2007/03/31

サクラよ

sakura

今年もサクラの季節が訪れた。昨年はあれほど熱中したにも関わらず、今年はサクラに対し一歩引いて冷めた眼差しで見つめている僕がいる。逆に言えば、昨年のサクラへの熱中が特別だったのかもしれない。

近所のサクラの名所を歩く。昨年と変わらず素晴らしい景観だ。でも昨年のような、心のそこから湧き上がるような郷愁感は訪れることがなかった。写真をとっても、換わり映えのしない姿に、おそらくこの場所で撮っても、日本でも名高いサクラの名所で撮ったとしても、同じ姿を僕に見せてくれる、そんなことしか感じられない。どこで撮っても同じ景観、一種の驚きではあるが、それが逆に今の僕にはとても痛い。

ここでいうサクラとはソメイヨシノのことである。無論、日本の銘木といわれるサクラは、殆どがソメイヨシノではないことは知っている。ソメイヨシノは銘木といわれる様になるほどの長い期間を生きることはできない。弘前城にあるソメイヨシノが記録上においては一番の高齢らしいが、それでも100年くらいではないだろうか。つまりはソメイヨシノの寿命は、人間の寿命とたいしてかわらない。仮に僕が死んだとしても、世界は変わらずに残り続ける、それでも今を盛りに花を咲かせているソメイヨシノはおそらく残らない。故に、それらが造りだしてきた景色も短期間で変わっていく。別面で見れば、ソメイヨシノが作り出す景観は、変化を繰り返してきた日本の姿を現している。

だからなんだ、と言われるようなことを僕は語っている。おそらく僕は今年のソメイヨシノを眺めながら、昨年のソメイヨシノを考えているのだ。写真を何枚か撮る。でもそれらの写真は少しも気に入ることはない。妙に感傷的なサクラの写真は、今年の僕には馴染めない。でも今の僕にはその嫌いな感傷的な写真しか撮れない。そしてそのギャップの大きさに我ながら驚きながらも、昨年の気持ちを取り戻そうと、僕はあがいているのだ。

公園を歩く、サクラの木の下では大勢の人たちが集まり、楽しそうに酒を酌み交わし語り合っている。それらを見て僕は不思議な気持ちになる。思い起こしてみれば、僕は桜の木の下で酒を酌み交わしたことが少ないのに気がつく。最後に友と桜の木の下で酒を酌み交わしたのは何年前のことだったんだろう。語り、笑い、そしてまた語る。たわいのない語りの中に、その人が本当に言いたいことが隠されている。きっと「桜の木の下で」とは「神の下で」の暗喩に違いない。酒を酌み交わし談笑する人たちを見て、僕はそんなことを思う。

sakura

夜の公園に再び出向いた。既に人影は殆ど無く、風は強い。枝ごと風で揺れる。揺れるごとに、街灯に反射し、闇夜にも係わらず何か大きな一つの生き物のように感じさせる。湿気の多い風だ、今夜は雨になるかも知れない。ベンチに座りその様を見ていると、昼間の不思議な感覚がよみがえる。この国に住む多くの人にとってサクラは特別な存在であり、それは僕にとっても変わりはない。でもサクラの一生は短い。だからこの特別な気持ちが、明日には一変することもあり得る。昨年、僕はサクラに熱中しながらも、サクラを擬人化すまいと心に決めた。その気持ちが少しだけ揺らぐ。明日、日曜日が穏やかな日であることを、僕は願う。

2007/03/26

「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 写真を撮ると言うことについて

「PHOTO IMAGING EXPO 2007」に行った時のことを語ろうと思う。内容は主に写真を撮るという「行為」に偏るかも知れない。でもそれは致し方がない。何故なら僕自身が写真を始めた動機がそれについて知りたいと思ったからだ。

展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。

現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。

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と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、それを期待しているかのような行動をしていることだった。

発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。

PHOTO IMAGING EXPO 2007 9

彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている)によって、企業の宣伝効果は高まる。

それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・
アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。

コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。

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おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。

それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。

写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。

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例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット)し続けている姿と重なったのである。

恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。

目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。
そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。

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消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。

スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。
「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、現代写真ジャーナリズムの忘れることのない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。」
前者の「見ることの倫理観」を後に続く文章で無効化している。しかし、どのような場合にも「写真の方を選択する」ことへの批判的な問いを消去することは出来ない、と僕は信ずる。その写真が無思慮で身体の欲望のおもむくまま撮られた写真であっても、やはりそこには撮影者の倫理観が在るのは事実だと思うのである。そのうえで、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」での撮す者と撮される者との関係は、僕にはとても新鮮な状況として目に映ったのである。

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僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。

2007/03/23

北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。

哲学者の池田晶子さんが亡くなられたのを新聞で知った時とても驚いた。今月(3月)の3日のことだ(実際には亡くなられたのは2日)、まだ46歳の死は早すぎると言えば早すぎる。読者の立場から言えば、もうあの平易で奥の深い文章に接することが出来ないという、
一言で言えば残念な気持ちを強く味わった。

