2006/10/10

小学校英語の必修化について、日本語を少しだけ考える

正直言えばこの話題には強い関心は持っていない。ただ伊吹文明文部科学相の発言から、自分の中で渦巻いている靄のようなものがあって、それがある程度晴れた時に、浮かび上がってきたものは少しだがある。今回、それを纏めるつもりでブログに書こうと思った。

「美しい日本語」と誰かが言えば、それに対して何かを言う事はないが、気持ちの中で苦笑を禁じ得ないのも事実である。「美しい日本語」と語る人達は、おそらく僕などよりも強く「日本語」という言語を知っているのだろう。「美しい日本語」は「美しい」基準がなければ語ることは出来ないし、なおかつ、「日本語」の定義も意識していなければならない。

僕はその両者について全くと言っていいほど不明である。さらに「日本語」を語る際に、それが声に出して発する言語に重きをおいているのか、文章としての言語に重きをおいているのかについても、語って欲しいと思うが、様々な新聞記事を読んでも、それらが明確になったためしもない。

一般論で言えば、「日本語」が日本語と命名されたのは、明治維新後であると思うが、それは間違いなのだろうか。そう言う疑問を持ったのは2006年10月9日の産経新聞社説に以下の一文があったからである。

指針案が指摘するように、敬語は古代から現代に至る日本語の歴史の中で一貫して重要な役割を担ってきた。

指針案とは文化審議会の分科会である敬語小委員会が公開した「敬語に関する具体的な指針」のことである。僕の拙い日本語の歴史では、維新後に東京の中流階級の言葉を標準語を定め、その標準語から文法を確定したと思っている。そしてそれらは言文一致と同時になされたとも思っている。

維新以前は、例えば徳川幕府の体制では国毎に話し言葉は違い、敬語についてもその国毎によって違いはあったと思っている。まさしく維新後における言語の統一があり、統一言語を「日本語」と定めたのは、「古代から現代に続く日本語」の幻想を広める為だと思うのである。

そしてその上に「美しい」という形容詞が繋がれば、一体何を言わんかや、である。言語とは、近代においてどうしようもなく政治をその中に内包している。

だからこそ、僕は日本語についての話題に関心が持てないのである。しかし言葉の意味とは、過去の文章にはなく、また連綿と繋がっているという幻想の中にあるのでもない。
今現在僕等がここで生きてコミュニケートしているという、現在性の中にこそあると思うのである。前置きが長くなってしまった。
中央教育審議会が検討している小学校英語の必修化について伊吹文明文部科学相は27日、産経新聞など報道各社のインタビューで 「必修化する必要はまったくない。美しい日本語が話せず書けないのに、外国語をやっても駄目だ。子供のころからやりたい人は個人的にやる。小学校は外国語に興味を持つ程度にとどめるべきだ」と話し、必修化の必要性を否定する見解を示した。
(産経新聞 9月28日より引用)

僕自身は小学校の英語必修化は賛成である。しかも語学学習を始めるのは早ければ早いほど良い。賛成の理由は色々とある。しかしその前に伊吹文明文部科学相のこの答弁には生活感というものが伝わってこない。でも僕はこの言い分に聞き覚えがある。

それは企業内でのスキル育成の為の教育を行う際に、必ず出る否定者の答弁にちかい。「子供のころからやりたい人は個人的にやる」というが、小学低学年の頃から「やりたい」意識をもつ子供は少ないのではないだろうか。親たちが子供のために、なんとか英語を好きになって欲しいという願いから、様々な学習塾に通わせることで、子供達は英語を学習しているが現状なのではないだろうか。

何故親たちが子供に英語を学ばせるのか?それは現在の状況を、おそらく伊吹文明文部科学相よりも的確に押さえているからに他ならない。英語の必要性をあえてここで語ることが野暮に見えるほど、それは明らかだと思う。問題なのは、子供達に英語を私費で学ばせる事が出来る親たちではない。格差社会で、それをやりたくても出来ない親たちの事である。

今後ますます英語の必要性は当然視されていくことだろう。その中で出遅れる子供達が、さらに広まる英語での情報拡大の流れに、結果的に取り残され、格差社会の中で、その中から抜け出せない人達が多く出るようにも思えるのである。

