2007/12/30

Amazonのカスタマーレビュー、ベルンハルト、そして翻訳について

Amazonのカスタマーレビューを時折読むと、それが翻訳本のとき和訳の善し悪しが記述されているときがある。善し悪しだけではなく、誤訳もしくは不適訳及び訳抜けなどに発言が及ぶときも書籍によってはある。実際問題としてそれらの発言が僕の購入是非に関わることは少ないが、それでもその書籍への評価に一定の影響を受けるのも事実である。

でもそれ以上に僕は前述の発言を何故出来るのか不思議に思うのだ。少なくとも日本語化の善し悪しを評価するにあたり、Amazonでの発言者は原書もしくは別の翻訳本を読んでいなければならない。原書が新刊書であれば別の翻訳本がない可能性は高く、誤訳・不適訳の評価もあることから、当然に原書を読んでいるということになる。そこが不思議なところである。

つまり原書を日本語訳と同様に読めるのであれば、翻訳本を読む必要性は始めからない。でもAmazonのカスタマーレビューに記載していることは、とりもなおさず発言者は、まず翻訳本を読み、翻訳の拙さを実感し、かつ翻訳の内容も疑い、それでも尚、当該著書の内容を知りたく原書を読み、その上で翻訳本の評価をAmazonに発言した、ということになる。ネットであれば、以前とは違い原書を手に入れるのは簡単なはずであるから、随分と回り道をするものだと僕は思うのである。

実を言えば僕は今まで翻訳本の善し悪しを実感したことは少ない。特に翻訳がきちんとした日本語になっているか等とは考えたこともない。それはお前の感受性の鈍さだと言われてしまえばそれまでだが、実際にそうなのだから致し方ない。Amazonでの発言者がまず「翻訳の拙さ」を実感できることが、嫌味でもなんでもなく、僕には実感できないのである。

それでも良い翻訳だったと、後から振り返ればだが、思った本も何冊かはある。その中の一冊がトーマス・ベルンハルトの小説『破滅者』(岩下眞好・訳、音楽之友社)である。書籍の末尾に翻訳者の後書きがあり、そこには原書は一文が非常に長く、そのまま訳した時、文章として判別不能になりかねないので、ある程度の長さで区切ったと書いてあった。それでも日本の小説と較べても十分に長い。

またそれ以上に僕が意識したのは翻訳文の文体であった。文の末尾に「と僕は思った」が非常に多いのである。文の全てに「と僕は思った」とあるように感じられたほどだ。おそらく、これはあくまでも僕の推測だが、『破滅者』の翻訳文は日本語としては悪文であろう。それでも僕にとっては、この悪文こそがトーマス・ベルンハルトの文章のように思えたのだ。

僕はベルンハルトの原書を読んだこともない。しかし彼の言動は伝え聞いていたので、僕なりに彼のイメージが造られていた。そしてそのイメージと『破滅者』の翻訳文は一つの調和を以て重なったのである。この翻訳文でしか『破滅者』の文体はないとさえ思った。「と僕は思った」の反復は僕にとっては苦痛ではなく、『破滅者』という小説が持っているリズムのように思えたし、反復することで小さな波が相乗し、終には津波となって小説の世界に引きずり込まれた様にも思えたのである。「ああ、こういう日本語での表現の仕方もあるのか、出来るのか」、それは新鮮な感覚だった。その「新鮮な感覚」を得られたから、逆に僕はベルンハルトだけでなく、翻訳者である岩下眞好さんのことも意識することになった。僕にとって、ベルンハルトと岩下さんは「破滅者」を通じて一つだった。そしてベルンハルトの『破滅者』は忘れ得ぬ小説のひとつになった。
(その時の簡単な感想は、『Amehare's MEMO トーマス・ベルンハルト「破滅者」』 に書いています。)

僕にとって岩下眞好訳ベルンハルト『破滅者』との出会いは幸運だった。今から思えば、欧米の小説は「彼が言った」「彼女が言った」「私は言った」と文において主客を明確にするから、「と私は思った」の多さは原書の直訳に近いのかも知れない。でもだからといって本書の評価がいささかも変わるこはない。翻訳について回る多くの言葉、意訳・誤訳・直訳・妙訳・外国語化・翻訳文臭さ等々・・・、それらの言葉は読者が翻訳書に対する評価だが、多くは主観的である。翻訳は原書のジャンルによって、技術書・ビジネス文書などのいわゆる産業翻訳、医学書・学術系論文・法律系の文書の翻訳、そして文芸書翻訳と大雑把ながら分けられ、それ毎に求められている事が違う。そして今も昔も日本語化する分野で最も多いのは産業翻訳であると思える。産業翻訳は、例えば武器製造のしかたからその使い方、ビジネスにおけるリサーチ資料等々多岐にわたるが、それらの翻訳は伝える物が明確で、しかも正確さが求められる。明治維新以降、西洋のあらゆる技術資料が翻訳されたことだろう、つまり日本における翻訳理由の歴史は、中国・朝鮮から技術を仕入れた大和朝廷以降変わらないと言うことだ。

様々な翻訳一般に対する読者の評価を表す言葉の背景にはそういう産業翻訳の歴史が内包されている様に僕には思える。しかし文芸翻訳の場合、産業翻訳とは伝える物は違ってくる。僕が様々な翻訳に対する評価を表す言葉が概ね主観であると思うのは文芸翻訳のことである。ヴァルター・ベンヤミンは著書『翻訳者の課題』で文芸翻訳について以下のように語る。
翻訳は、原作を理解しない読者たちに向けられているのだろうか?そう考えるのなら、芸術の領域における翻訳と原作との地位の差は、一目瞭然に見えるだろう。加えて、「同じもの」を反復して語る理由も、ほかにあるとは思いにくい。しかし、文学作品はいったい何を<語る>のか?何を伝達するのか?それはそれを理解するひとには、きわめて僅かなことしか語らない。それの本質的なものは、伝達でもなく、発言でもない。にもかかわらず媒介者たろうとするような翻訳は、伝達をしか-つまり非本質的なものをしか-媒介できはしない。
(『翻訳者の課題』 ヴァルター・ベンヤミン 岩波文庫 野村修編訳)
ベンヤミンが『翻訳者の課題』において念頭にあったのは文芸翻訳のなかでも特に「詩」の翻訳であった。故にその語りには一種の偏りがあるように僕には思える。しかし日本語の語によって区切られた世界(日本というシステム)に生きる僕にとって、別の言語で創作された書籍は同様に別のシステムが潜在しているのは容易に想像できるし、その両システムの関係を考えた時、ある文芸書を日本語に訳することは、原理的に伝達さえ難しいこともあり得るかもしれないとも思う。

別に他言語間の翻訳不可能性を言っているわけではない。そもそも僕にとっては「翻訳不可能性」という言葉自体不可思議な言葉なのである。何をもって完全な「翻訳」と言えるのであろう。もしくは何をもって翻訳可能性の是非を定めるのであろう。一つの逆説的なことを言えば、完全な翻訳書とは「翻訳」されていない書物のことだろう。翻訳することとは、ベンヤミンの言うとおりに「形式」なのかもしれないが、新たな問題を、翻訳する側のシステム(ラング)に持ちこむことに近いと僕には思える。どの様な問題か、それは持ちこまれた側(例えば日本というシステム)の再構築を迫ることだと思う。再構築と言ってもそれほど大袈裟なことではない。それは例えばブログの記事の修正・追加の毎に行われる再構築、もしくはデータベースに新たな項目を付け加えることによる関係づけのための構築に近い。それでも語により区切られた世界は変わる。

ここで翻訳者ではない読み手である僕にとって幾つかの疑問点が浮上する。例えば僕はベルンハルト『破滅者』を読んだのだろうか、という疑問。その疑問は、日本におけるドイツ語理解者の数と、出版市場により担保され、購入時に何ら疑問を持たなかったのも事実である。僕はドイツ語圏のオーストリア作家であるベルンハルトの小説として「破壊者」を図書館で借り受けた。そして僕はベルンハルトの『破滅者』を日本語で書かれた小説として読んだ。日本語として個性的な文体は、ベルンハルトの文体だと僕は思った。読み終えるまで、
僕とベルンハルトの間に翻訳者である岩下眞好さんが存在していることは全く意識しなかった。それを意識したのは、小説の面白さと文体の新鮮さを感じながら訳者の後書きを読んだからだ。

読み手の立場から一つ言えば、確かに『破滅者』はベルンハルトの作品だからこそ読んだのだが、それはきっかけに過ぎない。作品はどの国の誰が書こうとそれほど重要なことではない。ただ日本語を母国語とする人の多くの作品は、日本語に囚われている。それは致し方ないことだと思うが、それらの作品はそれ故に新鮮な驚きが得られにくい。さらに気になるのは日本語の可能性を広げることなく固定化しようとする動きである。

そのことが政治的にどういう動きをもたらせるのかという問いへの悲観的な回答を打開するために、ますます諸外国の現代小説などの翻訳を、日本語として善し悪しを気にすることなく、行うべきだと思っているし、それらの作品を読みたいと願っている。

2007/12/21

今日

昼に喫茶店のテラスでコーヒーを飲んでいた。オフィス街の通りに面している店だったので、昼休みの会社員たちが目の前を行き交う。少し肌寒いが快晴、上を見上げるとビルによって区切られた空は雲ひとつない。
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
(西脇順三郎 「天気」)
西脇順三郎の「天気」という詩を始めて読んだ時、そこに地中海の強い日差しの中で、光と影の明確なコントラストによる白いギリシャ的世界のイメージが浮かび、そして固定された。おそらく言葉では言い尽くせないほどの天気だったに違いない。その天気は詩人の感性に直感を与えた。逆に言えば、その日、その朝、詩人の感性はその天気を受け入れる準備ができていた。溌剌として意気揚々、何かその日に素晴らしい出来事があるような予兆を感じる、そんな朝。

戸口で誰かが何をささやこうが、どの神の生誕の日なのか、それらに意味はない。ただ詩人はそのように感じた、そのことが重要なのだ。

僕はと言えば、寝不足でまぶたが腫れ、眼は充血し、手足はだるい。早く今日が終わればと明日からの休みを願っている。一体、詩人が迎えたような朝を僕も迎えることができるのだろうかと、涙目でぼやけた視界を再び空に向ける。そこにはひとつの青だけではない無数の青の世界。ひとつため息をついて冷めかけたコーヒーを勢いよく飲み干す。

昼休みの時間がわずかになったのだろうか、人々が無言で足早に通り過ぎる。僕は座りながら彼らを眺めている。

突然に雨が降ればよいと願った。雨は歩道を濡らし、僕が座っているテラスの椅子とテーブルを濡らす。できれば天気雨がいい。この無数の青の空から降る雨。それはきっと青色の雨だろう。西脇順三郎に直感を与えた天気は晴天とは限らないのだ。そう思うと何故か少しだけ元気が出てきた。

帰りに図書館に寄った。新倉俊一氏の労作「西脇順三郎全詩引喩集成」(筑摩書房)が近所の図書館に置いてあるとネット検索でわかったのだ。「天気」の一行目(覆された宝石)は英国詩人キーツの作品からの引用だと知ってから、そのキーツの詩を読んでみたいと思っていた。きっとその辺の情報が載っているに違いない。

でもあると思われた書籍はその図書館で無くなっていた。昔の情報が更新されず残り続けているのだと図書館士が申し訳なさそうに告げる。その恐縮具合に逆に申し訳なく思う。

変わりに新刊の「西脇順三郎コレクション」(全六巻)のうち二巻を借りてきた。今年は西脇順三郎が亡くなってから25年たったのだそうだ。編者は新倉俊一氏。今日、師走の晴天の下で西脇順三郎の詩「天気」を思い出したのは、もしかすれば何かの兆しなのかもしれない、などと少し思う。そしてそう思った自分を少し笑う。

明日はきっとよい日だろう。朝早く眼を覚ますのだ。

2007/12/18

麻雀

先だって久しぶりに友人たちと会った。友人の中の一人が久しぶりに麻雀でも打とうかと言うので集まったのだが。麻雀は単なる口実にしか過ぎない。でもいい年をした男たちが集まるにはそれなりの理由が必要な場合もある。以前は年に一度、ほとんどが正月だったが、誰かしら4人集まって麻雀を深夜まで楽しんだ。

酒を飲み、それぞれの日常の出来事を話し、それを茶化しながら、つまりは馬鹿話をしながら麻雀を打つのである。数年前までは、それは暗黙のうちに了解された僕らの公式行事だった。それがここ数年全くなかった。群馬にいる友人の仕事がある程度余裕ができ、今回の麻雀はその彼からの誘いでもあった。

様々な職業の人たちとの会話は楽しい。そのときも麻雀店の閉店間際の深夜0時頃まで遊んだ。そのうちに4人のうち1人が完全に酔っ払い、外面は全く素面に見えるのだが、語る話が何か妙に重くなってきた。彼はウィスキーを休むことなく飲み続け、その合間に、「俺なんてもうどうなっても良い」と語りはじめた。そして「俺の今の心境は特攻隊の一員のようなものだ」と続ける。その時は彼が完全に酩酊しているとは思えなかったので、僕は「それはどういうことか」とたずねた。すると彼は「いつ死んでも良いってことだよ」とこともなげに答えた。

彼には無論妻子もいる。「そんなことを妻子が聞けば悲しむだろう」と続けて僕は聞く。「だからこそ特攻隊の精神に近いんだよ」と彼は、おそらく自分の倫理観だと思うが、僕には通じない一言を言うのみなのだ。

「人間は、特に男はどういう形にしろ子供をつくり、ある程度まで育てればそれで良いんだよ」しばらくたってから彼は補足のつもりで答える。確かにそういう考えもあるかもしれないと、僕はうなずく。僕のうなずきを彼は見逃さず、逆に質問をしてきた。「お前は何のために生きているんだ?」

そういう質問は僕は苦手だ。あなたの知ることではない、と見知らぬ人であれば答えることだろう。でもその時は僕も多少は飲んでいたし、相手は久しぶりに会った友人なのだ。あまりそういうことは考えたことがないと前置きをいい、「人のため、自分のため」と短く答えた。

「人のため、自分のため」、確かに僕は昔からそう考えていたところがある。具体的に言えば、ある人がいるとする、無論その人には親がいる、親にとって子供の存在は悩みの種でもあるが、それ以上に希望でもある。つまりは子供がいるだけで、親のためになるのだと思うのである。そして親は親自身のために生きる。つまりそれらは誰にでも言えることであり特別なことでもなんでもない。だからこそ、語るべきことではなく、僕にとって「何のために生きるのか」という問いは苦手なのである。

「人のため、自分のため」は同時にありえるのか、それは時として難しいが、そこにバランスを保つことが大事なのではないかと僕は思う、と酒の勢いもあり短い言葉で僕は続けた。
彼は黙って聞いていたが、酩酊している状態の故、僕の言葉が彼に届いたのかは怪しい。何故なら、彼は繰り返し「俺はもう終わり」と言う言葉を何回か繰り返し、他の3人を見渡しながら、さもそれが重要なことのように、「俺らもいずれは死んでいくんだよなぁ」と続けたのだから。

弁護するわけではないが、彼は非常にポジティブな考えの持ち主であり、それは日ごろの仕事での活躍、さらに様々なボランティア活動参加という行動にも現れている。だから酔った勢いだとしても、その彼が突然にそのようなことを言い出したのは意外であった。
でも最近思うに、人生を前向きに生きる人ほど、その対極に死をおきたがる傾向にないだろうか。生と死は対立する二項選択問題になってしまわないだろうか。生と死の間は、病気と健康と同じように境目などない。それを無理に分裂させることで、人は病気に落ち込み、死を恐れる。

ではお前はそうではないのか、という問いは即座に跳ね返ってくることだろう。そう、前言の語りと裏腹に僕も死を恐れる。それは僕も現代の生と死のフレームワークの中に生きているのだから、そのような考え方でしか前に進めないのである。

結局麻雀の勝敗はその彼の一人勝ちだった。彼は飲み続け、語り続け、そして勝ち続けた。群馬から来た友人は二番目で少しは勝てた。僕はと言えば散々だった。前半は好調だったが、後半その酩酊した彼に立て続けに満願を振り込んだ。しかし彼は淡々と、喜びを満面に出すわけでもなく、ただ飲み続け勝ち続けたのだった。

群馬の友人は僕の家に泊まった。翌日彼を見送りに渋谷まで一緒に行った。二人とも昨日の疲れからか無言であったが、一言「昨日はすごかったな」と言った。お互いに何がすごかったのか、それだけで了解しあえたのが面白かった。酩酊した友人の方は、日曜である今日も仕事だと言っていた。

それぞれ次の約束をせずに昨日は別れたが、今度の麻雀は果たして何年後になるのだろう。電車に乗り込む友人を見ながら僕はそんなことを考える。そして彼にできるだけさわやかな笑顔をと意識しながら手を振った。

2007/12/17

佐世保の事件

僕は時事問題を扱うのは苦手だ。例えば今回の痛ましい佐世保の事件に対しても具体的に事件そのものを取り扱うことはしない。それはあたかも激しい雷雨を狭い穴倉でじっと息を潜め過ぎ去るのを待つ小動物に近いかもしれない。無論佐世保の事件は天災ではない。でも事件報道と本件に絡み様々に湧き上がる風評への対応の仕方としては変ることはない。

何か自分の世界を正そうと、違和感を感じる報道および言動に批判を行うのも良い。ただ僕は自分の世界において、いまだに確信を持って他者に語る正義を持たない。これらの出来事は人間の行動の可能性として繰り返し上書きされ続けるのだ。ただ穴倉で雷雨が過ぎ去るのを待とうが、積極的に雷雨の中に飛び込もうが、両者とも雷雨を気にしていることに変わりはない。 僕のこういう消極的な性分を世の中ではなんと言うのだろう?「負け犬根性」とでも言うのだろうか?だったらそれも受け入れるしかない。

誤解をされそうなので当たり前のことを述べるが、この日本で理不尽に横腹を散弾銃で撃ちぬくことは悪であるのは言うまでもない。被害者の方々には哀悼を捧げるし、ご家族と関係者はさぞかし無念なことだと思う。そして容疑者の母親のこと。彼女が消え入れそうな声で、取材の応答に「申し訳ありません」と答えたと新聞に載っていたが、おそらく地元で母親がこれまでと同様に暮らせるとは思えない。でも無念さでは被害者の関係者と変わることはないのでなかろうか。

本事件の初期の報道では一部のメディアが犯行手口から外国人説をとっていた様に思える。犯行手口の内容によって日本人的とか外国人的というのがあるのかと、その報道を聞いて思ったが、すぐに教会で自殺をしている日本人の容疑者がみつかり、外国人説報道は何もなかったかのように消えていった。これらの外国人犯人説をとったメディアは一体どこからそのような説を取り入れたのであろうか。このような銃犯罪を起こす人は日本人であるはずがない、という根拠なき願望がそこにあるように思えて致し方ない。

さらに初期段階での専門家と称するコメントもひどかった。無論それは結果論から見ての話ではあるが、外国人説にせよ初期の情報不足の中での無責任なコメントは、それらを聞くものをあらぬ方向に誘導する。情報不足でコメントできません、という勇気がなぜもてないのだろう。おそらく別面では、医者と患者の関係、つまり患者は医者の望む答えをするように、同様の作用がメディアと専門家の間にも一部あるようにも思える。

なぜ容疑者のような人間に銃所持許可を出したのか、という意見もあると思うが、現行の日本では正義とはある意味正規な手続きを言う。言い過ぎかもしれないが、誰であろうと銃所持者は銃犯罪を起こす可能性はある。それに正規の手続きの中に、銃を所持しても良い人と悪い人の区別をどのような判断でどの様に組み込むのか、僕にはまったく想像さえできない。それらは自動車教習所で初めに行う性格判断テスト以上でも以下でもないのでなかろうか。集中力散漫と判断された人でも安全運転を続ける人は存在すると僕には思える。それであれば銃所持を全面的に禁止する方向となるだろうが、それはそれで難しいのでなかろうか。

ここまで書いて銃所持に問題解決をおいて書いていると誤解しないでほしい。僕にとって今回の問題は、解決が極めて難しい問題のひとつにおいている。
 
今年は銃犯罪が多い年でもあった。病院で一般入院患者がやくざと間違われて射殺された。そしてそれ以上に多かったのは、警官の銃による自殺であった。その多くは二十代の男女だと記憶しているが、事件として騒がれたのはストーカー警官の無理心中だった。銃所持の適正テストを考慮するとしたとき、一般人だけにとどまらず警官に対しても同様に行うべきだと思う。

つらずらと本事件とはあまり関係ないことを話してしまった。表層に見えることのみを勢いで書いてしまったようで少し恥ずかしいが、一応日記として載せておく。

2007/12/15

Goldfish Picture after Jakuchu

今年の夏の話だから、いまさらと言う感じではあるが、僕は東京青山のスパイラルガーデンで開催していた京都造形芸術大学30周年記念の美術展に行った。「混沌から躍り出る星たち」とのタイトルが付いたその展覧会は、京都造形芸術大学の学生たち、そして大学に関係しているアーティストたちの作品が出品されていた。僕がその展覧会に興味を持ったのは、池田孔介氏の作品が、おそらく東京で初めて出展されていたからだった。
(本展覧会に出品した作品「Goldfish Picture after Jakuchu」は池田さんのサイト で見ることができる)

