2006/11/30

自由が丘の kebab shop




東京の自由が丘に小さなkebab shopがある。kebabが好きな僕はたまにその店による。
しかし、kebabを造る方は何故か全員外国の方である。それは外国でのすしバーで日本人が働くようなものなのかもしれない。まずはイメージが大事だというわけだ。
そして、これも何故だかわからないが、その外国の方は、僕には全員トルコ人の様に見える。
全く無茶苦茶な手前勝手なイメージだというのはわかっているが、何故だかそう見える(笑)。
で、自由が丘のkebab shopで働く方もトルコ人だと僕は想像している。
昨日もその店によってkebabを食べた。人気があるようで、僕が注文前に数個の注文があり、しばらく店の前で彼が働く様を見ていた。見ているうちに店の写真を撮りたいと思い、彼に写真を撮って良いか聞いてみた。すると彼は少しはにかんだように下を向き、こう答えた。
「僕は、顔はハンサムじゃないから、撮ってもたいしたことないですよ・・・」 
正確で明瞭な日本語だった。
内心彼がハンサムかどうかは関係ないと思いながらも、それを気にする彼の姿を見て、何か親近感が沸いてきた。直感的に良い奴だなぁと思ったのだ。
そして咄嗟にでた言葉が、「You're realy handsome!」だった。
英語に疎い僕にとって、男から男に向かってこう呼びかける意味が何なのか知らない。でも彼が手を動かしながらも、僕の言葉に苦笑というか笑みを漏らしたのは事実だ。でもそれ以上に矛盾を感じたのは、僕は相手をトルコ人だと思っていたのに、英語が通じると疑わなかったことだ・・・まぁ細かいことは気にするまい。


僕は何枚か写真を撮った。そしたら今度は逆に彼の方から僕に声をかけてきた。

「作っているところも撮りたいですか?」
「good idea!!」 僕は叫ぶ。
僕がカメラを構えると、その瞬間だけ彼は動作を止める。作っている過程を写真に収めやすく考えてくれているのだ。
その気持ちに感謝する。
「thank you so much!」 僕は彼に言う。
「いえいえ」 彼が答える。


僕が注文したkebabが出来たとき、僕も写真を撮り終える。
差し出されたkebabを、思い切りがぶっと食べる。美味しい!

ジョーク、はたまた現実?

最近の出来事は、これってジョーク?と思わせる事が多い。例えばホリエモン裁判。宮内被告もそうだが、堀江被告は現在やっきになって自分の無能を証明しようとしている。この状況に陥る前は、おそらく二人とも互いに自分が有能であることを競い合っていたことだろう。

「目立ったから狙われた」との堀江被告の言葉には声を出して笑えた。最近ではベスト10にはいる名言かも知れない。貴方が今の状況に陥ったのは、貴方が無能だからだ、とちゃちを入れたくなる。無論、無能とは能力がないということだ。

能力と呼ばれるものには幾つもの種類がある。そのうちどの能力がなかったのか、それを貴方が現在裁判で証明しようとしている、だから貴方には十分に理解できる話でしょう、と思ったりもする。検察の思惑が堀江被告の姿を、このイメージで定着させようと試みているのであれば、その思惑は僕には成功している。まさに茶番、そしてホリエモンはメインとなる道化師というわけだ。

自民党復党の話も聞いたときはジョークだと思った。前言を翻し続ける政治家に、安倍総理は答える。
「復党して美しい日本を創るために頑張って欲しい」 笑える
将来復党議員達が創る「美しい日本」の住民に僕は入ることが出来そうもない。そんなことを思う。まずは自民党に入党しなければならない。その上で安倍総理の言うとおりに行動しなければならない。郵政民営化には当然に賛成しなければならない。そうでなければ「美しい日本」の住民にはなれそうもない。

実を言えば、ホリエモン裁判もそうだけど、復党問題、さらに以前の郵政民営化問題についても、僕は殆どと言って良いほど興味がわかない。ただ状況とその中で語られる言葉が面白く、それでニュースを聞いている次第なので、真面目に考えているというわけでは決してない。だからその延長で「美しい日本」を創る提言をしたいと思ったりする。

