2007/02/13

小説から映画に繋がる「ジョイ・ラック・クラブ」の遺伝子情報について

The Joy Luck Club
映画とその原作となる小説との間に横たわる溝は決して埋まることがない深さを保っている。
映画には映画で使われる言葉と世界を持ち、小説は小説で使われる言葉と世界を持つ。それでも、両者を較べ、どちらがより良いなどと述べることの過ちを僕は幾たびか繰り返してきた。
そしてその過ちは、「私」という世界に取り込むための過程の中で、「私」を保全するための、いわば発熱状態の中でおこなわれている様に思える。二つのメディアで、ほぼ同時に、似た内容のものを取り込んだのだ。
しかも両者とも記憶に残る優れた作品であれば、「私」のなかで、それらを如何に昇華させるかは、ひとつの事件となって「私」の精神を揺さぶったとしても不思議ではない。発熱を静めるための一つの処方として、どちらかが優れていると定め、片方を捨て去ることもあり得る。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」は素晴らしい映画だった、それは多少の苦痛を伴いながらも僕の中に取り込まれた。小説「ジョイ・ラック・クラブ」も素晴らしい小説だった。しかし小説の「ジョイ・ラック・クラブ」は、未だに「私」の中で発熱を促す異物となって留まり続けている。

幾つもの小さな疑問が小説を読んで浮かぶ。それは不思議なことに、映画では感じることがなかった疑問である。疑問という言葉が適切でないのを実感しながら、僕はこの言葉で綴っている。しかしそれに合う適当な言葉が見つからない。

矛盾をきたすようだが、小説を読んで浮かんだ疑問は、映画を観て浮かぶことがなかった疑問を掘り返しているのである。つまり、小説を読んだ結果、映画が再び活性化した異物となって私を捕らえている、そういう状態に陥っている。しかも今回は片方を捨て去ることで解決することは出来ない。「私」の中の二つの異物は、「私」の中で昇華させなければならない。さすればきっとそこから、新たな「ジョイ・ラック・クラブ」が生まれることだろう。それはウィルスが身体に侵入し抗体を造るのに似ている。ウィルスは「私」にとっては異物であるが、それによって造られる抗体は「私」の身体の一部となる。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」の脚本スタッフに原作者のエィミ・タンがいたのは間違いない。それは映画の最後に現れる一連の製作スタッフに名前を見つけたから言っているのではない。原作者がこの映画に大きく関与している状態が、映画の隅々に現れていると思えたからだ。それも小説を読んで、自分なりに確信したことに過ぎないのであるが。

この映画と小説は、ある意味補完関係にあるように思う。無論、映画と小説を物語の筋で見比べると、違いは幾つもある。しかし、それらの違いは概ね小説の意図を崩してはいない。それよりも映画は、小説で読者が当然に思う疑問、「その後、彼女たちはどうなったのだろう?」 を解消することも担っていた。

例えば、割り勘の夫婦となった娘の家は母の言うとおりに崩壊したのだろうかとか、裕福な白人アメリカ人と結婚した娘は本当に離婚したのだろうかとか、そういうことだ。また映画が使用する言語は映像であるため、それらはテキストとしての言葉より強度を必要とする時もある。それにより小説と内容が変わった場面も多かった。浮気性の男と結婚し、彼との間に出来た赤ん坊を殺す場面では、映画では産まれている赤ん坊を茫然自失状態の中で桶の中に沈めてしまうのに対し、小説では赤ん坊は中絶し殺すことで表現されている。

それらを一つ一つ語るときりがない。両者は似ているようで違う、違うようで似ている。映画は、まるで小説という「母」から生まれた「娘」のようだ。でも母と娘の関係である以上、母から受け継いだ遺伝子を娘が受け取っているのも事実である。それらを幾つか僕は感想として載せようと思う。

