが、こういう名前が多く登場するのは、命名が親が子どもに託す願いであるとすれば、子どもが唯一無二の存在であることを名前でも現そうとしているのでないか、ということだった。
だから名前はどんどん読みづらくなる。滅多にない名前を考える方向になるからだ。それはそれで、子どもを思う親の気持ちだから尊く、それ以上に人様の子どもの名前は僕にはどうでも良いのだが、ここで思ったのが、名前に唯一無二、つまりは周りに同じ名前が滅多にいない名前を付ける時代の雰囲気というのがあって、その時代の雰囲気というのが、逆に唯一無二でない状況、社会における人の軽さみたいなものを親が感じ、それだからこそ子どもにそういった名前を付けるといった事もあるのでないかと言うことだった。

以前、人に聞いたところによると、女の子の名前の最後に「子」を付けるのが流行ったのが大正の終わり頃かららしい。それまでは「てい」とか「さだ」とか、ひらがなが多く最後に「子」はつけなかった。「子」を最後につける事は、昭和初期になんらかの雰囲気があってのことだと思う。僕はその点においても無知なので、理由は正直わからない。でもその当時は「子」をつけることは、現代の名前と同じくらいに、当時の言葉で言えば「新しく」「モダン」な事だったことは理解できる。

時代の変わり目に、恐らく人は自分の子どもの先を幸せにと願い、時代の雰囲気を先取ろうとそういった名前を付けるのかもしれない。昭和の初め、女の子の名前に「子」がつくのは、新しい女性像がそこにあったのだろう。これはあくまで僕の想像で、統計だとか調べたこともないので根拠は全くないのだが、それまでの名前、例えば「てい」、「さだ」、「ちよ」が二語だったが、それに「子」をつけて「さだこ」、「ちよこ」と3語に変わる。「こ」は単純に2語の後ろに組みやすい語だと言うことだ。「子」をつけるのが主なのでなく、たぶん3語にすることが大事だったように思う。「子」は一般に神道では女性をいうらしい。でもそれが理由であれば、もっと前から「子」をつける風習があっても良いと思う。

実は僕の想像はここで終わる。3語にすることで、その時代の雰囲気を現す事になると思うのだが、雰囲気は色々と想像ができるのだが、それぞれの想像と3語が上手くつたわらないのだ。まぁ、不明なことがあるのはよいことだ。今度ゆっくりと図書館で調べてみよう。

2005/07/15

他者が僕に

他者が僕に不愉快にさせる言葉を発したとする。その際僕は相手にその言葉を発した理由を聞くことだろう。でも相手から納得のいく言葉が得られないとき、もしくは無言で黙られたとき、僕は苛立ちを感じることだろう。それは僕にとっては理不尽だと、相手を罵るかもしれない。その際、僕は何に苛立ちを感じたのだろうか。それは自分の意識の中に他者が了解されずに存在することだと思う。了解を受けていない相手が、それでも僕の承認を求めている姿。その姿は「問題はお前にある」と雄弁に語っているかのように僕は受けとる。でも僕は相手を認めたいのだ、しかし了解への糸口を拒否し、それでもなお、承認して欲しいと言っているこの相手は、僕に一つの難問を提示しているかもしれない。それを解かないと先には行けないというような、そんな問題の一つとして。

相手を不愉快にさせたのは、相手にとっては僕であるはずだ。如何にして僕は相手を不愉快にさせたのか、それを聞き、僕は一体何をしようとするのだろう。関係のない相手であれば、もしかすると無視するかもしれない。例えば、街中で知らずのうちに鞄を前を歩く人にぶつけてしまった時のように、振り返る相手の痛がる顔を見ても自分に関係するとは少しも思えないだろう。少し歩いて、あの相手の痛みは僕が与えたものだと気がついても、もうそれは遅い。その際相手が罵る言葉も僕宛には聞こえない。街中の喧騒の一こまとして瞬時に忘れ去られる出来事になることだろう。でもこの相手は無視できる相手ではないのだ。

相手から、僕が不愉快にさせた理由を何故聞きたいのかと問われたとき、この状態が僕にとって理不尽なことであり、それを知ることで僕は貴方を承認したいからと答えるだろう。でもそれはタテマエでしかない。恐らくホンネの部分では、僕は相手に自分の正しさを承認させようと目論んでいるのだ。たぶんその時の僕の行動はこうだ、まず不愉快にさせたことを神妙にして聞く、その次に不愉快にさせたことに対し謝るが意図的でないことを告げる、そのうえで、僕の行為が相手に不愉快にさせるに至ったことを相手の問題として切り出すのである。考えてみれば嫌らしい行為かもしれない。でもそれを行うことで、僕は僕自身のことを守るしかない。

