2007/12/15

Goldfish Picture after Jakuchu

今年の夏の話だから、いまさらと言う感じではあるが、僕は東京青山のスパイラルガーデンで開催していた京都造形芸術大学30周年記念の美術展に行った。「混沌から躍り出る星たち」とのタイトルが付いたその展覧会は、京都造形芸術大学の学生たち、そして大学に関係しているアーティストたちの作品が出品されていた。僕がその展覧会に興味を持ったのは、池田孔介氏の作品が、おそらく東京で初めて出展されていたからだった。
(本展覧会に出品した作品「Goldfish Picture after Jakuchu」は池田さんのサイト で見ることができる)

僕は、池田さんが米国に滞在研究しているときに、ネット上に公開していたエッセイ「文化的誤植を注視せよ 」の愛読者だった。「誤植」という概念を、未だそれは僕の中で掴みきれていないが、とても興味を持って読んだ。

池田さんの個人ブログ「Fairytale/Diary 童話日記」 にて、今回と同様のモチーフである作品「Goldfish Picture」の評として、彼は日本美術史を専攻する高松氏の言葉を引用している。
金魚という鑑賞されるためだけの存在をモチーフに選び、これが図と地の境界も曖昧に水面化にひしめく様を正面から捉えることで、池田は視覚表象根幹にあるマトリクスを現前させようとする。自らが魅せられている、視ること/視られること、可視/不可視の淡いにあるマトリクスを。 (イメージの 蠢く深層、マトリクス 高松麻里(日本美術史/ニューヨーク大学)
(「2006-11-03 Kosuke Ikeda Solo Exhibition ”Goldfish Picture” 」から引用)
正直に言えば僕には高松氏の語りは難しい。無論それは僕が絵画を「見る力」がないからに他ならない。絵画において鑑賞者の「見る力」は間違いなく必要だと思う。しかし、「見る力」を持っている鑑賞者のみを対象としているとするのであれば、青山スパイラルガーデンでの展示会は何を意味するのであろうか。アーティストの作品と対峙するとき、「見る」という欲望は知性と共にあり続けなければならない。そしてそのとき鑑賞者の中で欲望と知性が独立して並び立ち分裂することもありえない。それらは分かちがたく、見るという行為により、鑑賞者の世界を構造化することになる。しかし作品は鑑賞者の中に埋没することなく、前記に矛盾するようではあるが、独立したひとつの作品であり続けなければならない、と僕には思える。つまりそれは何も鑑賞者の「見る力」だけに寄るところではない。作品自体にも「見せる力」がなければならないのだ。

池田さんの作品は見せる力を強く持っている。僕はスパイラルガーデンで池田さんの作品「Goldfish Picture after Jakuchu」を時間を忘れ眺め続けた。展示会には他の多くの優れた作品があるにもかかわらず、僕は彼の作品に没頭した。おそらく、高松氏が評した作品と、スパイラルガーデンで展示した作品は違う。それは作品タイトルに付加した「after Jakuchu」に如実に現れている。池田さんは本作品製作前に若冲の作品を鑑賞し、そこで得た刺激を本作品に盛り込んでいるのだろう。そのことは、彼が米国中に連載し考察した「誤植」の概念と密接に関係するようにも僕には思えた。
未だ何の評価も得ていない、ともすれば忘れ去られてしまいかねない重要な作品たちの存在。これはいわば書物における誤植のようなものだ。すでに印刷されて取り消し不可能な点。それはひとたび発見されれば本の最初のページにその正誤表が差し挟まれ、言いようもない存在感を放つことになる。しかしだれにも気づかれないならば誤植はそれとしての存在意義を失ったままだ。 (「文化的誤植を注視せよ」「誤植とは」から引用)
池田さんの作品「Goldfish Picture after Jakuchu」について少し語りたいと思う。その後に「誤植」と本作品の関係について僕の思うところを語ろうと思う。

