2005/09/22

8月11日のツーリング記録、オートバイで「走る」ということ

2005年8月11日早朝、僕は夏休みの一日を使ってオートバイでのツーリングに出かけた。日帰りツーリング、それは日常から数センチほど飛び出した程度のたわいのない話だと思う。それでも人は数センチの違いでも、様々なことを考えるものだ、と僕は思う。1ヶ月も経ち、忘れることは忘れてしまった、今残っているのはそのツーリングの肝みたいなものである。出来るだけ簡潔に記述したいと思う。

東北道を下るつもりで家を出た。ところが思わぬ環八の渋滞に嫌気がさし中央道に切り替えた。その時点で、目的地は未定。気ままな、いつも通りの無計画の旅となった。

途中のサービスエリアで地図を広げる。このまま諏訪湖にあたりに行くのも良い。しかし、地図で中央道を辿ると大月JCから富士吉田市にのびる支線がある。この道は以前に友人と富士急ハイランドにスケートに行くために使ったことがあるが、その時はバスであった。オートバイにとっては初めての道である。今回のツーリングの起点はこうして決まったのである。

Aoki-ga-hara

富士吉田から青木ヶ原を通る。雲が多いというのに日差しが強い。そういえば富士山方面に向かっているというのに、富士山を意識して探すこともなかった。富士山方向に雲が多く隠れ、その雲の白さが風景にとけ込み、ないことが自然だった。ないことが自然とは僕の感覚が少しズレ始めているのかもしれない。

Lake Motosu

本栖湖に立ち寄る。湖岸で水遊びをしている子ども達、それを見守る夫婦。手を繋いでボートを物色するカップル。夏の日をそれぞれに楽しんでいる。人がそれなりにいるのに、不思議と喧噪を感じない。そして日差しが強く暑いのだが、心地よい風が吹き、空の白さと相まって、全体が幻想的な雰囲気と感じ始めている。その感覚に少し気まずさを覚え僕はその場を立ち去る。

Lake Motosu

このルートを選んだとき、僕には走るべき道があった。国道300号線、本栖湖から山を越え身延町へと続く道だ。地図上で見ると気持ちの良さそうな曲線が続いていたのだ。山道に入るまで本栖湖の湖岸沿いに道は走っている。途中でオートバイを止め本栖湖を眺める。先ほどの姿とは違う姿を見せる。富士山は相変わらず見えない。そしていよいよ日差しは強くなっていった。

村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」の後半に登場する「嫌なカーブ」は実在すると僕は思う。小説上でそれは「あちら側」へと繋がる道であった。オートバイに乗ると、カーブには「嫌なカーブ」と「心地よいカーブ」の二種類があることを実感する。国道300号線の多くのカーブは僕にとって「嫌なカーブ」の連続だった。左手に美しい本栖湖岸、右手に山が迫る。緩やかなカーブだと思い、本栖湖の風景に眼を曲がると、途中からカーブがきつくなった、所謂複合カーブ、曲がりきれなく、下り坂でスピードが出ていた。後輪が滑りながらぎりぎりで曲がりきる。手足の筋肉が固まる。実を言えば一瞬ぶつかるとあきらめかけた、気を緩めるなと自分に言い聞かす。本栖湖で感じた白昼夢的な感覚に囚われ続けていたのかもしれない。

山間の道を抜けると、そこは山村の風景が点在する。途中で道の駅で休む。本栖湖からここまで、殆ど対向車も人も出会うことがなかった。道の駅にいたのは、地元の女性一人と家族連れの4人だけだった。

Minobe-town

身延町につく。身延は久遠寺となるが、南アルプスへの一つの玄関口でもあると思う。着いたのが午後の2時頃だと思う。ある程度知られた町なので、それなりの人混みを予想していたが見事にはずれた。この町でも人に出会うことが滅多になかった。駅前で売っていた「身延まんじゅう」を食べる。空は全体が雲で白く、身延の町並みの不自然なほど白く綺麗な町並みに相乗し、本栖湖での感覚が少し蘇る。富士川がきらきらと日差しを反射して流れる。

Minobe-town

富士川沿いに52号線を使い東海道まで上る。52号線は好きな道だ。ここでも対向車線を含め車と出会うことが少ない。適度なアールのカーブを、心地よくリーンウィズで曲がる。適度な筋肉の緊張が気持ちよい。

