2007/05/15

常識についての短い私論

常識とは特定の集団で多数を占める不文律な判断・意思・思考の根拠のとなるもの、とさらりと書いてみる。僕が生まれ育ったこの地で過ごす限り、特に意識しなくとも常識は僕の行動をある程度は律している。逆に人は欠損を意識するものであるから、「常識」に反する行為に敏感になる。ただ、「常識」「非常識」の境界は領域的に捉えるべきでない。領域的に捉えると、そこには問答無用の線引きが為されるしかない。しかもそれは常に揺れている中での問答無用となる。

領域的に常識を捉えることは、いわば一つの村社会におけるネットワークを想像すればよい。ネットワークは村から出ることはない。人がその村で安心して暮らすためには、その人と他の村人とのパスは多ければ多い方が何かと便利である。「常識」は「非常識」があるからこそ意味があり、「非常識」と「快・不快」は密接なつながりがある。ゆえにパスを多くするために、人を不快にしない行動をとる必要が出てくる。

無論ここでいう領域的とは地図上の地域と同意ではない。村社会は何であっても構わない。ひとつの村(集団)があって、そこには共有された常識がある、そしてその内に私が存在する。私は生命過程に必要な資源を得るために、その集団内で労働しなければならず、故に常識は私の行動を暗に律する、と言うのは根本的に誤りだと僕は思う。さらに、現実的にはネットワークは特定の集団を越えて繋がっていき、且つ隣接する集団が同じ常識を持っているとも限らない。

そうではなくて、村を含め世界を見ているのは私自身であり、常識はその世界に内在する。つまり世界に構造を与えるのは私である。簡単に言えば、私自身が常識を造っている。常に私が不快に感じることは「非常識」な出来事なのだ。私の不快は他者に同化を促す。同一文化資源を持っている相手には同化も速やかに行われることだろう。そこでは、私の「不快」は相手にも同様であることが安易に想像できる。私が「不快」にならぬよう、私の行動は暗に律される。そして世界はその都度構造が与えられる。

ファーストフード店、コーヒー店などでのマニュアル応対に想像力欠如などの意見をよく聞くが、無論にこれらの意見の宛先はマニュアル対応している店員に向けられるべきではない。ソシュールは「言葉と意味、あるいは表現と内容の関係は恣意的である」と定式化したが、あくまでもそれは一般論としてであった。特定の人と人の語らいは特殊であって、それゆえにお互いの言葉が概ね現実に通じ合っている、という実感を持つ。逆に人と人との語らいが特殊だからこそ、これらの場において一般的な(つまりは標準的な)対応の出会いが求められる。

様々な構造が現れる都市空間においてマニュアルもしくは標準化の概念が立ち上がったのは間違いない。それらは市場性からだけではなく、多様な世界を持つ他者が共生する空間において必然だったのではないか。そしてそれは別面で言えば新自由主義の成れの果てとも言えるのではなかろうか。そういう意味で、ファーストフード店、コーヒー店などの対応に苛つく、もしくは力が抜ける人たちと地域性は関連性があるかもしれない。

ここまで書けば、この記事の冒頭の文が少し気になる。訂正の必要性を感じるが、あえてこのままに残す。量的な側面を僕は否定できないからだ。そして多数は少数に対して寛容であるべきだとも思う。

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