1.理念化された中国

「ジョイ・ラック・クラブ」に登場する母親達4人は全員中国で生まれ育った。そしてやむにやまれぬ状況で米国に渡ってくる。
 「アメリカに着いたら、わたしそっくりの女の子を産むわ。女の価値は夫のゲップの大きさで計られるなんて言う人は、向こうにはいないでしょうよ。人から見下されないように、娘には完璧なアメリカ英語を身につけさせるわ。向こうに行ったら、娘はいつも満腹で悲しみなど入り込む隙間もないでしょうね! 自分が望む以上のものになったこの白鳥を娘にあげれば、きっと娘はわたしの思いを汲んでくれるはずだわ」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
母親達はいずれも何らかの事態で、自分達が生まれ育った中国に失望を抱いている。それこそ、「女の価値は夫のゲップの大きさで計られる」 国だったのである。さらに旧日本陸軍が中国を侵攻していた時代でもある。飢えと身に迫る危険、時代の状況も渡米を促すことにもなる。

しかしだからといって、彼女達が生まれ育ち身に付いた文化的資産を、渡米と一緒に中国においてきたかと言えば、そういうことではない。むしろ彼女達にとって、第二の人生の場となる米国で生き抜くための重要な指針として育っていったと言っても過言ではない。

しかも米国での生活空間は中国人同士との繋がりが強く密接でもある。その生活空間の中で、彼女達の文化的資産が、現実の中国を離れ、独自に展開していった様に思う。それは言わば理念としての中国であり、その中で母親達は中国人としての自覚を保ち続けた。しかしそれは現実に中国で生活する人の世界とは違っていた。
「去年、四十年ぶりに戻った中国で、それと似たことを経験した。わたしは派手な装身具を取り外した。派手な色も身につけなかった。彼らの言葉でしゃべった。彼らと同じ通貨を使った。それでも、彼らには見抜かれた。わたしが純粋な中国人の顔をしていないことを。彼らは、わたしに外国人向けの値段を吹っかけてきた。
わたしは何を失ったのだろう? その代わりに何を得たのだろう? 娘はどう感じているのか聞いてみたいと思っている。」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
彼女が失ったものは、渡米してからの40年間という、中国での時間である。得たものは、それに変わる米国での時間とも言える。彼女達の「理念化した中国」の土台は、渡米する前の中国、つまり1940年代までの中国でもある。どちらが「純粋な中国人の顔」をしていたのか、それは誰にも答えることが出来ない、と僕は思う。言えることは、その事実、つまり彼女達が大事に育てあげてきた括弧付きの「中国」は、時代と共に変化することがなかったということなのだ。無論、母親達は中国人である。しかし彼女達が自らを「中国人」として意識し表明できるのは、中国以外の場所、特に米国でしかなかった。

2.母と娘

母親達が願ったように娘達は完璧なアメリカ英語を操るようになった。
娘達が育った30数年の間、米国も含め世界は大きく変貌した。グローバル化、あるいは多文化主義的な世界観は、当然にその時代を生きる娘達に影響を与えずにはいられない。
「そのとき、私は思い当たった。彼女達は恐れているのだ。私を自分達の娘と重ねてみているのだ。私と同じように無知で、彼女達がアメリカに持ち込んだ真実や願いをまるで気にかけない娘達のことを。中国語で話しかける母親をじれったく思い、片言の英語で説明する母親を愚かだと思う娘達のことを。おばさん達は、ジョイ(喜)とラック(福)が娘達にとってもはや同じ意味でないことを、アメリカ生まれの娘達の閉ざされた心には”喜福”が一つの言葉としては存在しないことを知っているのだ。いつか孫を産んでくれる娘達が、代々伝えられてきた希望のつながりと断絶してしまったことを知っているのだ。」

(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)
娘達が母親達のことを理解しない部分は、理念化しそれが母親達の信念とまで昇華した「中国」のことであると、僕は思う。頑なに時代の変化に流されるのを拒み、その中で大事に育ててきた「中国」、しかしそれは当然に娘達に受け入れることが出来ない理念でもあるのだ。