国道52号線は東海道の興津港に繋がっている。しばらく国道一号線を走るが、大型トラックを含め相当なスピードの流れに乗り走ることに嫌気がさし、旧道へと入っていく。由井、蒲原と通り過ぎる。ここら辺は桜エビ漁で知られている。知人からここでしか食べることが出来ないという桜エビ丼が旨いぞと聞いていたので、食指が少し動いたが、道沿いにはそれを告げる看板を見ることがなかった。ここから富士市近くまで渋滞となる。今まで感じることが少なかった暑さを感じる。暑い、そして日差しが強い。

kannbara-town

蒲原といえば、小学の時に叔父から貰った切手を思い出す。持っていた中で一番好きな切手だった。安藤広重の図版では確か雪が降っていた。今では想像も出来ない。途中で給油をする。ガソリンスタンドのおばさんと少し話す。旧道沿いの商店が日中だというのに閉まっているのが気になって聞く。おばさんは僕の質問を聞くことなく、ここら辺はいつも渋滞しているのですよ、と答える。僕は、そうですかと言って、店内から外を眺める。

Fuji-city

富士市は東海地方の有数の工業地帯として知られている。特に富士川の水を利用した印刷工場が建ち並ぶ。海岸沿いに立ち並ぶ工場の姿は化学工場も多い。いずれにせよ工場関係の人が多いのでないだろうか。富士市のJR駅前までいき、すこし町を歩く。人が少ない。閉まっている店も多い。そして外国人が多い。この町で生活することを想像する。それは普段と変わらぬ日常を想像することでもある。つまりは今とそれほど変わらぬ生活なのだろう。

東海道を上り沼津市に至る。大きな都市だ。以前来たときはこれほど大きな町と意識することもなかった。富士市の風景と沼津市の風景、恐らく数十年前は両者の見た目の違いは少なかったのではないだろうか。発展することの善し悪しは問えない。ただこの違いに少し驚くだけである。

沼津市から国道246号線を使い帰宅することにした。沼津からは山間を抜けるカーブの多い道となる。しかもそれほどの込むことは少なく、通る車はそれなりに速度を出している。急激に気圧が下がるのを感じる。薄暗かった夕暮れが、上空の黒い雲でいきなり暗く、そして突然に大粒の雨が降り出した。土砂降りの雨には幾度となく遭っているが、闇夜の状態となっての雨は初めてだった。視界が極端に悪くなる。数メートル先が定かでない。それでいて、車は平気で速度を落とすことが無く走っている。流れに乗ることが出来ずに、僕は途中の山際に停車し、雨に濡れるまま、安全になるまでたたずむ。日中に感じた幻惑感は既に無かった。雨は1時間ほどで治まった。濡れた身体は寒かったが、走っているうちに乾き、家に着いたときは何事もなかったかのようであった。

僕にとってオートバイに乗るとは「走る」ということと同意語である。しかもそのオートバイは「走り続け」なくてはならない。走って走って走り疲れて家に戻り泥のように眠るのだ。「走る」ということは、その状態において、眼前の出来事に対処する事が何事においても優先すると言うことだ。ほんの一瞬の気の緩みから事故を起こすこともある。周囲に気を配り、動き去る景色に目を奪われることなく、僕は肢体を常に緊張させ続ける。また、対面で受ける風の感触、気温・湿度の状態、各々が直接乗り手である僕に影響を与え、風景の中に身も心も一体化する感覚を持つ。

「余計なことは考えるな、目の前に集中しろ、感覚を研ぎ澄ませろ、危険を体で予知するのだ」内なる声が僕にささやく。僕はその声に従う。機械を自らの意志で操り、拡張した身体機能で得られる体験は、勿論通常のそれとは違う。それは愉悦を僕にもたらせるが、同時に身近の「死」を意識することでもある。でも人はその状態にも慣れるものだ。いつしかオートバイで感じた愉悦は日常にとってかわる。

走って走って走り疲れて泥のように眠る、それは見方を変えれば、僕の父母もしくは祖父母たちの日常でもあったかもしれない。今でもそのような日常をおくる人々は世界には多いことだろう。それを時として求める気持ち、それは僕の中で些末なことで悩む自分を別の状態におくことでもある。逆に言えば、そういう日常をオートバイという非日常に転換しなければ、僕自身「走る」という意味の「生きる」と言うことを実感できなくなってきているのかもしれない。

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