その彼女が北朝鮮のミサイル危機について面白いエッセイを書いている。この引用文章の前にイラク戦争に対し若者が「無力感を感じる」という言葉をテレビで聞き、それに応える形でエッセイは書かれている。以下に引用する。
「何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事みたいに生きているから、そういうことになるのである。
で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。 やっぱり私はそう思ってしまう。ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。」
(「週間新潮連載 「死に方上手」 平成15年7月3日号 池田晶子)
3月22日付けの産経新聞朝刊に記事「PAC3 皇居前広場 展開も」があった。日本のミサイル防衛(MD)システムの一環として、PAC3(パトリオット)の緊急時の配置場所として各自衛隊基地の他、皇居前広場を含む日比谷公園などの国有地・都有地の使用も検討しているそうだ。無論、緊急時がどのような基準で発令されるのかは僕には分からないが、一度配置されれば数ヶ月間はそこに設置されることになるのであろう。

僕としては日本のMD計画は全面的に反対の立場をとっている。理由は、Wikipedia「ミサイル防衛」の反対論の中にもあるが、イージス艦とPAC3との連携による防衛しシステムは完全ではなく、かつ膨大なコストを必要とする。しかし、Wikipediaの反対意見(賛成意見も含めて)、僕にとっては重要な一項目が抜け落ちている。つまりMD構想では、首都圏の一部、名古屋、京阪神、福岡などの大都市を中心に考えられているという点である。逆に言えば、たとえば金沢などの都市はイージス艦での防御のみでしか対応しきれないということになる。突き詰めて言えば、日本全土をミサイル防衛で覆うことなど現実的でない以上、どこを守るかということは、どこを切り捨てるかと言うことにもつながる。

日本にとって首都圏地域が最重要な場所であることの理由は、その経済的および政治的な側面からであるが、1人の人間の生死の立場でもの申せば、東京に何千万人住んでいようが、官僚体制の中心地であろうが、そんなの関係ない。それに、仮に北朝鮮が核弾頭を積んだミサイルを発射したとして、それが東京を狙ってとは限らない。ミサイル発射の目的にもよるが、地方都市を標的にする可能性は捨てきれない。たとえば、第二次大戦時に原爆が広島と長崎(小倉は天候不純というだけで回避された)という地方都市に投下された事実が物語っている。さらに、国際社会が、ミサイルを他国に撃ち込むことによって為される北朝鮮側のデメリットを考えれば、論理的に起こりえぬ可能性が極めて高い。

つまりは、可能性は極端に低いけどゼロではなく、その為に一部の政治家が騒いでいるとしか思えないのである。そしてその腹には、切り捨てる者と切り捨てられない者の区別がなされているのである。そう述べると、「じゃテポドンが飛んできたらどうるすの」という意見が必ず起きる。その際に、僕は上記に引用した池田晶子さんのエッセイを思い出すのである。
「北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。」
人は自分の生を全うするために生きている。テポドンごときでそれが変わるのは、一部軍事産業と政治家でしかない。ちなみに、引用した文の中で「生きても死んでも大差ない」とあるが、この意味を僕はハンナ・アーレントの言葉を借りれば以下のようになる。これも引用する。
「自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、私たちが理解しているような生と死はない。人間の生と死は、単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、他のものと取り換えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、その中に現われ、そこから去ってゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性をもち、相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。」
(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P152)
「生きても死んでも大差ない」とあるが、その「大差」ない人間は歴史上において唯一無二の存在でもある。無論、僕はむろん訳のわからぬうちに核で突然に死ぬのはごめんではある。しかしその気持ちは多くの方が同じではないだろうか、でも飛んでくるか飛んでこないかで日常を気にして生きるのはさらにごめんこうむる。

この点において米国におんぶにだっこしなさいというつもりではない。ただ、MDに使うコストを他の面に利用すれば、現在国民の最重要関心事でもある格差の問題解決の試行錯誤に多少なりとも使うことが出来る、もしくは援助が必要な諸外国に使うことで、「防御しています」というメッセージより「もっと仲良くなりたい」というメッセージを送ることが、
なによりもMD構想につながるのではないかと愚考するのである。

追記:たとえば日比谷公園に設置した場合、設置中は何ヶ月も公園の出入りが禁止される可能性が高い。公共の庭園を、安易に利用検討するその無神経さが気になる。そもそもこの記事を書いた動機はそこにある。

