2006/04/17

映画「ヒットラー最期の12日間」の感想を再度書く

前記事「映画「ヒットラー最期の12日間」感想、それは映画の誘惑」 で僕は一つのモチーフ「二度の自死」をもって感想を書いた。


ただモチーフ自体が僕には手に負えなく、とても緩くてまとまりに欠ける文章になってしまった。それを認めての再度の感想は、でも前記事の反省からではない。同一のモチーフを持ちながら、別の話を書きたいと思ったのである。それはあの映画全体に流れる、勿論僕が感じた、一つの雰囲気についてとなる。

ベルリンの地下基地の将校達の姿は、ロシア兵達が迫ってくる状況の中で、 ただ時間を潰すだけであった様に見える。手駒の軍隊がない等の理由で作戦本部の将校達がやることがないのはわかるが、酒を飲み、 トランプで遊び、煙草を吸い、益にもならぬ話で笑う、それらの姿に僕が感じたのは「退屈」とそれを紛らわすための行為であった。

彼等は時間を持てあましていた。だからただ時間を消費するためだけに、彼等は酒を飲み煙草を吸いトランプで遊んだ。彼等は何を持っていたのだろう。滅びの時だろうか。恐らくそういう観念さえも持っていなかったのではないかと思う。ただ彼等は時間を持てあましていた。そういう風に僕には映ったのだった。

例えばゲッペルス夫人の描き方だが、 彼女は自分の子供達を睡眠薬で眠らせ、眠った後に一人一人を劇薬で殺していく。全員殺し終わった後に彼女は別室でトランプ占いをする。 茫然自失するわけでもなく、無表情に一人でトランプで時間を使う彼女の姿は鬼気迫るものがあった。自死までの時間を持てあます姿、死までに至る時間は彼女にとって無意味であったに違いない。それでもその時間を「退屈」だと感じる姿がそこにあったように思える。
僕はこの映画の核がこのシーンにあるように思えて仕方がない。


「退屈」が対象の欠如を感じることで生じる「気分」の一つとするならば、明らかに彼女はヒットラーの自死により世界の欠如を実感しそれ故に自分の生の時間全てに「退屈」を覚えていたことだろう。そしてそれは自分の子供達の殺害という行為で決定的になったのではないだろうか。

彼女は自らの死を夫であるゲッペルスの銃によって与えられるが、これも僕の想像だが、彼女は生きるのと同様に「死」についてもどうでも良かったと思う。何も感じることがない状態、それを人は何というのだろう。「絶望」という言葉を僕はすぐに思い出す。
「退屈」は状況により「絶望」に至る、そうなのかもしれないが早々に答えを出すのが憚れる。 この映画全体に流れる無力感と倦怠感。

熾烈なベルリン攻防戦で次々に倒れる市民たち、そのさなか退廃的な酒宴に興じる将校たち、それらの止め処もない反復した映像にうんざりし、映画が長く感じたのも事実だった。

そのうんざり・ 飽き飽きとした気分は見終わった後にも続いた。ヒットラーとその最後の状況を事実に即して描いている、との映画広報の謳い文句が正しいとすれば、その最後はなんとも陳腐で「退屈」な「最後」だったのか。


勿論この映画は現実ではない。 人間はこの映画のように鳥瞰した現実を見ることはないと思うのだ。ただこの映画は一つの人間の「生」の現実を現している、そう思える。 多くの戦争映画は僕にとっては退屈そのものである。殺し殺される反復映像、新味がない故に強度が求められ、 観客はより強い刺激を期待する。その文脈でいえばこの映画も「退屈」な映画の一つなのかもしれない。

唐突に登場しては即時殺される人々、 史料を基に描かれているのであれば、現実にはその登場人物にも確固と存在した名前と「死」の意味があるはずである。 その意味を考える暇なく映像は進んでいく。

クラップの「過剰と退屈」で言われるまでもなく、そこに意味は常に不在となる。 戦争映画の退屈さの元はそこにあるのかもしれないが、それが現実の戦争への嫌悪感に繋がる可能性があるとすれば意味があるのかもしれない。

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