2006/06/29

夢の如く

wild flower

小学生の頃、眠る瞬間を知りたかった。でも気が付けばいつの間にか寝てしまい、 自分が明確にその瞬間だと意識できたのは一度もない。まどろみの中で周囲の物音が遠ざかり、 安心感と共に何か吸い込まれるような感じを持っても、僕はまだ起きていると感じていた。
でも次に気が付くのは決まって朝だった。そして僕はもう少し頑張れば眠りの瞬間を知ることが出来たのにと悔やんだ。

そういうことを何回か繰り返した後に、僕は眠りの境界線をまたぐ瞬間を知ることをあきらめた。そして漠然と起きている状態と寝ている状態の間に境界線はないか、あるとしてもそれは曖昧模糊とした、線ではなくてエリアのようなものではないかと子供ながらに思った。

今の僕は子供の頃とは違った見方をしている。両者の間に境界線もなく緩衝域というグレーゾーンもない。勿論それらは、各々の意識、もしくは何らかの数値 (例えば脳波など)によっての決め事なので、人によってはそれらは在るとするかもしれない、専門的なことはわからないが、 少なくとも僕にとっては両者への移行は緩慢な流れの中にあり、 分け隔てるものなどない。

「邯鄲の夢」を持ち出すまでもなく、人生を夢如くと捉える物言いは多い。それは単なる洒落た言い回しではなく実感を伴う言葉でもある。何故人生が夢であると人は実感できるのだろう。この問いは何を示すのであろうか。人は実社会の中で現実と夢の世界を明解に切り分けている。それは日常の会話の端々に現れる。「それは夢であって現実ではない」云々。
その物言いによれば人生は夢ではないはずである。しかし起きている状態(覚醒)と寝ている状態(睡眠)の違いが何処にあるのか僕には正直わからない。目を閉じ、僕自身を見つめていくと、僕は宙に浮いている感覚を持つ。

その感覚は子供の頃によく見た夢を思い出させる。僕の周囲に遮るもの無く、僕は宙に浮いているのか地に立っているのか全くわからない。周囲は手を伸ばせば届きそうだが、実際は全く届かない。足下も同じである。無数の帯状の光が僕の行く手に流れている。そんな夢だ。

時としてそのような夢を、人は覚醒時に見ることもある。また過去の思い出に浸るとき、それは夢を見ているかのような、そういう錯覚に捕らわれる。覚醒状態と睡眠状態の厳密な区別など出来ないのではないか、そんなことを考える。

例えば病気・怪我などで昏睡状態の人がいるとする。僕はその人を外部から見て覚醒している状態とは思わないだろう。でも昏睡している人自身は一体どうなのであろうか。想像でしかないが、その方はそういう状態の認識があろうがなかろうが、その方自身の現実を体験しているのではないかと僕は思う。だからこそ身近な方の、昏睡状態の人への語りかけが求められるのでないだろうか。

あくまで僕の勝手な想像だが、おそらく以前は、 現実と夢との区分けは今ほど明確ではなかったように思える。近代における産業構造の変化、社会の誕生により、人間の条件は覚醒時においてのみ考慮されるようになった印象を受ける。そしてそれに該当しないものは、病院もしくは刑務所などによって社会から隔離される。

僕は前に夢など見ない深い眠りの状態が「死」の状態に近いと誰からか聞いたことがある。でもそれは違うと僕は思う。根本的に眠りは深かろうが浅かろうが「死」ではない。確かに睡眠の瞬間がないように、「死」の瞬間もないとは思う。また両者は意識の中において似ている部分もあるかもしれない。でも睡眠時であろうとも彼の(彼女の)複合的な肉体では様々な気管が活動をしている。少なくともその活動がある限り、人間の条件の大きな一つは満足している。そういうふうに思う。

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