「美しい日本」を簡単に創るにはどうしたらよいか。簡単である。「美しくない日本」を排除すればよい。「美しい」概念には他者を必要とする。だから他者が、これは美しくないと思える日本を言ってもらえばよい。そしてそれを優先的に排除すればよい。

外国人観光客をランダムに選考して、教育再生会議と同様に、日本美化会議の設立を提言する。排除には明確な理念とそれに基づく行動指針が必要となる。そこで、まずは総理に僭越ながら手引きとして書籍を何冊か紹介したい。優秀な総理のことだから、既に読まれているかもしれない。その時はご容赦願いたい。
  • 毛沢東語録
    かの国では、日本の様ないじめ問題は起こりえないことだろう。しかもその上で立派な愛国心教育がなされている。そしてその神髄に、今では流行らないが毛沢東語録があるのは間違いない。
  • 我が闘争
    美しい国を創る基本理念として衛生主義は避けては通れまい。まずは不衛生なものの排除から始まる。その神髄を知るにはこの本ほど適切なものはない。
  • 平家物語
    日本の文化とは「詫び寂び」の世界かも知れない。「詫び寂び」はおそらく無常感が背景にあるように思える。無常観と言えば、やはり日本文学でこれをおいて他にはあるまい。「奢れる者は久しからず」である。
日本・中国・西洋の名著3冊をあげてみた。いかがであろうか。

2006/11/29

教育再生会議での緊急提言

TVでは一人の男がマスコミが差し出すマイクに向かって興奮して語っていた。

「いじめられる側が学校に来れなくなるのはおかしい」

「いじめる側を出席停止にすべき」

何事かと思ってTVに注視すると、どうやら教育再生会議にて、いじめ問題緊急提言を早々に行うらしい。その骨子を事務局の男性が語っていたのだった。いじめは犯罪であることを十分に認識させるために、いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい処置を取る。教員によるいじめは懲戒処分などの対象にする。これら教育再生会議での緊急提言は、現在のいじめ問題に対する状況の下、時代の空気に見合った提言なのかも知れない。

ただ運用時において幾つか課題が出ることも事実だとは思う。例えば、いじめ問題は教員およびその当事者家族が知らされないことが多いが、この提言でその面が緩和されるとは思えないこと。いじめる側の特定を客観的にどのように行うのかが不明なこと。仮にいじめられる側の告発でのみ特定される場合、それは公平とは思われないということ。その上で、告発された相手が否定した場合、どのように扱われるのかが不明なこと。例えば、いじめる側がクラスの殆どの生徒が該当する場合、どうするのかということ。その中で、いじめの責任分担をどのように行うのかと言うこと。また、どこの組織がこれら運用面を管理していくのかということ。運用を逆手に取るケースを見極めるチェック機能はどうするのかということ。等々、考えればきりがない。

この提言には、いじめが犯罪であり、いじめを行えばそれに見合った厳しい処罰があると生徒及び教員に知らしめる意図がまず最初にある。しかし、いじめが犯罪であれば (僕もそれに同意するが)、法律に則り粛々と犯罪者を処置していけばよいのであって、わざわざ緊急提言で語ることでもない。

しかも刑罰が厳しいことが犯罪抑止に効果があるという統計は何処にもない。さらに、それが実際に運用するにおいて、様々な問題を解決しなければならないのであれば、提言自体が絵に描いた餅となり、結果的に無意味になりかねないとも思う。

だからか提言自体、いじめに対する有効手段が有識者を持ってしても不明であることの裏返しであると、僕には思えてくるのである。おそらく教育再生会議でも場当たり的と承知の上での提示なのかもしれない。しかし、いじめ問題の難しさを考えたとき、この場当たり的な対策は逆に問題を複雑化させはしないだろうか。伊吹文明文部科学相が適用は慎重にと語った事は、その意味で、僕は当然だと思う。

さらに、この事務局の男性の興奮気味の語り口での提言は、いじめ問題に「報復」という考えを示している。この緊急提言が教育再生会議でどの様に承諾されたのかが、僕にはとても気になる。一見正論のように思えるこの提言に対し、反対意見は出なかったのであろうか。異論が出ずに、この緊急提言がなされたとすれば逆に怖い。

