2006/04/25

Flickrにはまるということ


sakura,originally uploaded by Amehare.

いまさら言うまでもないが僕はFLickrにはまっている。

写真を撮ること、例えば町を歩いているときふとしたことで事で立ち止まりカメラ持参していないことを悔やむ時、僕は一体対象の何を見て、もしくは何を感じてそれを撮りたいと願ったのだろうか、その感情と写真を撮ることは僕の中で一直線につながっている。

写真は記憶と密接な関係にあるとは思う。以前は歴史性とつながっていると思っていた。写真は記録であり、僕の歴史を貫く確かな証拠として在ると思っていた。でも今では歴史よりは記憶により密接だと思うようになった。

写真は、うまくいえないが僕にとっては歴史と断定するには何かが違うように思える。 写真を撮る行為が、何を撮るかでなく何を切り落とすかということだと僕は思う。人は撮りたい対象への思いを意識することなくカメラを構えるが、ファインダー越しに構図を定める際に、彼は彼女は自問自答することになる。

対象の何を撮りたいのかが意識することなく構図を決めることは難しい。自問自答は対象の何を撮りたいのか、つまりは結果的に何を切り落とすのか、ということでもある。そして彼は彼女は知るのである、自分が撮りたかった対象の何かを。

写真は記憶と密接な繋がりがあると思うと先に述べた。つまりこれらの流れは僕にとって何を記憶したいのか、それはカメラを構えることとは関係なく、そのような意識の流れに近いと思うのである。

Flickrを語るとき、僕が知る上で一番近い存在は「はてな」かもしれない。「はてな」について語るさまざまな事柄はFlickrについても当てはまる。Flickrにはまることと、写真を撮るのが好きなこととは意味は全く違う。FlickrにはFlickrの場で共有する気分というのがある。
その気分はFlickr担当者が選択する登録会員の写真によって醸し出される。具体的に言えば「Explore]と「FLickr Blog」に掲載された写真のことであるが、それらがFlickrに写真を登録する人たちの模範となり、そして彼らは似たような写真を撮り、いつかは Flickr担当者に選択されるのを待ち続けるのである。

似たような写真といっても、その種類は膨大でもある。だから人は自分の写真がFLickrによって影響を受けているとの認識は薄い。でも確かに彼らの(僕の)写真の中心にはFlickr担当者が存在しているのは間違いないと思う。勿論、Flickrを単なる写真倉庫として使われている方も多いと思う。僕もはじめはそうだった。でも今はどっぷりと浸かっている。
そしてこれがFlickrにはまるということでもある。

勿論影響を受けることが悪いことだとも思わない。聞き飽きた言い分だが、人は他者との関係によってアイデンティティを造ると思うからだ。でもそうなると主体とは一体なんだろうという疑問が出てくる。その問題は自らに課した問題として後に残すが、ここで語りたいことは、写真が記憶と関係が深いとすれば、Flickrでの写真掲載はつまるところ記憶の共有化、そしてその後に続く記憶の均質化ということになるのかもしれない。

それは一種の記憶のグローバル化とでも言うような状態、言語・宗教・食料・衣料・遊び・性行動という文化の諸要素が違っていても、何を記憶するか、もしくは記憶した対象の意味の同質化が、写真というテクストで行われていく課程といってもよいような、そんな思いを持っている。 Flickrで行われていることは、つまりは写真に強度を求めることになっていく。

写真に強度は必要かと問われれば、個人的な記憶に委ねていけばそんなことはないと言えるだろう。でも意識の上では職業化しているFlickrの投稿者たちは、過剰なまでの強度を求める方向に流れていると僕には見える。

差異のない均質化した個性の発露から抜け出るのは、より強い構図と過剰なまでの露出とデジタル加工技術に頼った強度を求めるしかない。でもそれは個人に分化した結果、差異がなくなるというパラドックスに見舞われた現代人の通常の行動でもある。

しかし強度を求める人も結局は差異のない個性と同根でもあるのだと僕は思っている。なぜなら両者はお互いに補完関係にあるからだ。Flickrにはまっている僕はいずれはFlickrをやめるときがくることだろう。それは間違いない。
そして僕自身の記憶を歴史と他者との関係に埋没することなく、一個の自立した創造性を持って別の仕方で歩んでいきたいと密かに願っている。

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