僕は、池田さんが米国に滞在研究しているときに、ネット上に公開していたエッセイ「文化的誤植を注視せよ 」の愛読者だった。「誤植」という概念を、未だそれは僕の中で掴みきれていないが、とても興味を持って読んだ。

池田さんの個人ブログ「Fairytale/Diary 童話日記」 にて、今回と同様のモチーフである作品「Goldfish Picture」の評として、彼は日本美術史を専攻する高松氏の言葉を引用している。
金魚という鑑賞されるためだけの存在をモチーフに選び、これが図と地の境界も曖昧に水面化にひしめく様を正面から捉えることで、池田は視覚表象根幹にあるマトリクスを現前させようとする。自らが魅せられている、視ること/視られること、可視/不可視の淡いにあるマトリクスを。 (イメージの 蠢く深層、マトリクス 高松麻里(日本美術史/ニューヨーク大学)
(「2006-11-03 Kosuke Ikeda Solo Exhibition ”Goldfish Picture” 」から引用)
正直に言えば僕には高松氏の語りは難しい。無論それは僕が絵画を「見る力」がないからに他ならない。絵画において鑑賞者の「見る力」は間違いなく必要だと思う。しかし、「見る力」を持っている鑑賞者のみを対象としているとするのであれば、青山スパイラルガーデンでの展示会は何を意味するのであろうか。アーティストの作品と対峙するとき、「見る」という欲望は知性と共にあり続けなければならない。そしてそのとき鑑賞者の中で欲望と知性が独立して並び立ち分裂することもありえない。それらは分かちがたく、見るという行為により、鑑賞者の世界を構造化することになる。しかし作品は鑑賞者の中に埋没することなく、前記に矛盾するようではあるが、独立したひとつの作品であり続けなければならない、と僕には思える。つまりそれは何も鑑賞者の「見る力」だけに寄るところではない。作品自体にも「見せる力」がなければならないのだ。

池田さんの作品は見せる力を強く持っている。僕はスパイラルガーデンで池田さんの作品「Goldfish Picture after Jakuchu」を時間を忘れ眺め続けた。展示会には他の多くの優れた作品があるにもかかわらず、僕は彼の作品に没頭した。おそらく、高松氏が評した作品と、スパイラルガーデンで展示した作品は違う。それは作品タイトルに付加した「after Jakuchu」に如実に現れている。池田さんは本作品製作前に若冲の作品を鑑賞し、そこで得た刺激を本作品に盛り込んでいるのだろう。そのことは、彼が米国中に連載し考察した「誤植」の概念と密接に関係するようにも僕には思えた。
未だ何の評価も得ていない、ともすれば忘れ去られてしまいかねない重要な作品たちの存在。これはいわば書物における誤植のようなものだ。すでに印刷されて取り消し不可能な点。それはひとたび発見されれば本の最初のページにその正誤表が差し挟まれ、言いようもない存在感を放つことになる。しかしだれにも気づかれないならば誤植はそれとしての存在意義を失ったままだ。 (「文化的誤植を注視せよ」「誤植とは」から引用)
池田さんの作品「Goldfish Picture after Jakuchu」について少し語りたいと思う。その後に「誤植」と本作品の関係について僕の思うところを語ろうと思う。

高松氏が「Goldfish Picture」について語ったように、「Goldfish Picture after Jakuchu」においても「金魚という鑑賞されるためだけの存在をモチーフに選び、これが図と地の境界も曖昧に水面化にひしめく様を正面から捉え」ている。ポリウレタン・透明シリコン・アクリルを素材として、1枚100×50×5(単位はcm)に描かれた金魚は2枚1組として3組並べられている。2枚1組と見えたのは、そこに金魚の色と動きの関連性がみられるからだ。透明シリコンによって造形された金魚は、数種類の姿に作られ、姿とは関連なく様々な配色をされている。金魚は本能のままに動き回る瞬間を切り取られたかのように、鏡面の板に貼り付いている。少し離れてこの作品を見れば、金魚は絵筆の軌跡のようにも見える。

鏡面は作品を飾る場所により金魚の背景を変え、結果的に作品の印象を変える。それ以上に鏡面は鑑賞者の姿を金魚の背後に映す。それゆえ、この作品は単に「水面化にひしめく様を正面から捉える」だけでないことがわかる。鑑賞者は、金魚の造形を使っているゆえに、当然に金魚が動き回る「場」を水中と思い込む。しかしそれであれば、鏡面に貼り付いた金後の映りこみにより、金魚は映す面(水面)に逆さまに泳いでいることになる。逆に金魚が正位置であれば、金魚と鑑賞者の位置関係は逆転していることになる。鑑賞者は水底に位置し、そこから本作品を鑑賞している鑑賞者本人を見つめるということになる。それも見方としては面白いと思うが、おそらくはこの金魚がいるのは水の中ではない。ただ100×50×5の閉じられた空間を動き回っているのだ。

作品はアクリルの板で仕切られている。無論板は透明で境界は曖昧である。ただしそこに境界があることを金魚は知っているかのように、作品の隅に群れをなして集まる。曖昧だが閉じられた空間、本能のまま動き回る金魚、それらは金魚の本能だけを抜き取りその瞬間を切り取ったかのようでもある。そしてその模様の背後に、鏡面に映り込まれる鑑賞者の姿。それはあたかも鑑賞者(この場合、僕のことである)の、空っぽの身体の中を出口を求め動きめく「欲望」のようでもある。

「after Jakuchu」の付加の意味を僕は知らない。今年開催した若冲展にも行かなかった僕は何も若冲について知らない。さらに本作品と「after Jakuchu」付加前の作品の差異も知らない。「after Jakuchu」が示す何かを表象しているであろうことはタイトルから想像できるのみである。それは作品の大きさ・物質的素材・配色等の構成を変えることなく、逆にそれだからこそ、現代芸術から若冲への応答のように響く。

池田さんが「文化的誤植を注視せよ」で使う「誤植」とは、見つけられて初めてその存在意義を持つ取り消し不可能な点を指し、それは1作品に対してのみ語られているわけではない。「誤植」とは誤って植字されたことを指すが、「誤り」とはその社会的文脈によって定まることも多い。つまり取り消し不可能な点には、あらかじめ埋め込まれ探し出されるのを待っている潜在的なものと、社会的文脈の違いにより新たに誤りとして見つけられるもの、の2通りあるように思える。あえて言葉を造るとすれば、「潜在性としての誤植」と「可能性としての誤植」とでも言おうか。その点で言えば、「可能性としての誤植」には評価が定まった作品たちにもあてはまる。「再発見」と称され紹介される作品群はそれにあたるかもしれない。

ここで僕が言いたいことは、「Goldfish Picture after Jakuchu」はある意味、池田さんにとっての若冲の「誤植」の発見ではないかということだ。作品の「誤植」とは、その作品の中に「誤り」もしくは「欠如」を示すものではなく、「誤植」に伴う「正誤表」を作品に挟み込むことが重要なのだと僕には思える。その「正誤表」としての作品。それが本作品の底にあるように思えるのである。

アーティストでもない僕が作品に口を挟むことではないのは理解している。でも池田さんの作品を見たときに感じたことを書き残したかった。万が一、池田さんが本記事を知り、その誤読のひどさに不快感をもたれないことを祈る。

2007/12/13

幸田露伴 「五重塔」

このMEMOの参考資料もしくは引用用として造ったブログ「quotes」に幸田露伴の小説「五重塔」全文を掲載した。この全文は他のサイトから複写したものではなく、全部僕が岩波文庫から入力したものだ。

この小説は何回読んだかわからない。いつか書評を書きたいと思っている小説でもあるが、いまだに僕なりにでも掴みきれていない。ネット上にある多くの書評も読んだ。それはそれで素晴らしいものばかりだったが、何故か僕が書きたいものではなかった。だから僕のこの本に対する思いを込めて書評を書きたいと考えているのだ。

小説「五重塔」への思いはそのタイトルからきている。昔から五重塔を拝観するのが好きだった。低い伽藍の中でひときわ聳える塔は、僕にとってひとつの憧れの象徴でもある。五重塔の特徴はその高さにある。しかし五重塔は高みを目指すものではなく、梅原氏(「塔」)がいみじくも語ったように、その志向は地にある。もともとは釈迦のお墓が起源にあると聞いている。しかしその高さゆえ、例えば雷による火災で消失した例も多いとも聞く。またその高さと威容は、寺の権威も増長させる効果もあったに違いない。しかし、それらを知りながらも、やはり見上げる五重塔に憧れを抱く僕がいるのである。

どの五重塔には、その内部に心柱が存在していて、構造上心柱は五重塔の組込みとは接続はされていない。心柱が五重塔の本質ともいえるものであり、例えば韓国に現存しているものでは、心柱のみの塔もある。「五重塔はなぜ倒れないのか」(新潮選書)では、地震対策としての心柱も強調していた。確かにそれもあるだろう。でもやはりそれは五重塔の実ではないように思える。

幸田露伴の小説「五重塔」は五重塔が中心となった物語では決してない。でも小説の中には五重塔に関する秘密が幾つも挿入されている。無論、僕が書きたいと思っている書評(もしくは感想)も五重塔にまつわる話は登場しない。ブログに掲載できるのはいつになるかわからないが、小説「五重塔」全文を掲載したことをお知らせするついでにメモとして残しておくことにした。

2007/12/12

「天国と地獄ってあると思う?」唐突に彼女が聞いてきた

「天国と地獄ってあると思う?」唐突に彼女が聞いてきた。いつものことだ。彼女はいつもそのことばかり考えている。同じ質問を何回してきたのかわからないほどだ。その時々の気持ちでやはり唐突に湧き上がる思いを自分の中に収めるのが苦手なのだ。
 
「僕はないと思っている」それもいつもの返事。その答えを聞いているようには思えずに彼女は続けて言う。それもやはり毎度のことだ。

「天国と地獄がないと思っているからこそ、いえ、ないと思えば何でも悪いことができるようになるよね」
 
「そんなことないんじゃないかな。たとえば、君は天国と地獄がないとしたら、悪いことなんでもできるの?」
 
しばらく考えているようなそぶりを見せるが、僕には彼女がどう切り替えしてくるのか知っている。
 
「あなたは天国と地獄があることを信じていいない」
 
「うん」
 
「神様っていると思う?」

やはり僕の質問を流したのだ。僕は彼女が天国の有無に関わらず、僕の倫理観からみて彼女が悪いことをするとはまったく信ずることができない。無論、あくまで僕の倫理観によればの話ではあるが。
 
「わからない・・・でも僕の中では神様を信じている気持ちがあるかもしれない」
 
「私・・・きっと地獄に落ちるわ」
  彼女は自分が地獄に落ちるとどういうわけか信じている。すかさず僕が答える。

「断言するけど、君は120%地獄にいくことはないね。僕自身のことはわからないけど。」 先ほど天国と地獄を信じていないと言ったにも関わらず僕は答える。
 
「なぜそんなことが断言できるの?」
 
「じゃあ君は何で自分は地獄に行くと信じているんだ?」
 
「私は怖い。地獄に行くのが怖いの」
彼女のその言葉でお互いが黙る。いつものことなのだ。月のうち少なくとも一回はこういうやり取りをする。

僕の父方の実家は神主をやっていた。母方のほうは浄土真宗だ。母方の影響なのか、子供の時分に祖母から天国地獄絵図を見せられたことがある。悪いことをすれば死んだ後こういう場所に行くんだよ、と言いながら見せてくれたその絵のおかげで僕は長い間一種のトラウマとも言える感覚を引きずった。今でもその絵のことを覚えている。閻魔大王を含め十大王がいる十の世界は、実に生々しく人間の苦痛がでていた、別の見方をすれば地獄は拷問の百貨店のようでもあった。それに比べ天国の絵は退屈そのもので何もない世界のように感じられたものだ。幼い僕はどちらの世界に行くの嫌だった。

僕は宗教には疎いが、浄土真宗ではお題目を唱えることで阿弥陀様が極楽浄土に連れて行ってくれるそうだ。昔の人は天国を気にし、今を生きる彼女は地獄を意識する。どちらがどうと言うわけではないが、その違いに彼女は気が付いているのであろうか。これもまた考えれば、神道には天国とか地獄の考えは存在しないように思うがどうなのだろう。黄泉の国があり、そこは死者の国である。そしてその国でもやはり生者の国と同様に自然の法則が作用している。イザナミノミコトが蛆に覆われていた姿をイザナギノミコトは見てしまう。イザナミノミコトは黄泉の国の食べ物を既に食べてしまったのだ。夫に醜い姿を見られてしまったことで、イザナミノミコトは怒り彼を追いかけることになる。正確には知らないが、神道では死ねば誰もが蛆に覆われることで、死者の格差はないように思える。

そして僕は思う。仮に彼女の言うとおりに天国と地獄があるとしよう。誰も見たものはいないのだ、僕らの宇宙とは別次元の世界があったとして、死後その世界に転移しないとも限らない。でもその別次元の世界、天国と地獄どちらに行くのかは、それこそ神のみぞ知るである。でも別次元の世界にせよ、天国と地獄の存在の根本には霊魂不滅の概念がある様に思う。この世界に僕が属している限り、人間に感知可能不能に関わらず、霊魂があるとしたとき何らかの物質で構成されているように思う。そして物質である限り、それは同じ構造で永遠に維持し続けることは難しいと思うのだ。

こうは考えられないだろうか。仮に神がいるとしよう。でもそのことと天国と地獄があるのは別の話だと。さらにいえば人は天国に行くために、地獄に行くべき行為をすることもあるのだ。そうはいっても、神仏が定める規範に人間はやはり知るよしもない。つまりは人間は天国と地獄のことを意識して生活するべきではないのだ。それであれば、人間にとって天国と地獄はないに等しいのではないのだろうか。モーゼの十戒も、その当時の規範に照らし合わせれば、現代の人間はほとんどがその戒律を犯しているではないか。

以上の簡単な僕の天国と地獄への考えを彼女に何度か話したこともある。約30分以上もかけた、こういう話が苦手な僕のプレゼンであった。その時、彼女は感心するほど熱心に話を聞いてくれた。そして聞き終わった後に僕に尋ねたのだ。
「それであなたは天国と地獄を信じてないの?」

2007/12/11

映画「記憶の棘」の不思議さ

ニコール・キッドマン主演の映画「記憶の棘 」(2004年公開)を観た。観終わったときに不思議な雰囲気を持った映画だなとまず思った。でもその「不思議さが」どの様なものか、映画のどの部分に感じたのかがよくわからなかった。レンタルDVDだったので気になる箇所を何度か繰り返し観たが皆目見当が付かない。何かブログにでも書いてみれば少しはわかるかもしれない、などと思い軽い気持ちでメモをすることにした。(映画のあらすじはYahoo映画 に詳しく載っている)

主演のニコール・キッドマンは確かに上手い役者だと思うし、この映画でも役所を的確に押さえてもいる。しかし最初に画面に登場した際、僕には彼女がキッドマンだと認識することが出来なかった。短髪で、服装は品があると言えばそれまでだが、今までになく地味で、全体から見ると彼女の存在感は薄い。逆にキッドマン扮するアナの回りを固める出演陣が個性的で、だからこそ演出の意図を感じるのではあるが、存在感の薄さはさらに対照的で際立ってくる。(ちなみにアナの母親役はあのローレン・バコールだ。)

冒頭の雪の中ジョギングする男性の背中を追いかけるカメラワーク。このまま男性が走る姿の映像を流し続けるのではないかという予想を持つほど、それはそれで飽きずに見てしまう僕がいるのだが、このシーンは長く続く。一つ目のトンネルを越え、またしばらく走り、二つ目のトンネルの入り口付近で胸を押さえ倒れ込む男性。その瞬間に、産湯の中から顔を出す赤ん坊。これらの流れは初め何を意味しているのかがまったくわからなかった。

物語はそれら冒頭のシーンの10年後から始まる。そして徐々に冒頭シーンの意味が伝わってくる。アナの婚約パーティに突然に現れる10歳の男の子、彼は自分はアナの亡くなった夫ショーンだと言う。そしてアナとショーンの二人しか知り得ないことを彼は語り出す。その記憶の確かさに徐々に翻弄されゆくアナと男の子(彼の名前もショーンという)の両親たち。

映画の設定上では、男の子とアナの亡き夫との間には二つの共通項がある。一つ目は同じ名前(固有名詞)を持つということ、二つ目はアナの夫であるショーンが亡くなった日と男の子が誕生した日が同じであるということ。それらは冒頭のシーンの繋がり、トンネルの中で亡くなると同時に産道から誕生する、という連続した流れと共に、映画鑑賞者に「輪廻転生」を意識させる。ただこの映画は神秘的な側面を強調しているわけでもなく、男の子がアナの亡夫の個人的な記憶を何故知り得ているのか、映画後半で理由も提示している。

ただ僕にとっては男の子ショーンがアナの個人的なことを知りえた理由は何でも構わない。それが如何に観客が納得できそうな理由であるにせよ、この映画の出発点はその謎解きにあるのではないからだ。例えば、多くのラブロマンス物は、それが悲劇的な結末で終わる場合、愛する一方が亡くなり一旦は絶望の中に陥るが、やがては亡き相手の愛を感じることにより再び生きる力を抱く、という構造を持っているように思う。特にそれはハリウッド映画の、強いて言うとすればキリスト教国が製作する映画に多いように思える。おそらくはキリストの復活をモチーフにしているのかもしれない。では実際に愛する者が復活したらどうだろう、それもまったく違う姿で、長い時間の後で。愛の不滅性はこの場合でも表現できるのだろうか。この映画の出発点はこの問いだと僕は思う。

そうなると幾つかの問題が出てくる。まずは亡き夫がアナに向けられた愛は、亡き夫でしか適うことができないのかと言う問い。亡き夫の生まれ変わりであることをどの様にして証明するかということ。そもそもアナ自身が亡き夫に向けていた愛が変質していないことをどの様にして保障できるのだろう。また男の子が「アナ愛している」といったとき、男の子のアナに向けられた愛が以前の亡き夫の愛と同じことをどのようにして確認できるのだろう。僕は意図的に「保障」とか「確認」と言う言葉を使っている。特定の男女の愛が特殊であるならば、一般論としての愛の言説はそこには意味を成さない。しかし、愛の特殊性を論じるのであれば、時間を経て姿かたちを変えた相手に対しても以前と同じように向けることができるのだろうか。

映画では男の子が亡夫ショーンであることの証明として「記憶」に重きを置いている。仮に男の子が亡き夫であるならば、そして男の子が亡き夫であることを意識し、アナを愛しているとするのであれば、そのほかの記憶も持っているだろうということだろう。それでは同じ人である証明とは、記憶という過去の特定の出来事を共有することなのだろうか。ショーンがショーンであるのは、さまざまな個人的記憶が質問者と同期が取れている確認によってなされるのであろうか。ショーンとは共有する記憶の集積の中から立ち上がっていたともいえる。しかし人間のアイデンティティが過去の出来事とその記憶の総和であるとは僕には思えない。さらに記憶の集積から立ち上がる個人の現在性はどこにいってしまうのだろうか。

それぞれの問いの中で主人公であるアナは混乱する。混乱の中で彼女も彼女自身が持っている記憶、それは彼女自身が保ち続けた彼女自身の記憶の中から男の子を亡き夫の生まれ変りであると認めていくのである。このアナの心情の変化の過程は、当初存在感が薄かったアナが徐々に周囲の反対の中で逆に存在感を強めていく。そして男の子と共に暮らすことを決意したときに破綻が訪れる。結果的にアナの亡き夫はアナとの結婚生活期間中別の愛人がいたのである。アナへの愛が純粋であることを男の子のショーンはその根本存在(自分が元アナの夫であること)においていた。その結果、アナを裏切り続けていた亡き夫はショーンではないことになる。でもアナへの愛情は純粋でなければならない。アナに向けられた不滅の愛の存在が、男の子に矛盾を持たせ、男の子はアナの元を去る。そしてアナは混乱の中にとどまることになる。

結果的にこの映画の不思議さは、愛の不滅性が現実の中で、きわめて個人的な記憶の中で立ち上がるしかなく、しかもそれゆえに愛の不滅の不可能性を前面に出すことになる、その点にある。愛が人間の外部にあるとすれば、時間を経て姿かたちが変ろうとも、その愛を確認することができる。愛に証明とか確認は必要なく、ただ感じるのみとするのもよい、でもその感じる根拠が記憶の中に見出だすしかないのであれば、果たしてそれは愛していると言えるのであろうか。愛は人間の時間の中に存在するしか我々は感じることができないのではないだろうか。さらに記憶とは歴史家が検証し羅列する項目の列挙でもない。個人間の感情の同調がそこには必要だと思う。しかし双方がそれを認め合うには時間が重要な要素となる。
どうも映画の感想としては陳腐なものにしかなっていない。それはやはりこの映画の不思議さを僕なりにでも整理できていない証左だと思う。愛の問題は僕には荷が重たすぎる。もう少し整理してから再度この映画について書くかもしれない。

2007/12/10

「GUNSLINGER GIRL」という誘惑

「GUNSLINGER GIRL」(作者:相田 裕 メディアワークス月刊誌「電撃大王」連載中 単行本は現在9巻目まで発売)を単行本で読んだ。一気に読んだが、一気に読ませるものが何であるのかが気になった。これといった納得するだけの回答を持っているわけではないが、現時点での感想をメモとして残す。
舞台は現代(もしくは近未来)のヨーロッパ。イタリアの公益法人「社会福祉公社」は、政府の汚い仕事を代わりに行っている。その中でも作戦2課では現在表向きは障害を抱えた子供達を引き取って福祉事業に従事させることで社会参加の機会を与える、という身障者支援事業を推進する組織ということになっているが、実際は集めた子供達を「義体」と呼ばれる強力な身体能力を持つ肉体に改造し、薬物による洗脳を施した上で、政府の非合法活動に従事させている。
(Wikipedia 「GUNSLINGER GIRL 」から引用)
「GUNSLINGER GIRL」は闘う美少女という萌系にも関わらず、そこにとどまってもいない。それゆえに印象的な漫画になりえているとおもうのであるが、だからといって萌から逸脱した要素が何であるかは別に気にする必要もない。萌要素といっても、それらは日々萌市場の中で書き換えられ、もしくは拡張されているから、現時点での逸脱要素は明日には適正となりえるからだ。「GUNSLINGER GIRL」の逸脱要素が何であれ、この漫画が市場に受け入れられ、他の漫画もしくは別メディアに二次創作として展開されている現状を思えば、おそらくそれらは許容範囲内にあるのは間違いない。

「GUNSLINGER GIRL」は映画「ロボコップ」の少女版でもある。しかし「ロボコップ」と同様の問題を提示しているわけではない。ロボコップは人間性とは何かという問いかけがあり、その問いかけに「記憶」が、特に社会とのとしての家族の「記憶」が、重要な要素として映画では前面に出ていた。無論「GUNSLINGER GIRL」にも同様の設定は含まれているが、それは無視できるほど極めて薄い。設定では「条件付け」という薬と催眠術による強い洗脳が彼女たちにさまざまな疑問を持たせないように見受けられるが、いわば彼女たちは、漫画の中である担当官が語ったように「亡霊」に近い。

彼女たちにとって重要なことは、彼女たちひとりひとりに付く専属担当官の対応とその評価である。彼女たちは自分が「義体」であり、特殊な身体を持っていることを承知している。そしてその身体が専属担当官の要望を満足する為にあること、その要望を満足するには強力な戦闘能力にあることを意識し、戦闘能力が損なわれることを恐れる。しかし戦闘の度に彼女たちは傷つき、体を補修する毎に彼女たちの寿命は短くなる。いわば価値の保持は存在自体の危うさの増加に繋がる。

まず彼女たちは男性である担当官に選ばれるところから始まる。そこで彼女たちは担当官の意見を元に改造される。彼女たちは薬物を利用しての強い洗脳を受け、専属担当官にまるでメイドの様につくす。いうなれば「GUNSLINGER GIRL」の世界観の中心にあるのは「市場主義的な資本主義」そのものである。「義体」とは何か。それは価値が失われるまで消費され続ける一個の商品そのものといえる。開発当初の「義体」の寿命が5年くらいの設定は、ひとつの商品の寿命として考えられないこともない。そして消費しつくされるまで。彼女たちの身体が手足眼を含め多くの部分が交換可能なように、一個の機械として維持し管理されるのである。

では何の商品なのだろう。それは彼女の役割が象徴的に示している。それは国家内に向けられた「安全保障(セキュリティ)」と「社会保障(生命)」である。彼女は国家内のセキュリティシステムの一環として存在している。サイボーグ技術と洗脳と言う、おそらくは今後一般的に使われるであろう医療技術を設定の根本におきながら、「GUNSLINGER GIRL」は現在の社会システムにきわめて親和性が高いように思える。セキュリティの為に幾重にも張り巡らされる自由への干渉、それを「GUNSLINGER GIRL」における彼女たちが先端的に表彰しているように思えるからだ。

彼女たちの強い関心は自分たちの担当官に大して向けられる。親子ほどの年齢差がある担当官は何故か全員男性でもある。父親に対する愛憎が彼女たちの欲望のすべてでもある。それはエディプスコンプレックスの裏返しともいえないことはない。ただし担当官は、彼女たちの自分たちへの思いを知ってはいるが、それが「条件付け」の結果であることも認識している。唯一、「義体」セカンドタイプの少女が、自らの感情が「条件付け」から来ていないことを意識し、担当官に愛を告げる。その顛末は現段階では明らかにされてはいないが、上記の流れから考えれば、その愛は悲劇的な結末を迎えるに違いない。

僕はここまで表層的な物語のあらすじを書いている。実を言えばそれ以上の感想は持ってはいない。漫画は漫画であり、それ以上もそれ以下ではない。たたこの漫画の面白さがどこにあるのか、なぜこの漫画に共感を感じるのか、それが僕が男性として持っている欲望からきているのか、この少女たちの姿に現代における自分を重ねてみているのか、どちらかわからない。ただしばらくは注視したい漫画であることには変りはない。

2007/12/08

ダイアン・アーバス さまざまな神話

裕福な家にひとりの女の子が産まれた。両親は厳格だったが忙しく、彼女の養育に関わる時間が持てなかった。だから彼女は使用人によって育てられた。ある時期まで彼女にとって世界は完全であった。欲しいと思うものは特になかったし、何かが足りないと感じることもなかった。

彼女は大人になり写真家になった。そして同じく写真家の男性と結婚し、二人の子どもを授かった。そこでも彼女の世界は完全であり続けた。完全な世界、それは逆に言えば壁に閉じられた世界でもあった。壁の中で、何かに守られながら彼女はその世界を全てであると感じていたし、何から守られているのか、という問いが脳裏に浮かぶこともなかった。異質なものへの興味は元々持っていた。しかし異質なものは壁の外にあり、それらが存在することは感じていたが、見ることも聞くこともなかった。

夫妻の仕事はファッション業界の写真撮影だった。ファッション写真、それは演出と構図を重要視する。それはイメージの強調であり、人が共有する美に基づいての作画でもある。ここで学んだことは、彼女の写真の礎となったのは間違いない。ある意味、造られた美は、裏面に元々備わっている美が刻印されている。造られた美を追求することは、そうではない美を追求することに繋がると思えるのだ。何故なら、造られた美には写真に本来写し出される決定的な何かの厚みが薄くファッション写真を撮るごとに、写真家はその足りなさを意識することになるように思えるのである。

彼女がその世界から離れ、異質なものに向かうきっかけとはいったい何だったのだろう。様々な要因のなかで、ひとつあげるとすれば、それは写真家として彼女の独立があげられる。彼女の写真の先生は言った。「今までカメラを向けたことがないものを撮りなさい」
カメラを向けたことがないもの、しかしそれは有意識に在ったものでもある。意識にないものはカメラを向けることさえ適わない。壁の外には何が在るのか、尽きせぬ興味、行ったこともなく見たことがないものは彼女には沢山あったのだ。そしてそこにこそ決定的に足りない何かがある可能性があった。

だからといって、彼女が写真家として独立しても、幼い頃に構築した世界(フレーム)から抜け出たというわけではない。彼女を守る壁、それは多少小さくなり「盾」と呼ばれるようになったが、いまでは首にぶらさげたカメラであった。彼女は街で見かける興味深い人たちを多く撮った。小人と巨人、双子と三つ子、サーカス小屋の芸人、諍う夫婦、泣き続ける赤ん坊、女装癖のある男性、多くのヌーディストたち、おもちゃの手榴弾を手にし興奮気味の子ども・・・・・・

彼女が撮った者たち、確かに彼らは今までに彼女がカメラを向けたことがない者たちであった。でも決して撮られない人たちもそこにはいた。例えば経済的に貧しい者たちとその生活、人種的マイノリティの人たち。その視点で見ると、彼女の多くは白人たちであったのは事実だ。ただ多くの写真で共通することは、彼女がカメラを向けた人たちの多くは産まれたときから苦悩を、それが彼女の世界からの視線であったのは事実だと思うが、背負わされていたということ。

彼女は言った。「彼らは産まれながらの貴族なのです」と。彼女は興味を持つ人たちを写真に撮るときは時間をかけた。彼らの世界に入りこみ、彼らの秘密を聞いた。親密な関係を結び、その上で彼女が望む写真を撮った。彼女の手法は正方形とストロボだった。それにより被写体の陰影をより強調させるのである。それらは恐らくスタジオ撮影からの技法を取り込んだのだろう。ファッション誌におけるモデル撮影と本質的には変化がないと言えば言い過ぎかも知れない。ただ、彼女の「貴族」という言葉から、彼らといかに親密な関係を築いたとしても、所詮は彼女にとって彼らは外部の人であるという事実を拭うことはできない。

彼女は彼女のフレームで重ねた世界をコレクションし続けた。彼女の一連の撮影までの行為は写真家と言うよりも、コレクターと言ったほうが近い。彼女が写し、公開と言う場のために選択した写真群はいわば彼女の世界の確認であるように僕には思える。いわば、自然に備わった美を写すことは一つの矛盾でもある。だからこそ被写体に対し「貴族」と言うフレームワークを与えるしかない。そしてその中で写す行為を自分に対し納得させるのである。それでは彼女は何をコレクションしていたのだろう。それは写真に写る何かである。そしてその何かは彼女にとっては、彼らが生まれながらの境遇を代償にして手に入れていたようにみれたのだ。彼女はそれを発見したのである。「貴族」とはフレームではあるが、別の言い方もできる、それは単なる写真に命を吹き込むもの、「写真性」である。

たとえばこんな逸話が残されている。あるとき彼女は巨人症の男性を彼の家で彼の両親と一緒に写真をとった。彼とその両親の三人が写った写真を彼女は友人に見せ次の様に語る。
あるとき、ダイアンは興奮した声で『ニューヨーカー』のジョン・ミッチェルに電話をかけた。「どの母親も、妊娠しているとき悪夢に悩まされることをご存じ? 生まれてくる赤ちゃんが怪物だったらどうしようという? わたし、エディを見上げているお母さんの顔を見てはっと思ったの。彼女はこう思っていたのよ。『ああ神様、あんまりです!』って」
(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)
彼女が写したかったものは巨人の男性とその比較としての彼の両親の組み合わせではない。彼女が写したかったものは、写真に残され、彼女が後付で気がついたものだ。それは巨人の男性の母親の表情だった。さらに厳密に言えば、母親の表情も明確には彼女の言うようなももではない。でも明らかにそこには母親の残酷なまでの思いが不可視なフィルターとなってその写真にかぶさり、鑑賞する者の気持ちを揺さぶるのだと思う。そういう写真はダイアンが彼らの日常に入り込むことによってでしか得ることができないものであった。そしてその不可視のフィルターの有無が写真にとって不可欠だったのである。

彼女の写真で僕が一番に印象深いのは総合失調症の人びとを撮った一連の写真である。強烈な印象は、彼女の思惑を越えて存在していた。彼らを撮ることで彼女は自分の撮影を見失う。彼女は常々「撮影とは誘惑です」と話していた。その「誘惑」が彼らには通じなかったのだ。彼女にとって彼らは真の意味で異質な者たちだった。秘密の共有も、そこから来る親密な関係も、彼女が望むポーズも、けっして彼らは彼女に与えなかった。ここではカメラは「盾」には成り得なかった。彼女が自殺をした時、これらの写真は焼き付けられることなく、従ってタイトルをつけられないまま残った。

ファインダーから被写体を眺めるとき、カメラアイが身体の一部に拡張されることはない、それは逆に身体がカメラと言う機械の一部に取り込まれる感覚に近い。そのとき自分はもはや人間ではない。写真を撮る一個の機械となり、身体はファインダーとカメラアイとの間に置かれるのである。そしてその場所は彼女にとって安全な場所だった。しかし、その安全な場にいてはカメラを制御することはできない、と彼女は感じ始めていたのかもしれない。一般論でいえば、「写真性」の制御は撮影者にも被写体にも可能ではない。「写真」は撮影者にも被写体にも属してはいないのである。彼女は頻繁にカメラを使いこなせない難しいと友人に語り始めていた、まさにそのとき彼女は制御不能な「写真」を制御しようという、解決不能な問題を抱えたように僕には思えてくる。

それ以外にも、彼女は生前多くを語った。しかし、それらを時系列的に並べみても彼女の精神活動を顕わにすることはできないと思う。ひとつの言葉は、新たな言葉によって打ち消される。残された一群の写真は彼女がかつてそこにいたことを証明づけるが、果たして彼女を現しているのだろうか。写真群は印象が強ければ強いほど、彼女を実体とは違うあらぬ方向に流そうとしているかのようである。そしてそこから神話が産まれる。神話は自己生産的にあらゆるヴァージョンが誕生する。多くの者は神話を利用し自分の欲望を満足させる。どれもが正しく、そしてどれもが正しくはない。

スーザン・ソンタグは著書「写真論」の中の「写真で見る暗いアメリカ」のなかで彼女の事を多く割いて書いている。しかしソンタグの描き方はホイットマンの流れをくむアメリカ文化史の中に彼女を組み込んでいる。ソンタグにとって彼女の文脈はアメリカの中に位置している。藤田省三は一般論の積み重ねで彼女を描く。藤田の描く彼女は人間の各層の境界線を打ち砕くものとして描かれる。日本で刊行した彼女の作品集には拙くも無個性でそれゆえ愛の福音書のような語り口の彼女が登場する。パトリシア・ボズワースの彼女の伝記はまるで聖書(ボズワース伝)のようでもある。
彼女の自殺の事実が、彼女の作品は誠実なものであって覗き趣味ではなく、 またいたわりのものであって冷たいものではないことを証明するかのように見える
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 P46 近藤耕人訳)
写真が覗き趣味であるか、そのような疑問をいまさら呈する者などどこにもいない。覗き趣味といえばその通りだが、これ程までのデジタルカメラ普及を考えれば、時代はその言葉を陳腐化させている。街角では監視カメラが僕らの日常を撮し続け、携帯に装備された小型カメラで人々はところ構わずシャッターをきる。それは写真を撮るという行為では既になくなっている。自動機械としての撮影機、街角の監視カメラとなんら変わりない行為に写真を撮る行為は変化している様に思える。それはダイアンなどの写真家といわゆるアマチュアの間に引かれた一線ではない。むしろそれらの一線があいまいになっていく過程が写真を撮るという行為の変化過程でもあるように僕には思えるのだ。

たとえば、月探査衛星「かぐや」が写した月から観た地球の出と入りは美しく感動を覚えた。「かぐや」の写した映像は、「かぐや」に装備された機械と制御するプログラムによって写されたものである。それと人間が写した写真との違いは何もない。写真が写真足らしめるには、誰が写すというのは関係ないのである。むしろ写真を撮る行為はある意味人間でいることをやめさせる。写真は人間の経験の拡張でもある。既に僕らは、馬の走る姿もミルクの一滴に生じる王冠も経験している。ダイアン・アーバスの写真は相対性を「違和感」を露にすることで我々に新たな視点を(多くの人にとっては不快感と共に)もたらした。でも時代はその概念を既に受け入れ、流れの中で「貴族」たちは消えていった。

彼女の写真は、彼女個人の問題から発しているのだろうか。多くの識者たちはそのように彼女のことを語る。彼女の写真とは彼女自身でもあるかのように。でも それは少し間違っている。彼女が撮った写真に彼女はいない。彼女とは「彼女の見て構造化した世界」であるが、それらは決して写真に内在してはいない。被写体を選んだのは間違いなく彼女ではある。でもそれと写真が写真として成り立たせることは関係性がないと思うのである。彼女が撮った写真は、彼女に関係ない場所で写真として存在している。

ダイアン・アーバスの伝記を元に作られた映画が今年公開した。惜しくも僕は見る機会を逸してしまった。逸したのは僕の臆病さから来る躊躇なのは知っている。商業的に造りだされるアーバスに画面を通してとはいえ対峙することが僕は怖かった。ただ映画も新たな彼女の神話になることに変わりはない。映画は個人と写真との乖離をなおさら難しくすることだろう。でもそれは写真本来の問題というより、著作権の問題からと言うほうが正しいように思えるのである。

2007/12/07

テレビドラマ「点と線」(ビートたけし出演)をみてだらだらと思うこと

1958年(昭和33年)公開の映画「張込み」について、 監督である野村芳太郎は次のように語る。
「この映画はリアリティが大事です。観客が少しでも嘘っぽく感じられないようにリアリティを求めました」

映画冒頭で、刑事たちが張込み現場に着くまで、列車内の場面が延々と続くのはそうした監督の配慮からきているのだと思う。映画におけるリアリティの追求とはひとつのパラドックスに近いかもしれない。 人工的な所作により作られる「現実」は、当然にそこに製作者の考えが盛り込まれている。つまりは、その時点で「現実」 は外部ではなく内部性からという矛盾を抱えてしまう。

ただし映画「張込み」の場合、原作とほぼ同時代の映画なので、 監督自身は物語の時代設定を意識することはない。野村芳太郎監督が意識するリアリティは、 刑事と言う仕事と生活がべったりと貼り付いた人間の生態にこそあったと思う。

これが2007年公開映画「続 三丁目の夕日」となると、 リアリティはCGで描かれた風景のみとなる。「続 三丁目の夕日」はまるでテーマパークの様に安全で清潔で明るい。 そこには昭和30年代の公害と大気汚染に見舞われた東京の姿はどこにもない。首都高で覆われていない日本橋、完成直後の羽田空港、 そのほか日常を取り巻く数多くの小物が登場し、そこに役者を立たせたとしても昭和30年代初めにはたどり着くことはできない。おそらく、もう我々には昭和30年代さえ描くことは難しい状況になっているのかもしれない。ふと、そんなことを思う。

2007年11月24日・25日の二夜連続で放送したビートたけし主演の「点と線」 を観た。このテレビ版「点と線」では、原作もしくは過去に映画化(昭和33年)されたものと比べ、(1) 現在から過去の出来事を振り返ること、(2)ビートたけし扮する老刑事鳥飼重太郎が事件に対し極めて強い執念を持つこと、(3) 鳥飼と刑事三原紀一が本事件から二度と会わないこと、の3点が際立って違うように思える。無論、ドラマの中で戦争の経験を引きずることが、 鳥飼の事件に対する執着、および犯人である安田辰郎が犯罪行為に至らせたという伏線も違うといえばそうなのではあるが、 ただ戦争の逸話は本ドラマでは、俳優たちの熱意ある演技と裏腹でそれほど重要ではないように思えるのである。

僕にとって本ドラマで重要なせりふ、と言うより印象に残っているせりふは、 鳥飼重太郎の最後に述べる一言、「何故か無性に腹が立つ」である。それらは、鳥飼の人生のなかで常に持ち続けてきた心情であり、 それが本事件でも現れたように思えるのである。仮に、犯人夫婦が自害せずに検挙されていたとしても、鳥飼のこの「何故か無性に腹が立つ」 感情は拭うことができないように僕には思える。

鳥飼はなぜ無性に腹が立つのか、何に対して腹が立つのか、 それらはドラマでは明らかにされることはない。彼の心情の起源が戦争にある様にドラマでは描かれているが、 僕にはそのように見ることはできなかった。腹が立つ対象が社会システム、 もしくは自己願望達成への無力感にあるという安直な考えに僕は即同意はできない。鳥飼重太郎の 「腹が立つ」 感情はそういう部類から起こっているように思えないのである。

たとえば、このドラマが放映されていた最中、新聞では守屋前事務次官による防衛省収賄容疑報道が一面の見出しを踊っている。それらはドラマと同じ状況を彷彿させるが、僕自身が受けるものは無関心と脱力感でしかない。鳥飼の「腹が立つ」感情は終わった結果に対して向けられてはいない。

鳥飼の人生の流れの中で現れ培われていったその感情は、やはり流れの中にこそあるのである。つまりは社会システムの一断面、自己願望未達という、流れを切り取ったところに見出されるようなものではないように僕には思える。さらにいえば、流れを切り取ったとき、それは既に同じものではなくなってしまっている。問題は常に未解決のまま残され、「腹が立つ」気持ちから受け入れられる。「腹が立つ」と言い、その出口を三原に向けた鳥飼は、その誤りを知り帰京する三原を探し夜の街を走り回る。でも結局三原とは会えず、それが最後の出会いとなるのである。

話は変わるが、上記にあげたドラマ設定上の三つの変更点は、 ひとつのシーンに収斂する。それは鳥飼重太郎の死に様である。

確かにアリバイ設定上、昭和30年代の時代背景は無視できない。 現代においては同様のアリバイ工作はできようもないからだ。でもだとしても、それが現代から振り返る筋書きとする理由にはならない。 僕にとって、このドラマは鳥飼の死を描きたかったのでないかと思えて致し方ないのである。「何故か無性に腹が立つ」鳥飼の死を、珍しく雪が降った寒い朝に庭で一人うつぶせになり死んでいった姿として描くこと、それがこのドラマで一番描きたかったことではないだろうか。それは「何故か無性に腹が立つ」人の死に様としてふさわしい。

このドラマでは5人の死が描かれている。情死偽装された男女の死、 ある意味情死ともいえる犯人夫妻の死、そして鳥飼の死である。それぞれの死は、「点と線」に絡まる事件の中で一つの過程として現れる。 情死偽装された男女の死は鳥飼にとっては発端ではなく、流れる問題の新たな発見である。犯人夫妻の死は問題の解決ではなく、 新たな問題を鳥飼に怒りを持って強引に認識させる結果となる。

そしてその問題は解決されることはない。鳥飼の死に様が、 一種殺人現場に近いように描かれているのは必然なのかもしれない。逆説的に言えば、解決不能な問題を認識しないものこそが、 新しい出来事を受け入れることも見つけることもなく、それだからこそある意味安らかに死んでいくことができる、 そういう風に鳥飼の死に様は語っているかのように僕には思えたのだ。

映画を含め最近昭和30年代が多く描かれている。現在から昭和30年代を眺めると 「戦後はもう終わった」と言われた同時代の宣言が滑稽のように思えてくる。

映画「続 三丁目の夕日」もテレビドラマ「点と線」も、時代設定を昭和30年におきながら現代のリアリティをもって描かれている。それは時代劇となんら変わることはない。昭和30年代に我々が失ってしまった何かがあるかどうかは僕にはわからない。でもそれを描くために、たとえば「続 三丁目の夕日」の中で使われたせりふ「お金より大事なもの」というステレオタイプのイメージを出すために、途方もない制作費と、消費活動を利用した宣伝効果を利用しているのも事実なのである。

2007/11/21

松本清張の「張込み」を読む

松本清張の「張込み」は次のような物語を持っている。 これらは1957年の映画であろうと、2002年のテレビドラマであろうと変わることがない。

(1)刑事が殺人犯を探索するため、 過去に容疑者と関係があった女の家を張り込む
(2)女は既に歳が離れた吝嗇な男の後妻となり、彼の継子を育てている
(3)女は生気が感じられず、判を押したような日常を送っている
(4)容疑者が女の元にやってくるが刑事はそれを最初見逃す
(5)容疑者と一緒にいる女は生気があふれ活き活きとしている
(6)刑事は男を捕まえ、女に家に戻るように言う
(7)女は家に戻り、以前と同じような生活を送る

「張込む」刑事は女の私生活の一部を覗き続ける、そして女は最後に「家に戻るよう」 に刑事から伝えられるまでそのことを気づかない。「張込み」とは一種の監視装置でもある。 監視される側は監視されていることに気がつかない、

それは事象発覚した後に別の姿で起動し、監視される側に突然に立ち現れる。「張込み」 の設定が、通常は複数人体制で行われることが、油木という男性刑事一人での「張込み」は必然と考えられる。それは一種の「私小説」 の姿を呈している。小説「張込み」の読者は、自らが油木という刑事と同一化し、女を監視するのである。

監視される側は監視を意識していない以上、その姿を露にする。この場合、 女は生気のない顔で日常を過ごし、容疑者の男が現れ精彩を放つ。その変貌の落差は刑事の目、つまりは読者の目からは、 女の謎の一部を垣間見たと感じられたことだろう。この落差を描くことが小説「張込み」の主眼でもあると思うのだ。

松本清張「張込み」の構造を支える柱として「欲望」 を挙げることができるのは間違いない。「欲望」はそれを限定する場である「家」を離れて立ち上がる。しかし社会構造は、その「家」 のネットワークで成り立ってもいる。つまり「欲望」を限定する「場」としての「家」があるから、 社会秩序が保たれているともいえるのかもしれない。その社会秩序は男性社会が構築してもいる、よって刑事は女が生気のない人生を生きることを承知で家に戻ることを勧めるのである。

「欲望」の追求は叶えられることはない。女の「欲望」は男の逮捕で幕が下りる。 それは一種の「欲望」への否定の姿でもある。そして「欲望」が暴走しないために監視装置が設けられる。

1957年製作の映画「張込み」 では、 タイトル画面の時、刑事が張込む「眼」を正面で捉えた画像が映し出される。それはあたかも観客を監視する「眼」でもあるかのようだ。 ゆえに映画では、女の欲望が結果的に成就されないことで、その行為が許されないことを観客に意識させる。

逆に2002年のテレビドラマは、たけしの存在自体が逆説的に「欲望」 の発露の存在として描かれる。彼は女の家に投函された封書を勝手に開封し中を確認する。また彼の家が崩壊寸前にもかかわらず、 省みることもなく仕事へと出かける。さらに彼の妻は不倫をしている可能性もある。そのたけしが演じる刑事が、監視する女に対し、 やはり最後は家に戻るように伝えるが、既に 「家」には「欲望」を限定する「場」にはなりえていない。それは彼の家庭の姿が証明している。 だからこそより大きな代償、たけし演じる刑事の死が必要となるのである。そしてその結果、やはり「欲望」は拒否される。それは女の「欲望」
と共に刑事の家庭に対しても同様となる。

人の「死」を持っても抑えるべき人の「欲望」の発露、果たして人の「欲望」 とはかようなものなのだろうか。逆に「欲望」の限定を求めることが、 現代における人の生のゆがみとなって現れるという可能性も否定できないのではないだろうか。


確かに消極的な自由が一般的な状況の中で、 無限定な「欲望」の存在は悪とされる。ただ瑣末な個人の「欲望」は、より大きな力を持つ「欲望」とその発露の際の暴力の前で利用され無化されている現実もあるように思えるのである。

松本清張原作の「張込み」は一言で言えば傑作に値する小説ではない。 でもこの小説が各種メディアの中で時折利用され、もしくは映像化される理由は、何かしら社会の意志を感じるのは僕だけではあるまい。

2007/10/01

Twitterを無意味と語る無意味な記事を思う

ITproにおける二つのTwitterに関する記事(『「爆発的広がりを見せるソーシャル・
メディア:中身の無いコミュニケーションがなぜ若者に広がっているのか?」小林雅一
』、『最新IT動向を読む 第4回 Twitter、リアルタイム日記、プロフ爆発的に広がる“無意味メディア” 』)を読んで、思うことがある。

それはTwitterの利用者をひと括りに扱い、その傾向を分析するかのような手法である。Twitterとはどんなサービスなのかをこの場で問うことはしない。それをソーシャル・
メディアとすることもマイクロブログと扱うことも一向に構わない。ただ一ついえるのは、それらのサービスを利用する人は、学生でもあり社会人でもあり学者でもあり、もしくは主婦でもあるということだ。彼らは、日中会社で働くであろうし、学校で授業を受けているだろうし、日々の家事と育児に追われているかもしれない。また彼らはテレビを見て、小説とか漫画を読み、新聞も読んでいることだろう。 無論ネットで色々な情報を調べたり、時には買い物をしたり、また興味があることはブログなどを通じて発信するかもしれない。

当然のことだが、Twitterの利用者と利用していない人と見分けるのは不可能だろう。会社で高度なマーケティング計画を立案している人も、時折Twitterを利用しているかもしれない。もしくはアカデミックな場で、それこそ意味のある(と思える)コミュニケーションをしている方もTwitterを利用しているかもしれない。つまりは、そういう現実が今の時代にはある、と僕には思えるのである。

Twitterでの発言に「内容が無い」と語る人に聞きたい。そもそも人と人のコミュニケーションの場において「内容が有る」言葉がなされる比率はどのくらいであろうか?多くの場合、取り交わされる内容は客観的に見れば無意味と思われないだろうか。さらに言えば、Twitterなどの利用者は自分が発信するものに「内容が無い」のは言われなくてもわかっている。

またソーシャル・メディアの興隆により、従来型のメディア(新聞など)の衰退に危機感を持たれている方にも聞きたい。Twitterを利用している人は新聞を読んでいないと、もしくは信頼していないと、本当に信じているのだろうか?Twitterなどのソーシャル・メディアを使う人はそれらを使わない人となんら変わらない。興味のある事項について、もしくは特定事項の情報が他の人より多く知りえている人は、それらのことについてネットを通じて語るかもしれない。でもその事項以外は無視するというわけでもない。それらはおそらく新聞の記事を概ね信じるだろうし、食事を摂りながら見るテレビのニュース番組でキャスターの言葉に頷くかもしれない。

ネットの興隆による新聞などの衰退は確かに事実だろう。でもそれでも紙媒体のメディアが完全になくなるとも思えない。一言でいえば、状況が変わったのだ、とそれしか言いようがない。従来の価値観というか規範で説明が付かなくなった。たぶん、上記の記事の執筆者もその点は重々承知の上だろう。でもやはり物とかサービスを見るとき、それが特にビジネスの視点が必要なときは、何らかの規範となるような思考に頼ってしまうのだろう。そしてその視点でこれらのサービスをみると、「流行っている理由がわからない」となるのだと思う。

実際にサービス単位で見ると、Twitterは衰退方向だと僕には思える。 しかし似た様なサービスは雨後の筍のように登場し、なくなる方向には無い。その中で現在注目されているのは「Pownce」かもしれないが、サービスを受けるには招待状が必要なので、実態は僕にはわからない。ただ思うに、今後はこのようなサービスが、しばらくはという留保つきではあるが、多くの人に利用されるであろうということだ。まずは「理由がわからない」と思考停止になるのではなく、この状況を了解しその中から新たな視点を築きあげていくほかはあるまいと思うのである。

これらの状況は、おそらく東浩紀に言わせれば、「動物化するポストモダン」時代のサービスとして説明が付くかもしれない。北田暁大は「動物化」という言葉に多少の違和感を感じながらも大筋了解することだろう。 でもだからといって、それらの言説が、今後の展開を示唆するまでに至らないのも事実だと思う。さらに言えば、多くの人はこれらの新旧サービスを、限定されてはいるが、ある程度の情報リテラシーを持って使い分けていくだろうと思う。

ビジネス的に捉えれば、確かにTwitterの利用範囲は狭いとは思うが、窓口の一つであるのは変わりはない。さらにTwitterライクなサービスが、自分が属する業界のビジネスモデルに取り組むために何が必要かの視点で考えたとき、新たなサービスイメージが浮上するかもしれない。

冒頭に述べたように、ここでは「Twitterは何か」等の人文学的視点では語るつもりはまったくない。ましてや、Twitterなどのサービスが流行ることから、社会への不安感とか危機感を増幅する意見を提示するつもりもない。それはTwitter利用者にとっては無縁な話であり、ある意味、マスメディアもしくは一部のブログが語ればよいと思っている。逆に言えば、緊張感の無いコミュニケーション、そこからは争いもない代わりに何も産まれない、だからこそテロリズムとの相性が悪いTwitterライクなメディアがあってもよいのではないかと思っているのである。

2007/09/26

ル・コルビジェ展の短い感想

Tower

先々週だったか日にちは忘れてしまったが、僕は六本木ヒルズの「ル・コルビジェ展」 に行ってきた。

もとより建築関係に造詣が深いわけでも関連業界にいるわけでもない。でもフランスがユネスコ文化遺産にコルビジェの作品群の一括登録に動いている、という話題が出るほど、彼は普通に知られている歴史上の人でもある。その彼の単独展を開催しているというので興味があった。僕の感覚では、ル・コルビジェは確かに偉大な建築家だが、日本で単独展が出来るほど知られているとも思えなかったから、どのような展覧会を企画者は見せてくれるのだろうか、という点が特に興味があったのである。

友人の設計者と少し前に色々な話をした。 その中で建築関連の話でもないのに普通にコルビジェの話が出てきた。彼は設計技師なので当然にコルビジェのことを知っていて不思議はない。 でも、その時多少の違和感を感じたのは、コルビジェという名前が建築関係者ではない人でも知っているのが当然という「自然さ」だった。

僕の場合、学生時代からデザイナーとか建築関係とかを志す人が回りにいたので、その影響もありコルビジェの著書を何冊か読んだことがある。だからこそ知っていると自分では思っていた。だから、彼が「近代建築の始祖」と呼ばれている理由とかはまったく知らないし、そのような目で見たこともない。一つ言えばテクノロジーとして人間を見つめ建物を設計した、その事がおそらく発端ではないかと思うくらいだ。

でも、例えばジョサイア・コンドルとか辰野金吾、曽禰達蔵、 片山東熊などの日本近代建築の始祖と呼ばれる人たち、もしくは堀江佐吉などの大工棟梁たちと、 コルビジェが何が具体的に違うのかは正直に言ってよくわからないのは事実だ。彼らもコルビジェと同様に、 建築する際に必要な基礎データ値は経験則として持っていたはずである。

さらにフランスが世界遺産登録申請したというのもフランスというお国柄があるからだと思っていた。つまり、あくまで一般的には知られていない人であり、展覧会の来場者は少ないと思っていた。人が少なく静かな美術館での鑑賞を僕は当然の事として期待していたというわけである。

でもその期待は六本木ヒルズで入場券購入の待ち行列を見てあっという間に吹き飛んでしまった。そこには老若男女が、乳母車に乗っている赤ん坊から杖を突いているお年寄りまでの方々が、長い行列を作りながらじっと鑑賞券購入の順番を待ち続けていた。その状況は僕にとっては想定外だった。後からわかったことだが、展覧会の入場券は六本木ヒルズの展望台への入場券と兼ねていた。だから多くの方の目的は展望台だったに違いない。ただ兼ねているのだから、展望台のついでに展覧会を観て行きましょう的なノリの方も多かったと思える。

だから、展覧会の総括をすれば、「騒々しかった」がまず浮かぶ。子供は走り回り、赤ん坊は泣く、それらは致し方ないことだ。それはわかる、でも静かな鑑賞を期待していた僕にとってその光景の落差は大きすぎた。では展覧会の内容はどうだったのかと聞かれたら、意外に面白かったのも間違いない。 意外とは、コルビジェの様々な側面を観る事が出来たことから、展覧会の内容が近代史を振り返る機会になったということで、それはコルビジェの建築面だけではおそらく知る事が出来なかったと思うからだ。また「面白かった」の根底には僕のコルビジェへの固定観念が偏っていたことの表れでもあるかもしれない。展覧会での表現が企画者の意図を的確に伝えていたし、それに対しては違和感はおきなかった。確かにコルビジェは「近代建築の始祖」と言えるのかも知れない、順路を辿りながら僕はそういうことを考えていた。

まさしく当該展覧会ではコルビジェと近代が離れがたく密着していた状況を的確に現していた。でも逆に言えば、彼の活動が近代という枠組みに組み込まれているのを理解すること自体が、近代そのものが現代とは違った時代であったことの証左になりえたようにも思えるのである。彼の作品には、根に僕らが失ってしまった 「大きな物語」が確かに横たわっていた。だから僕はコルビジェの作品群を近代史を見るように順路を辿ったのだった。

子供たちと赤ん坊の喧騒が、近代という時代の音色にも聞こえ、そこに一つの不思議な空間を作っていたように思えた。その中で僕は、展示物を、何故かしら懐かしさが伴った感覚の中で眺め続けたのである。

特にコルビジェの都市計画はそのことを如実に表しているように僕には思えた。 コルビジェの都市計画には、人間工学というテクノロジーに含める要素ひとつひとつの選択が「大きな物語」 を背景にして行われているように思えたのだ。だからコルビジェの計画した都市は、現代におけるそれと著しく景観が異なる。

例えば現代では要素としてバリアフリーとセキュリティが加わるだろう。でもそれ以前に「大きな物語」が喪失している以上、それは単にテクノロジーに必要な要素の1つにしか過ぎない。その結果、日本のどこに行っても同じ都市景観になるというわけである。だからといってコルビジェの都市計画を称賛するつもりもない。彼の都市計画には逆にそれだからこそ排除された人たちも多いはずである。

コルビジェ展が今年開催された理由は何だろう。 それは1つには回顧できる時代になったということがあるように思える。僕らはコルビジェを外部から眺め批評出来る立場にいるのである。 そしてその立場からコルビジェから受け取れるものはなんだろう。それは僕らが無くしてしまったものへの郷愁だけではないはずである。でも、この展覧会はコルビジェと近代との結びつきの強さを表現することは成功したとしても、それ以上の射程は持ち得なかったように思える。

現代におけるコルビジェの意味とは何なのか。おそらく今回の展覧会にあわせ多くの美術誌もしくは建築雑誌がそのことを特集に組んでいることだろう。僕はそれらを全く知らない。
ただ1つ言えることは、既に時代はコルビジェの時代に戻ることはない。コルビジェが実践した建築設計の各要素を、背景無くしてバラバラに取捨して利用するしか僕らには出来ないのである。

補足1:一般的に知られていない、 といっても当然に多くの方が知っているとは思っている。ここでの比較は、たとえばレオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」と較べての話。 無論混雑具合はモナリザ程ではないにせよ、僕的にはそのくらいの落差があったということである。

補足2:写真は六本木ヒルズの展望台から眺めた東京タワーと街並み

2007/09/22

エイトに

エイトが亡くなってから3ヶ月が過ぎた。僕はエイトに会ったことはない。ネットの中だけの付き合いだった。付き合いと言っても、頻繁なメールのやりとりをしたというわけでもない。エイトが撮った写真を眺めたり、ブログを読んだり、そしてそれらにコメントを寄せたり、もしくは逆にもらったりした、いわばネットではどこにでもあるような間柄だった。

エイトは頻繁に自分のブログを更新していて、僕はほぼ毎日エイトの記事を読んでいた。率直に日常を語るエイトの文章は魅力的であり、エイト自身の強さと弱さを自然と顕わにしていた。僕はそれらを通じて次第にエイトのことを知るようになっていった。

エイトを初めて知ったのは写真からだった。あるバラの一品種の姿を知りたくて写真サイトであるFlickrを検索したのだ。バラの名前は忘れてしまった。でもエイトの写真は1つの印象として記憶に残っている。それはよくあるような、写真好きが撮ったような写真ではなかった。そこには撮した者の心情は微塵も入っていない様に僕には見受けられたのだ。一歩身を引いたような写真、いわば百科事典に載っているような写真。エイトの写真はそんな印象を僕に与えた。

実を言えばそのことをコメントに書いたことがある。よくよく考えれば失礼とも受け取られるコメントだが、エイトは僕のコメントに喜んでくれた。そしてこの写真サイトを使って植物の百科事典みたいなものを造ることが出来ればと考えている、と返信コメントで語っていた。

別の話だが、僕は約一ヶ月前に会社の後輩の死を知った。彼が入社時に僕と同じ部署に配属され数年間一緒に仕事をした。純朴で義理堅く、気持ちが真っ直ぐな好青年だった。一緒に仕事をした期間は5年くらいかもしれない。それから彼は異動になり、僕自身も異動したりして滅多にはあわなくなった。それでも社内で偶然にすれ違うとお互いに近況などを報告しあった。後輩の死は昨年のことだったらしい。帰宅途中に下車駅で倒れたのだそうだ。その話を聞いた際、無論僕は愕然としたし、彼の笑顔を思い出した。そしてラガーでもあった彼のスポーツマンらしい頑丈そうな体躯を思い出した。でも、悲しみの深さは比べることはできないが、正直に話せばエイトの死を知った時ほどの痛みは感じなかった。

もしかすれば相次いで知人(エイトが知人と言えるのであればだが)の死を聞いた僕は、そういうことに関する感覚が麻痺していたのかも知れない。後輩の死を聞いたときに、その出来事の大きさと、自分自身の薄情とも言える気持ちとの落差に驚き、僕は自分を納得させるために一瞬そう考えたのも事実だ。でも時間が過ぎるごとに、僕の中に占める両者の死の重みはエイトの方がより大きくなっていったのだった。

僕にとって後輩とエイトは全く対照的だと思う。例えば、僕は後輩の顔を知っている、仕事に関して様々なことを話し合った、その意味では僕は彼のことを知っている。彼の結婚式に招待された。子供が生まれたと言うことも知っていた。少し調べれば生年月日や生まれ育った場所も知ることは可能だと思う。


逆にエイトは一度も会ったことがないので、外見的なことは何も知らない。何の仕事をしていたのか、その仕事でどんな活躍をしていたのかなども全く知らない。当然に生年月日とか、どこで生まれ育ったのか、そしてどこに住んでいたのかさえ知らない。それなのにエイトの死に強い痛みを感じたのは何故だろう。1つ言えるのは、現在において、僕からの距離感が両者は違うことはあるかもしれない。僕は後輩は実際に見知っていたが、ネットの友人であるエイトよりも距離が離れていた。エイトとの距離感は僕が造り出した幻想なのかも知れない。

しかしそれを言えば実際に見知っていた後輩も同様だろう。ただ、エイトと後輩の違いは「顔」に還元されるのも間違いない。人は「顔」を知れば全てを知ったような気になるが、実際は「顔」によって何もかもを知ることが出来ない。エイトの場合、「顔」を知ることがなかったことが、より身体的にエイトの文章において実感できる結果となった、と言えないこともない。

つまり僕にとってはヴァーチャルなエイトの存在の方にリアリティを感じていたのである。
エイトのブログ記事は誰宛に書いたかという疑問を抱かせない。エイトは間違いなく誰に宛てても書いてはいない。強いて誰かと言えばそれは自分自身かもしれない。だからエイトのブログ記事は一見すると安定せず自律した個人がそこにいないかのような印象も受ける。でも多くの者たちにとって、ネット上で文章を書くということは、自らを自分の造り出したイメージで縛ることにも繋がっている。

