2005/08/04

8月の暑い空の下で

8月は不思議な月だと、僕は思う。祖先の御霊が戻り、甲子園球児達が白球を追う、広島・長崎の平和祈念の日も忘れてはならないし、玉音放送が流れた時も蝉の声だけが聞こえるうだるような暑さの日だったと聞く。先だって読んだ「八月十五日の神話」(佐藤卓己)では、夏の話題に事欠く新聞社が記事作りのために始めた夏の甲子園について、「高校野球の社会学」(作田啓一)を引用し国民的宗教儀礼としていた。だから極度に「不浄」が忌まれるということになる。そういえば高知県の明徳義塾が喫煙と暴力で大会を辞退したとのニュースが流れた。たかが喫煙ではすまされないものが高校球児には今でも強く残っているのかもしれないが、このニュースに少し違和感を感じてしまった。喫煙の背後に重大な事件が隠されているのではと勘ぐってしまうのである。でもそういう事はなく、やはり高校球児に求められる姿が依然として変わっていない証左なのだろう。

昔から思っていたことだが、僕は人が多く亡くなる月は2月と8月だと思っている。2月は寒すぎ、8月は暑すぎ体力を消耗する。統計的なことは見たことがないので正直不明ではあるが、特に8月は死者の近くまで生者との境界線が動いている感を持つ。これもお盆などで培われた感性と言えばそれまでの話ではあるが。

会社から予定通りにしばらくの休暇を得た。それで今日は久しぶりに図書館に行ってきた。実は昨夜トーマス・ベルンハルトの事を知りたいと色々とネットで検索をしたが、思うように資料を得ることがでいなかったのだ。出来ればドイツ文学者のベルンハルトに関する論文を多く読みたいと思ったのだが、アカデミックの世界は僕のような一般人には門戸を開いていないようで、得られるものといえば目次案とかそういったもので、少しも面白いものはなかった。彼等学者達がドイツ文学を広めようとする気持ちはあるのかもしれないが、それであれば彼等の研究成果の多くを公開してほしいと僕は思う。

8月という時期によるものだと思うが、僕にはトーマス・ベルンハルトに関して一つの直感を持っている。それは今のところ仮説にもならない話なので、それを少しでも確証の種でも得ようと図書館に行ってきたのだ。成果は殆ど無かった。でもその時間、僕はあれやこれやと様々な空想の中で楽しい時間を過ごすことが出来た。

直感とはベルンハルト文学の解釈はオーストリアの歴史の中に鍵を持つと言うことだ。それを言ってしまえば当たり前のことかもしれない。でも僕の言いたいことはこういうことだ。オーストリアは1938年にナチスドイツに併合される。その後第二次大戦ではドイツ兵として徴兵され各地で連合国と戦うことになる。終戦後オーストリアは連合国側にナチス最初の犠牲者として承認され、ドイツ兵として戦ったことについては不問にされる。ただ、ナチスがウィーン入城の際はオーストリア人に熱狂的に受け入れられ、ナチス党幹部にもオーストリア人が多くいたことは事実なのである。だから、戦後オーストリアではナチス大物が長く政界に生き残ることになる。なおかつ東西冷戦状態が中立国としてのオーストリアを有利に導いたのも事実だと僕は思う。

いうなればオーストリアでは戦後の総括がなされないまま過ごしてきたと言うことになる。悪いのはナチスドイツで、自分たちは被害者である。殆どのオーストリア人達はそう思っていることだろう。その中でワルトハイム事件とハイダー現象が起きる。ワルトハイム事件とは、元国連事務総長のワルトハイムがナチスに関わり合ったという過去事実の暴露の中で、1986年にオーストリア大統領になったことからくる世界のオーストリア批判のことである。あり得ざる事が起きた事により、オーストリアの過去の克服は不十分ではないかという批判が世界各国からわき上がる。ハイダー現象とは、オーストリア政治家ハイダーがナチス賛美を演説の中で行った事からくる一連の騒動を言う。

ベルンハルトは1989年に亡くなっている。つまり彼は、ナチスドイツの併合時代、戦後の連合国占領時代、中立国時代、の流れの中でオーストリアが曖昧としてきた、敗戦か開放かの問題、そしてそれらの問題を克服することなく安易に犠牲者であり解放された事で過ごしてきた欺瞞を本質的に彼の文学の中に現しているのでないか、という事なのだ。
彼の文学に現れる、「愚痴」「悪口」「皮肉」とも言える文体、「死」「狂気」「病気」を中心とした展開は、それらの内容をこの方向で子細に読み解くことが可能だと僕は思うのだ。

そしてこの構図、ドイツ人は悪く自分たちは被害者である、は僕たち日本の姿をそのまま投影しているかのように思えてくるのである。この場合、ドイツ人は日本軍閥と政府ということになるのだろう。つまり僕にとってはベルンハルトを研究することは、そのまま日本に跳ね返ってくる事になる。それであれば、日本にベルンハルトのような小説家がいるかと言えば、僕の乏しい知識では思い浮かばない。要するに、僕等に足りない何かがそこにはあるのかもしれない。そんな予感さえしている。

上記のような僕の直感というか空想の線で、既にドイツ文学者の誰かが研究をしているのであれば、僕は是非とも読みたいと思う。
こんな事を考えるのは、やはり8月のなせる技かもしれない。高気圧に覆われた日本で、暑くうだるような図書館の前で、僕は半分目眩を感じながら青い空を見上げる。

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