2006/01/15

無題という名のお詫びと言い訳

ここ数ヶ月の間、僕は文章が書けなかった。「読む気」「語る気」「見る気」「働く気」その他の「気」はあるのだが、どういう訳か「書く気」だけが沸いてこなかった。色々な方から心配をされ、遠慮がちにさりげなく多くのアドバイスもいただいた。この場を借りて僕の感謝の言葉を伝えることができればと思う。

ここまで書いたこの表現、とても嫌いだ。素直に書けばいい。
本当にありがとうございます。拙いブログですが、それでも気にしていてくれる方がいてくれるのがとても嬉しいです、と。でも白々しさがこの言葉に宿る。でも感謝しているのは事実。ただ言葉が出てこない。

何故書けなくなったのか、その理由は未だにわからない。いや、それは多分嘘だ、僕は書けなくなった理由を知っている。心が少し風邪をひいた?それもあると思う。自分の書くブログに何の意味も見いだせなくなった?確かにそれもある。人のことを気にし始めてきた?その通りだ。隠れてしまおうと思い始めた?いつも思っている。

こんなふうに自問自答することで、本当は知っている答えに辿り着けることは出来ない、それも知っている。矛盾する言葉の連続かもしれない。でも感覚的にこの表現が合っていると僕は信じている。

一度書くことを覚えた人は、歌うことを覚えた人と同様に、何かを書き続ける。この数ヶ月間、僕は声を奪われた人魚姫の気持ちを味わった。語ることは、書くことは沢山あった。僕の中では様々な思いが、収集され整理整頓され、編集された文章として、あとは自分の手がペンかキーボードを打てば良いだけだったのだ。でも一度整理され完結された僕の言葉は、表に出てくれなかった。
ペンを持つとき、キーボードに向かうとき、僕はただ呆然として立ちすくむ。そして数行書いて、デリートキーを押し続ける。

映画「小説家を探して」の中で、小説家役のショーンコネリーは主人公の少年に向かって言う。「頭で考えるな、手は頭より賢い」と。僕はその意見が好きだ。まずは何も考えずに??、手の赴くままに書き続けよう。頭は編集のためにとっておく、無慈悲な文章の削除判定係として。そう思った時期もあったが難しかった。

何の結論も出てはいない。ただこの文章は、事前の予告なしに、つまりは前から書こうと思って書いているわけではない。つまり僕にとって予測不能の文章でもある。だからここまで書けるのかもしれない。こういう仕方で以前はよく書いた。しばらくこの仕方で書こうと思う、その結果、駄文がますますひどくなるかもしれない。でもまぁそれが実態であるから致し方ない。

皆さんからいただいた暖かいコメントへの返事、遅くなって本当にすみませんでした。

あっ、今のは素直に書けました。ありがとう。

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