だからエイト自身はその呪縛から逃れていたとも言えないこともない。だからといって、エイトが撮った写真とブログ記事の総和にエイトの全貌が立ち現れるわけでもない。それらは表層に現れるほんの一部だろう。でもそれを言えば、実際にエイトの知人であったとしても同様のことだろう。いくら自分が知りえるエイトの情報を集めてもエイトには近づけない。

それであればエイトとは僕が造りだした幻想でしかないのだろうか。おそらく半分半分だろう。僕はエイトを知っていた。しかし僕はエイトを知らない。そしてその状況にネットとかリアルとかは関係はない。

ある時エイトは僕が撮したベンチの写真にコメントをしてくれた。ベンチは近くのマンション前に設置していたもので、木製の長椅子ではあるが、一人分の席を表すかのように手すりが付いていた。エイトはそのベンチを見て、最近そこで寝ることを防止するのを目的と思える手すり付きのベンチが多いですね、と書いてあった。その視点は紛れもなく僕の視点でもあった。ブログでは、人と接することが苦手でいつも一人でいること、一人でいることが好きでいながらも多くの人と接していたいという気持ちも持っていること、なども書かれていたように思う。そしてそれも僕と同じであった。

エイトは限りなく優しく、強く逞しく、弱く儚く、そして誰もがそうであるように生きる難しさを感じていた。一人でいることを愛しながらも孤独感を怖れた。単独と孤絶は違うとわかっていながらも、単独と孤絶の境界は微妙であることも知っていた。カメラで多くのものを撮った。短いながらもその時々の心情を適切にブログに書いていた。旅行が好きで、運転が好きだった。生活は金銭的に豊かではなかったが、その辛さも逆に些細なことで大きな喜びと感じる繊細さを持って生活していた。繊細さは時としてエイトを苦しめたかも知れない。でもそれも今では知るよしもない。エイトの新たな文章を読みたい。エイトの新たな写真を見たい。でもそれは叶わぬ夢である。

2007/07/14

「Apple全製品の系統図」を外(PC利用者)からみて思うこと



WIREDVISIONの記事『「Apple全製品の系統図」からわかること』の中に今までの製品を時系列にまとめた図が掲載されていた。記事において「わかること」とは何か、引用すれば以下のようになる。
私はへとへとになってしまい、あまり頭が回っていない。ただ1つ気づいたことは、Apple社の製品ラインが完全に4つに集約されたのが2001年であり、Apple社はちょうどそのときに、満を持して『iPod』の発売を開始したということだ。
結局はあまり大したことはわからない。著者はこの図を作成するために「へとへと」になってしまったからとあるが、思うにそれだけでもあるまい。例えばある一家の家系図を見たとしよう。見せられた側の多くは「ふーん」で終わりだと思う。


でもそこに何か外部的な資料が添付されたとき、別の視点がそこに生まれるように思う。例えば明治維新の時に住居を移したりとか、もしくは家系図に絡む歴史上の人物が見る側の家系に近い存在だったりすれば、その一家の家系図を見る眼も自ずから変わってくることだろう。つまりは製品(プロダクトにしても)の系統図だけを見ても、そこから得るものは少ないと言うことだ。

故に何か別の資料との突き合わせが必要となってくる。この図の縦軸は不明としても、横軸は時間軸であるのは間違いない。それであれば、例えば、「PCの系統図」と対比してみたりとか、「PCとApple製品(特にMac)との販売台数の表」と付き合わせたり、社会的な主な事件でも良い、もしくはその時代の革新的製品も面白いかも知れない、少なくともAppleのCEOの縦点線は必要だと思うし、その時の主要なビジネス戦略も参考になるかも知れない。結局の所、Appleの新たな戦略と、そこから現れる製品は、Appleの外部の影響を受けていると言うことでもある。

ただ逆に「PCの系統図」を果たして造ることが出来るのか、という問題がある。OS系の系統図であれば出来ることだろう。でもその場合は、「Apple全製品の系統図」ではなくそれに対応する「Apple全製品のOS系統図」なるものとの参照になるのであって、今回のような場合には不適かも知れない。

PCの場合、メーカー毎の系統図の作成は可能だろう。例えばSONYの場合、「VAIOの全製品」と「WalkManの全製品」とか。でもAppleにとって「SONYのVAIO全製品の系統図」などどうでも良いはずだ。それはMacのTVコマーシャルを見てもわかる。Appleが相手にしているのはウィンドウズマシンとしてのパソコン全般なのだ。しかし、「PC全製品の系統図」を造ることは難しい。何故なら数は異様に多いはずだし、パソコンを構成するパーツ、マザーボードおよびグラフィックボードなど、の組み合わせは無限とも言えるから。

つまり、「Apple全製品の系統図」の参照となる製品の「系統図」は、Apple以外では作成すること自体が難しい。そしてそのこと自体がAppleの強みでもあり弱みでもあると僕には思えてくる。

提示された「系統図」は苦慮の後が見受けられる、例えば細かな話をすれば、実線矢印と点線矢印の規範の違いがわからない、ローカライズされたMac(DynaMac)及びMacOS互換機の位置づけが見えていない、何故Apple系のマシンから点線矢印とはいえMacPortableに繋がっているのかわからない(僕の感覚ではSE/30からの実線矢印ではないだろうか?)、等の疑問が残る。でも一応はMac同士の繋がりを図式化できるというのは、図を見るまでもなく可能だと思っていた。

Appleの強みはイノベーションにあるわけではない、というかイノベーションに関してはAppleは常に自らが創造するのではなく、それを製品として具象化するのが上手かったと言うことだ。製品毎に物を製作しているというイメージを購入者に抱かせる。「製作」とは、
まず何かの理念があり、それを具象化するためのデザインがあり、そしてそのデザインを現実化するための部材と手順とがある。これはおそらく人間の有史以降変わらぬ流れであったに違いない。理念を「必要」と置き換えても良い。そしてその製作過程が、物を売って儲けるという「金儲け術」から明確に切り分けられたブランドイメージが、確かにAppleにはあると感じることが出来る。

ということは、実線矢印によるマシンの結びつきは単に形(デザイン)が似ているからではないはずである。自ずからそこには実線で結ばれる製作過程における理念の結びつきがあると思う。それはおそらくこの系統図を作成した方の考えが反映しているのは間違いない。その説明が記事の中で現れなかったのが残念と言えば残念でもあった。

弱みというのは、逆にいってこの「系統図」が造ることが出来るということである。それが別面で言えば、ジョブズの手腕といえ、製品が市場に受け入れられている事実で隠されている面でもあるが、一種独善的とも言えるハード・ソフト面の各種デザインに現れている。

この系統図には、一種の、例えば歴史上の偉人達の系統図に繋がるような、選民思考が背後にあるように思えるのである。販売台数の規模から言えば圧倒的にウィンドウズマシンに軍配が上がる。それはひとえに利用者の多くは、コンピュータの理念など必要としていないことの表れなのではないだろうか。道具として、自分である程度の知識があれば拡張できるし、結局の所、ウィンドウズマシンに個性などは存在しないし必要ともされなていない。ただ自分が必要とするアプリが動けばそれで良いのである。

さらにネット上では、OSには関係なく起動するアプリも数多く存在している。
(この記事もいつものことながらGoogleのDocs&Spreaddheetsをつかって書いているくらいだ)
しかしこれらへの方向転換はAppleは間違いなくすすむことはない。(一度試みて失敗している)「系統図」を造るのは良い、でもできればそれがAppleを越えて、多角的に見ることができればもっと良かった。系統図のみでは自閉的で、次の何かが見えることは間違いなくあり得ない。

2007/06/27

あなたに

突然に僕はあなたのことを思い出しました。

発端は何だったのか、目の前を通り過ぎる恋人たちの姿からだったのか、それとも街でふと耳にした言葉だったのか,それは全くわかりません。街を歩いていて、唐突に、何の予兆も与えられずに、僕はあなたのことを思い出したのです。

忘れていたわけでは決してありません。ただ長い間、日常の中であなたのことを考えずに過ごしてきたのは認めます。そしてその瞬間、フラッシュバックのように、僕は二十歳の学生の時に知り合ったあなたのことを明瞭に思い出したのです。その思いは何日も僕から離れることはありませんでした。あの頃の僕たちを知る人は、僕らが付き合っていたと思うことでしょうか。いや、それよりも僕らのことなど覚えていないかもしれません。でも確かに、あの時あの場所で僕らは出会い、そして多くを語り合いました。

代々木公園を二人で散歩したときのことを覚えていますか?
何故あのとき僕らは代々木公園に行ったのか、その理由も、それまでの経緯も僕は覚えていません。ただ、あなたが木訥と語る自分の事を、僕はただ聞いていただけです。青空の下、僕らと同世代の男女が楽しげに遊んでいる姿を見てあなたは、「何も考えずに遊んでいられる学生がとても羨ましい」と僕に言いましたよね。常磐道沿いの小さなドライブインを営んでいるあなたの実家には、ご両親と高校生の妹と身障者の弟さんがいて、あなたはその店を継ぐために、調理師免許取得の為、東京の専門学校に入ったばかりでした。代々木公園で遊んでいる学生達を見つめるあなたの眼差しの奥にどのような思いが宿っていたのか、その時の僕には知るよしもありません。

その時、僕はあなたの「羨ましい」という一言に、「僕も彼らと同じ学生だよ」と答えたのを覚えています。でもその時、あなたはきっぱりと「あなたは違う」と言ってくれた。その時の、あなたの凛とした美しい横顔を僕は忘れることが出来ません。

それと同時に、僕はあなたの僕への思いを受け止める恐ろしさに胸のうちでは怯えてもいたのです。僕は少しも彼らと変わりはありませんでした。むしろ、あの代々木公園で、「あなたは違う」の一言で、僕はそのことを強く意識したのです。

十代後半のあなたには、頼られ期待する家族がいた。そのことがあなたの重みになっていたのかもしれません。そしてそのことは同時に、片親で育った僕の重みでもありました。

僕の誕生日に、一緒に渋谷でピザでも食べようと誘われたことを思い出します。あのときは僕が待ち合わせの時間を勘違いして、あなたを3時間以上も待たせてしまったのですよね。結果的に遅れていった僕に、あなたは何も言わず、ただ来てくれたことを喜んでくれました。僕はその時、初めてあなたがお化粧をして、おしゃれをした姿を見ました。素面でも十分に美しいと思っていたのに、その時の姿に僕は驚き、そして照れくさかった。無論、食事をしながら沢山のおしゃべりをしましたよね。でも僕はそれらの殆どを忘れてしまいました。

僕は怖かったのです。あなたの真っ直ぐに僕を見つめる眼差しが、そして微塵の飾り気のない率直な語りを。それらはあなたそのものでした。その人間が何者かは、様々な社会的属性でないことは無論のこと、その人の性格や癖の総和でもないことも確かだと僕は思います。あなたの、僕への行為と語り、それらはすべて僕を指向していたし、その指向を僕自身が体験することで、その体験を通じて僕はあなたが何者であるかを意識したのです。

あなたは僕の前にそうやって現れ、そして僕はその存在の重みにつぶされそうでした。
一般論として、人間の存在に軽重はないとは思います。でもその時、僕の存在はあなたの存在と較べると、とても薄っぺらで軽くそして浅かった、そのことを僕は常に意識していました。今を思えば、僕は臆病で卑怯な男だったのです。何故なら、その自分の弱さを隠すため、あなたを遠ざける結果になってしまったのだから。

よくある話と言えばそれまでです。そう、どこにでも転がっている話です。僕はそれからも幾度も同じことを繰り返してきました。でも何故かあなたのことだけは忘れることが出来ないのです。それは代々木公園でのあなたの凛とした美しい横顔を、おそれおののき、それでも見とれてしまったからかもしれません。

頻繁に会い、そして語り合った日々。お金のない二人は常に歩き続けました。でもそれでも手を繋ぐことさえしなかった。でも僕はあなたのことをとても理解していたんですよ。だからこそ、僕は自分の弱さをあなたへの嫌悪に塗り替えたのかもしれません。無論、これも言い訳です。

家の都合で、学業半ばで実家に戻ることになったあなた、何度も連絡をくれましたよね。僕は居留守を使い全く応答しなかった。そしてあなたからの手紙、そこには「僕に会いたい」と、ただそれだけ書いてありました。でも僕はそれさえも答えなく無視しました。

あなたは最後に僕に何を告げたかったのか、それは知ることがなく終わりました。そしてそれは、僕があなたからの言葉への応答も、あるべきはすの応答を、無くしてしまったことにも繋がります。そしてそのことが僕の存在の有り様を物語ってもいます。

おそらく、ここに書いたことをあなたは既に忘れてしまっていことでしょう。そして僕のことさえ忘れているかも知れません。そして今では常磐道沿いのドライブインを必死になって切り盛りしているのかも知れません。傍らには最愛の夫と子供達に囲まれて。

あなたは真っ直ぐに生きてきました、おそらくそれは今でも変わりはないことでしょう。だからこそ、きっとあなたはあなたの幸せを見つけていることでしょう。

僕はと言えば、突然にあなたのことを思い出し、あらためて自分が何者であるかを知り得ました。相も変わらず臆病で卑怯な自分を。この手紙はあなたに対し送っています。でもあなたはこのメールを見ることはないでしょうね。

お互いに心の片隅にも乗らなかった言葉があります。例えば「好き」とか「愛している」などの言葉。「愛」は心の有り様を言うのではなく、コミュニケーションの一つの姿であるとすれば、その行為と体験から感じ得ることなのかもしれません。そしてそれであれば、あなたが僕のことをどう思っていたかは十分にわかっていましたし、今となって気が付けば、僕自身もあなたに対しどう思っていたのかがわかります。でもそれは少なくともあなたにとっては今では無意味な話でしょう。でも僕にとっては、今更ながら、何故か一つの失恋として、僕の中に芽生えているのです。

長々と詰まらぬ話をして誠に申し訳ありません。思い出したあなたのことが頭から離れず、僕はブログに書くという行為ではき出すしかなかったことをお許し下さい。あなたが健やかに幸せな環境の中で暮らされていることを念じつつ、終わりにしたいと思っています。
さようなら。お元気で。

心から Amehare

2007/06/14

頭上の風景



街の景観は徐々に変化する、しかし特にそれを意識することも少ない。それは鏡で見慣れた自分の顔の老化が日々気が付かずに過ごすことに似ている。

ここ10年ばかりの間、近所にはコンドミニアム風のマンションが通りに面して多く建築された。元々は人家であったが、各々のマンションは既に確固たる存在感を違和感なく風景に馴染ませ、かつてそこに誰それが住んでいたことを忘れさせる。
街の景観の変化は、それが巨大な建築物だとしても、建築の過程を毎日見ることで、すぐに馴れて、忙殺された日常の営みの中で埋没されることにより、強く意識することがないのである。

それでも一棟のマンションが現れると言うことは、それに対応したインフラ整備が当然の事ながら必要とするということでもある。そしてその変化は、頭上の電信柱間を繋ぐ各種ケーブルが造り出す複雑怪奇で幾何学的な、空をキャンバスとした模様によって現れる。

写真の電信柱は車道幅の若干の変更に伴い位置を移動した。その結果、配線のケーブルを変更をすることなく対処するために、写真のような器材を使い解消したのである。
無論、僕がかつてみた素朴な電信柱とは、インフラとして担っている世帯数が違うため様相が著しく変わっている。もしかすると、上記の物干し竿を支えるような突起物がなければ、僕はそのケーブル数の変化に気が付かなかったかも知れない。
電信柱に依存する様々なインフラは、社会と技術革新の中で常に変化し続けているというのに。

かつて映画のなかに登場した、無限とも思える荒野の中に延々と続く電信柱の姿に、何故かしら郷愁を覚えたものだった。今も僕のどこかにそれと同じ感覚は持ち続けている。だからこそ、頭上の見慣れた配線によって区切られた空を、僕は時折写真に収めるのかも知れない。

2007/06/12

NHK大河ドラマ「風林火山」

今年のNHK大河ドラマ「風林火山」が面白い。昨年の「巧妙が辻」も面白かったが、断然に今年の方が面白い。どこが面白いのか、それを軽く考えてみた。

NHKの大河ドラマは常に時代の空気を掴んでプロデュースされている、と僕は思っている。それを言えば、すべてのTV番組内容はそうではないかと言われそうだが、多くの番組は現代の空気感を掴みきれずにいて、旧態依然のスタイルに固執しているように僕には見えている。無論幾つかの特記すべき番組も存在することは認めてはいるが。

例えば昨年の「巧妙が辻」は安倍総理の「美しい国」と妙に符合する事が多かった。番組最後の方で主人公の一人である山内一豊は新任先の土佐で「美しき国」造りを宣言している。無論「巧妙が辻」に安倍氏が関与している事は現実的にはあり得ない、ただNHKが番組製作の過程の中で、配慮をした可能性は、それが意識的であるかどうかは別にして、僕には大いにあり得るように思えてくるのである。と言っても、その国造りの中で、最初に多くの人命が犠牲となっているのが皮肉と言えないこともない。ここではこれ以上「巧妙が辻」のことは語らない。僕としては色々な意味で一年間楽しめたのは事実であるので、それで良しとする。

さて今年の「風林火山」であるが、まず主人公は甲斐の武田信玄家臣の一人である山本勘助である。隻眼で少々脚が不自由なこの男は、まず異彩を放った容貌で登場する。さらに勘助が信玄に仕えたのは彼が40歳を過ぎてからである。それまでは諸国を武者修行と称して放浪していたと、番組では設定している。

その武者修行で、彼は極めて多くの人脈を造り上げている。いわば、彼の強みはそこにあり、信玄はそこに彼の価値を見出している。例えば、今週(6/10)の放送では、北条早雲が関東管領である上杉憲政との戦が主となっていたが、勘助は北条早雲と知古を得ている。そのよしみで、彼は北条側に付き上杉との戦いに参加する。目的は上杉方に味方している真田幸隆を甲斐に招聘することである。無論、勘助は真田氏とも知り合いである。ちなみに番組上では今川義元とも知り合いである。

番組の内容は、概ね強いビジョンを持ち、そのビジョンを具現化する戦略とシナリオを持つ人材が、激しい競争の中で成功を収めるという、旧態依然のビジネス思考の(それを今でも信奉する人も多いのは知っているが)、世界観の展望も可能ではある。でもそれであれば、他の日本現代イデオロギーをプロパガンダしている多くの番組と変わらない。しかし僕が「風林火山」に見る姿はもう少し別のものだ。

山本勘助はネットワークで言えばハブの一つである。多くの武将を一つのノードとすれば、かれはハブとして、ネットワークの中心に位置している。それは信玄のそれを凌駕している。無論、信玄自身は勘助のハブとしての位置を了解しそれを利用している。ハブとして形成していく強みは、何と言っても勘助のその姿にある。隻眼であること、そして足が不自由なことが、彼を他者からより一層印象づけを強めている。ハブとしての強みは、武将としての弱みが利点ということである。

さらにハブとして多くの紐帯を持つ勘助は、さらに自ら様々な武将の交渉役となることで、ハブとしての存在感を甲斐家臣団の中で特異な存在となっている。そしてその紐帯の多さは、逆に様々な懸案が現れる中で、いわば一つの検索窓口として信玄の目には映る。つまり現代のウェブ世界での位置づけで言えば、グーグルとしての存在に近い。信玄の要望に、その真意を経験則から構築したデータベースで瞬時に理解し、自らのネットワークを駆使して適切な検索結果を披露する。情報的には現在求められている一つの企業人の姿でもあるかもしれない。

僕の目から「風林火山」を見ればそういう世界観が登場する。無論勘助が存在する時代は群雄割拠する戦国時代である。いわば社会ダーウィニズムが大手を振ってまかり通っている時代でもある。それは現代のグローバル化した市場における企業間の戦いにも似ている。その中で、彼が言う「国とは人です」の一言は、「人」の定義が限りなく狭い世界でもある。確かに「国とは人」かもしれない、それは多くの紐帯を持つ勘助ならではの考え方であろう。でも戦とは彼が紐帯を持つ武将との生死をかけることもであり、そこに彼自身が自己矛盾を感じないことが、僕には不思議で致し方ない。

逆に言えば、だからこそ彼の戦略は、戦をする前に戦いの勝敗を決める、つまりはできるだけ戦闘行為を行わない事に傾けるのであるのも頷けるが、それでも、美しい言葉であるがゆえに、僕としては多少の欺瞞を感じる言葉である。さらに、番組上で真田一族を甲斐に招聘することで、彼らの生存を計るが、その理由は真田が優秀で、ある意味エリートであるからでもある。それは、国造りに必要な人材は、無名兵士として死に行く者達ではなく、エリートであり、かつ一つのハブとしての存在であることを意味しているのかもしれない。確かにネットワークは多くのノードが存在しなくてもハブがあれば崩壊することはない。

さらに言えば、彼の「国とは人である」の言葉は、現代のグローバル化した自由市場に対応を迫られた一企業の考えに近いとも言える。そしてそこに必要で求められている人材とは、戦略に長じ(クリエイティブ)で、多くの人材と影響力を持つ(ハブとしての存在を指向する)、であるということになる。それゆえ勘助の行動を描く「風林火山」は、僕にとって極めて現代的な時代劇だと思うのである。無論、楽しみながらも、批判的に見ている部分もあるのではあるが。色々な意味で面白いのでそれも良しとしている。