娘達にとっても、自分たちの生活空間は、同様の中国系アメリカ人達による親密圏でもある。その親密圏で培われてきた信念は、理由はわからずとも、娘達に足かせとなり、逆にそれが彼女達をしてその親密圏を脱したいという気持ちに繋がっていったのではないだろうか。

娘のアメリカ人化はそのように始まっていったと僕は思う。 そしてますます娘は母を理解できなくなっていく。母から娘を見れば、それは同一の存在でもある。瓜二つの顔、そして性格、もしくは似ているように見える人生の歩み。しかし娘は母との違いを気持ちの中で列挙する。たどたどしい英語、因習に絡まった言葉、中国人同士の社会。それは一言で言えば、「同一」と「差異」の問題でもある。母は「同一、平等」を望み、娘は「差異、区別」を求める。

母親達は自らの生い立ちと歩んできたことを率直に娘達に語り始めることでその境界を越える。両者の対立は、愛情深きが故のすれ違いから発しているのである。母は娘の幸せを願い、娘は母に心配をかけまいとする。それは互いに同性であること、そしてそこから発生する問題への相互の理解と承認により、母と娘は互いの問題を自分の問題として考えるきっかけとなった、と僕は思う。

この小説ではジェンダーの話は避けては通れない。何故、母と娘なのか。母と父、娘と息子、もしくは性とは関連しない固有の性格、それぞれの組み合わせは無限に近いかも知れない。しかし「ジョイ・ラック・クラブ」では「母と娘」の話となっている。しかも「ジョイ・ラック・クラブ」 の構造は、常に現時点で娘が抱える問題に符合する姿で、母の過去がさらけ出される。 その世代間の縦に串刺しされる女性であることにより起こる問題は、主人公(既に母親は亡くなっている)の存在により、母と娘の双方に、 今度は横に繋がっている。

3.ジェンダー

母と娘の関係を近づけさせたのは、親子としての関係(親密圏)よりは同性としての繋がりであった。ここで実際に「ジョイ・ラック・クラブ」本編中の2編について考えてみようと思う。一つは 「割り勘の結婚」、リーナ・セント・クレアを主人公とする物語、もうひとつは「虎年の娘」、インイン・セント・クレアでリーナの母親の物語である。この二つの物語は、他の母と娘の物語の組み合わせも同様だが、構造が同じということではなく、状況に対応する行動と思考が母と娘とで重なっている。

「割り勘の結婚」では夫婦両者に共有するモノの費用は折半している。
「きみと同じように、ぼくもいわれのない金は受け取りたくないんだ。
金のことを別々にしている限り、お互いの愛情にいつも確信がもてるからね」

わたしは抗議したかった。こう言ってやりたかった。「違うわ! 私はそんなふうに考えていないの。今までの私達のやりかたは好きじゃないのよ。本当は、お互いに自由に与え合うやり方が好きなのよ・・・・」でも、どこから始めたらいいのかわからなかった。すべてを与え合う素晴らしい愛の形を彼がこれほどに恐れるなんて。誰に、どの女にそこまで傷つけられたのか、彼に聞きたかった。」
別々、つまり「割り勘」であることでリーナの夫ハロルドは、お互いの愛情に確信が持てるという。しかしそれは本来のリーナのやり方ではない。しかしハロルドを素晴らしい男性と思い、彼と結婚を望むリーナにそれを強く主張することはできない。逆に彼に嫌われまいとハロルドの好みの女性になろうと努力をする。しかし、その努力もハロルドの頑な平等性に、常に不満を持ち続ける。知らぬ間にリーナの家庭は崩壊の危機に瀕している。しかしそれを知るのは、 リーナの母であるインインだけである。

「虎年の娘」では中国の裕福な家で生まれ育った母(インイン)は一人の男性と恋に陥る。そしてインインもその男性が喜ぶような女性になろうと心がける。しかしその気持ちは夫となった男性がインインを捨てオペラ歌手の元に去ったときに完全に裏切られる。そしてその男性が数多くの女性と、その中には見知った従兄弟も含まれる、浮気をしていた事実を知る。しかしその時はインインはその男の子供を宿していた。
「リーナに、私の恥を話そうと思う。わたしが裕福で美しかったことを。どんな男にももったいないような娘だったことを。物のように捨てられたことを。十八にして頬から美しさが消えてしまったことを話そう。恥辱とともに湖に身を沈めた女達のように、身投げをしようとしたことを。その男を憎むあまり、お腹の子供を殺してしまったことを。 (中略) その男の長男が体内から引き出されたとき、どす黒い復讐の念が私を満たしたからだ。死んだ赤ん坊をどうしようかと看護婦に聞かれたとき、わたしは新聞紙を放り投げて、魚みたいにそれに包んで捨ててくれと頼んだ」
その後インインは数年間、その男が死ぬのを望んだ。そしてそれが叶ったとき、その男は別の浮気相手に刺し殺される、彼女は現在の夫であるセント・クレアと再婚する。そしてその過程で自分が「虎」であることを自覚していく。

「割り勘の結婚」のリーナの夫ハロルドと「虎年の娘」のインインの最初の夫との共通項とは、特別であるはずの女性に対する「公平」さかもしれない。ハロルドは会社内においてもリーナを他の事務員と区別は一切しない。それは私的空間である家庭内でも同様である。
インインの最初の夫は、彼の浮気相手の女性とインインを区別しない。映画ではその夫が浮気相手にインインを紹介するとき「淫売」という。無論それは、自分と自分の浮気相手に跳ね返る言葉でもある。

また別の見方をすれば、ハロルドと最初の夫は、リーナもしくはインインと結婚する以前に既に結婚をしていたとも捉えることができる。それぞれの男性の結婚相手はハロルドの場合仕事であり、インインの最初の夫は他の多くの女性だった。「重婚」の概念は古いが、父権制がホモソーシャル体制として捉え直すことが可能となるジェンダーのセオリーでは、新しい観念となって登場する。

つまり多くの男性は、結婚する前に既に父権制の基で、それを強化する何かと結婚しているという捉え方である。インインは娘であるリーナが結婚したハロルドが、自分の最初の結婚相手と結局は同じであることを見抜いていた。故にリーナの家庭は崩壊する他はなく、その中で娘を救う道は、娘が自分を「虎」であることを自覚することとなる。ここにきて「虎」の意味がジェンダーとしての「女性」であることが明確となる。そして互いに「虎」であることで、母と娘はさらに強い絆を持つことができる。

4.まとめ

4人の女性が飲食しながら楽しげに麻雀をするクラブ、ジョイ・ラック・クラブのキーとなる数字は「2」だと思う。米国で行われるようになったジョイ・ラック・クラブも2度目のクラブであることが、それを象徴的に表している。その他にも「2」にまつわる話も多い、例えば一番重要な「2」は母と娘、でもジェンダーのセオリーでは「2」は「3」にすり替わる。「3」は誰かが他者になり得る。そしてその他者とは、おそらく「女性」自身のことなのかも知れない。

小説も映画も、以前の中国と現在の米国の比較などは一切していない。そこにあるのは、以前の中国も現在の米国も女性にとっては何も変わらぬ世界であるのだ。(映画での中国の描き方には、明らかにオリエンタリズムを感じる)
男性である僕がこのような読み方をするのは偽善的かも知れない。しかしそれを承知で「ジョイ・ラック・クラブ」の感想をまとめてみた。僕はこの小説と映画を読み切ったのかと自問してみる、無論そこには答えなどない。その問い自体が無意味であると、僕の感性は告げる。では有意な問いとは一体何かと逆に問い返す。おそらくその問いへの回答は、僕自身の男性性によって阻まれている。逆に言えば、その阻むモノを見つめることが、小説と映画の 「ジョイ・ラック・クラブ」を読むと言うことなのかも知れない。そんなことを思う。

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