高松氏が「Goldfish Picture」について語ったように、「Goldfish Picture after Jakuchu」においても「金魚という鑑賞されるためだけの存在をモチーフに選び、これが図と地の境界も曖昧に水面化にひしめく様を正面から捉え」ている。ポリウレタン・透明シリコン・アクリルを素材として、1枚100×50×5(単位はcm)に描かれた金魚は2枚1組として3組並べられている。2枚1組と見えたのは、そこに金魚の色と動きの関連性がみられるからだ。透明シリコンによって造形された金魚は、数種類の姿に作られ、姿とは関連なく様々な配色をされている。金魚は本能のままに動き回る瞬間を切り取られたかのように、鏡面の板に貼り付いている。少し離れてこの作品を見れば、金魚は絵筆の軌跡のようにも見える。

鏡面は作品を飾る場所により金魚の背景を変え、結果的に作品の印象を変える。それ以上に鏡面は鑑賞者の姿を金魚の背後に映す。それゆえ、この作品は単に「水面化にひしめく様を正面から捉える」だけでないことがわかる。鑑賞者は、金魚の造形を使っているゆえに、当然に金魚が動き回る「場」を水中と思い込む。しかしそれであれば、鏡面に貼り付いた金後の映りこみにより、金魚は映す面(水面)に逆さまに泳いでいることになる。逆に金魚が正位置であれば、金魚と鑑賞者の位置関係は逆転していることになる。鑑賞者は水底に位置し、そこから本作品を鑑賞している鑑賞者本人を見つめるということになる。それも見方としては面白いと思うが、おそらくはこの金魚がいるのは水の中ではない。ただ100×50×5の閉じられた空間を動き回っているのだ。

作品はアクリルの板で仕切られている。無論板は透明で境界は曖昧である。ただしそこに境界があることを金魚は知っているかのように、作品の隅に群れをなして集まる。曖昧だが閉じられた空間、本能のまま動き回る金魚、それらは金魚の本能だけを抜き取りその瞬間を切り取ったかのようでもある。そしてその模様の背後に、鏡面に映り込まれる鑑賞者の姿。それはあたかも鑑賞者(この場合、僕のことである)の、空っぽの身体の中を出口を求め動きめく「欲望」のようでもある。

「after Jakuchu」の付加の意味を僕は知らない。今年開催した若冲展にも行かなかった僕は何も若冲について知らない。さらに本作品と「after Jakuchu」付加前の作品の差異も知らない。「after Jakuchu」が示す何かを表象しているであろうことはタイトルから想像できるのみである。それは作品の大きさ・物質的素材・配色等の構成を変えることなく、逆にそれだからこそ、現代芸術から若冲への応答のように響く。

池田さんが「文化的誤植を注視せよ」で使う「誤植」とは、見つけられて初めてその存在意義を持つ取り消し不可能な点を指し、それは1作品に対してのみ語られているわけではない。「誤植」とは誤って植字されたことを指すが、「誤り」とはその社会的文脈によって定まることも多い。つまり取り消し不可能な点には、あらかじめ埋め込まれ探し出されるのを待っている潜在的なものと、社会的文脈の違いにより新たに誤りとして見つけられるもの、の2通りあるように思える。あえて言葉を造るとすれば、「潜在性としての誤植」と「可能性としての誤植」とでも言おうか。その点で言えば、「可能性としての誤植」には評価が定まった作品たちにもあてはまる。「再発見」と称され紹介される作品群はそれにあたるかもしれない。

ここで僕が言いたいことは、「Goldfish Picture after Jakuchu」はある意味、池田さんにとっての若冲の「誤植」の発見ではないかということだ。作品の「誤植」とは、その作品の中に「誤り」もしくは「欠如」を示すものではなく、「誤植」に伴う「正誤表」を作品に挟み込むことが重要なのだと僕には思える。その「正誤表」としての作品。それが本作品の底にあるように思えるのである。

アーティストでもない僕が作品に口を挟むことではないのは理解している。でも池田さんの作品を見たときに感じたことを書き残したかった。万が一、池田さんが本記事を知り、その誤読のひどさに不快感をもたれないことを祈る。

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