2007/05/25

ROSE

rose

米国の写真家ダイアン・アーバスは生前こんなことを語っている。
「写真とは、秘密についての秘密である。写真が多くを語るほど、それによって知りうることは少なくなる」

「写真が多くを語る」その中に色が含まれているのであれば、モノクロ写真の良さはカラー写真と較べて秘密が少ないことがあげられるだろう。

僕が一番好きな写真、それはとても個人的な写真だ。そしてそれはモノクロ写真でもある。僕が赤ん坊の時、母方の一族が集まり母の実家で撮った家族写真。その中で僕は母の胸に抱かれ、隣には今は亡き父が姉が少しのあいだ動かぬよう彼女の肩を押さえ立っている。十数名の顔は、何人かの女の子を除いて誰も笑っていない。コントラストの強く明瞭な輪郭の中で、若い父と母は少し不機嫌な顔でカメラに目を向けている。

何故その写真に惹かれるのか、それは僕にとって謎の一つだ。その中に写っている者の半数は既に亡くなっている。当時大学生で利発な眼差しをカメラに向けていた従兄弟は昨年に大腸ガンで亡くなった。しかし、その写真の中で、彼らの殆どは生きている、この写真を見る度に、そういう不思議な雰囲気に僕は包まれる。

僕はここでロラン・バルトの物語を自分に合わせて語ろうとは少しも思わない。ただ、その写真には多くのことが表象されているが、確かに僕には彼らのことが少しもわからない、という思いを時折抱くのも事実なのである。そこに写っている赤ん坊の時の僕は、今の僕ではなく、赤ん坊のままそこに留まっている。そして各々に名前は知って、今でも実際に会えば語り合える彼等ではあるが、赤ん坊の時の僕も含めて、その写真の中の彼等は常に変わらず謎を秘め続けている。おそらくその「謎」が、僕から見て、その写真を他から際だたせているのだと思う。

仮にその写真がカラーであったとしたらどうだったのだろう。実は、それから数十年経った時、同じように撮ったカラー写真がある。較べてみれば瞭然なのだが、写真の持つ力強さは圧倒的にモノクロのほうが勝る。つまりは、写真の持つ「謎」の深さは、モノクロの写真の方が勝っている。そう考えていけば、カラーが否かはそれ程重要ではなく、色などは写真にとっては二義的な存在でしかないのかも知れない。

あくまで僕にとって良い写真とは、その「謎」の部分が多い写真である。その「謎」とは、厳密に言えば、おそらくダイアン・アーバスの言うところの「秘密」とは同義ではない。ダイアン・アーバスの言う「秘密」とは、何か可算名詞的な部分も含まれるように思われるからだ。無論、上手い下手で言えば、僕の写真などは話にもならないのはわかる。ただ良い写真か否かの僕の基準を言葉にすれば、その写真に顕れる「謎」と語るしかない。(ただアーバスの言わんとしていることは、僕にもとてもよく伝わるし重なる部分も多いと思う)

この記事に掲載した写真は元々カラーの情報を保持していたのをレタッチでモノクロにしたものである。僕の好きな写真があまりにも個人的な写真であったので、代わりにオマージュとしての「rose」の写真を載せた。謎が少ない写真ではあるがご容赦願いたい。

2007/05/17

2007年5月16日 珈琲店前で



僕にとって人は常に行動もしくは活動している。

だから人を撮るとき、写真は焦点が合わずしかもブレているのが望ましい、と時折そう思う。

現代はどちらかといえば行動重視かもしれない。でも創作行為もしくは思考が活動であるように、両者は明確に違うし、活動が人にとって廃れることはないと思っている。

珈琲店の前を急いで通り過ぎる彼女、カメラはその理由を問う領域までは踏み込めない。

僕はゆっくりとコーヒーを飲んで行く人来る人の往来を眺めている。

2007/05/16

渋谷、夜

shibuya,tokyo

夜、渋谷。勤め人が家路を急ぐ
何台もの車がその横を通りすぎる
高架線の下、静かな雰囲気なのに
何故かあわただしい
しかし僕はこの場に漂う空気感が好きでたまらない。
人工物に囲まれ、道も所々壊れかけている
夜になると歩道の隅で一夜の寝床を求める人が集まる
その側を行き交う人たち
人の営みと、その重たさは
高架線を抜けた先の明るみでは逆に薄まる
薄まった明るさの中で、その明るさを求めて
人は急ぎこの場を通り過ぎる

代官山付近、深夜



渋谷・恵比寿・代官山、それぞれの地点から大体等距離にあるトンネル。
トンネルを抜けると、そこには深夜まで営業している銭湯があり、何人かの男性が湯上りを涼んでいた。
自転車を押して通り過ぎる男性。彼は家に戻るのか、それともどこかに向かってるのか。
トンネル内部は様々な意匠をこらしたペイントがなされている。街のトンネルは無地を嫌う。

トンネルに出口があることを意識したのは、そんなに昔ではない。
道を繋げるため、その先にあるどこかに向かうため、トンネルは造られる。
そしてこのトンネルの向こうには銭湯があるというわけだ。

2007/05/15

常識についての短い私論

常識とは特定の集団で多数を占める不文律な判断・意思・思考の根拠のとなるもの、とさらりと書いてみる。僕が生まれ育ったこの地で過ごす限り、特に意識しなくとも常識は僕の行動をある程度は律している。逆に人は欠損を意識するものであるから、「常識」に反する行為に敏感になる。ただ、「常識」「非常識」の境界は領域的に捉えるべきでない。領域的に捉えると、そこには問答無用の線引きが為されるしかない。しかもそれは常に揺れている中での問答無用となる。

領域的に常識を捉えることは、いわば一つの村社会におけるネットワークを想像すればよい。ネットワークは村から出ることはない。人がその村で安心して暮らすためには、その人と他の村人とのパスは多ければ多い方が何かと便利である。「常識」は「非常識」があるからこそ意味があり、「非常識」と「快・不快」は密接なつながりがある。ゆえにパスを多くするために、人を不快にしない行動をとる必要が出てくる。

無論ここでいう領域的とは地図上の地域と同意ではない。村社会は何であっても構わない。ひとつの村(集団)があって、そこには共有された常識がある、そしてその内に私が存在する。私は生命過程に必要な資源を得るために、その集団内で労働しなければならず、故に常識は私の行動を暗に律する、と言うのは根本的に誤りだと僕は思う。さらに、現実的にはネットワークは特定の集団を越えて繋がっていき、且つ隣接する集団が同じ常識を持っているとも限らない。

そうではなくて、村を含め世界を見ているのは私自身であり、常識はその世界に内在する。つまり世界に構造を与えるのは私である。簡単に言えば、私自身が常識を造っている。常に私が不快に感じることは「非常識」な出来事なのだ。私の不快は他者に同化を促す。同一文化資源を持っている相手には同化も速やかに行われることだろう。そこでは、私の「不快」は相手にも同様であることが安易に想像できる。私が「不快」にならぬよう、私の行動は暗に律される。そして世界はその都度構造が与えられる。

ファーストフード店、コーヒー店などでのマニュアル応対に想像力欠如などの意見をよく聞くが、無論にこれらの意見の宛先はマニュアル対応している店員に向けられるべきではない。ソシュールは「言葉と意味、あるいは表現と内容の関係は恣意的である」と定式化したが、あくまでもそれは一般論としてであった。特定の人と人の語らいは特殊であって、それゆえにお互いの言葉が概ね現実に通じ合っている、という実感を持つ。逆に人と人との語らいが特殊だからこそ、これらの場において一般的な(つまりは標準的な)対応の出会いが求められる。

様々な構造が現れる都市空間においてマニュアルもしくは標準化の概念が立ち上がったのは間違いない。それらは市場性からだけではなく、多様な世界を持つ他者が共生する空間において必然だったのではないか。そしてそれは別面で言えば新自由主義の成れの果てとも言えるのではなかろうか。そういう意味で、ファーストフード店、コーヒー店などの対応に苛つく、もしくは力が抜ける人たちと地域性は関連性があるかもしれない。

ここまで書けば、この記事の冒頭の文が少し気になる。訂正の必要性を感じるが、あえてこのままに残す。量的な側面を僕は否定できないからだ。そして多数は少数に対して寛容であるべきだとも思う。

2007/05/09

ヨンパチ




ハーレ・ダビッドソンは通常エンジンの型によりグルーピングされている。上記写真のエンジンは通称「パンヘッド」と呼ばれる。エンジンのヘッド部分がアルミで、その形がフライパンのように見えることから、そのように言われるようになったらしい。
ハーレーの中では、OHV(オーバヘッドバルブ)2気筒として2世代目のエンジンである。


写真のハーレーは通称「ヨンパチ」と呼ばれている。パンヘッドは1948年に登場したが、その48年の1年間だけフロントフォークサスペンションがスプリンガーフォークとなっている。リジッドフレーム(リアサスペンションがなく、振動はシートのスプリングで吸収する)とあわせて、独特の雰囲気を醸しだし、オールドハーレーファンには垂涎もののバイクとなる。オールドハーレの中では別格とも言える存在となっている。

近所のハーレーショップで初めて「ヨンパチ」を見た。店の方に聞いてみるとレストアに一年間かけたそうである。おそるおそる価格を聞いてみると300万円以上はするとのこと。で、写真を撮ることで満足した。
後日行ってみると、既にこのバイクは売れていて、購入者と思われる方と店の方がエンジン周りを確認しあっていた。その時に初めてエンジン音を聞いたが、フィッシュテールのマフラーからは、とても力強く重厚な音を発していた。

2007/05/07

鎌倉の海

連休中に急に海の写真を撮りたくなった。その思いは突然に僕の中に沸き上がった。
その時、近くの公園の様子でも撮りに行こうと僕は表に出たばかりであった。
空は青く、風は心地よい。僕は交差点で、公園を目の前にして真っ青な空を見上げた。
空の青さから海の青さを連想したわけでもない、甘い花の香りから潮風が恋しくなったわけでもない。
ただ、どうしようもなく僕は、今日これから海辺に立って海風に当たるプランを素敵に思ったし、それを実行したいと思った。
そして僕は海に向かった、というわけだ。






鎌倉の海に着いたのは午後の2時頃だったと思う。浜辺には思った以上に人がいて、それぞれに楽しんでいる。
浜辺以上に、海ではウィンドサーフィンを楽しむ人たちがいて、浜辺から見ると、それらの帆の色の鮮やかさが、海の色、空の色に映えてとても美しい。






海風は強く、上空ではカラスと海鳥が凧のように漂っている。
沢山の写真を撮った、でもそれらは写すと同時に、結果として良い写真でもないのがすぐに伝わる。
いつもの写真サイト(Flickr)に投稿しようとは思えない一連の写真。
写ったものは、鎌倉の海だけではない、僕の気持ちもどうしようもなく顕れている。
僕はカメラの液晶で絵を確認しながらそう思う。






しばらくして、 僕は海の写真を撮るのをやめる。おそらく計画のどこかで僕は間違ったのだ。
僕はこのような写真を撮りたいと願ったわけではない。
でも今日は、現在の僕は、こんな写真しか撮れない。
それは構図とか、露光とか、そういった技術的な問題ではない。
どうしようもなく僕の目は、周りの風景に写真を見つけてしまうのだ。
世界が写真に満ちあふれているのであれば、写真を撮る意味などどこにあろうか。






久しぶりの海だった。それはそれで楽しい思い出ではある。
ただその思い出は、これら一連の写真によってしか喚起されない記憶に成り果てることも間違いない。
僕は海の写真を撮りにここまで来て、そして失敗したというわけだ。
しばらく浜辺に坐り、ただ海を眺め続けた。
遠くで子どもの歓声か聞こえる。そして同時に母親の笑い声も。
幾分幸せな気持ちになる。






三浦半島の山間を抜けて僕は帰った。
所々に小さな畑があり、そこには色とりどりの小さな花が咲いていた。
空はどこまでも青い。雲は遠くの憧れのように、ゆっくりと流れていく。
道が二つに分かれている。僕はまっすぐを選んだ。
風が一段と強く吹いた。

2007/04/03

「道徳」の教科化の話で思うこと、もしくは「有徳の人」について

「道徳」の教科化の話が教育再生会議で論議されたらしい。
この国の歴史の中で有徳の時代があったのかは僕には分からない。ただ言えるとすれば、戦前の「修身」は、この国が戦争に突入することへの防波堤になり得なかったことだけは間違いない。戦争状態の中で「徳」は無効化する。上官の命令に服従し、嫌々ながらも敵と称する人々を殺す、そういう人たちも多かったに違いない。そして彼らは、戦争だから、上官の命令だったからと、自分自身を慰める。戦争に行かなかった人たちにも、同様の試練はあったことだろう。非国民と誹られるのを恐れ、行動を周囲にあわせる。そして自らがあわせたことを意識しない。

それらの「道徳」は敗戦と共に、一夜にして切り替わる。米国の占領政策を嘆く人たちがいるのは知っている。でも問題なのは、米国の占領政策で教育を受けた人たちのことではない。戦前・戦中、そして敗戦と、この国の「道徳」と言われるものが、明治以降3回突然に変貌し、その中でその変貌に気がつかずに日常を過ごすことが出来た多くの人たちのことである。彼らは当然に米国の占領政策の教育を受けてきた人たちではない。

僕のこの文は、彼らを批判するために書いているつもりは全くない。ただ「道徳」という難しい問題に、別面の視点を設けたいだけなのである。ところで、「有徳」の人物が、どのような人であるのか、僕は基準を一つ持っている。それはソクラテスの次なる言葉に集約している。

「悪しきことを為すよりは、悪しきことを為されるほうが望ましい」(プラトン「ゴルギアス」)、つまりは、「騙すよりも騙される方が良い」ということである。「道徳」の教科化の論議は、根本に現代の若者たちの行動を批判的に見て立ち上がっている。でも「道徳」の問題に必要なのは、まずは自己を見つめる眼だと、僕には思える。その行為の後に、その行為をした自分と仲違いせずに過ごすことが出来るのか、そういう眼差しが根本に必要なのであって、それは他者を批判的に見て立ち上がることではない。

想像してみよう。たとえば、僕が銃口を見知らぬ子供に向けている、僕の額には別人が銃を突きつけられている。彼は言う、「子供を殺せ、さもなくば俺がお前を殺すぞ」と。

僕が子供を殺したとしても、周囲(法律)は強要されたこととして赦してくれることだろう。でも僕自身は、子供を殺したことを、その指示に従ったことを、恐らくは生涯忘れることが出来まい。そして、自らへの言い訳として、強要されたこと、従わなければ自分の命が失う事を、心の中で言い続けるのだろう。

その中で、恐らく有徳の人だけは、子供に向けて銃を撃つことはしない。彼にとっては、子供を殺す自分と、それがいくら強要であったとしても、生涯仲違いせずに暮らすことが出来ない。故に有徳の人は、自分の死を選ぶ。僕が思う「道徳」とは、普段の生活ではなく、そういう状況で立ち上がる。だからこそ、冒頭で述べた、この国の3度に渡る「道徳」の変貌が、僕には気になるのである。

その問題を、教育再生会議で話し合われたのかは僕には分からない。教育再生会議での論議は公開されていないからだ。さらに話し合われたとしても、その事に結論が出るとも思えない。「道徳」の論議は難しい。僕はそう思う。さらに言えば、今回の「徳育の教科化」論議が立ち上がった理由とされる数々の問題、いじめ・自殺等などが、教科化によって改善されるとも思えない。
「何トカ還元水って、大臣は本当に正直なことを話しているんですか」。もし「道徳の時間」に子供にこう聞かれたら先生はどう答えるのだろう。道徳を「教科」にしようという政府の教育再生会議第1分科会案に、ふとこんな場面を思い浮かべてしまった。
   (2007年4月3日 毎日新聞社説より)
子供達の大人達への眼差しは虚偽を的確に捉える。逆に言えば、「徳育の教科化」により教育現場の問題がさらにます結果に繋がる可能性もある。無論、教科書を誰がどのように書くのかという実務的な問題も残るが。

且つ教科として評価を行うことで、「徳育」への関心を持たせたい気持ちも理解できる。しかしそれを望むのは無茶な話である。しかし、現状の「道徳の時間」も無意味であるのは確かだと思う。教師により恣意的に内容が決まるのも考え物だ。その狭間で、教育再生会議での論議は様々な意見が飛び交ったことだろう。
そして、やはり再生会議の論議は同時公開されなければならない。その詳細な過程抜きで「一致」といわれても国民は肩すかしをくわされたような気持ちだろう。論議の公開を強く求める。
   (2007年4月3日 毎日新聞社説より)
まず必要なのは、再生会議での論議の公開である。そして広く論議内容に対し、批判的な意見を求めることである。活発な意見の中で、自ずと現状における道が開かれることだろう。そして、この国が抱える問題も含めて、議論が進むことを、ぼくは切望する。

2007/03/31

サクラよ

sakura

今年もサクラの季節が訪れた。昨年はあれほど熱中したにも関わらず、今年はサクラに対し一歩引いて冷めた眼差しで見つめている僕がいる。逆に言えば、昨年のサクラへの熱中が特別だったのかもしれない。

近所のサクラの名所を歩く。昨年と変わらず素晴らしい景観だ。でも昨年のような、心のそこから湧き上がるような郷愁感は訪れることがなかった。写真をとっても、換わり映えのしない姿に、おそらくこの場所で撮っても、日本でも名高いサクラの名所で撮ったとしても、同じ姿を僕に見せてくれる、そんなことしか感じられない。どこで撮っても同じ景観、一種の驚きではあるが、それが逆に今の僕にはとても痛い。

ここでいうサクラとはソメイヨシノのことである。無論、日本の銘木といわれるサクラは、殆どがソメイヨシノではないことは知っている。ソメイヨシノは銘木といわれる様になるほどの長い期間を生きることはできない。弘前城にあるソメイヨシノが記録上においては一番の高齢らしいが、それでも100年くらいではないだろうか。つまりはソメイヨシノの寿命は、人間の寿命とたいしてかわらない。仮に僕が死んだとしても、世界は変わらずに残り続ける、それでも今を盛りに花を咲かせているソメイヨシノはおそらく残らない。故に、それらが造りだしてきた景色も短期間で変わっていく。別面で見れば、ソメイヨシノが作り出す景観は、変化を繰り返してきた日本の姿を現している。

だからなんだ、と言われるようなことを僕は語っている。おそらく僕は今年のソメイヨシノを眺めながら、昨年のソメイヨシノを考えているのだ。写真を何枚か撮る。でもそれらの写真は少しも気に入ることはない。妙に感傷的なサクラの写真は、今年の僕には馴染めない。でも今の僕にはその嫌いな感傷的な写真しか撮れない。そしてそのギャップの大きさに我ながら驚きながらも、昨年の気持ちを取り戻そうと、僕はあがいているのだ。

公園を歩く、サクラの木の下では大勢の人たちが集まり、楽しそうに酒を酌み交わし語り合っている。それらを見て僕は不思議な気持ちになる。思い起こしてみれば、僕は桜の木の下で酒を酌み交わしたことが少ないのに気がつく。最後に友と桜の木の下で酒を酌み交わしたのは何年前のことだったんだろう。語り、笑い、そしてまた語る。たわいのない語りの中に、その人が本当に言いたいことが隠されている。きっと「桜の木の下で」とは「神の下で」の暗喩に違いない。酒を酌み交わし談笑する人たちを見て、僕はそんなことを思う。

sakura

夜の公園に再び出向いた。既に人影は殆ど無く、風は強い。枝ごと風で揺れる。揺れるごとに、街灯に反射し、闇夜にも係わらず何か大きな一つの生き物のように感じさせる。湿気の多い風だ、今夜は雨になるかも知れない。ベンチに座りその様を見ていると、昼間の不思議な感覚がよみがえる。この国に住む多くの人にとってサクラは特別な存在であり、それは僕にとっても変わりはない。でもサクラの一生は短い。だからこの特別な気持ちが、明日には一変することもあり得る。昨年、僕はサクラに熱中しながらも、サクラを擬人化すまいと心に決めた。その気持ちが少しだけ揺らぐ。明日、日曜日が穏やかな日であることを、僕は願う。

2007/03/26

「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 写真を撮ると言うことについて

「PHOTO IMAGING EXPO 2007」に行った時のことを語ろうと思う。内容は主に写真を撮るという「行為」に偏るかも知れない。でもそれは致し方がない。何故なら僕自身が写真を始めた動機がそれについて知りたいと思ったからだ。

展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。

現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 15

と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、それを期待しているかのような行動をしていることだった。

発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 9

彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている)によって、企業の宣伝効果は高まる。

それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・
アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。

コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 10

おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。

それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。

写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 1

例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット)し続けている姿と重なったのである。

恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。

目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。
そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 8

消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。

スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。
「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、現代写真ジャーナリズムの忘れることのない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。」
前者の「見ることの倫理観」を後に続く文章で無効化している。しかし、どのような場合にも「写真の方を選択する」ことへの批判的な問いを消去することは出来ない、と僕は信ずる。その写真が無思慮で身体の欲望のおもむくまま撮られた写真であっても、やはりそこには撮影者の倫理観が在るのは事実だと思うのである。そのうえで、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」での撮す者と撮される者との関係は、僕にはとても新鮮な状況として目に映ったのである。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 14

僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。

2007/03/23

北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。

哲学者の池田晶子さんが亡くなられたのを新聞で知った時とても驚いた。今月(3月)の3日のことだ(実際には亡くなられたのは2日)、まだ46歳の死は早すぎると言えば早すぎる。読者の立場から言えば、もうあの平易で奥の深い文章に接することが出来ないという、
一言で言えば残念な気持ちを強く味わった。

その彼女が北朝鮮のミサイル危機について面白いエッセイを書いている。この引用文章の前にイラク戦争に対し若者が「無力感を感じる」という言葉をテレビで聞き、それに応える形でエッセイは書かれている。以下に引用する。
「何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事みたいに生きているから、そういうことになるのである。
で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。 やっぱり私はそう思ってしまう。ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。」
(「週間新潮連載 「死に方上手」 平成15年7月3日号 池田晶子)
3月22日付けの産経新聞朝刊に記事「PAC3 皇居前広場 展開も」があった。日本のミサイル防衛(MD)システムの一環として、PAC3(パトリオット)の緊急時の配置場所として各自衛隊基地の他、皇居前広場を含む日比谷公園などの国有地・都有地の使用も検討しているそうだ。無論、緊急時がどのような基準で発令されるのかは僕には分からないが、一度配置されれば数ヶ月間はそこに設置されることになるのであろう。

僕としては日本のMD計画は全面的に反対の立場をとっている。理由は、Wikipedia「ミサイル防衛」の反対論の中にもあるが、イージス艦とPAC3との連携による防衛しシステムは完全ではなく、かつ膨大なコストを必要とする。しかし、Wikipediaの反対意見(賛成意見も含めて)、僕にとっては重要な一項目が抜け落ちている。つまりMD構想では、首都圏の一部、名古屋、京阪神、福岡などの大都市を中心に考えられているという点である。逆に言えば、たとえば金沢などの都市はイージス艦での防御のみでしか対応しきれないということになる。突き詰めて言えば、日本全土をミサイル防衛で覆うことなど現実的でない以上、どこを守るかということは、どこを切り捨てるかと言うことにもつながる。

日本にとって首都圏地域が最重要な場所であることの理由は、その経済的および政治的な側面からであるが、1人の人間の生死の立場でもの申せば、東京に何千万人住んでいようが、官僚体制の中心地であろうが、そんなの関係ない。それに、仮に北朝鮮が核弾頭を積んだミサイルを発射したとして、それが東京を狙ってとは限らない。ミサイル発射の目的にもよるが、地方都市を標的にする可能性は捨てきれない。たとえば、第二次大戦時に原爆が広島と長崎(小倉は天候不純というだけで回避された)という地方都市に投下された事実が物語っている。さらに、国際社会が、ミサイルを他国に撃ち込むことによって為される北朝鮮側のデメリットを考えれば、論理的に起こりえぬ可能性が極めて高い。

つまりは、可能性は極端に低いけどゼロではなく、その為に一部の政治家が騒いでいるとしか思えないのである。そしてその腹には、切り捨てる者と切り捨てられない者の区別がなされているのである。そう述べると、「じゃテポドンが飛んできたらどうるすの」という意見が必ず起きる。その際に、僕は上記に引用した池田晶子さんのエッセイを思い出すのである。
「北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。」
人は自分の生を全うするために生きている。テポドンごときでそれが変わるのは、一部軍事産業と政治家でしかない。ちなみに、引用した文の中で「生きても死んでも大差ない」とあるが、この意味を僕はハンナ・アーレントの言葉を借りれば以下のようになる。これも引用する。
「自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、私たちが理解しているような生と死はない。人間の生と死は、単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、他のものと取り換えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、その中に現われ、そこから去ってゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性をもち、相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。」
(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P152)
「生きても死んでも大差ない」とあるが、その「大差」ない人間は歴史上において唯一無二の存在でもある。無論、僕はむろん訳のわからぬうちに核で突然に死ぬのはごめんではある。しかしその気持ちは多くの方が同じではないだろうか、でも飛んでくるか飛んでこないかで日常を気にして生きるのはさらにごめんこうむる。

この点において米国におんぶにだっこしなさいというつもりではない。ただ、MDに使うコストを他の面に利用すれば、現在国民の最重要関心事でもある格差の問題解決の試行錯誤に多少なりとも使うことが出来る、もしくは援助が必要な諸外国に使うことで、「防御しています」というメッセージより「もっと仲良くなりたい」というメッセージを送ることが、
なによりもMD構想につながるのではないかと愚考するのである。

追記:たとえば日比谷公園に設置した場合、設置中は何ヶ月も公園の出入りが禁止される可能性が高い。公共の庭園を、安易に利用検討するその無神経さが気になる。そもそもこの記事を書いた動機はそこにある。

2007/03/19

産経新聞コラム「正論 教育改革は「道徳教科書」作成から」を読んで思うこと

産経新聞(2007年3月7日)のコラム「正論 京都大学名誉教授・市村真一 教育改革は「道徳教科書」作成から」(Clipmarks)を読み唸った。教育に関して門外漢ではあるが、このコラムに書かれていることは僕にとっては強く抵抗感を抱かせる。
「安倍首相が内閣の第1課題を教育とし、教育基本法の改正を成就されたことは、岸首相の日米安保条約改定につぐ、占領政策是正の重要な第二歩であって、真によろこばしい。だが国民の心の荒廃は実に深刻で、その治癒は容易ではない。なにしろ六十数年の積弊、一挙に改善する万能薬はない。どこから着手するか。」
「占領政策是正」とは使い古された言葉であるが、その内容は、僕などはとんと理解が出来ない。日本の現状は、仮に教育に関してだけを述べたとしても、根本を占領政策だけに求めるのは無理がある、と思うのである。それらの意見に共通することは、戦前の日本に対する郷愁である。しかもその戦前の日本は、江戸幕府以前ではなく明治以降に造られた日本の姿でもある。

「国民の心の荒廃」を叫ぶ者は、常に「荒廃」の外部に位置している。故に語りは上からの見下ろしで書かれることが多い。「私は違うが、周りはこうなっている、故に改善点は私が語れる」、もしくは「こうすればいいのに何故それが理解できないのか」等など。

市村氏のコラムもその語りを踏まえている。しかし、最も的はずれなことは、荒廃した心を持った国民に対して語られる内容にもかかわらず、市村氏自身の問題意識が国民と共有しているがごとき語り口だということだ。

仮に、市村氏の言うとおりに、国民の心が荒廃しているのであれば、上記の引用箇所は、既にその意味を失っている。市村氏は以下の二項目を緊急提言している。
「1、教師の任用更新を厳しくし、その基準を明示する。」
「2、道徳教科書の作成に着手し、著者を厳選する。」
対象は小・中・高等学校の教員となっている。市村氏の考えとしては、 「採用後2年を試用期間とし、最初は助教諭に、後に教諭に任用すること」としている。そして、 「ペスタロッチ等の有名な教育論のエッセンスを踏まえて、立派な「教育者の条件」は何かを真剣に考えた」結果、「(1)学力(2)親切(3)敬虔な心(4)品性」、の4項目となったそうである。

教師の「質」を考える場合、しかるべきスキルが必要であることは当然であると思う。スキルとして必要と思われるものは、担当とする教科のスキルは無論のこと、その他に、広い意味でのコミュニケーションスキルであることは特に異論はないと思う。

僕はここであえて「スキル」という言葉を使った。この意味は、これらの能力は技術として取得可能であることを示している。市村氏はコラムの中で、(2)親切の説明の中で以下のように語る。
「いじめる、ひがむ、憎む、恨むという類の情念や権力欲や支配欲の強い人は教師には向かない」
市村氏があげた「情念」や「権力欲」を持たぬ人間はいるのであろうか、さらにそれらの強い弱いは関係性の中で変化する、と僕は思う。「口頭試問でそれを識別すべき」とあるが、
実際問題としてそれは不可能に近い。仮に様々な測定手法を使い、その人の性格を把握し得たと思い込んだとして、その結果、逆差別がそこに派生する可能性はないと言えるのであろうか。人間性を数値的に判断する世の中が、逆に子供に与える影響を、市村氏はどのように思うのであろうか。

そうではなくて、技術として取得可能なスキルとして、教師に必要なスキルと経験程度を明示的に項目化し、その上で研修などでスキルを段階的に磨く手法を考えた方が、僕には現実的なように思う。さすれば、恣意的な「親切」「敬虔」「品性」などの、時代とともに、もしくは管理する側の変化とともに変貌する、これらの言葉は無用となる。
「日本人の魂を抜こうとした占領政策は、歴史地理教育をやめさせ、修身科を廃止させた。歴史地理は、文科省の努力の結果復活したが、修身が担っていた道徳教育はいまだに復活していない。知育・体育・徳育が並び進むべき事は教育論の常識であろう。」
ここまで来ると市村氏の個人的「恨み」、占領対策に対する「憎しみ」の強さが顕わになっている。市村氏が言いたいことはわかるし、頷く面もあるが、しかし根本的に僕に不明なのは、それほど現在の教育は悪いのだろうか、という事である。確かに、様々な問題はあるし、色々な事件も起きているのも知っている、でもそれでもなお市村氏の語りを聞き感じるのは、彼のヒステリー的な反応でしかない。つまり、市村氏の語りには、過去への郷愁と回帰が根底にあるが、時代はその方には流れていないのではないか、という思いである。

「知育」、「体育」、「徳育」、大いに結構ではある、しかしその根底に、人間の世界は多数性であり、1人1人が個別であり、得難く、かつそれぞれがそれぞれの生を満足しようと生きている、そのことがあるべきで、「徳育」という名の「国のために死ぬ」的な教育はごめんである。逆に「国のために生きる」ことは「自分の生を充分に生きる」ことと同じ事だ、くらいな「徳育」であれば、僕としては結構なことだと思う。

道徳の教科書も、仮に作るとすれば、思考する事、ものを考える事、そういう事に力点を置くべきだと信じる。と言っても、そういう内容であれば、市村氏からしてみれば、既に道徳の教科書とも言えないかも知れないが。

そう考えていくと、今の学生の有り様は、現代を写しているとも思えるのである。つまりは、片方に根強く市村氏がコラムで語られた考え方があり、しかし実際にはその方向には向かってはいない、でも流れをその方向に変えようとする力が、今の政府の中にあり、そこから現実との間に歪みが生じ、結果的に教員と学生に現れているのではないか、ということである。恣意的な言葉の羅列は美しいが、美しいが故に、言葉が一人歩きをする場合も多い、もっと技術的に考えていった方が良いのではないかと、僕は思う。

市村氏にとってみると、現在の日本は荒廃した心の人々の集まった所、と見られているのかも知れない。でも1人の人間の生を考えた時、老婆心ながら、そのように世の中も見る彼の心の不幸を偲ばずにはいられない・・・

追記:本記事で「Amehare's MEMO」も500エントリーを迎えた。しょうもない事ばかり書いてはいるが、それも500となると、良くも悪くもよく書いたものだと思う。

2007/03/15

オヤジについて考えた小さなメモ

吉田拓郎の「ふるさと」の歌詞は確か次のように始まっている。

「親父を愛し お袋を愛し 兄貴や姉貴を愛し そして 自分を愛す」

既にこの歌が現そうとしている「ふるさと」は、戦後の高度成長時代とともに解体されてしまっている。だから「ふるさと」を現すのに、歌い手は個々を一つ一つ取り出していくしかない。「ふるさと」を構成する「親父」「お袋」「兄貴」「姉貴」とは、同時に、解体されてしまった「家族」でもある。しかし、それら挙げている個々を総和しても「ふるさと」「家族」が現前することはない。だから最後に歌い手は、唯一の拠り所になってしまった「自分」を「愛す」と歌うしかないのである。

ただ、この歌の中での「親父」は愛されていた。それは現在のように、イメージ固定され流布している言葉ではなく、常に、それを使う者の特定の誰かであった。その点においては、現在において、「お袋」とは違っている。「お袋」は男性である息子が自分の母親に対して使う言葉で、それは今でも変わってはいない。「お袋」の「袋」とは、無論子宮であり、
かつて自分がそこにいて、そこから出てきた場所でもある。娘が自分の母親のことを「お袋」と言わないのは、自分自身も「袋」を具有しているからで、その点において娘は母親と対等関係にあるからだろう。逆に言えば、「親父」にはそのような特徴はない、よって「親父」に向ける眼差しは、少なくとも息子にとっては、彼の行動に向けられ、それが「親父」と接続される。

ネットなどで自らを「親父」「オヤジ」と呼ぶ方を、僕は不思議な存在として眺めている。僕にはない感覚。おそらくそれは、僕自身が父親を知らないことと無縁ではないだろう。3才の時に父親が病死した僕にとっては、決して中高年になった自分が父親と重なることはない。

自分を「親父」と呼ぶ為には、基準となるべき父親の存在が不可欠と思う。しかし、ネットの中で自分を「親父」「オヤジ」と呼ぶということは、他者が見ても納得する、社会の中で共有化された「オヤジ」像も必要となる。しかし、一体そのような「オヤジ」像は存在するのだろうか。

ある面で言えば共有化された「オヤジ」像は、息子・娘からの視点で構築されたのは間違いない。自らを「オヤジ」と呼ぶ時、そこに息子・娘の視線を意識しているのもあるだろう。いうなれば、「オヤジ」という言説(といっても差し支えなければ)には「他者性」がない。満員終電車の中で顔を赤くした男性が酒臭い息を嗅ぐ時の嫌悪感は、自分の父親像と接続され、その男性を「オヤジ」と呼ぶ。また、社会において押さえ込まれた中高年の性への衝動が、時折ふとした弾みで顕わになる時、彼は「オヤジ」と呼ばれる。現代において
「オヤジ」とは特定の誰か、つまりは自分の父親のことだけを指してはいない。「オヤジ」とは、公的領域と私的領域の中高年男性の双方の落差である。それは態度であり、顔であり、言動であり、そのほか諸々の中に現れる。

落差があればあるほど「オヤジ」としての強度は増す。例えば、山田太一監督作品の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんは、年齢を重ねても「オヤジ」と呼ばれることはない。何故なら彼の生活領域は全て私的領域であるから、落差が起こりえようがないのである。そういった意味では、彼は常に安定している。何故落差が起きるのか。というか、落差が少しもない男性など現実にはいないとは思うのだが・・・・。「公的領域」が立ち上がることのなかったこの国で、「社会」が衰退していく一方のこの国で、「美しい日本」とJRキャンペーン並みのコピーを述べたとしても、それらに「国」が代わるとは思えない。私的領域のさらなる浸食で、元々「公私」の区別を論じること自体無意味な中で、それでもなお、「会社」もしくは様々な「仕事の場」が「公」と信じて疑わない男たちは、その場を一歩離れた瞬間に私的領域の「顔」に変貌していく。その顔は、家庭の奥まった中で、今まで家族以外の誰にも見られることがなかった顔である。

公的領域が立ち上がらなかったとはいえ、それでも少し前までは、「会社」と「家庭」の間は「見知らぬ他人と交差する場」との意識があったと思うが、それも「私的領域」に浸食され殆ど無くなった。その結果、「オヤジ」が、その他の様々な妖怪達(笑)とともに顕れたのだ。
「中高年男性らでつくる「東広島おやじ連」が一般公募していた父親応援歌の歌詞が広島県内から50編余り寄せられ、100番までの応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」が完成した。ユニークな詞が多く、市内で来月開く「おやじサミット」で発表」
(中国新聞 2007/1/19)
♪でてこい!おやじ!♪」の歌詞100番の内容は、「 おやじの生き様見せてやれ おやじの背中で見せてやれ 汗水たらして働いた おやじの勲章みせてやれ」となっている。別に本歌詞を批判するつもりはない。ただ、作者は誰に「おやじの生き様」を見せたいのだろうか。自分の息子・娘であれば、家庭の中で、愛されようが、憎まれようが、無視されようが、父親としての「おやじ」は了解されている。ただ悲しいことに、「おやじの背中」・「おやじの生き様」を見せたくても、見て欲しい人は「働く」だけでは見てくれない。さらにタイトルの「♪でてこい!おやじ!♪」とは、どこに出て行けば良いのだろう。

おやじの定義などを聞くのは野暮であるし滑稽でもある。そんなことはどうでも良い。ただ一つ言うとすれば、「生き様」を見せるためには、「働く」姿を見せることではない。人が人を認めるのは、他に変えられぬ存在だからだと僕は思う。現代において、それは彼自身の固有の行動と言論においてのみ、それが得られると思うのである。ゆえに「仕事」と「労働」だけでは、その人が行動しているとは誰も思わない。「汗水たらして働いた」姿を見せるより、毎朝近所を掃除する姿、もしくは家事の手伝いをする姿のほうが、息子・娘は父親を誇りに思うことだろう。

何故、この歌名に「おやじ」を使っているのだろう。実をいえばこの記事は、応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」、のことをNHKで見知ったことが発端になっている。たいした意味はない、とは思うが、だからこそ時代の反映がそこに隠されている。色々な言葉に接頭語として「おやじ」が付けられるようになってから随分と経つ。そしてその過程は、おそらく、「社会」の衰退と同期を持っているように思うのである。無論、「社会」が画一主義と同義であれば、それは大いに結構なことだ。ただその場合、公的領域なきこの国で、いかなる事柄が人々に要請されるかと言えば、それは行動主義に他ならないように思える。私的領域での行動主義は、時として、他者の存在を拒む。

「おやじ」という言説そのものが、「他者性」を排除している、と僕は思う。僕は貴方の「おやじ」でもなければ「父親」・「息子」でもない。お互いに、この世界に今まで現れたことがない者同士として、同時代を生きる。それは「見せてやれ」との命令ではなく、対話と了解しあうこと、それがやはり大事なのではないかと思うのである。

2007/03/07

写真よ、ブレろ!



最近自分が撮ろうと思う写真は、美しさを排除したい、叙情性を排除したい、感傷を排除したい、色彩を排除したい、明るさを排除したい、空気感を排除したい、そんなことを願う。

あるがままの現実など信じない。ただ写真にあるのは写真でしかない。自分が見た色を信じない。自分の写真のピントを信じない。僕はおそらく自分の撮った写真を信じない。

帰り道になんでもない月夜を撮った。ビルとビルの狭間にある暗い道。空には煌々と光る月。写真を撮る動機こそが、僕にとって重要な問題であり、根本はそこにある。写真を撮る価値を認めない写真を撮りたい。

後々詰まらぬと自分自身が見向きもしない写真を撮りたい。それらの写真の集積に、おそらく僕は僕を見つける。商品価値のある「自分」ではなく、その真逆の自分。もっとブレろ!、意識せずに写真よブレろ!

