2006/07/20

友人との会話で思うこと

友人と電話で久しぶりに話をした。話は最近の状況から仕事の話になった。すると友人は何かわだかまりを持っているようで、自然に彼の話を僕が聞く格好になった。

友人は建築関係の仕事をしている。また最近は石綿(アスベスト)除去も行っているとのことだった。ある時彼が追加工事の一環として玄関扉の拡張を請け負ったときの話をしてくれた。追加工事とは主となる本工事があり、別途必要に応じ発生する工事のことを追加工事と称するようなのだが、この追加工事で彼は玄関枠を広げるために壁を切り取って欲しいと言われたそうである。

彼に指示したのは工務店で、工務店側はコンクリートの壁だと説明していた。そこで友人はコンクリートの壁を切り取るべく電動工具で作業に入った。友人は今まで何度もコンクリートの壁を切り取ったことがある。その彼が壁の外枠から、内部のコンクリートへと電動ドリルが入ったとき、今までだとそれなりの手応えがあるのに、今回は何の手応えもなくドリルが中に入っていったそうである。おかしいと思った友人が壁の内側を確認すると、そこにはアスベストの耐火材があり、実際はコンクリートの壁ではなかった。

早速その事を工務店担当者に彼は言いに行った。そうすると担当者は、彼を凝視し、断言口調で、「いえ、あれはコンクリートです」と言い返したそうである。

「そんなことがない、確認した」と、友人は何回か言ったそうだが、帰ってくる答えは「あれはコンクリートです」、の一点張りだったらしい。埒がない言葉のやりとりに、友人もうんざりしていたが、最後に担当者が「コンクリートです」と言い終えたとき、彼は薄ら笑いを浮かべていたそうだ。その表情を見たときに友人は、「あぁ確信犯なんだ」と思ったという。

その笑いは、「もういい加減に空気を読めよ」、と言っているような、そんな笑いの様にも見えたと彼は言う。アスベストが人体に影響を与えるのは、それが飛散し口から体内に入る時である。だから吹きつけ石綿などと違い、成型しているアスベストは劣化しない限り、危険性は薄いかもしれない。それでも工事を行うくらいであるから、ある程度の年数は経過し劣化している可能性は高い、しかも壁と共に切ることで、そこからアスベストが飛散することにもなる。友人はあわてて最低限の防御を行うべく、車載しているマスク等を取りに行き、それらを装着して作業を始めたのである。

本工事では事前に申請書を提出し、アスベストの調査を行い、その調査結果に見合った体制と設備で除去作業を行う。また管理者の立ち会いもあり、チェックも厳しいとのことだが、それが追加工事申請となると、事前調査なども行わず、かなりチェックも甘くなるらしい。そこで彼が請け負った玄関枠拡張などの細かな工事は、追加工事として、アスベスト除去の申請などしないで行うのが多いと聞いた。つまりアスベスト除去工事は手続きを含め流れが面倒なのであり、それにあわせて工事日程を組むと、工程そのものが成り立たなくなる恐れがある。よってそういう箇所は追加工事として別途申請するのが、現実には多いそうである。

また別の作業で、オフィスビルの床の撤去を請け負ったとき、その工事も追加工事だったらしいが、床を外したらアスベストが耐火材として敷き詰められていた。それも工務店側は申請もしていないらしい。その撤去工事の中で、アルバイト学生達がほうきで掃除をしているのを見たとも言っていた。確証は持てないが彼はおそらく事実を話しているのだろう。

「君には関係ないのはわかるけど、これらの話をすれば俺は怒りの気持ちが抑えられなくなるんだ。これ以上話すと君に怒りをぶつけるかもしれない。」

おそらく些末な工事であるから、その工事に微量のアスベスト除去が存在したとしても、無視できると現場は考えるのだろう。でもそれらを押し通すとき、現場で働く者たちを、付近に住む人達を、おそらく全く考えてはいない。それと同時に、「これが現実だと」、したり顔で話す人の欺瞞さに、友人は腹が立つのかもしれない。

丁度この話と似たような事件がつい最近にあった。「男前豆腐」の大豆がら消却事件である。産業廃棄物である大豆がら125Kgを会社敷地内で消却したことについて、担当者は「産業廃棄物とは知らなかった」と答えているが、主業務から出る廃棄物の種類が不明であるとは考えづらい。別の新聞記事では、「量が少ないから問題ないと思った」とあったが、
その方が正確なのだと思う。

「量が少ないから問題ない」と思ったのは担当者個人の感想であり、それは友人が話した追加工事におけるアスベスト除去の話に繋がる。事の有無を量の多少に単位をすり替えるたのは、自分がしている行為の社会的位置づけが、個人としても組織としても把握が出来ていない証左だと僕は思う。しかしそれ以上に、僕が友人の話から最初に思ったことは、友人の怒りの気持ちを僕にぶつければよいと言うことだった。僕には、「君には関係ないけど」という発想自体が、これらの行為の根本にあるのではないかと、思うのである。

もしかすれば僕自身が、消費者の一人として、これらの事を助長しているのかもしれない。具体的にどう繋がるのかは、想像力乏しい僕はすぐには思いつかない。でもこの社会で起きる様々な問題に、僕は外部にいたいと願うが、多くの問題はそうではない。友人とは今度会おう、会ってこの話をしよう、と告げた。でも話を終えた後に、なんとなく寂しいような、そんな気持ちを味わった。

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