僕にとって、いじめ問題への対応として考えられる点は以下の通り。

1)1クラスの人数を20名以下にする。
2)2クラスで3名の教員を配置し、協議と合意の上クラスを運営していく。
3)主担任はその3名が短期で巡回し受け持つ。
4)隔月に1回の個別父母面談を行う。
5)個別面談に欠席が多い生徒宅を教員は訪問面談を行う。

まずは学校の思い切った制度改革が必要なのだと思う。

2006/11/21

「インセンティブなければワンセグの普及もない」という発想

少し前にauが「LISMO」を発表した時、僕は興味を持って詳細を気にした。

auが音楽を携帯電話の主要機能にするという噂が流布した頃、その噂の少し前に購入したW32Sが当然に「LISMO」に対応できると思いこんでいたからだ。僕は単純に携帯電話とPCが接続できさえすれば、あとはPCと携帯電話のソフトウェアの仕事だと思っていた。でも実際は違っていた。「LISMO」に対応するには「LISMO」対応機種でなければならなかった。

少し考えれば、現行携帯キャリア達のビジネスモデルとして、新機能は新機種によって実装される事くらい解るはずであった。でもその時は期待というか希望があった為、内心ガッカリしたのを覚えている。いつまで携帯キャリア達は、このスタイル、新機能は新機種にて実装される、を続けていくつもりなのだろうか。

矢継ぎ早に繰り出される携帯の新機能、それは安易に新機種で実装され、それがMNPを利用する側の動機にも成り、かつ機種変更などで既存利用者を囲い込む。そしてこのスタイルを続ける要として「インセンティブ」があるのは間違いない。つまり高価な携帯端末にて新機能を実装したとしても、購入者の絶対数が少なければ企業側メリットも少ないというわけだ。

さらに日本のMNP制度自体も「インセンティブ」ありきが前提になっているとも思う。また利用者側も携帯電話購入時に、当然に「インセンティブ」ありきの端末価格を想定している。しかも新機能は、一般にパケット量が増大する傾向がある。ゆえに、二段階定額制を敷いているauの場合、常に最大の定額料金支払いに繋がる。企業にとって見れば、従量制での不安定な収入より、しかも高額請求の場合徴収するのにコストもかかる、固定収入の方が安定しており計画も立てやすい、さらに個別では少ない請求なので徴収しやすい面もある。「インセンティブ」は携帯キャリアの、特にauにとっては、携帯ビジネスモデルを維持するための重要なツールなのだと思う。そしてそれは、キャリアだけに限らず、数多くの携帯端末販売店を産み出し、それを購入する人達を巻き込んでの話でもある。

一見すると、企業側、端末販売店、行政側、さらに利用者の総てが満足する制度のように思えてくる。でも本当にそうなのだろうか。僕にとって見れば、一つの携帯機種を長く使い続ける多くの利用者が不利益を被っているように思える。当たり前のことだが、各携帯キャリアが「インセンティブ」が出来ると言うことは、そのコストをある程度の短い期間で回収できると言うことでもある。そしてその回収には、機種変更を殆どしない人達からの企業利益も含まれているに違いない。

一度統計データを見てみたいと思う。機種変更の回数とサイクル期間、及びそれぞれの利益率などだ。僕の勝手な予想では、機種変更を多く行う人と行わない人のグループがきっちりと分けられると思う。つまりは、機種変更行う方は頻繁に行い、行わない人は数年間同一機種を使い続ける。そういう構図の中で「インセンティブ」の持続可能性が成り立つと僕は思う。

また別の見方をすれば、「インセンティブ」は、畢竟、端末の売り方の一つに過ぎない。そして売り方には様々な仕方が現有するのも事実である。例えば、リース方式でも、ローン方式でも良い、顧客が新機種を購入しやすく、しかも購入者の負担のみで賄える仕方は、アイデア次第でいくらでもあると僕は思う。

さらに「インセンティブ」でメーカーもしくは販売店に支払っていた「インセンティブ」用の原資を、携帯利用者にあまねく利益還元するべきだとも思う。具体的に言えば、通話料ならびにパケット料等の減額の事だ。ついでに言えば、携帯端末のより高度な標準化仕様の構築により、新機能が新機種により実装する頻度を出来るだけ少なくする様に配慮するべきとも思う。

これら3つの事項を積極的に進めること。それが日本の携帯事業を長く発展させる原動力になっていくと、私見だがそう思っている。その上で先だってのW44S発表会でのKDDI小野寺社長の言葉、「インセンティブなければワンセグの普及はない」、はいただけない。彼らがワンセグの普及に社会的意識をどのくらい強く持っているのか僕にはわからない。

確かに小野寺社長の言っていることはある意味正しい。しかし正確ではない。正確には「インセンティブなければワンセグの急激な立ち上がりもない」と言うべきだと思う。技術は必要であれば使われていくが、必要としなければ消滅する。ワンセグの技術的な詳細を僕は知らない、でも様々な携帯端末に合わせた仕様となっていると推察する。故にワンセグは、もともと仕様的には携帯系端末に広まる可能性を秘めている。後は市場が判断すると言うことだと思う。
(自由市場経済主義を僕は信奉しているわけではないが、ワンセグの場合は市場に委ねる表現が使えると思う)

小野寺社長がW44S発表会で「インセンティブ」の話と「ワンセグ」の話を結びつけたのは極めて単純な話だ。総務省から「インセンティブ」見直しが提言されていると言うことと、ワンセグ技術には周波数割当管理元である総務省が絡んでいるからだろう。小野寺社長の発言は、いわばワンセグを人質にとって総務省に物申す姿勢に近い。携帯キャリアにとって、ワンセグを携帯端末機能に付加しても、それがパケット料などに結びつくことはない。だから、ワンセグ携帯端末を販売することは、他社との競争もさることながら、気持ち的には総務省の意向を受けてがあるように思う。それ故の発言だと僕には思える。

僕にとって、それらの事柄は特に気にする事ではない。僕が小野寺社長の発言で気になるのは、何故、総務省との関係からくる発言を、利用者が注目する新機種発表会で行ったのかと言うことである。その発言という行為自体が、「インセンティブ」を利用者があまねく支持している、という事を、各携帯キャリアが信じている事の証左のように思えるからだ。少なくとも僕は、携帯が価格的に見て買いやすいのであれば、特に「インセンティブ」に拘るつもりは全くない。それは前記に述べた通りである。

だから小野寺社長の発言は、「インセンティブ」を続けるため、利用者を巻き込んで、いわば共犯者に仕立てられているような、そんな気分になったのである。さらに、この長く続いた「インセンティブ」に固執する様が、auもしくは日本の携帯事業自体が硬直化し、新たな展開を産みづらい状況下にあるように思えてくる。本来、新機種発表会にて、僕などが望む姿は、今後の携帯事業の展開であり、その流れの中で、今回発表する機種の位置づけである。残念ながら、そういう発言はauに留まらず、あまり聞かない。携帯事業の将来展望で聞くのは、飽くなき機能の追加でしかない。

既に日本の携帯事業は、ある意味「イノベーションのジレンマ」に陥っているかのような、そんな気さえしてくる。僕は個人的に言えば、au利用者だし、auを使い続けてきている。だから本当は応援したいのである。この記事も気持ち的には応援のつもりで書いている。

