2006/02/27

鳥の伝記、そしてクレオール

「デレック・ウォルコット詩集」(小沢書店 徳永暢三編・訳)の巻末にヨシフ・ブロッキーのウォルコット評が載っている。タイトル「潮の音」の短い書評は全体が詩人への尊敬のまなざしで溢れている。
「ウォルコットの出身地は本物の根元的なバベルの都であるが、しかし英語がこの国の言語である。ウォルコットは時としてクレオールで書くにせよ、それは彼の文体的筋肉を屈伸したり読者層を拡大したりするためではなく、彼が子供の頃~バベルの塔の螺旋を昇る以前に~話した言葉へのオマージュとしてである。そもそも詩人の本当の伝記というものは鳥の伝記に似ている、いや殆どそっくりと言ってよく、詩人の本当のデータは発声の仕方にある。詩人の伝記は彼の母音と歯擦音に、彼の韻律、韻律、隠喩にある」
 (ヨシフ・ブロッキー 1983年「潮の音」から引用)
「鳥の伝記」とは一体どのような事であろうか。「潮の音」後半でブロッキーはこう語る。
「詩人はまさに鳥に似ていて、どんな小枝に降り立とうとも囀るのであり、木の葉という聴衆でさえも耳を傾けてくれることを希う」
(ヨシフ・ブロッキー 1983年「潮の音」から引用)
それは「詩人の本当のデータは発声の仕方にある」という言葉に回帰する。でも鳥と詩人を同一とする思いはそれだけでもあるまい、と僕は思えるのである。ブロッキー自身旧ソビエトから米国に亡命した詩人でもある。彼の詩編を日本で読める機会は少ない。だから僕にとっては名前だけを知る未知なる詩人ではある。鳥瞰的な視点では人間が定めた数多くの境界線は無いに等しい。

鳥達はやすやすと国境線を越えていく。その姿に亡命者としてのブロッキーが自らを重ねたとしても僕にとっては不思議でもない。詩人にとって言語の選択は大きいという。母語と生活言語ではなく詩作として別の言語を使う詩人も多い。亡命者の文学は別の見方をすれば、言語の選択を亡命という政治性から迫られるという事に繋がるのかもしれない。

例えればミラン・クンデラはチェコスロヴァキアからフランスに亡命した、しばらくの沈黙の後、彼はフランス語で作品を発表し続けた。チェコの社会主義体制が崩れても彼はフランスに留まりフランス語で書き続けている。逆にソルジェニーツィンは米国に亡命後もロシア語で作品を書き続けた。僕が「言語の選択を迫られた」と書いたのは、勿論政治的で具体的な圧力がそこにあったというわけではなく、母国語をアイデンティティとした亡命作家たちが、言語が異なる場所に行き、そこで受ける言語のヒエラルキーのことを言っている。

ミラン・クンデラがチェコ語からフランス語に切り替えたのは、チェコ語が言語のヒエラルキーで下層に位置していることと無縁ではないと思うからである。 無論、クレオール文学と亡命者文学は一緒にはできないかもしれない。ただ、言語のヒエラルキーの視点から見れば、詩人・作家が受ける言語の問題は同じ次元ではないかと愚考するのである。

ただ、ブロッキーが語るように詩人が鳥であれば、その境界線も越えていくことだろう。ただその境界線は国境線とは違い、厚く高く果てがないかのように感じられることだろう。僕にとってこのブロッキーの言葉「鳥の伝記」とは、詩人とは発音者だけでなく、亡命者であり、かつ言語のヒエラルキーを無効化にする者、と語っているように聞こえるのである。

 言語のヒエラルキーの上層に位置する言語は、無論英語でありフランス語でありスペイン語でありアラビア語であろう。何故英語を習うのか、それは英語の取得が個人の上昇指向の欲望に合致しているからだ、などという言葉が陳腐に思えるほど、その意識は一般化している。問題なのは、英語もしくは米語を習う際に、常に「正しさ」は英国・米国にあるという、これらの国の中心性を自らが強化してしまうということである。

