2007/03/15

オヤジについて考えた小さなメモ

吉田拓郎の「ふるさと」の歌詞は確か次のように始まっている。

「親父を愛し お袋を愛し 兄貴や姉貴を愛し そして 自分を愛す」

既にこの歌が現そうとしている「ふるさと」は、戦後の高度成長時代とともに解体されてしまっている。だから「ふるさと」を現すのに、歌い手は個々を一つ一つ取り出していくしかない。「ふるさと」を構成する「親父」「お袋」「兄貴」「姉貴」とは、同時に、解体されてしまった「家族」でもある。しかし、それら挙げている個々を総和しても「ふるさと」「家族」が現前することはない。だから最後に歌い手は、唯一の拠り所になってしまった「自分」を「愛す」と歌うしかないのである。

ただ、この歌の中での「親父」は愛されていた。それは現在のように、イメージ固定され流布している言葉ではなく、常に、それを使う者の特定の誰かであった。その点においては、現在において、「お袋」とは違っている。「お袋」は男性である息子が自分の母親に対して使う言葉で、それは今でも変わってはいない。「お袋」の「袋」とは、無論子宮であり、
かつて自分がそこにいて、そこから出てきた場所でもある。娘が自分の母親のことを「お袋」と言わないのは、自分自身も「袋」を具有しているからで、その点において娘は母親と対等関係にあるからだろう。逆に言えば、「親父」にはそのような特徴はない、よって「親父」に向ける眼差しは、少なくとも息子にとっては、彼の行動に向けられ、それが「親父」と接続される。

ネットなどで自らを「親父」「オヤジ」と呼ぶ方を、僕は不思議な存在として眺めている。僕にはない感覚。おそらくそれは、僕自身が父親を知らないことと無縁ではないだろう。3才の時に父親が病死した僕にとっては、決して中高年になった自分が父親と重なることはない。

自分を「親父」と呼ぶ為には、基準となるべき父親の存在が不可欠と思う。しかし、ネットの中で自分を「親父」「オヤジ」と呼ぶということは、他者が見ても納得する、社会の中で共有化された「オヤジ」像も必要となる。しかし、一体そのような「オヤジ」像は存在するのだろうか。

ある面で言えば共有化された「オヤジ」像は、息子・娘からの視点で構築されたのは間違いない。自らを「オヤジ」と呼ぶ時、そこに息子・娘の視線を意識しているのもあるだろう。いうなれば、「オヤジ」という言説(といっても差し支えなければ)には「他者性」がない。満員終電車の中で顔を赤くした男性が酒臭い息を嗅ぐ時の嫌悪感は、自分の父親像と接続され、その男性を「オヤジ」と呼ぶ。また、社会において押さえ込まれた中高年の性への衝動が、時折ふとした弾みで顕わになる時、彼は「オヤジ」と呼ばれる。現代において
「オヤジ」とは特定の誰か、つまりは自分の父親のことだけを指してはいない。「オヤジ」とは、公的領域と私的領域の中高年男性の双方の落差である。それは態度であり、顔であり、言動であり、そのほか諸々の中に現れる。

落差があればあるほど「オヤジ」としての強度は増す。例えば、山田太一監督作品の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんは、年齢を重ねても「オヤジ」と呼ばれることはない。何故なら彼の生活領域は全て私的領域であるから、落差が起こりえようがないのである。そういった意味では、彼は常に安定している。何故落差が起きるのか。というか、落差が少しもない男性など現実にはいないとは思うのだが・・・・。「公的領域」が立ち上がることのなかったこの国で、「社会」が衰退していく一方のこの国で、「美しい日本」とJRキャンペーン並みのコピーを述べたとしても、それらに「国」が代わるとは思えない。私的領域のさらなる浸食で、元々「公私」の区別を論じること自体無意味な中で、それでもなお、「会社」もしくは様々な「仕事の場」が「公」と信じて疑わない男たちは、その場を一歩離れた瞬間に私的領域の「顔」に変貌していく。その顔は、家庭の奥まった中で、今まで家族以外の誰にも見られることがなかった顔である。

公的領域が立ち上がらなかったとはいえ、それでも少し前までは、「会社」と「家庭」の間は「見知らぬ他人と交差する場」との意識があったと思うが、それも「私的領域」に浸食され殆ど無くなった。その結果、「オヤジ」が、その他の様々な妖怪達(笑)とともに顕れたのだ。
「中高年男性らでつくる「東広島おやじ連」が一般公募していた父親応援歌の歌詞が広島県内から50編余り寄せられ、100番までの応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」が完成した。ユニークな詞が多く、市内で来月開く「おやじサミット」で発表」
(中国新聞 2007/1/19)
♪でてこい!おやじ!♪」の歌詞100番の内容は、「 おやじの生き様見せてやれ おやじの背中で見せてやれ 汗水たらして働いた おやじの勲章みせてやれ」となっている。別に本歌詞を批判するつもりはない。ただ、作者は誰に「おやじの生き様」を見せたいのだろうか。自分の息子・娘であれば、家庭の中で、愛されようが、憎まれようが、無視されようが、父親としての「おやじ」は了解されている。ただ悲しいことに、「おやじの背中」・「おやじの生き様」を見せたくても、見て欲しい人は「働く」だけでは見てくれない。さらにタイトルの「♪でてこい!おやじ!♪」とは、どこに出て行けば良いのだろう。

おやじの定義などを聞くのは野暮であるし滑稽でもある。そんなことはどうでも良い。ただ一つ言うとすれば、「生き様」を見せるためには、「働く」姿を見せることではない。人が人を認めるのは、他に変えられぬ存在だからだと僕は思う。現代において、それは彼自身の固有の行動と言論においてのみ、それが得られると思うのである。ゆえに「仕事」と「労働」だけでは、その人が行動しているとは誰も思わない。「汗水たらして働いた」姿を見せるより、毎朝近所を掃除する姿、もしくは家事の手伝いをする姿のほうが、息子・娘は父親を誇りに思うことだろう。

何故、この歌名に「おやじ」を使っているのだろう。実をいえばこの記事は、応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」、のことをNHKで見知ったことが発端になっている。たいした意味はない、とは思うが、だからこそ時代の反映がそこに隠されている。色々な言葉に接頭語として「おやじ」が付けられるようになってから随分と経つ。そしてその過程は、おそらく、「社会」の衰退と同期を持っているように思うのである。無論、「社会」が画一主義と同義であれば、それは大いに結構なことだ。ただその場合、公的領域なきこの国で、いかなる事柄が人々に要請されるかと言えば、それは行動主義に他ならないように思える。私的領域での行動主義は、時として、他者の存在を拒む。

「おやじ」という言説そのものが、「他者性」を排除している、と僕は思う。僕は貴方の「おやじ」でもなければ「父親」・「息子」でもない。お互いに、この世界に今まで現れたことがない者同士として、同時代を生きる。それは「見せてやれ」との命令ではなく、対話と了解しあうこと、それがやはり大事なのではないかと思うのである。

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