2006/12/12

ビューティフル・ジャパニーズ・ランゲージ

「日本のカルチャーとヒストリーを十分マスターし、ビューティフル・ジャパニーズ・ランゲージが話せること。その後でフォーリン・ランゲージはマスターする」――伊吹文部科学相は11日、日本外国特派員協会で講演し、カタカナ英語を多用して小学校での英語教育に否定的な考えを展開した。
(2006/12/12 asahi.comより)

この突っ込み所満載の語りを現場で聞きたかった、というのが正直な気持ち。何せ権威ある文部科学相殿のお言葉である。おそらく、「カタカナ英語を多用して小学校での英語教育に否定的な考えを展開した」、冗談とも思える語りも深い思惑があっての事だと思う。

日本外国特派員協会での講演と言っても、来られる方全員、日本語が理解できるとは限らない。しかし、日本に特派員として来られる方の前で、その国(日本)の言葉を話さなければ失礼かもしれない。この配慮が文部科学相殿の語りに繋がっているとすれば、相手の立場を思いやる気持ちがあってのカタカナ英語の多用と言うことになる、のかもしれない。逆に、その上で思うのは、カタカナ英語で語った単語は、文部科学相殿にとって鍵語なのだろう。
しかし、この短い語りの中で、これほどカタカナ英語を多用すると、逆に日本語(標準語)を母語とする僕からしてみれば、非常にわかりづらい。ここは文部科学相殿の博識をもって、「ビューティフル・ジャパニーズ・ランゲージ」で話をして欲しかった。

上記の語りを日本語にすれば、「日本の文化と歴史を十分に習得し、美しい日本の言葉が話せること。その後で、外国の言葉を習得する。」、となるのかもしれない。文部科学相殿は「話し言葉」に限定されて語っている。言葉には、それを母語とする人たちの文化と歴史が宿っている事に、僕は異存はない。ゆえに、まずは文化と歴史を十分に習得する、との言葉もそれなりに聞こえる。しかし文部科学相殿は何かを誤解されているのではないかと、誠に失礼ながら思うのである。

話し言葉としての日本語の多様性を文部科学相殿は過小評価されてはいられまいか。
例えば津軽弁という言葉がある。津軽弁とは失礼な言い方かもしれない、明治以前はお国言葉として、津軽の言葉は、その土地のいわば標準語として日常生活に使われていたのだから。津軽弁の言葉自体に、その言葉が方言であることの意味がでてくる。方言とは権力により成立された標準語との対比により成立されるのである。

しかし国の権力が、その枠を広げ、共通語としての標準語の制定を行うのは当然だとは思う。僕はそこまで言うつもりはない。ただ、これほどメディアが発達した時代(明治と比べて)でも、現に残り続けている「方言」の存在をどのように考えられているか、と僕は問いたいのである。

津軽の言葉にも、当然ながら文化と歴史がそこに宿っている。「日本の」という括りの中に、それぞれの土地に根付き育っている多様性を全て包括できるのであろうか。おそらく、誰かが「ビューティフル・ジャパニーズ・ランゲージ」と規定しない限り、この国の懐の深さで包み込むことができると僕は思う。そう、誰かが「美しい日本語とはこういうものだ」と言わない限り。

「美しい日本語」のコインの裏には「貧相な日本語」が隠されている。それは過去の言語学者たちが、日本語の貧しさを嘆いてきたことからもわかる。「美しい日本語」と何ゆえに連呼をしなくてはならないのだろう。いわゆる標準語を母語とし、その言葉で、考え・思考し・対話し・感情の発露を表現し・発言する僕にとって、この言葉が特別なのは間違いない。文部科学相殿は「美しい日本語」なるものに、何らかの条件を付与されているが、その具体的な内容は一度も語られていない。ただわかるのは、小学校の課程において「美しい日本語」が構築しなければならないし、それは現行でも不足している、ということだけである。一体具体的に何が小学校の課程において不足しているのだろう。皆目わからない。
それがコミュニケーション能力であるとすれば、それなりの仕方がある。「愛国心」を育てるとすれば、お隣の中国様に仕方を教わればよい、画一的な「愛国心」の育成は「日本の問題」を「他の問題」に転嫁できるかもしれない。

相手を思いやる気持ち、であれば・・・・この国の大人たちでそれを教えられる人たちがいるのだろうか。僕なりの言い方をすれば、「話し言葉」と「書き言葉」は違う。「話し言葉」は概ね「魂」からの表象だが、「書き言葉」はどちらかといえば「精神」からの表象と言ってもいいかもしれない。ゆえに完全なる言文一致は、どこの言葉でもあり得ないと思う。つまり「美しい日本語」の規定とは、僕にとっては「美しい魂」の規定に意味合いとして近い。誰が自分の「魂」を規定して欲しいと願うのであろうか。

おかしなことに「美しい日本」と首相が言い始めてから、教育の現場では「いじめ」を原因とする自殺の対応に大忙しである。皮肉で言えば、文部科学相殿の言われることは正しい。英語よりも、もしかすれば「美しい日本語」よりも、先に何とかしなければいけない事が教育の現場には沢山ある。そのほか「プアーワーキング」の実態、知事らの汚職、そして多くの殺人事件。

「美しい日本」そして「美しい日本語」は、大人たちがこれらの問題に真摯に取り組む姿勢の先にあると、僕には思えてくる。一言でいえば、言葉だけの「美しい日本語」などない。相手を尊敬し思いやる気持ち、それは言葉だけでなく、相手の表情、言葉の調子、息遣い、身振り手振り、その文脈、などからも自ずから表象されてくるものなのだ。無論、言語である限り、他者とのコミュニケーションの道具の側面は否めないと思う。そして道具としても、その深さは、小学校の課程だけでなく、生活の中でも学ばれる。でも結局は、その人の他者への眼差しによって決まるのだと思う。

いい加減「ビューティフル・ジャパニーズ・ランゲージ」などという冗句は聞き飽きている。

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