実際ウォルコットが詩人として知られる事になったのは英語圏で英語での詩作があったのは間違いない。ただ詩人である彼の感性が言語のヒエラルキーを感じないわけはない。それ以前よりカリブ海の多島海に住む人びとは、常に自らを「もの真似する者」として位置づけてきていたのである。「もの真似」とは、文化を含め生活のあらゆる面で自分たちのものではないと感じることである。「もの真似する者」として自らを位置づけすることと、植民地主義およびそこからの言語のヒエラルキーは無縁ではない、と僕は思う。
「もの真似人間」という言葉がありまして、英語を使う実に多くの西インドの知識人が実に熱心に、殆ど自虐症的にこの言葉に飛びついてきたのですが・・・(中略)・・・すべての西インド人の努力に対して刻んだ墓碑銘は、西インドの文化がこのもの真似を産み出し続けるのに発揮する情熱を挫折させてはいません。」

「猿としてのアメリカ人という考えは勇気付けてくれるものです。というのも、猿真似には、最初の人間の努力よりも古いものがあるからです。・・・(中略)・・・最初の人間と呼ばれなければならないもののジェスチャーを最初の猿が喝采するイメージを導き出すことになるでしょう。
ここで論点は崩れ去ってしまうわけです。なぜなら、最後の猿と最初の人間の間に科学的区別などまずあり得なくて、人間が自分の祖先である猿を模倣することを止めて人間になった瞬間の記憶も歴史もない訳です。従って、一切が単なる反復であります。」
(1973年 マイアミ大学における講演記録より)
ウォルコットは論理的に人間によってつくり出されたものに「もの真似」でないものはないと語る。一切が単なる反復なのだと言うのである。しかしそう宣言したところで、彼ら西インド諸島の人々が「もの真似人間」という呪縛から解放されることにはならないのである。アフリカから連れてこられ、歴史的記憶喪失者でもある西インド諸島の人々にとって、「今後も何一つ創造されることはない」という呪縛は重たい。しかし、ウォルコットはそこに冷笑的に留まらず、次のように語る。
「まさに、まさにその通り。私達は何一つ創造しませんが、そのことは要するに、文化人類学的ナンセンスから擬似哲学的タワゴトへと移ることであり、無の現実、ゼロと無限の数学的頓知問答を論じることになります。
西インド諸島では、まったく永い間、常に無が創造されるでありましょうが、なぜなら西インド諸島から生じるであろうものは、これまで見てきたものとは何一つ似ていないからです。歴史に対するこのような態度の一番良い範例となっている儀式は、カーニヴァルの儀式であります」
 (1973年 マイアミ大学における講演記録より)
ウォルコットは「もの真似」の反復の中において、無を創造し続ける結果、全く新しいものがそこから現れると言っている。もの真似は想像力の行為である、と語るウォルコットの言葉は、言語ヒエラルキーからの脱け出しも含めひとつの示唆を与えているように僕には思えるのである。

それは西インド諸島のクレオールだからこそ持てるひとつの視点なのかもしれない。 日本において、宮沢賢治に優れたクレオール性を見たのは、評論家の西成彦氏だった。彼の著作「森のゲリラ 宮沢賢治」では次のように語っている。
「クレオール文学とは、かならずしもクレオール言語で書かれたものだけを指すのではない。クレオール言語を生み出す複数言語・複数文化的環境の社会的現実を、たとえば宮沢賢治がそうしたように、寓意としてなぞってみせる文学こそがクレオール文学なのである・・・(中略)・・・宮沢賢治とは、日本語を用いたクレオール文学の先駆者というより、むしろ日本語を用いた文学作品の中で、クレオール文学ののびやかな発育が大きく阻害されずにすんだまれなケースなのであった」
 (西成彦 「森のゲリラ 宮沢賢治」から引用)
日本を単一とみなす力、人類誕生時よりこの国があると時として人に錯覚させる数々の言葉、それらがもしかすると、多くの閉塞感を産み出している元ではないのだろうか。別にクレオール賛歌をするつもりは全くないが、「複数言語・複数文化的環境の社会的現実」の認識こそが、ひとつの方向を与えているのは事実だと僕は思っている。

0 件のコメント: