2006/08/16

MEMO 朝顔三十六花選、服部雪斎、朝顔のことなど

朝顔には大別すると大輪と変化の二つに分けられるが、現在では朝顔と言えば殆ど大輪系となる。変化種は絶滅しそうなほど少なく、一部の植物園で保存されるのみとなっている。ただ時代と共に朝顔の流行も、大輪中心と変化中心を繰り返していて、いずれは変化が流行る可能性もあるかもしれない。最近花屋で花部が桔梗型の朝顔が売られているのを見かけ、新鮮な印象を持った。

朝顔は熱帯・亜熱帯地域に原生する植物なので、それらの地域には様々な朝顔の仲間達がいるのも知っている。しかし、黄色い朝顔というのは未だ見かけたことがない。何故黄色い朝顔の話をするかと言えば、江戸時代後期に変化朝顔が流行ったときに、黄色の朝顔が図鑑に載っているのを見かけたからだ。その図鑑とは「朝顔三十六花選」である。

国会図書館のサイトに様々な図版が掲載されている(ギャラリー)のをご存じの方も多いと思う。その中の一つに「江戸時代の博物誌」というコーナーがあり、そこの「第二章 独自の園芸の展開」に載っていた。
「アサガオは文化末年から文政初年と弘化末年から文久初年の2回のブームを呼びました。この資料は弘化末年にはじまる第二次ブームの頃のもので、当時主役だった奇妙な形態の花や葉をもつ「変化朝顔」の数々が描かれています。なかにはアサガオとは思えない姿をした花もあります。当時は黄色い花をつけるアサガオもありましたが、現在では失われてしまっています。著者の「万花園」は幕臣の横山正名の号で、図は服部雪斎によるものです。もっとも優れた朝顔図譜といわれ、書名のとおり、36品を所収しています。」
(国立国会図書館 「朝顔三十六花選」の説明文を引用)

 その黄色い朝顔の図版はおそらくこれだと思う。
確かに朝顔らしからぬ姿をしている。しかし考えようによっては、現在の朝顔も、突然変異(例えば色など、原生は青一色)と品種改良 (花部の直径、原生は小振り)により今の姿になったわけで、おそらく原生種の姿とはかなり異なると思う。

さらに、「朝顔の姿とは何か」の問いに、原生種の姿を求めるのは、何かしら純血主義的な感を持ち、個人的には好まないのもある。生物は、勿論人間も含めて、持続する為に変化していくものだと思うのだ。

この黄色い朝顔を読み解いてみる。黄色い朝顔の画のページ左上に朝顔の名称が書かれている。「変化渦南天葉極黄菊○○切牡丹度サキ」とある。朝顔の名称は、見方としては、交配した遺伝子の組み合わせの名称でもある。

「渦」とは葉の文様の事で、後の「南天葉」にかかる。「南天葉」とは1枚の葉が3つに大きく切り分けられた葉を言う。「極黄」とはおそらく色を示すのではないかと思う。「切」とは花が切れて別れているものをいう。そして「牡丹」とは、まさしく牡丹のような花の形であること、「度サキ」とは二重に咲いている花であることを示す。

朝顔の専門家に言わせると、「朝顔三十六花選」の中で一番の変わりものは、最後のページにある花だそうだ。名称は、「孔雀変化林風極紅車狂追泡花真曼葉数○生」と書いてある。ここまで来れば僕などが読み解くのは難しい。

朝顔、特に変化朝顔については次のサイトにで画像として参照することが出来る。
「朝顔三十六花選」の図は服部雪斎(はっとりせっさい)によっている。服部雪斎は江戸後期から明治の半ばまで活躍した画家で、殆どの画業は図譜(博物誌)の画を描くことだった。江戸後期は極限まで木版技術が進化した時代でもある。その中で雪斎はマニアックなまでに精密に対象を写生していく。 彼が担当した図譜(博物誌)は、国会図書館公式サイトで紹介する図譜の中でも比較的多い。
  • 貝の図譜 「目八譜
    (目と八を組み合わせる貝になる事と、人が傍らから見る事を「八目」と言うことから)
  • 食用となる鳥の図譜 「華鳥譜
    (華の字を分解すると、六つの十と一つの一からなる、61種類の鳥の図譜)
  • 虫の図譜 「千蟲譜

  • フクロウの図譜 「錦○禽譜
    (○はあなかんむりの「くぼみ」、音読みは「カ」)
  • 「写生帖」
  • 「写生物類品図」
  • 「本草図譜」
  • 雪斎写生草木鳥獣図
勿論上記以外でも雪斎は様々な図譜の写生を担当している。 彼のことは「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)に詳しく載っている。

その本によると、維新後、幕府体制下での庇護を離れ、市井の絵師として市ヶ谷に住んだ雪斎は、自らの職業を「写真画」と称したらしい。「写真」という言葉について、本では次のように語る。
もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、道釈人物を対象とするこの「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。
 (「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)
違う単語同士で同じ意味を持つ言葉はあるが、それぞれの言葉は生活の中で、微妙なニュアンスの違いにより使い分けられているように思う。「写真」と「写生」の違いは、後に「写真」がフォトグラフィーの訳語にのみ使われる経緯により、その両者の違いをうかがい知ることが出来る。
幕末から明治初期にかけては、下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一といった職業的な「写真師」がすでに活動していた。雲停や雪斎らが博物図譜のために動植物の「写真」をしていた頃には、すでに「写真」は別の意味をもち始めていたのである。
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)

 雲停とは雪斎と並び称される博物誌画家 関根雲停(せきねうんてい)である。特に本領は動物画で、その絵は動きに溢れ、「静」の雪斎、「動」の雲停と言われた。

雪斎の写真画は、現在で言うところのアートではない、と僕は思う。ここで言うアートとは、詩人リルケが語る 「個人の感覚の領域を拡げるため」の機能としての道具、それはまさしくスーザン・ソンタグが60年代後半にアートに対し述べたもの、とした意味と捉えての話である。

無論、現代の尺度で雪斎の画を計るのはフェアではない。しかし同様の評価は、明治になり、彼の博物誌画以外の作品に対し与えられているのである。維新以前は絵に対し、そのような見方をする者はいなかった。

江戸と明治の両時代をまたがって雪斎は活躍した。おそらく彼も、画に対する人々の眼差しの変化を、双方の時代の違いとして、感じ取ったことだろう。雪斎がフォトグラフィーとしての写真の存在を知っていた可能性は高い。もしかすれば直に写真を見たこともあるかもしれない。そして、当時の写真技術レベルであれば、自分が描く画と較べ精度の面で、自分の技能の方が優れていると思ったことだろう。しかし、その写真機械の可能性は感じ取ったはずだと僕は思う。

誰が撮影したにせよ、フォトグラフィーとしての写真には権威が既にある。図譜が明治の体制の中で博物誌と呼ばれ、知識の中央集権化が進む中で、当然に権威が求められる博物誌が、画からフォトグラフィーとしての写真へと移行するのは当然とも言える。

江戸後期は「見たまま」を忠実に写生する要請が強くなっていった時代でもある。そしてその要請に応えたのが、高度に発達した木版技術であり、雪斎らのような写真画達であった。しかし、彼等の時代は化学反応による写真の登場と、その急激な発達により、日本の美術史の中から早々に消えてゆくことになる。

僕は、何故だか理由はわからないが、国立国会図書館のギャラリーの多くの博物誌の中で、雪斎の作品が特に印象に残った。彼の画は、自己主張が殆ど無い。描く対象を、誰が見てもそれとわかるように、構図及び彩色に気を配っている。そして、だからこそ博物誌画家としての自尊心の高さが、逆に僕には見えるのである。

服部雪斎は明治21年 (1888) 以降の消息はつかめていない。忽然とではなく、近代以前から近代への歩みの中で、徐々にスライドが新たな画面へと切り替わるように、彼もまた徐々に消えていった。そんな風に思える。

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