2007/02/28

メモとして残す映画「墨攻」を観ての直後の感想、それは一つの脱力感


昨日映画「墨攻」を観た。とても良い映画だと思ったし、何よりも面白かった。その面白さは、アクションとしての展開の早さとその強度の強さによるところが大きいのだとは思うが、それ以上に何より魅力あふれる登場人物、そしてそれを演じる俳優の力量が大きいと思う。

映画「墨攻」のあらすじをここで書くつもりはない。ここでは未だ考えがまとまらない僕自身の気持ちを、思いに任せて綴ろうと思う。一言で言えば、この映画のメッセージ性はわかりやすい。なおかつ、この映画がアジアの3カ国(香港を含む中国、韓国、日本)の映画人たちが結集して造られている。おそらく、このメッセージ性の強さは3カ国の合作によるところが大きいのだろう。

一つの点で彼らの意見はまとまる。それは映画中において墨家の思想として何度も現れる、「非戦」と「兼愛(万民を愛す)」ということなのかもしれない。メッセージ性の強さは、では一つの解釈にまとまるかと言えば、そんなことはない。これはあくまで僕の想像なのだが、いくつかのパターンに分かれるように思える。例えば、多くの映画は一人の主人公の視点で描かれることが多い。それ故、観客はその主人公に自分を同化してしまうものだ。逆に言えば、対する人物の考えを二項対立化し否定する。

圧倒的な軍事力の巷淹中(こうえんちゅう)とそれに対する革離(かくり)、その構図は一方を米国と見なすことは可能だろう。さらに欲望の権化となる梁国王は言わずともながである。その中で革離を誰におくか、この映画が中国で評判を呼んだのは、とてもよくわかる、云々。


別の見方をすれば、巷淹中は軍隊の指揮官がそうであるように、常に死者のことを語る。死者(戦死者)を悼み、それを力にして戦いへの士気を持続させる。それに対し、革離は生者のことを語る。人生には生きる価値があり、それは奴隷状態ではない。そして戦いでの死は、ある意味無意味なのである。これらのメッセージで、日本における憲法論議を想起させることも可能だろう、云々。

「非戦」と「兼愛」をキーワードにした様々な解釈は、僕には脱力感しか与えない。でもそれらがこの映画を観るものが簡単に得ることができるメッセージであるのも事実なのである。「万人を愛する」墨家の思想にたいし、革離に助けられた男は彼に向かって告げる、「誰を愛するのか間違っていないか」。顔のない万人を愛することの不可能性を告げるのである。それにより革離は顔のわかる相手、つまり彼が愛する女性を助けるために再び梁城に戻る。その箇所は、唯一といっても良いほど、この映画で僕にとって救いとなるメッセージである。

しかし、結果的に革離が愛する女性は死ぬ。それも革離の戦術の結果によって。思い起こしてみれば、この戦いで登場人物の全員の希望は絶たれる。梁国王の希望の息子は殉死し、巷淹中は敗北を味わい、革離は救いたいと願った女性を失い、戦士たちは戦いの意味を失う。そのほか、顔も見せず言葉も発せずに、実に多くの人員がこの戦いで死ぬ。

それらもこの映画でのメッセージの一つなのだとは思うが、ただ救いがない。僕にとって、革離の愛する女性(逸悦:いつえつ)の死ほど、この映画の象徴性を出しているシーンはない。逸悦は梁王に謀反人の罰で声帯が失われ地下牢に投じられる。水攻めにより梁城奪還を果たした革離は逸悦を探し回る。どんどんと水が地下牢に浸水し彼女は溺れ死ぬ。

逸悦が溺れるのは二度ある。一度目は偵察の時に敵に見つかり逃れるために川に飛び込む。その際彼女は革離に、自分は泳げないことの伏線を与えている。その時も彼女は溺れるが革離が助ける。水没した地下牢から革離は逸悦を見つけるが、今度は助けることが出来なかった。しかもそれまで、革離は何度も地下牢の上を通り過ぎる。彼の智力を持ってすれば、逸悦が造った靴を見つけたときに、即時に地下牢にいることがわかるはずである。しかし彼は地下牢の上を何回も走り回るだけにすぎなかった。

この無意味な程の革離の「走り」は何を意味するのか。愛する者が誰であるかを識るが、求めるものは決して得ることができず徒労に終わる。そして愛するものを殺すのは自分に他ならない。しかし、その様なメッセージを誰が受け入れることができるというのだろう。戦によって、人は何も得ることが出来ないし、得ることを許しもされない。

脱力するほどの結論とはいえ、革離の「走り」が意味する物は大きい。映画の最後に革離のその後が簡単に語られる。孤児を連れて諸国に平和を説いた、その後日談にたいし、「孤児」という象徴性はともかくも、脱力感故に、全体的に虚しさを感じたのは事実である。

ひとつだけ、僕にとって希望をもたらせることがあるとすれば、それは全員が映画の登場人物になることにある。無数の名もなき声もなき人たちとして描かれるのではなく、主要登場人物のように自分の生を生きる。そして相手もその様な人物として扱う。それが現実態だとしても、なおさらに人間の複数性のなかでの個人の在り方を考えてしまうのである。これも脱力するほどの結論とはいえ、映画「墨攻」を見終わった直後に一番強く感じたのはそのことに他ならない。

2007/02/21

駒沢公園の樹木伐採に関するメモ

昨年の夏頃と思うが、駒沢公園の樹木が管理事務所によって一斉に伐採された。公園は都立であるので、伐採には都の認可が必要なのだから、それは都庁の何処かの部署が決済したのは間違いない。伐採の事前公告もなかったように思える。

それはいきなりに開始され、数日間続いた。問題なのは、その伐採の仕方であった。無造作に、一定の高さ以上の樹木は、無論、特定の区域だけだが、何も考慮されず切り落とされたのである。多くの樹木は根からの養分だけでなく、初夏の場合、葉からも自らの成長に必要な養分を取り込むはずである。だから、素人が考えても、樹木のどこをどの様に伐採するのかは、ある程度の専門知識が必要だと僕は思っていた。でも一度だけ、作業中の横を通っただけだが、ちらりと見たその作業内容は、チェーンソーでなぎ切っているとしか見えなかった。

公園の中で、特に知られている刈り込みは、「大刈り込み」と命名され、大きく立体的にふくらむ優美な姿を見せていたし、説明看板まで近くにあったというのに、今ではその看板も取り外され(た様に思える)、ただ無惨に刈り取られた樹木が裸木の集団となってそこにあるだけとなった。

しかし、刈り取られた結果、露わになったものもあった。そこかしこに青いシート屋根が目立つようになった。公園内の長期滞在者と言うべき人たちの家の屋根である。もちろん、公園の近くに住んで、度々にここに遊びに来る人にとって、それは周知のことだった。でもこうして露骨に見えると、こんなにも多かったのかと初めは少し驚いた。こうも青いシート屋根が見えると、この無造作な伐採、つまりは樹木の生命の強さを勝手に信じ伐採した行為自体が、これらの人々への嫌がらせではないかと思ってしまうほどだった。

そう思った理由は、その方々が住んでいない場所の樹木の伐採が行われていないこと、偶然かも知れないが、そういう風に見える状態に気が付いたこともある。正直に言えば、僕は彼らが樹木の伐採で受けた精神的圧迫に対し同情心も起こらないし、それを行った行政側に憤りを持つこともない。ただ、僕が思っているのが事実であるとすれば、無惨なのは樹木だとは思う。

本来、青いシートの屋根の人たちと、例えて言えば六本木ヒルズの高見に住む人たちは、中産階級の役人たちから見れば、シーソーの両極端に坐る事で似ているように思えるものだ。例えは悪いが、昔から貴族と浮浪者は放蕩者と相場が決まっていた。貴族はギロチンにかけられ、浮浪者はムチで追い払われる。現在でもその状況は変わらない。それは新聞の見出し、それは中産階級者のストレスを発散させるための道具としてのメディア、を見れば一目瞭然だと思う。ヒルズの住民のどうしようもない裁判に注目し、知らぬ間に都市再開発の風が街の有様を変えていく。そこで両者の行き場が、我ら中産階級の中へと取り込まれる。

ただ樹木伐採の後も、青いシート屋根は以前と同じ状態で、そのままそこにある。現状では、他に行きようがないのであるから、そしてこの場所での生活に馴染んでいることもあり、伐採自体が彼らにとって何の効果もなかったのは事実だろう。

今年の春から夏にかけて、切り取られた樹木は、人の営みに関係なく、たくましい命を僕に見せてくれるのであろうか。そうであって欲しいと願う。

2007/02/13

小説から映画に繋がる「ジョイ・ラック・クラブ」の遺伝子情報について

The Joy Luck Club
映画とその原作となる小説との間に横たわる溝は決して埋まることがない深さを保っている。
映画には映画で使われる言葉と世界を持ち、小説は小説で使われる言葉と世界を持つ。それでも、両者を較べ、どちらがより良いなどと述べることの過ちを僕は幾たびか繰り返してきた。
そしてその過ちは、「私」という世界に取り込むための過程の中で、「私」を保全するための、いわば発熱状態の中でおこなわれている様に思える。二つのメディアで、ほぼ同時に、似た内容のものを取り込んだのだ。
しかも両者とも記憶に残る優れた作品であれば、「私」のなかで、それらを如何に昇華させるかは、ひとつの事件となって「私」の精神を揺さぶったとしても不思議ではない。発熱を静めるための一つの処方として、どちらかが優れていると定め、片方を捨て去ることもあり得る。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」は素晴らしい映画だった、それは多少の苦痛を伴いながらも僕の中に取り込まれた。小説「ジョイ・ラック・クラブ」も素晴らしい小説だった。しかし小説の「ジョイ・ラック・クラブ」は、未だに「私」の中で発熱を促す異物となって留まり続けている。

幾つもの小さな疑問が小説を読んで浮かぶ。それは不思議なことに、映画では感じることがなかった疑問である。疑問という言葉が適切でないのを実感しながら、僕はこの言葉で綴っている。しかしそれに合う適当な言葉が見つからない。

矛盾をきたすようだが、小説を読んで浮かんだ疑問は、映画を観て浮かぶことがなかった疑問を掘り返しているのである。つまり、小説を読んだ結果、映画が再び活性化した異物となって私を捕らえている、そういう状態に陥っている。しかも今回は片方を捨て去ることで解決することは出来ない。「私」の中の二つの異物は、「私」の中で昇華させなければならない。さすればきっとそこから、新たな「ジョイ・ラック・クラブ」が生まれることだろう。それはウィルスが身体に侵入し抗体を造るのに似ている。ウィルスは「私」にとっては異物であるが、それによって造られる抗体は「私」の身体の一部となる。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」の脚本スタッフに原作者のエィミ・タンがいたのは間違いない。それは映画の最後に現れる一連の製作スタッフに名前を見つけたから言っているのではない。原作者がこの映画に大きく関与している状態が、映画の隅々に現れていると思えたからだ。それも小説を読んで、自分なりに確信したことに過ぎないのであるが。

この映画と小説は、ある意味補完関係にあるように思う。無論、映画と小説を物語の筋で見比べると、違いは幾つもある。しかし、それらの違いは概ね小説の意図を崩してはいない。それよりも映画は、小説で読者が当然に思う疑問、「その後、彼女たちはどうなったのだろう?」 を解消することも担っていた。

例えば、割り勘の夫婦となった娘の家は母の言うとおりに崩壊したのだろうかとか、裕福な白人アメリカ人と結婚した娘は本当に離婚したのだろうかとか、そういうことだ。また映画が使用する言語は映像であるため、それらはテキストとしての言葉より強度を必要とする時もある。それにより小説と内容が変わった場面も多かった。浮気性の男と結婚し、彼との間に出来た赤ん坊を殺す場面では、映画では産まれている赤ん坊を茫然自失状態の中で桶の中に沈めてしまうのに対し、小説では赤ん坊は中絶し殺すことで表現されている。

それらを一つ一つ語るときりがない。両者は似ているようで違う、違うようで似ている。映画は、まるで小説という「母」から生まれた「娘」のようだ。でも母と娘の関係である以上、母から受け継いだ遺伝子を娘が受け取っているのも事実である。それらを幾つか僕は感想として載せようと思う。

1.理念化された中国

「ジョイ・ラック・クラブ」に登場する母親達4人は全員中国で生まれ育った。そしてやむにやまれぬ状況で米国に渡ってくる。
 「アメリカに着いたら、わたしそっくりの女の子を産むわ。女の価値は夫のゲップの大きさで計られるなんて言う人は、向こうにはいないでしょうよ。人から見下されないように、娘には完璧なアメリカ英語を身につけさせるわ。向こうに行ったら、娘はいつも満腹で悲しみなど入り込む隙間もないでしょうね! 自分が望む以上のものになったこの白鳥を娘にあげれば、きっと娘はわたしの思いを汲んでくれるはずだわ」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
母親達はいずれも何らかの事態で、自分達が生まれ育った中国に失望を抱いている。それこそ、「女の価値は夫のゲップの大きさで計られる」 国だったのである。さらに旧日本陸軍が中国を侵攻していた時代でもある。飢えと身に迫る危険、時代の状況も渡米を促すことにもなる。

しかしだからといって、彼女達が生まれ育ち身に付いた文化的資産を、渡米と一緒に中国においてきたかと言えば、そういうことではない。むしろ彼女達にとって、第二の人生の場となる米国で生き抜くための重要な指針として育っていったと言っても過言ではない。

しかも米国での生活空間は中国人同士との繋がりが強く密接でもある。その生活空間の中で、彼女達の文化的資産が、現実の中国を離れ、独自に展開していった様に思う。それは言わば理念としての中国であり、その中で母親達は中国人としての自覚を保ち続けた。しかしそれは現実に中国で生活する人の世界とは違っていた。
「去年、四十年ぶりに戻った中国で、それと似たことを経験した。わたしは派手な装身具を取り外した。派手な色も身につけなかった。彼らの言葉でしゃべった。彼らと同じ通貨を使った。それでも、彼らには見抜かれた。わたしが純粋な中国人の顔をしていないことを。彼らは、わたしに外国人向けの値段を吹っかけてきた。
わたしは何を失ったのだろう? その代わりに何を得たのだろう? 娘はどう感じているのか聞いてみたいと思っている。」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
彼女が失ったものは、渡米してからの40年間という、中国での時間である。得たものは、それに変わる米国での時間とも言える。彼女達の「理念化した中国」の土台は、渡米する前の中国、つまり1940年代までの中国でもある。どちらが「純粋な中国人の顔」をしていたのか、それは誰にも答えることが出来ない、と僕は思う。言えることは、その事実、つまり彼女達が大事に育てあげてきた括弧付きの「中国」は、時代と共に変化することがなかったということなのだ。無論、母親達は中国人である。しかし彼女達が自らを「中国人」として意識し表明できるのは、中国以外の場所、特に米国でしかなかった。

2.母と娘

母親達が願ったように娘達は完璧なアメリカ英語を操るようになった。
娘達が育った30数年の間、米国も含め世界は大きく変貌した。グローバル化、あるいは多文化主義的な世界観は、当然にその時代を生きる娘達に影響を与えずにはいられない。
「そのとき、私は思い当たった。彼女達は恐れているのだ。私を自分達の娘と重ねてみているのだ。私と同じように無知で、彼女達がアメリカに持ち込んだ真実や願いをまるで気にかけない娘達のことを。中国語で話しかける母親をじれったく思い、片言の英語で説明する母親を愚かだと思う娘達のことを。おばさん達は、ジョイ(喜)とラック(福)が娘達にとってもはや同じ意味でないことを、アメリカ生まれの娘達の閉ざされた心には”喜福”が一つの言葉としては存在しないことを知っているのだ。いつか孫を産んでくれる娘達が、代々伝えられてきた希望のつながりと断絶してしまったことを知っているのだ。」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
娘達が母親達のことを理解しない部分は、理念化しそれが母親達の信念とまで昇華した「中国」のことであると、僕は思う。頑なに時代の変化に流されるのを拒み、その中で大事に育ててきた「中国」、しかしそれは当然に娘達に受け入れることが出来ない理念でもあるのだ。

娘達にとっても、自分たちの生活空間は、同様の中国系アメリカ人達による親密圏でもある。その親密圏で培われてきた信念は、理由はわからずとも、娘達に足かせとなり、逆にそれが彼女達をしてその親密圏を脱したいという気持ちに繋がっていったのではないだろうか。

娘のアメリカ人化はそのように始まっていったと僕は思う。 そしてますます娘は母を理解できなくなっていく。母から娘を見れば、それは同一の存在でもある。瓜二つの顔、そして性格、もしくは似ているように見える人生の歩み。しかし娘は母との違いを気持ちの中で列挙する。たどたどしい英語、因習に絡まった言葉、中国人同士の社会。それは一言で言えば、「同一」と「差異」の問題でもある。母は「同一、平等」を望み、娘は「差異、区別」を求める。

母親達は自らの生い立ちと歩んできたことを率直に娘達に語り始めることでその境界を越える。両者の対立は、愛情深きが故のすれ違いから発しているのである。母は娘の幸せを願い、娘は母に心配をかけまいとする。それは互いに同性であること、そしてそこから発生する問題への相互の理解と承認により、母と娘は互いの問題を自分の問題として考えるきっかけとなった、と僕は思う。

この小説ではジェンダーの話は避けては通れない。何故、母と娘なのか。母と父、娘と息子、もしくは性とは関連しない固有の性格、それぞれの組み合わせは無限に近いかも知れない。しかし「ジョイ・ラック・クラブ」では「母と娘」の話となっている。しかも「ジョイ・ラック・クラブ」 の構造は、常に現時点で娘が抱える問題に符合する姿で、母の過去がさらけ出される。 その世代間の縦に串刺しされる女性であることにより起こる問題は、主人公(既に母親は亡くなっている)の存在により、母と娘の双方に、 今度は横に繋がっている。

3.ジェンダー

母と娘の関係を近づけさせたのは、親子としての関係(親密圏)よりは同性としての繋がりであった。ここで実際に「ジョイ・ラック・クラブ」本編中の2編について考えてみようと思う。一つは 「割り勘の結婚」、リーナ・セント・クレアを主人公とする物語、もうひとつは「虎年の娘」、インイン・セント・クレアでリーナの母親の物語である。この二つの物語は、他の母と娘の物語の組み合わせも同様だが、構造が同じということではなく、状況に対応する行動と思考が母と娘とで重なっている。

「割り勘の結婚」では夫婦両者に共有するモノの費用は折半している。
「きみと同じように、ぼくもいわれのない金は受け取りたくないんだ。
金のことを別々にしている限り、お互いの愛情にいつも確信がもてるからね」

わたしは抗議したかった。こう言ってやりたかった。「違うわ! 私はそんなふうに考えていないの。今までの私達のやりかたは好きじゃないのよ。本当は、お互いに自由に与え合うやり方が好きなのよ・・・・」でも、どこから始めたらいいのかわからなかった。すべてを与え合う素晴らしい愛の形を彼がこれほどに恐れるなんて。誰に、どの女にそこまで傷つけられたのか、彼に聞きたかった。」
別々、つまり「割り勘」であることでリーナの夫ハロルドは、お互いの愛情に確信が持てるという。しかしそれは本来のリーナのやり方ではない。しかしハロルドを素晴らしい男性と思い、彼と結婚を望むリーナにそれを強く主張することはできない。逆に彼に嫌われまいとハロルドの好みの女性になろうと努力をする。しかし、その努力もハロルドの頑な平等性に、常に不満を持ち続ける。知らぬ間にリーナの家庭は崩壊の危機に瀕している。しかしそれを知るのは、 リーナの母であるインインだけである。

「虎年の娘」では中国の裕福な家で生まれ育った母(インイン)は一人の男性と恋に陥る。そしてインインもその男性が喜ぶような女性になろうと心がける。しかしその気持ちは夫となった男性がインインを捨てオペラ歌手の元に去ったときに完全に裏切られる。そしてその男性が数多くの女性と、その中には見知った従兄弟も含まれる、浮気をしていた事実を知る。しかしその時はインインはその男の子供を宿していた。
「リーナに、私の恥を話そうと思う。わたしが裕福で美しかったことを。どんな男にももったいないような娘だったことを。物のように捨てられたことを。十八にして頬から美しさが消えてしまったことを話そう。恥辱とともに湖に身を沈めた女達のように、身投げをしようとしたことを。その男を憎むあまり、お腹の子供を殺してしまったことを。 (中略) その男の長男が体内から引き出されたとき、どす黒い復讐の念が私を満たしたからだ。死んだ赤ん坊をどうしようかと看護婦に聞かれたとき、わたしは新聞紙を放り投げて、魚みたいにそれに包んで捨ててくれと頼んだ」
その後インインは数年間、その男が死ぬのを望んだ。そしてそれが叶ったとき、その男は別の浮気相手に刺し殺される、彼女は現在の夫であるセント・クレアと再婚する。そしてその過程で自分が「虎」であることを自覚していく。

「割り勘の結婚」のリーナの夫ハロルドと「虎年の娘」のインインの最初の夫との共通項とは、特別であるはずの女性に対する「公平」さかもしれない。ハロルドは会社内においてもリーナを他の事務員と区別は一切しない。それは私的空間である家庭内でも同様である。
インインの最初の夫は、彼の浮気相手の女性とインインを区別しない。映画ではその夫が浮気相手にインインを紹介するとき「淫売」という。無論それは、自分と自分の浮気相手に跳ね返る言葉でもある。

また別の見方をすれば、ハロルドと最初の夫は、リーナもしくはインインと結婚する以前に既に結婚をしていたとも捉えることができる。それぞれの男性の結婚相手はハロルドの場合仕事であり、インインの最初の夫は他の多くの女性だった。「重婚」の概念は古いが、父権制がホモソーシャル体制として捉え直すことが可能となるジェンダーのセオリーでは、新しい観念となって登場する。

つまり多くの男性は、結婚する前に既に父権制の基で、それを強化する何かと結婚しているという捉え方である。インインは娘であるリーナが結婚したハロルドが、自分の最初の結婚相手と結局は同じであることを見抜いていた。故にリーナの家庭は崩壊する他はなく、その中で娘を救う道は、娘が自分を「虎」であることを自覚することとなる。ここにきて「虎」の意味がジェンダーとしての「女性」であることが明確となる。そして互いに「虎」であることで、母と娘はさらに強い絆を持つことができる。

4.まとめ

4人の女性が飲食しながら楽しげに麻雀をするクラブ、ジョイ・ラック・クラブのキーとなる数字は「2」だと思う。米国で行われるようになったジョイ・ラック・クラブも2度目のクラブであることが、それを象徴的に表している。その他にも「2」にまつわる話も多い、例えば一番重要な「2」は母と娘、でもジェンダーのセオリーでは「2」は「3」にすり替わる。「3」は誰かが他者になり得る。そしてその他者とは、おそらく「女性」自身のことなのかも知れない。

小説も映画も、以前の中国と現在の米国の比較などは一切していない。そこにあるのは、以前の中国も現在の米国も女性にとっては何も変わらぬ世界であるのだ。(映画での中国の描き方には、明らかにオリエンタリズムを感じる)
男性である僕がこのような読み方をするのは偽善的かも知れない。しかしそれを承知で「ジョイ・ラック・クラブ」の感想をまとめてみた。僕はこの小説と映画を読み切ったのかと自問してみる、無論そこには答えなどない。その問い自体が無意味であると、僕の感性は告げる。では有意な問いとは一体何かと逆に問い返す。おそらくその問いへの回答は、僕自身の男性性によって阻まれている。逆に言えば、その阻むモノを見つめることが、小説と映画の 「ジョイ・ラック・クラブ」を読むと言うことなのかも知れない。そんなことを思う。