相手は僕の行為を見越している。そう考えるしかない。見越した上で、僕が自分を守る過程の中で、実は相手に謝りながらも相手のことを傷つけることも見逃さないのだろう。仮に意識せずに相手に不愉快にさせた僕の行為が、自分の信念に基づくものであったとしたら、相手の言い分に簡単なことでは納得はしないと思うのだ。それは単純な出来事から無限に続く疑心暗鬼への一歩へと踏み出すことでもあるのかもしれない。そのうちに、お互いの言葉は、どうしてこうなってしまったのだろう、という溜息にも似た呟きになっていくことだろう。その時は、その呟きさえ相手に気づかれないようにと、臆病になっている自分を想像できる。

僕はいったい何を守ろうとしているのだろう。人が生きるということは信念を持つことだと僕は思っている。人は信念の為に死ぬことも出来るかもしれない。その信念は自分の体験とか経験により確信をもって自己の中にあるものなのだ。でもひとたび考えれば、現実の喪失に対しても見失わないほど強い信念を僕は持っているのだろうか。特定の相手を大事に思う気持ち、それも一つの重たい信念と言えるのではないだろうか。それであれば、僕が守っている信念とは、実際はそういうものでなく、単なる生理的な自己保身に近い感情に近いのかもしれない。もし双方とも同じ信念であれば、僕の中で衝突したとき、どちらかが残るかは冷静になればわかるはずだろう。

自分を殺してでも相手を気遣うことが僕に出来るのだろうか。僕の信念は個別のものだ。それゆえ相手の信念も個別のものだと信じ対応しているところがある。でも信念が個別だけだとすれば、「ほんとう」ということ自体無意味となる。仮に相手が「ほんとう」の何かを持って、僕に対応しているのであれば、そしてその「ほんとう」を崩したくないとするのであれば、僕はただ自分の信念を含め自省しなくてはならない。確信をもった信念も一瞬に崩れ去るときがある。僕はもしかすると、そういう崩れを体験しなくてはならない状況に来ているのかもしれない。そんなことをだらだらと考えてみる。

2005/07/14

書籍「八月十五日の神話」感想でなく雑感

「八月十五日の神話」(ちくま新書 佐藤卓己著)はメディア論を中心にし、八月十五日が「終戦記念日」として日本人に受け入れられてきた理由を実証的に解明している。佐藤氏は学究者としての立ち位置を崩すことなく、あくまで実証的な態度で書いている。少なくとも僕にとっては良書だと思う。この問題を扱った他の書籍を読んでいないので較べることができないが、この書籍を出すのに日本は戦後60年の時間を必要としたのではないかという思いを持つ。

実証的な態度で書かれていると僕は言ったが、佐藤氏の背景に「敗戦後論」(加藤典洋著)の影響があるように思える。それは本書中に「八月十五日の神話」が重要な箇所で引用され、その考えが了解されているから感じるのであるが、だとすれば研究する佐藤氏の意識の中に加藤氏のいうところの「ねじれ」があったとしても不思議でない。多くの批判と論争を呼んだ「敗戦後論」について、僕としては加藤氏の意見に全てではないが納得することが多かった。だからこそ僕が佐藤氏のこの書籍に違和感を覚える事が少なかったのかもしれない。

八月十五日が終戦記念日となった理由の一つとして佐藤氏は以下のように書いている。
『進歩派の「八・十五革命」は保守派の「八・十五神話」と背中合わせにもたれあう心地よい終戦史観を生み出した。』
(「八月十五日の神話」 佐藤卓己著 P256から引用)
進歩派の革命とは丸山真男の「八月十五日革命論」のことであり、保守派の方は九月二日の敗戦を象徴する降伏文書調印を忘れ、敗戦を終戦に変える意味である。さらに佐藤氏は、「八・十五革命」は戦前から戦後への連続性を見えなくする効果があるとも言っている。具体的には、敗戦によって破綻したメディア企業はほとんどなく続いているのである。この点が佐藤氏がさらに追求したい核みたいなものだと僕は思う。ただ、この書籍ではこれ以上は続かない。

「八月十五日の神話」の感想とは、具体的な本書の内容を書き表すことではないと僕は思っている。何故僕が今この本を読むのかという問いかけ、それは時代の雰囲気が僕に要請しているかだとは思うが、その問いかけに対して僕がどのように答えるかだと思うのだ。そして読んだ後に何が自分に残ったのかという事。その二つの質問に答えることが、この書籍の感想に値するのではないかと思う。でもそれにはしばらくの時間が必要なのは間違いない。

