2006/03/10

映画「ヒットラー最期の12日間」感想、それは映画の誘惑

「亡国のイージス」を見たときに、これは今までの戦争映画のパロディではないかと疑った。さしずめ「亡国のイージス」のヨンファであれば、「ヒットラー最期の12日間」の観客に向かって言うことだろう。
「日本人よ、これが戦争だ」と。
でもヨンファが本当に戦争を知っていたのかは、僕にとっては疑わしい。彼にあったのは個人的な強いルサンチマンでしかなかったと思える。

映画「ヒットラー最期の12日間」をレンタルで借りてみた。見終わった後は正直言って心身ともに疲れた。ヒットラーと彼の側近を中心にベルリン市街戦を描いている為か、そこに現れる映像は滅びる国の姿であり、具体的には自死、敗残の将兵、私刑の死、銃弾に倒れる市民、等の姿であった。疲れたのはそれらの映像によってだけでなく、幾つもの疑問が僕の中に現れたからだった。

映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たヒットラーを描いている、と公式サイトには書いてある。しかしそれが全てでないことは誰もがわかる。つまり秘書が全く目撃することが出来ない状況も映画に描かれているからである。その割合は少なくない。秘書の目撃以外の場面は、膨大な記録から制作者が取捨選択し、多少の脚色を加え、映画に使われているのだと思う。秘書の原作本もあり、無論それに対しても同様のことだろう。全方位に全ての記録を2時間台の映画に詰め込むのは不可能であるし、仮に行ったとすれば、それは映画とは言えない代物になってしまう。

映画であれば、当然に制作者側の意図がそこにはある。歴史に詳しい方から見れば、この映画には描かれていない箇所、もしくは変更されている箇所等と、気になる事柄が多い事だろうが、それが映画というものだ、と僕は思うのである。さらに、この映画は「秘書が見たヒットラー」の言葉より、「高い真実性」の先了解を観客に持たせているように思えるが、裏には、秘書が見たヒットラーを描いているに過ぎません、という言葉も含まれているとも思えるのである。その上で制作者は秘書が見てはいない様々な場面を挿入しているのである。これらのことを前提にして、僕はこの映画を史実としてではなく映画として観た。

映画というのは誘惑のメディアでもある。人は映画を見ると自分の信念をその中に発見しようとする。そして必ず見つけるのである。その誘惑を抗える人は少ない。映画の感想とは自分語りに他ならない、そして僕もこの映画で見つけたのはひとつの自分の考えであった。ただ毎度のことだが、その考えに対して明確な言葉と論理を持って僕は語ることが出来ない。ようするに未だ僕には不明なのである。こうやって書くことで少しでも理解に近づきたいと願っているだけなのだ。

「ヒットラー最期の12日間」が公開した当初、産経新聞での紹介欄にフランス人批評家の言葉が載っていた。既にその新聞は手元になく記憶は曖昧だが、確か彼はこう語っていた。「ドイツ人はヒットラーを語れるほど成熟したのか」と。僕はレンタルで借りるときこのフランス人批評家の言葉を思い出していた。

「成熟」とは一体どのようなことを言うのであろうか。「成熟」という言説には明らかにそこには他者性があると僕は思う。「成熟した」という基準は、外部に在る普遍的な定義が必要と思うし、その定義は「成熟したのか」と問うフランス人にも当然に跳ね返ることになる。ただ「成熟したのか」と問いかけるフランス人批評家がそのことを意識していたとも思えないのである。でも何故か、「成熟」という言説に内容説明を求めるまでもなく、それを掲載したフランスおよび日本の新聞も、おそらくドイツでさえ、了解を得てしまうのである。なぜこのような事がおきるのだろうか。

ひとつ思いつきに近い想像をすれば、「成熟した」とは、ヒットラーを含めた第三帝国が起こした様々な惨事の理由を見つめ批判する外部に在る規範の構築、それを構築した上で政治にそれらを生かすことの様に思える。でもヒットラー以後、多くの思想家たちがそれらを行ってきたのではないのだろうか。未だ足りないのであろうか。おそらく足りないという話ではなく、ヒットラーに関する問題は時代と共に変質し、新たな問題として再生産され続けているのだと思うのである。

時代の思想に掴まれている僕らにとっては、様々な問題は、大雑把に言えば、個人のアイデンティティ・社会状況・政治経済にその原因を求める事が多い。ヒットラーでさえその限りではなく、よってそこからはモンスターではなく人間としてのヒットラー、独裁者ではなく思った以上に民主的なヒットラー、そして第一次大戦からの復興とドイツ民族の自信回復に成果を上げた政治家、等のイメージを立ち上げることも可能ではある。でもそれは時代の思想からの必然による出現ではなく、一つの誘惑として現れるのだと僕は思う。その誘惑の中でヒットラーをヒューマニストとしての見方もあるが、その時、ヒューマニズム(人類主義)の人類に該当しない人たちは人類主義と結託した科学としての衛生主義により駆除される。そこに現れるのはヒューマニズムは人種主義と結託しやすいということかもしれない。誘惑されるのはよいが、それから派生する問題を続けて考えなければならないと僕は思う。

