2006/02/14

丑三つ時、ブログを書いて震える

子供のときに映画「東海道四谷怪談」をテレビで見た。僕が小学生で夏休みの近くの友人宅に遊びに行き、暇に任せてテレビをつけたらたまたま放映していた。見たくはないのだが、目を離すことができず、とうとう最後まで見てしまった。帰りの道が、まだ暗くはないのだが、街路樹が自分に襲い掛かるような、そんな気分になり怖くて家まで走って帰った。後から知ったら、僕らが見た映画「東海道四谷怪談」は、原作鶴屋南北、監督中川信夫の1959年封切りの東宝映画で、数ある四谷怪談では最も怖いと評判の映画だった。

この映画を見てからしばらくの間、怪談物がまったく受け付けなくなっていた。「東海道四谷怪談」ほどの怖さではなくても、それらしき番組が始まると目を背けるか耳を覆おうかしてしまうのである。テレビを消す行為は一瞬でも番組が視野に入るのでできない。もちろん今はそういうことはないが、それでもこの映画を思い出すといまだに怖さが蘇る。二度と見たくないと思っている。

大人になり、子供のときに味わった同様の怖さを再び味わった。それはあの「リング」である。1998年に鈴木光司原作、中田秀夫監督の角川映画で原作を含めブームとなった「リング」の貞子を見て、僕は「東海道四谷怪談」を思い出したのである。あれから一連のジャパニーズホラー作品が人気を呼んでいるが、僕は一作も見てはいない。こうやってブログに書くこと自体にも多少の抵抗感があるのである(笑)

人はなぜ恐怖を感じるのか?そのような問いは、様々な分野での研究者がそれなりの回答を持っていると僕は思うが、それらの回答は僕にとっては無意味である。仮に人が感じる恐怖の原因を洗い出し、それを相対化し、「脱恐怖」(大笑)をしたところで、僕にとってあれらの映画に「怖さ」を感じることの現実性は変わらないのである。でも「東海道四谷怪談」と「リング」の二つの映画を較べてみたときに、もちろん二度は見ないので記憶の中でだが(苦笑)、ひとつの共通項がある様に思えた。考証なしの冗談に近い想像ではあるが、ここまで読んだついでに聞いて欲しい。(あいそ笑)

「東海道四谷怪談」で印象的な場面はおそらく戸板返しだと思う。伊右衛門(天知茂)が殺したお岩(若杉嘉津子)とあんまの宅悦を戸板に打ちつけ川に流す。そしてその戸板が釣りをしている伊右衛門の前に流れ着き彼を襲う。伊右衛門はお岩の死骸を川に流したのはとても象徴的なのかもしれない。川は異界との境界線であり、もしくは異界への交通路を現していると思うからである。

日本の川は概ね山から海へと流れる。山は山岳信仰を持ち出すまでもなく神聖な場所であり、山神(人)が住む異界でもあった。川はその異界と人間が住む里を経由して海へと続く。イザナミ・イザナギノミコトは初めの子供が異形であったので葦船に乗せて流す、地蔵菩薩は三途の川を渡れぬ子供達を霊界へと誘う、桃太郎は川から流れてきた桃から生まれた事が示すように最初から異形の者として登場する。

再び伊右衛門の前に現れる戸板は、つまりは異界から戻ってきたことを現しているのでなかろうか。戻ってきた戸板に打ち付けられたお岩は既に死骸ではなく異形の者である。
「リング」の場合、象徴的に現れる井戸もまた川の変形である。井戸は垂直方向の川として見ることが出来るからだ。つまり井戸自体が異界への道として現されていると思うのである。何故貞子は井戸に落とされたのか。それはもともと超能力を持つ子として生まれた貞子が父から見ると既に異形の者だったからだと思う。異形の者を異界に帰すこと、それが井戸への突き落とし行為だったようにも思える。貞子は井戸をはい上がろうとする。実際は貞子は異形の者ではなかった。井戸の外部、つまりは人間界にすむ普通の女性であった。だから彼女は井戸からはい上がろうとした。しかしそれが出来ず、彼女は父が恐れた異形の者として復活するのである。井戸からはい上がった貞子は異形の者なのである。

井戸についてついでに話す。もし仮に貞子が井戸で生まれ、井戸の底で生活し育ったと仮定すれば、そんなことは実際にあり得ないが、彼女は井戸の外にはい上がることはなかったと思う。井戸の外部を知るものは、井戸から出た事がある者だけである。また西洋的な見方で言って、人は他者により己の同一性を確保するのであれば、貞子は自分を持たない以前に知らないことになる。そういう者は異形の者でもなんでもない。

お岩と貞子の共通項は、殺されて川に流され、そして異形の者として戻ってきたことにある。

あああ、ここまで書いて急に映画の情景がまざまざと思い出してきた。もっと突っ込んで書きたいことは沢山あるが、この怖さに耐えられそうにもない(震笑)。それに書いている時間は丑三つ時でもある。こういうときは寝てしまうに限る(笑いなし)。

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