歴史は政治でもある。以下に本書に現れた主な日にちを記した。どの日を選択するかは、その人の考え方によって変わることだろう。佐藤氏は、沖縄の「慰霊の日」と「平和の日」から以下のように言っている。
『お盆の「八月十五日の心理」を尊重しつつ、それと同時に夏休み明けの教室で「九月二日の論理」を学ぶべきだろう』(同書 P258から引用)

1945年6月23日 沖縄 守備軍組織的戦闘終結「沖縄慰霊の日」
7月2日  沖縄戦米国側終結宣言
8月6日  広島原爆
8月9日  長崎原爆
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 玉音放送 1963年閣議で実質「終戦記念日」と法的に定める。
8月16日 日本軍への戦闘停止命令
9月2日  ミズーリ艦上での降伏調印 米国等の対日戦勝記念日
9月3日  旧ソビエト北方諸島ほぼ占領 ロシア・中国の対日戦勝記念日
9月5日  旧ソビエト歯舞群島占領完了
9月7日  沖縄 残存日本軍降伏調印 「沖縄 市民平和の日」
1951年9月8日  サンフランシスコ講和条約調印
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 日本占領終了
1972年5月15日 米軍沖縄占領終了

ちなみに僕は、8月15日のラジオ放送において、玉音放送(4分37秒)の他に放送委員の解説と再朗読、さらに内閣の国民に対する告論、ポツダム宣言受諾までの経緯と各文書の内容などを放送し、総放送時間は37分30秒に及ぶ時間であったことを知らなかった。終戦詔書の漢文混じりの難解な文体を、即時理解できる能力があったのかと単純に思っていただけだった。その意味では僕は全くこの件に関して無知であったと思う。

2005/07/13

9.11の記憶、八月十五日の神話

200507147924baea.jpgロンドンで同時多発テロが発生し様々なメディアで報道されている。それらは僕に「同時多発テロ」というキーワードで9.11を思い起こさせる。

9.11の事件が起きたあの日あの時間僕は、会社ではなく自宅にいてテレビでの生中継を食い入るように眺めていた。メディアから垂れ流しに放映していた映像は、アナウンサーの絶叫とともに、僕の中で一つの記憶となった。それはメディアが造る一つの社会として共有する記憶に変質する。ただし僕は何故自宅にいたのか、その理由を今でも僕は覚えている。それはあまりにも個人的なことであり、ここで話すことを控えるが、9.11の記憶は僕にとっては、その理由とリンクして意識の中で一つの場を作り出した。それは個別な記憶であり、その記憶が強い事により、メディアが報道し形成する記憶が、個別の記憶を完全に塗り替えることもないと思う。

9.11の映像は、ピンポイントで見ればビルが崩壊し逃げまどう映像であるが、時系列には、同北棟激突、国防総省激突、ペンシルベニア州墜落の事件を知る必要があるし、また米国と中東との歴史を体系的に理解することでさらに奥深く知ることができるだろう。メディアが垂れ流しに放映した映像ではそこまではわからない。それはメディアで繰り返せば繰り返すほど、造られた一つの記憶として社会において一つのイメージを形成する。

ロンドンでの事件が今後どのような姿で、社会の記憶として形成していくのだろう。個別の記憶は必ず変質していく、それは実体験としての記憶だとしても、写真その他の記録された媒体にむかい、整合性をとるように記憶のシステムは動くかのようだ。

「八月十五日の神話」(佐藤卓己、ちくま新書)を読んだ。8月15日とは一般に終戦記念日と呼ばれている日のことである。この書籍の感想は別途自分の中で落ち着いたときに書こうと思う。確か「極東ブログ」の記事「終戦記念日という神話」にもその辺のところが書かれている。いみじくも佐藤さんの書籍と「極東ブログ」の記事タイトルは、ほぼ同じである。でもその立ち位置は若干の違いがある。佐藤さんの場合、メディア論として8月15日が如何にして終戦記念日になっていったのかが語られる。「極東ブログ」の場合、根底には敗戦国になり、現在ではそれを忘れている日本への独特の情感が流れているように感じられる。それはたぶん、現在多くの日本人が、勿論僕も含めて、失った感覚のようにも思える。だから僕はそれを具体的に書くことが難しい。極東ブログさんの書き方は実証的ではあるが、根底には文学があるように僕には思える。そのように書くことで、何かを文体のなかから読み手に感じさせる。その意味では、「極東ブログ」の記事の方に僕の魂は揺れ動かされる。

2005/07/09

「猫への詫び状」、過去を振り返り君を思う

leobike
新規にパソコンを購入し、旧データを整理していたら以下の文章が見つかった。この文章は家の飼い猫であるレオが糖尿病を患ったときの話で、あのとき僕は本当にレオが死んでいくと思っていた。そのレオの予想される死にたいし、彼にその前に詫びたかった。これは僕からレオへの「猫への詫び状」である。
この文章を書いた後、レオは奇跡的に回復する。死に瀕したときから約五日間の入院生活だった。その後レオはインシュリンの注射を朝夕する生活に入る。食事は猫用糖尿病の缶詰。インシュリンは人間と同じものだが、一度に注射する量が違う。また毎日、尿から血糖値を調べた。つまり人間の糖尿病への対応と何ら変わらない。
そういう生活を数ヶ月続けたある日、レオの血糖値は劇的に変化する。通常の状態に戻っていたのだ。治らないと言われた糖尿病が治ったかのように見えた。医者に言ったところ、医者も驚き、インシュリンの注射をやめましょうという話になった。そしてその後は食事制限の取りやめと続き、そしてすっかり完治してしまった。それが2002年4月の話だ。それから2年後にレオは家を出て行ったきり戻ってはこなかった。
猫の意識とはたぶん人間とは違うと思う。人間は意識と自然的身体が一緒にならず、互いに強く影響を与え受けながら、その欲望はとどまることを知らず、また対象も眼前にあるものに限らない。でもおそらく猫たちは、眼前の対象にしか意識がなく、欲望はその都度眼前の対象で自足する。でも、少しでも他の動物と一緒に暮らせばわかるように、僕もレオのことは猫という動物ではなく、僕の意識の中では、人と同様に限りなく深い意識を持っているかのように感じ、接してしまうのである。その中のレオは、ちょうどこのイラストのように、モーターサイクルで長い旅に出た一人の男の様である。旅は戻る場所があり、戻ることを暗黙の中で約束している、しかし実際は家に戻らないのも旅である。行き先で何が待ち受けているのか不明で、もしかすると旅先で定住するかもしれない。僕は今ではそう思っている。彼には彼の猫生を生きる自由があるのだ。
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レオへの詫び状

今回の出来事で僕は君が死ぬかもしれないと覚悟しました。本当です。ですから死んだときの事を考え、レオのいない世界を想像しました。
まず考えたのは、君が死んだときに周りになんて話そうかと言うことでした。多分みんな悲しい思いをする事でしょう。次に、もう猫は飼うのは止めようと思いました。こんな悲しみを味わうのはもういいと思いました。さらに君のいないと後はジュニアだけだな。ジュニアを君の分も含めてかわいがろうとも思いました。

でも突然に君の思い出が、本当に多くの思い出が、僕の心を横切りました。それは一瞬の出来事でしたが、僕はその思い出を意識的に何度も何度も繰り返しました。

君が家に来てから2年半たってます。その間は決して楽ではありませんでした。どちらかと言えば苦しい方だったのかもしれません。仕事のこと、自分のこと、僕の周りの親しい人達のこと等々、誰でも生きていれば問題を抱えています。でも、そういうことで人生は深くなるとは渦中にいる者にとっては無責任な言葉です。
頑張って生きているなかに君が来ました。君が来ることで僕らの心はどんなに安らいだことでしょう。

もう少し細かくかければいいのでしょうけど、つぶさに見てきた君にとっては十分に知っていますよね。僕は君と生活し、最初は君の擁護者としていたと思います。僕は君に与えているだけで君から受けることは期待していなかったし、受け取れる者は何もないと思っていました。
期待していないのは今もそうですけど、君の事を思いだし、君から多くのものを受け取っていたことに僕は気がつきました。それも僕が与えたと思っていた事より多くの事を君は僕に与えてくれたのですね。

きっと君がいないと仮定したこの2年半は殺伐とした2年半になっていたことでしょう。これは僕の実感です。そしてこの差が君が僕に与えてくれたのです。それはとてつもなく大きな物です。僕は君にいなくなって欲しくないと、強くその時に思いました。それは僕の為だけではなく、これからつらい生活が君に待っていようとも、僕は出来るだけの事をしよう、君に感謝の気持ちを持とう、君と離れたくない。そんな感情です。

そんな気持ちが強まったときに、医者から「奇跡です」と言われるくらいに君は立ち直りました。その時うれしさと同時に、君への感謝を伝えられるチャンスを与えてくれた事に喜びました。また僕は命という大きな力を感じることも出来ました。これもあらためて君が僕に教えてくれたことです。

これからも一緒に生活しましょう。共にお互いの命を歩いていきましょう。
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十分に僕は君に感謝を告げることができたのだろうか・・・

2005/07/08

再び「宇宙戦争」の感想、それは一つの妄想

af_blogのfuRuさんの「宇宙戦争」感想記事を読んだ。「宇宙戦争」の映画だけでなく、最近の映画全般にわたる、とても良い記事だと思う。僕とは見方が違うが、それでも納得できる部分も多く、読んでいてとても面白い。なによりfuRuさんの感性に触れることがとても楽しい。