映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たというオブラートに包んではいるが、ドイツで制作したヒットラー個人と周辺に的を絞った映画である。つまり個人のアイデンティティを描くのであれば、それによって他の出来事を卑小化することなく、ヒットラーの問題を解明すべきであるが、ドイツはそれを行うことなく、現代における色々な出来事の中にヒットラーを埋没させ、なし崩し的にしようとしている。そのようにフランス人批評家は受け取ったのではないのだろうか。そして同様にイスラエルの人もその点が感じられるからこそ、この映画に批判的な態度を示したように思えるのである。しかし、ドイツの映画界がヒットラーの誘惑を受けて描きたかった事は一体何なのであろうか。

この映画の中で、僕にとって気になる点が二つあった。ひとつは映画最終場面に近い、外交官がヒットラーとの誓約に自死をするのだが、彼はまず毒薬を飲み、そして自分のこめかみに銃を撃つ。毒薬については、この映画で何度も登場するが、飲めば数秒で死に至る劇薬である。つまり彼は数秒の後に死ぬことがわかって、そして銃を自分に撃つのである。おそらくこれはその場にいたものの証言に基づいた話だとは思うが、僕にとっては二度の自死と写ったのであった。なぜ彼は二度にわたり自分を殺さなければならなかったのか。

もう一つは、ゲッペルス夫妻の描き方が丁寧に時間をかけて描いていることである。確かに映画はヒットラーとその側近達を描いている。でも数多い側近のうち、ゲッペルス夫妻の場面の多さは特筆している。ゲッペルス夫妻とヒットラーの関係、登場の仕方、子供たちを殺害するシーン、および自死迄の様子、映画はこれらの場面を丁寧に描いている。ヒットラーの自死の場面が密室状態で観客に明らかにしていない事を思えば、その変わりに、夫妻を描いているかのようにも見えてくる。そしてここにも、前記の外交官の二度の自死と同様のモチーフが現れてくる。それは子供の殺害である。

子供の殺害方法は、まず彼等を睡眠薬で眠らせ、眠ったときに母親が毒薬を投与する。子供達にとっては睡眠薬を飲んだ時点で既に死は確定済みである。だから睡眠薬を飲むとき長女は抵抗するのである。勿論睡眠薬だけであれば子供達は死に至ることはない。夫妻の気持ちの変化で死を免れることは出来る。でも睡眠薬で眠っている時、子供達には生死の決定権はないのである。そして夫妻が気持ちを切り替える事はあり得ない。ナチスがない世界は彼等にとって生きるに値しないからである。

逆の見方をすれば、子供達はナチスにとっても未来である。つまりはナチズムは二度と現れないことを映画は語りたいのかもしれない。さらに子供達を殺した母親は、自分を殺したのと同等である。その後映画では、ゲッペルスの妻の表情は仮面のような無表情さを保ち続ける。ここには子供の殺害から連続する二度の自死のモチーフがあると僕には思える。そしてそのモチーフは妻を銃殺するゲッペルスとその死に連続して流れていくのである。

ゲッペルス夫妻は、ナチズムの崇拝者の末路、もしくはナチスドイツの終焉、を象徴的に表していると僕は思うのだが、それだけでは無いと思う。つまりはゲッペルス夫妻から外交官に続く一連の二度の自死。それが正直言えばよくわからない。ただ僕の中に、この映画全編を通じて引っ掛かり続けているのである。あれこれと色々なことを考える。一つめの自死は国家の自死、二つめの自死は個人の自死。もしくは暗に二度の自死を強調することによって、ナチズムを過去の出来事として精算する意図もあったのかもしれない。また二度の自死の持つ意味をキリスト教的な意味から捉えるとどうなるのだろうか。さらに現代のドイツの状況の何かがそこにあるのかもしれない、でもそこまで行けば、無知な僕には辿り着くことは難しい。

再度言うが、上記の2つの自死は綿密な調査の上での定説であるのだろう。でもそれを取り上げ描く裁量は全て制作者側にあるのである。つまり僕はこの二つの出来事を疑っているのではなく、映画における二つの取り上げ方が気になるのである。

二度の自死の意味について、あれこれと考えたが適切な答えが見つからなかった。僕自身がこの映画を通じて、映画の持つ誘惑に抗えない結果、一つの妄想を見ているのかもしれない。その可能性は大いにあり得る。さらに、この映画感想をこのように述べることで、僕は一体何をしたいというのであろうか。ドイツ観念論の言論空間の中でさえ、ナチズムが誕生したということだろうか。ヒットラー以後の様々な思想、マルクス、実存主義、一連のフランス思想、そしてポストモダニズム、それらの潮流の中で解決できない現代の様々な問題を、それらの考え方と言葉と参照を行う事に終始するのでは結局そこから抜け出ることができないと、そう言いたいのであろうか。

いずれにせよ、僕はそこまで到達できないのは確かである。ただ、この映画はそれらを考える切っ掛けになったことは確かだと思う。
最期にこの映画はよい映画か?人に勧めることが出来る映画だろうか?それについての僕の評価は厳しい。ヒットラーを描くのであれば、もっと徹底的に描いて欲しかった。そう思う。

追記:実を言えばこの映画の感想を書きながら僕は「日本の一番長い日」を思い出していた。

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