2006/11/18

木登り猫


猫は木に登る。これは周知の事実だと思うが、でも実際は木に登る猫を見かけることは少ない。街の中では猫が登れそうな木が少ないこともあるのかもしれないが、大体は塀を通り道にして行きたい場所に向かう。
猫が木に登るには、登るだけの理由が必ずそこにある。例えば獲物を追いかけてとか、逆に追いかけられて逃げるためとか。
そして木に登った猫たちは、降りるとき一様に苦労することになる。彼らは登るときもそうだが、降りるときも頭を先にして降りるしかないのだ。だから勢い余って木の高見に登った猫は、場合により自分の力で降りることが難しくなるときもある。
そう言えば以前に木の上で丸くなって休んでいる猫を見かけたことがある。その猫はアリスに登場するチェシャー猫のように、丁度通り道の真上の枝にいて見下ろしていた。でも彼はチェシャー猫の様に笑ってはいなかった。不審者が下を通るたびに怯えたような目をして相手を凝視していた。
彼がどうして、もしくはどうやって、その高さの枝まで辿り着いたのか、僕にはわからない。でも数時間後にその下を通り過ぎたときには猫はいなかったので、無事に降りることが出来たのだろう。
勢いで登ってしまい、降りるのに途方にくれたのだろうと僕は想像した。でも数日後、たまたま同じ場所を通った時、あの猫が同じ枝で丸くなっているのを見かけた。
実を言えば、その日だけでない。僕は何回か同じ猫がその枝で丸くなっているのを見かけた。その度に、初めて見かけたときのように、彼は怯えた目で僕を凝視していた。
明らかに彼は自分の意志で木に登っていた。そして枝の上で丸くなり、怯えたような目で下を通る人を眺めているのだ。より高見にいて獲物を捕まえる機会を待つのが猫族の習性なのかもしれないが、僕は彼以外で同じ様な行動をとった猫を今まで見たことがなかった。
その猫を見たのは今年の春の頃、梅花の季節が終わり桜の開花が間近だった頃の短い期間だった。桜の開花が始まり、花見の人達が増える頃、彼は姿を現さなくなり、全く見かけなくなった。
今頃どこでどうしているのだろう

2006/11/15

死ぬまでに読みたい本

冗談のように聞こえるかも知れないが、僕には死ぬまでに読んでおきたい本が何冊かある。運良く平均寿命まで生き延びたとして、それでも何冊かは未読のままだと思う。僕はそれらの未読本をリストアップし、特に優先順位の高い本を僕の棺の中に収めて欲しいと願っている。そしてその中の1冊は既に家族に伝えている。

その時に告げたのがマルクスの「資本論」である。おそらく「資本論」は死ぬまでに読めそうもない、そんな予感を持っている。僕の予感はこういうことについては結構当たる。

それでは「資本論」を今からでも読み始めればいいじゃないかと思われる方もいることだろう。それがそうはいかないのだ。先日から読み始めた本は、これも死ぬまでに読みたい本の一冊であるハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」である。この本は僕にとってはビジネスマン必読書だと密かに思っているのだが、そういう視点で顧みられることは今のところない。その 「エルサレムのアイヒマン」は約240ページだから、量としてはそれほど多くはない。でもハンナ・アーレントが徹底的な資料を駆使して練りに練った書籍であるから、一文に重みがある。

例えば、別にミステリーを軽く見るつもりはないが、僕の大好きなミステリー作家であるクレイグ・ライス女史が書く一文と較べてみてもそれは明らかだと思う。つまり読み終えるのにそれなりに時間がかかる。

しかも生来怠け者でもある僕だから、続けて同様の書籍を読む気にはどうしてもなれない。もしかしれば、しばらく一冊も本を読まないと言うことも十分にあり得る。そういうサイクルでの読書だから、やはり僕が願うことは叶えられそうもない。

そう言えば昔、高校時代の時に学校の図書館を初めて見て、小中学校のそれと較べ書籍の量と種類の豊富さに驚いた。そして高校の3年間でこの図書館の書籍を総て読破しようという、無謀な野心を抱いた。でも結果は入学してから半年も経たないうちに野望は露と消え、僕は西脇順三郎という一人の詩人に夢中になった。誰でもそうかもしれないが、先のことは予測できない。(ビジネス的に言えば予測できないにもレベルがあるのだが、自分に対しビジネス手法を適用しようとは夢にも思わない)

だから、僕が密かに思う死ぬまでに読むべき書籍を、生きている間に読み終えてしまうかも知れない。まぁそれはそれで良いのだが、おそらくその時は、新たな読みたい本が出てくることになるだろうから、やはり同じことなのだろう。まさしく堂々巡り。その堂々巡り、たぶんそれは螺旋階段のようなy軸方向には動き、x軸での堂々巡りだとは思うが、それが中断されるところに人生の妙味が在るのかもしれない。そんなことを時々思う。無論、そういう悟りきった趣を常に胸に抱いているわけでは決してない。

本を読むと言うことは、コミュニケーションの一種だと思うときがある。だから人から人に繋がっていくように、書籍から書籍に繋がる。書籍のネットワークの中に身を置くことで、そこから新たな世界がひろがる。僕が読みたいと願う本は、ネットワーク的に言えば、片方向ではあるが、強い紐帯だと感じる。僕が産まれ背負ってきた文化的資産からそれは派生しているのは間違いない。つまりは、これらの本を読むことで僕は僕の人生を確信する。

そういえば先日はらたいら氏が亡くなられた。奥様の言葉が胸に残る。

「主人は『不服はない。本望だ』と言っていました。63歳でしたが、十分生きられたと思います。最期は家族に囲まれて旅立ちました」

十分に生きる人生とは、死から逃れる可能性がない状況で、見守る周囲の人達が覚悟を決めている中で、「不服はない。本望だ」と言える人生なのかもしれない。そう言うことを少し思う。仮に、「悔いがある、それは何々だ」と語った場合、その悔いを愛する人達に残すことになる。それが良いことかどうかは僕にはわかならない。ただ書籍に関してだけ言えば、本記事はそのことしか語っていないので、僕は少しばかり悔いを周囲に残してしまうのかもしれない。

2006/11/07

門番猫



街を歩いているときに出会った猫。アパートと思われる入り口の塀に座っていた。自由が丘の街のはずれとはいえ、それでも様々な店が建ち並び、行き交う人も多い。その中を平然として置物のように座っている。

近くを通り過ぎるまで全く気が付かなかった。丁度、その猫の横を通り過ぎようとしたとき、ふと僕の視界に入った白い動物、ぱっと視線を向けると思わず猫と目と目があった。

カメラを構え、少しだけ猫に近づく。

たいていは、ここで猫は僕と等距離を保つ様に少し離れるはずだが、猫は微動だにしない。とても人間に慣れている感じだ。
いや、それ以上にこの場所では彼(彼女?)の方が主なのである。だから離れるとすれば当然に僕の方だと、そういった感じで猫は僕を眺める。

何枚か写真を撮ったとき、二人の女性が近づいて来た。母とその娘と思われる二人は、写真を撮っている僕の横に立ち、猫に話しかける。

「写真撮ってもらっているの。よかったわね。綺麗に撮ってもらわなくちゃね。」

その猫を見知っているかのような言葉を聞き、僕は彼女たちに話しかける。

「この猫の名前はなんて言うのですか?」
「え?」と母親らしき女性は少し首をかしげ、それから微笑んで、「さぁ・・・」と答え、さらに続ける。
「この猫、いつもここにいるんですよ。来る度にね、この猫に会いに来るんです。今日も会いに来たんです。」
「へぇー」と間抜けに頷く僕。あらためてこの猫を眺める。何か凄い猫だと思った。何が凄いのか皆目見当が付かないが、とにかく凄い猫だと思った。

母親の傍らにいた女の子が猫を見上げ、にこにこしながら猫に話しかける。
「かわいいねぇ、かわいいねぇ」
女の子の声は綺麗なソプラノで、僕にはそれがとても心地よく聞こえる。
「きっと私たちの話すことが猫にはわかるんだと思うわ」と母親が娘に向かって言う。
女の子はさらに何度も何度も「かわいいねぇ、かわいいねぇ」と猫に向かって話しかける。

すると、短くだがはっきりと、猫は「にゃー」と一回だけ鳴いた。その声を聞き二人は、無論僕も、満面の笑顔。
「かわいいねぇ、かわいいねぇ」
女の子の語りかける声が徐々に猫の鳴き声のように聞こえてくる。そして本当に女の子の言葉が猫に通じているのかもと思い始める。

女の子が見上げ猫がそれに応える様を、写真に撮ろうかと迷ったが、なにかしらそれは不謹慎な行為のように思え、僕はただ猫だけを写真に撮り続ける。
そしてしばらくして僕はその場を離れた。少し歩いて後ろを振り返ったら、まだ親子はその場で猫と話し続けていた。