再度「宇宙戦争」感想記事を書くのは、fuRuさんの記事に触発されたというわけではなく、前回記事において書くことを躊躇した内容を、僕の思考の中に留めおくよりはメモとして残しておいたほうが良いと考えたからだ。

ティム・ロビンスは好きと言うより、巧い役者という方が僕にとっては適切だと思う。「ショーシャンクの空に」「ミスティック・リバー」、双方での彼の演技力は素晴らしかった。ただ、やはり僕にとっては「ショーシャンクの空に」のアンディ役が印象に強く残っているせいか、その後の彼が演じる役は巧いとは思うが、多少の違和感を持ってしまうのも事実ではある。再度の「宇宙戦争」記事はティム・ロビンスがメインというわけではないが、彼が演じる役オギルビーとトム・クルーズ演じるレイとの関係について書きたいと思った。
前回も書いたことだが、「宇宙戦争」は主人公であるレイの視点から描かれている。それはかなり意識的なカメラに立ち位置からでもわかる。この映画では、レイが見ることしか見えず、レイが知ることしか観客は知ることが出来ない。それは、同じスピルバーグ監督作品である「プライベート・ライアン」が連合国側という一つの共同体からの視線とは異なり、主はあくまで個人の目線だと思う。「プライベート・ライアン」では、一つの共同体から外れる者たち、つまり枢軸国側兵士の痛みは殆ど観客に伝わらないが、冒頭のノルマンディ上陸での激しい戦闘シーンでもわかるように、連合国側兵士の痛み・人間性は明確に伝わってくる。

「宇宙戦争」の場合、視線はレイという個人の視線であるため、幾つかうがった見方も可能となる。その最たるものは、たぶん、宇宙戦争自体がレイの妄想ではなかったのか、ということだ。レイは生活が荒れ、離婚によるストレスと、子供を愛せない自分を責めている。その結果、精神的に追い詰められ、宇宙戦争という妄想が登場し息子と娘を連れまわす、そんな見方だ。それであれば、「宇宙戦争」において説明不能な様々な出来事も、レイの意識における何かの象徴性ということで説明がつくだろう。

勿論、上記の見方を僕は選択しない。でも似たような見方として、映画の中で一つだけそれらしき場面があると思っている。それがティム・ロビンス演じるオギルビーとレイとの関係である。僕は、この映画をレイの視点で描かれているといったが、実際は数箇所においてレイの視線から外れるときがある。その一つが、レイが娘を守るためにオギルビーを殺害するシーンなのである。このシーンはレイがオギルビーがいる部屋に入りドアを閉めて、しばらくして殺したと観客に思わせる状況で部屋から出てくる。その間の目線は、誰でもなく、ただ娘を映しているだけとなっている。映画全体から言えば、とても奇妙なシーンでもある。

はたしてオギルビーなる男性は存在したのだろうか。これがこの記事の主旨でもある。率直に言えば、僕はオギルビーなる男性は実際には存在せず、彼はレイの幻想だという見方をしている。何故そもそもオギルビーは、逃げ行く大勢の中からレイ親子を見つけ助けようとしたのか、レイ親子を助けるだけではオギルビーが目論む反撃への戦力としては弱いとしか言いようがない。それでいて、反撃を目論むオギルビーはレイを囮にし、その隙に敵を叩くことを考えている。それは自己保身を考えてというのもあるが、オギルビーが娘に近づいたり、レイに娘のことは面倒見ると告げたりと、実はオギルビーの意図は娘をレイから奪うことにある様にもとれる。少なくともレイはそのように見ている。

何故オギルビーはレイの娘を奪おうと目論むのか。オギルビーは宇宙人によって妻と子供を殺された男である。それは離婚によって妻と子供から去られたレイの境遇を暗喩しているようでもある。レイはオギルビーが登場する場面では、娘を守る父親の対場となっているが、元々は子供と一緒にいるのが面倒と考える男だった。オギルビーは亡くした自分の子供の替わりにレイの娘に近づいたのかもしれないが、想像するに、妻と子供を愛する良き父であり良き夫だったことだろう。ただ、宇宙人が地球人の血を吸う現場を見ることで、オギルビーの行動は一変する。幻想の増援部隊を導くために、地下に穴を掘り始める。それは恐怖から自己の生存だけを願うエゴイスティックな姿でもある。見方を変えれば、それはレイの以前の姿でもある。

つまり僕の言いたいことはこういうことだ。レイはオギルビーの宇宙戦争前の父親像を願い、宇宙戦争前の自分の姿を錯乱したオギルビーの姿に見た。だから、レイはオギルビーを倒さなければならなかった。倒したのは以前のレイの姿である。そして残るのは、宇宙戦争前のオギルビーの良き父親像であるのだ。これらはレイの精神の中で行われたと考えたほうが良いと僕は思う。第一、地下を掘る音がうるさいだけで人を殺す動機になるだろうか、気絶させ手足口を不自由にするだけで事足りると僕は思う。

レイがオギルビーを殺す場面がないのは、実際に殺す相手が実在しないからだと僕は思う。だからそれ以降は、オギルビーの存在そのものがなかったかのように描かれ、観客から彼は忘れ去られる。
僕にとってこの映画は、何故レイ個人の視点だけで描かれなくてはならなかったのか、の問いで記憶に残る映画になったと思う。ただ評価については、前回の記事から変わることはない。

2005/07/07

「私は」から書き始めてみる

「私」から書き出してみる。このブログ記事では「私」と書き出すことは一度もなかった。でも今回の記事は「私」と自分を表現することの方がふさわしい。私の勝手なイメージでは「僕」は「私」より自己中心性が増しているようだ。それはそれで悪くはないのだが、「私は」で始まる自分の文章が「僕は」で始まる文章と何が違うのか、実のところ興味はある。

私は以前に「ほんとうの自分」という事を考えたことがないと記事に書いたことがある。でもその時は「ほんとう」ということに対し、今でもそうなのだが、どちらかというと否定的な気分がまわりに漂っているのを感じ、その上でそれほど考えずに書いていたように思う。実際は私は「ほんとうの自分」というものを常に求めているような気がする。本質的に自己意識が自己価値を求め、自己価値は他者もしくは社会の承認によって得られるのであれば、社会の矛盾を感じる時代性の中で「ほんとう」などないと考える自分がいるのも間違いないが、それでもなお、私の根っこの部分では「ほんとう」を求めているようだ。

私にとっての「ほんとう」は、自己欲求を満足することが即ち他者と社会から承認を受ける事と同義の状態において、絶対的な「ほんとう」ではない。まして、他者も私と同様に自己欲求と承認を求めているのであれば、他者との関係性の中において別の「ほんとう」があるとも思う。他者との関係の中で、もしくはある程度社会との関わりの中で、契機となって私の中で意識される「ほんとう」は、私の「良心」とも言うべきものとして、逆に私の行動を要請することになる。それに準ずることが、私にとっての「ほんとうの自分」に近い様にも思える。だから結局のところ、私の「ほんとう」とは、道徳的な側面は全く持たないとも言える。

私は今までの人生の中で、多くの誤りをしてきた。私にとって「ほんとう」とは、自分が誤りを行う可能性の中で、繰り返し自分に問うことで見つけていくものかもしれない。
時として私は自己欲求を強く推し進め、自己および他者との関係を崩してしまうことも多い。その衝動は時として抑えがたく、私のうちに大きなうねりとなって私を飲み込む。それは時代性をもつ社会の中で常識と呼ばれる道徳性にそぐわない行動ではあるが、私にとってはある意味、誤りといえども「ほんとう」を求める行動によってともいえる。ただ、それは他者との関係性が契機で意識される「ほんとう」とは違うとは思う。

私にとっての「ほんとう」は、社会的な地位もしくは金銭を得ることで自足することではない。他者がそれによって「ほんとう」を得ることにたいし、私は言及する事は一切ないが、それは私の「ほんとう」ではないのは確かなことだ。「ほんとうの仕事」など「ほんとう」を接頭語にする何かは、私にとって、私の「良心」に適ってこそ「ほんとう」と言い得る何かではないかと思う。ただ、「良心」に適うことは私にとって、実際上難しい事ではある。

2005/07/06

我慢できずにパソコンを買ってきた

実はパソコンが3週間ほど前に破損して、しばらくSONY製ノート、しかもC1という誇りをかぶって眠っていたパソコン、を使っていた。でも画面が小さい、遅い、入力がしづらいなどで我慢ができず、このあいだの日曜日に秋葉原に行きパソコンを買ってきた。

以前のパソコンは電源部分が破損してしまっていた。壊れたとき、「パン」と音がしたのだから、その音を聞いただけでも、自分で何とかしようとする気持ちが失せてしまった。案の定、何をしてもどうしようもなかった。でも最近ネットでゲームもやっていなかったし、小さなノートでも我慢ができると思っていた。でもそれは2週間ほど使い無理だと思った。

購入したパソコンは「e-machines」という米国のメーカーだが、とにかく安い。以前のパソコンのディスプレイは残っているので、とにかく本体さえあればそれで満足するのだが、その本体だけ売っているのは少ない。

重たいおもいをして家まで持って帰ってきた。値段の割に性能は良くて、結構満足している。タワー型なだから、旧パソコンのハードディスクも増設するスペースもある。ただ問題なのは、TVチューナーのボードを装着できることはできたのだが、ソフトが起動するごとにシステムエラーになってしまうこと。未だに原因不明だ。

今後は、やはりグラフィックボードの装着だと思う。以前のパソコンにはAGPインターフェースがなかったので、グラフィックボードを装着する事による速度向上が楽しみでもある。さてと、このパソコンでいろいろと遊ぶことにしよう。

2005/07/05

ビジネスにおける情報共有とは?