無論、一人一人の子供達を見れば、教育に関して、通り一遍に言えないのは承知している。しかし僕自身が誤っているせいかもしれないが、この視点での賛成論が少なかったので語ってみた。維新後、日本の公用語を英語にすべきとか、第二公用語としてエスペラント語を使うべきとか、表音に近いローマ字表記に統一すべきとか、様々な意見が出された。その際に、英語ではなく日本語が、そのまま使われるようになった大きな理由は、英語を学ぶことが出来る時間を有する知識人が情報を所有することで権力を得ることになり、そこに差別が発生するという恐れからだった。

しかし、現在では逆に英語を知らない事による情報格差はあると思うし、維新時の恐れは、
英語と日本語が逆になり存在していると思うのである。そして、それらを今後どうしていくのかを考える視点が、小学校英語必修化論議に必要だと僕には思っている。

「美しい日本語が話せず書けない」という、また別の意見では、小中学校で覚える漢字数が少ないともある。維新以後の言文一致の言語世界では、話し言葉に引きずられる形で文章も合わさる。それは致し方ない事だと思う。さらに、この国において、明治維新後から現在に続く日本語政策の流れは、漢字廃止と語彙の簡略化にあったと思う。その流れで現在に至ったとすれば、現在の政治家の語りは、その流れの反省の中から産まれるべきだと僕には思えるが、彼等の語りに理念などはなく、ただこの国に住む人々に要求するのみである。

漢字廃止論は、漢字という中国の文字を使っている事も理由の一つにあげられる。逆に言えば、日本語は思想・技術などを受け入れる国の言葉を使うのであって、現在で言われる「カタカナ言葉」もその類だと思う。抽象的な言葉は殆どが漢字と言うが、それは中国からの思想を受け入れた結果であり、「カタカナ言葉」を使う事と本質的には何ら変わらないと僕には思える。その上で漢字廃止論は、言語に内包する政治性による振り子の関係でもある。今まで大きく漢字側に振られていたのが、維新後に中国から西洋に目を向ける事で、逆に西洋に大きく振られる。

今度は西洋に大きく振られたのが、また中国というか東洋に振り戻されるのだろうか。そう言った意味で、現在の様々な「日本語」に関する話題は、右傾化の眼差しで見るべきではなく、大雑把に言えば、西洋というか米国との関係性の中で見るべきだと僕には思える。また日本語の簡略化も維新後に議論されてきているが、最初に実施したのは日本帝国陸軍であった。陸軍は武器の使用方法を難しい漢字でなく、ひらがなで簡単に記述することで、スキルの統一を図った。話を元に戻す。

ところで、小学校英語の必修化の問題点として、大きく二つのことがあげられている。

一つめは、「週1回の授業でどの程度の英語力が身に付くのか」ということ。しかも必修となるのは小学高学年からだという。
二つめは、「公務員の総人件費が厳しく抑制される中で必要な教員の確保など条件整備は可能なのか」ということ。

正直に言えば、いくら英語必修化賛成と言っても、現実としてはこの程度であるから、問題化する意味もない。これでは他言語の学習にはほど遠い。いみじくも伊吹文明文部科学相が語る「小学校は外国語に興味を持つ程度にとどめるべきだ」のレベルに近い様にも思える。それであれば、何故彼は反対しているのだろうか。もう少し徹底して実施して欲しいと願わずにはいられない。

ところで、蛇足だが、いままで僕が人から教わった文章の書き方として、1)簡潔に、2)読んで欲しい方にわかる言葉(単語とか言い回し)で、3)起承転結は大事、4)一つの文章に多くの内容を載せない、5)結論(言いたいこと)は明確に、6)文にはリズム感が必要、7)文章の中では「です」「ます」などの統一、等があったと思う。

「美しい日本語」の書き方として、上記と何か変わる点があるのだろうか。所謂名文と呼ばれる文章は、書き方として変則的なものも多い。しかも現代的な視点では面白味にも欠ける。「美しい日本語」の例として、何を掲げるのか楽しみでもある。皮肉でも何でもなく、
好奇心からそう思っている。

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