IT業界の現状は、仕事量は増大しているが、その一方で、コスト削減に対する経営者層からの要望も強く、限られた人員で多くのプロジェクトをこなしていかなければならないというジレンマに苦しんでいる。また業界で働くスタッフは、仕事量の増大によるストレスや、コストの圧縮要請、アウトソーシングの実施などを原因とするモチベーション低下といった問題に悩まされている。これらの問題は今に始まったことではない。昔から言われ続け、問題として挙げること自体が少々恥ずかしい。

昔から良く聴く言葉として、属人化しないように、システマチックに考える、などがあるが、それらはいまだに言われ続けている。それらをスローガンとして掲げているうちは、組織としては確かにその方向に流れてはいる、でも日々の案件に忙殺されるうちに、次第にまた元に戻っていくというわけだ。全体としてみれば、「属人化しないこと」ということ自体、人の本性とは違うのでないかと思うほどである。

最近仕事において、「情報共有」という言葉をよく耳にする。発端は、流動的な人事の流れにおいて、異動者・派遣者・協力会社からの応援・新入社員が当該部署に配属されたときに、最新情報を含む各種ドキュメントがどこにあるのか不明、かといって詳細設計書レベルでは難しすぎるし、基本設計書レベルでも同様かもしれない。そういう異動者はもっと簡単で一目見て理解できるドキュメントを要求する。そしてそれらのドキュメントは、同じ部署内でも多くの人が必要とするだろうというわけである。それが情報共有の意味として使われている。でも僕が思うに、それは資料管理の一環、もしくは社内教育ドキュメント整備の一環でしかないとも思える。

そもそも部署全体でドキュメント化しての、一つの情報共有は難しいのでないか。それに異動者がいたとして、何らかの共通するドキュメントを見たとして、それがどのくらいの意味を持つのだろうか。逆に言えば意味を持つドキュメントとは一体なんだろう。

例えば、各最小単位組織では情報共有と称して当該組織内での定例会を設けているところもある。それの目的は、人が担当している案件の内容を詳しく知り、アイデアがあれば意見を具申するということが第一ではないと思う。目的としては、顔と顔を突き合わせ、誰が何をしているかという「タイトル」部分でのリンク付けがメインだと僕は思う。つまり、何かがあったとき、誰に聞けばその問題解決への道順が短いかを知ることが、定例会としての情報共有の主たる目的ではないだろうか。定例会を実施していない組織では、その場合はいったんリーダーに通すことになる。それではリーダー自身がボトルネックになる可能性が出てくる。

それを部署の情報共有への考え方に導入するとすれば、資料管理の立場から、資料を整備して配置することは、資料の再利用のしやすさ、教育の資料を含め意味があると思うが、それだけでは情報共有とはいえない。資料が有機的に繋がっていなければ、情報としては意味がない。それを必要としているのは「今」なのだ。「今」というタイミングを逃す情報は情報ではない。有機的とは、最低限そのことを知っている人は誰かと言うことの記録だと僕は思う。知りたい人は、その時点で知っている人にアクセスできる様にする、それができる環境を作ることが、「情報の共有化」と僕は考える。情報共有とは業務の効率向上を目的とし、それ以外に目的を見出すことが難しいと思う。そして、「今」必要な情報は、「今」そのことで働いている、社員でもある。彼は忙しいだろうから、親切に説明はできないかもしれないが、糸口としての別のドキュメントを教えてくれるだろう。まずはそれを読むことから始まるのでないだろうか。

さらに先に進み書き続けたい気持ちもあるが・・・別途書きます。

2005/07/04

図書館雑文

利用者の立場で図書館の事を書くつもりでいた。でもそれには少し時間がかかるようだ。利用者の立場で言えば、僕は図書館が抱える様々な問題に無関心というか、問題自体を認識していない。

利用者から見ると、図書館は常に無料のサービスを提供してくれる場所であり、空調が整った快適な空間で、読書もしくは勉強ができる。それは利用者にとって常識的なことであり、先々その提供が途絶えることもしくは変化することをなどないと信じて疑わない。
それらの事などに、利用者として語りたいと思ったのだが、僕の力不足で少し難しい。

図書館でまず思い出すのは映画「ショーシャンクの空に」。アンディーが図書係として刑務所の図書室を整備する。刑務所での図書館。それは「希望」を描くこの映画にふさわしい存在だった。アンディは映画の中で言う。「音楽は誰にも奪えない」と。それは、図書館に寄贈された中に入っていたクラシックレコードを刑務所中に放送する事で、罰則として独房に2週間閉じこめられた後で言う言葉だった。人の心の中のものを他人は侵すことができない。それは図書館に所蔵する様々な書籍・音楽によって象徴的に現されていたように思うのだ。

近くの図書館に行ったとき、所蔵している書籍に囲まれると、時折僕は軽い目眩さえ感じる。知らないことが僕には多すぎる。そのことと、これらの書籍を自分の人生において全て読むことが不可能な事を悟るのだ。勿論、量とかが大事だと言っているのではないが、それらの書籍の中で知らぬ間に、自分の経験とか知識に対し謙虚になっているのは間違いない。

そういえば、以前「東京国立近代美術館フィルムセンター」に度々行った。そこの図書館は映画に関する資料が多かった。最近はどうだろうとネットで調べたら、イベントとして「生誕百年特集 映画監督 豊田四郎」を開催しているようだ。豊田四郎監督作品で未だに印象に残っているのが「地獄変」。中村錦之助・仲代達矢の演技が今でも覚えている。フィルムセンターの図書館に行きがてら映画でも見てこようかなと少し思う。

あと図書館で思い出すのは「国際子ども図書館」。ここには昔の絵本が多い。サイトを見るだけでも楽しくなる。ただ問題は開館時間が社会人にあわないことだ。
元NHKアナウンサーである鈴木健二さんは、昨年まで青森県立図書館長だった。そこで「おはなし会」として朗読と語りを始めた。それは今でも続いているようで、図書館の利用者向けへの一つの文化活動として根付いているようだ。

現在、図書館は様々な問題を抱えている。それに、昨年米国で図書館が市の財政問題で閉館に追い込まれたニュースを何件か聞くように、図書館の維持には相当の費用がかかる。図書館閉館のニュースは対岸の火事ではないのかもしれない。当たり前のように受けているサービスも、今後は様々な社会問題への対応による支出により、図書館への財源割当は減ってゆくように思える。そのとき、今後専門家だけでなく、利用者側の意思表示も必要になるときがくると思う。

2005/07/02

記憶をたどってクレイグ・ライス

米国作家であるクレイグ・ライスのミステリーを、一番読める国は日本だと聞いたことがある。それほど日本ではライスの作品が愛されているということだろう。小泉美喜子は、小説の世界で実際に登場人物と一緒に交じり合いたいと思うのは、ライスのミステリーだけだ、みたいな事を言っていた。その気持ちは僕にもよくわかる。元新聞記者のジェイクとその妻ヘレン、二人の友人である酔いどれ弁護士マローン、とにかくこの3人が繰り広げる会話と行動が絶妙なのだ。

最初に読んだのが、「大はずれ殺人事件」、その軽妙な登場人物の語り口に夢中になり、続編の「大あたり殺人事件」で完全にはまってしまった。ライスの作品は、例えて言えば、P.D.ジェイムスの様な深刻さもなければ、ポーラ・ゴズリングのようなロマンス性も少ない。犯人捜しの面白みも、膝を打つようなトリックの斬新さも明快さも少ないかもしれない。でもライスには、それらを補っても余りある語りの巧みさがある。また魅力的な登場人物が多く、気がつけば彼女の小説世界の中にどっぷりとはまってしまうのである。

『恋人は「貴方なしでは生きてはいけない」という。殺人者は「貴方がいては生きていけない」という』
上記は「おおはずれ殺人事件」でのマローンの言葉だ。うらおぼえなので正確ではないが、意味としては合っていると思う。こんな言葉での会話が頻繁に行われる。

ところで、どっぷりとはまって読むミステリーは、ミステリー本来の読み方からしてみれば少し異質かもしれない。「ミステリーの社会学」(高橋哲雄)であったと思うが、確か小説世界に半分埋没しながら、後の半分は少し離れて、犯人とかトリックを考えながらミステリーは読まれる、みたいなことが書いてあった。それからしてみると、僕のライスの読み方は、ミステリー本来の読み方ではないようだ。でも僕にとっては、この読み方こそが「ライスのミステリー」の読み方と信じている。

ライスは1957年に49歳で急死する。原因として、離婚と仕事のストレスからアルコール依存症に陥った事があげられているが、実際は不明だと言う。作品の中に流れる一種の幸福感を持った軽さは、実生活では違っていたのかもしれない。それらは憶測でしかない。しかし僕としては、マローンとジェイク夫妻を書いているときは、楽しんでいたと思いたい。