2007/03/19

産経新聞コラム「正論 教育改革は「道徳教科書」作成から」を読んで思うこと

産経新聞(2007年3月7日)のコラム「正論 京都大学名誉教授・市村真一 教育改革は「道徳教科書」作成から」(Clipmarks)を読み唸った。教育に関して門外漢ではあるが、このコラムに書かれていることは僕にとっては強く抵抗感を抱かせる。
「安倍首相が内閣の第1課題を教育とし、教育基本法の改正を成就されたことは、岸首相の日米安保条約改定につぐ、占領政策是正の重要な第二歩であって、真によろこばしい。だが国民の心の荒廃は実に深刻で、その治癒は容易ではない。なにしろ六十数年の積弊、一挙に改善する万能薬はない。どこから着手するか。」
「占領政策是正」とは使い古された言葉であるが、その内容は、僕などはとんと理解が出来ない。日本の現状は、仮に教育に関してだけを述べたとしても、根本を占領政策だけに求めるのは無理がある、と思うのである。それらの意見に共通することは、戦前の日本に対する郷愁である。しかもその戦前の日本は、江戸幕府以前ではなく明治以降に造られた日本の姿でもある。

「国民の心の荒廃」を叫ぶ者は、常に「荒廃」の外部に位置している。故に語りは上からの見下ろしで書かれることが多い。「私は違うが、周りはこうなっている、故に改善点は私が語れる」、もしくは「こうすればいいのに何故それが理解できないのか」等など。

市村氏のコラムもその語りを踏まえている。しかし、最も的はずれなことは、荒廃した心を持った国民に対して語られる内容にもかかわらず、市村氏自身の問題意識が国民と共有しているがごとき語り口だということだ。

仮に、市村氏の言うとおりに、国民の心が荒廃しているのであれば、上記の引用箇所は、既にその意味を失っている。市村氏は以下の二項目を緊急提言している。
「1、教師の任用更新を厳しくし、その基準を明示する。」
「2、道徳教科書の作成に着手し、著者を厳選する。」
対象は小・中・高等学校の教員となっている。市村氏の考えとしては、 「採用後2年を試用期間とし、最初は助教諭に、後に教諭に任用すること」としている。そして、 「ペスタロッチ等の有名な教育論のエッセンスを踏まえて、立派な「教育者の条件」は何かを真剣に考えた」結果、「(1)学力(2)親切(3)敬虔な心(4)品性」、の4項目となったそうである。

教師の「質」を考える場合、しかるべきスキルが必要であることは当然であると思う。スキルとして必要と思われるものは、担当とする教科のスキルは無論のこと、その他に、広い意味でのコミュニケーションスキルであることは特に異論はないと思う。

僕はここであえて「スキル」という言葉を使った。この意味は、これらの能力は技術として取得可能であることを示している。市村氏はコラムの中で、(2)親切の説明の中で以下のように語る。
「いじめる、ひがむ、憎む、恨むという類の情念や権力欲や支配欲の強い人は教師には向かない」
市村氏があげた「情念」や「権力欲」を持たぬ人間はいるのであろうか、さらにそれらの強い弱いは関係性の中で変化する、と僕は思う。「口頭試問でそれを識別すべき」とあるが、
実際問題としてそれは不可能に近い。仮に様々な測定手法を使い、その人の性格を把握し得たと思い込んだとして、その結果、逆差別がそこに派生する可能性はないと言えるのであろうか。人間性を数値的に判断する世の中が、逆に子供に与える影響を、市村氏はどのように思うのであろうか。

そうではなくて、技術として取得可能なスキルとして、教師に必要なスキルと経験程度を明示的に項目化し、その上で研修などでスキルを段階的に磨く手法を考えた方が、僕には現実的なように思う。さすれば、恣意的な「親切」「敬虔」「品性」などの、時代とともに、もしくは管理する側の変化とともに変貌する、これらの言葉は無用となる。
「日本人の魂を抜こうとした占領政策は、歴史地理教育をやめさせ、修身科を廃止させた。歴史地理は、文科省の努力の結果復活したが、修身が担っていた道徳教育はいまだに復活していない。知育・体育・徳育が並び進むべき事は教育論の常識であろう。」
ここまで来ると市村氏の個人的「恨み」、占領対策に対する「憎しみ」の強さが顕わになっている。市村氏が言いたいことはわかるし、頷く面もあるが、しかし根本的に僕に不明なのは、それほど現在の教育は悪いのだろうか、という事である。確かに、様々な問題はあるし、色々な事件も起きているのも知っている、でもそれでもなお市村氏の語りを聞き感じるのは、彼のヒステリー的な反応でしかない。つまり、市村氏の語りには、過去への郷愁と回帰が根底にあるが、時代はその方には流れていないのではないか、という思いである。

「知育」、「体育」、「徳育」、大いに結構ではある、しかしその根底に、人間の世界は多数性であり、1人1人が個別であり、得難く、かつそれぞれがそれぞれの生を満足しようと生きている、そのことがあるべきで、「徳育」という名の「国のために死ぬ」的な教育はごめんである。逆に「国のために生きる」ことは「自分の生を充分に生きる」ことと同じ事だ、くらいな「徳育」であれば、僕としては結構なことだと思う。

道徳の教科書も、仮に作るとすれば、思考する事、ものを考える事、そういう事に力点を置くべきだと信じる。と言っても、そういう内容であれば、市村氏からしてみれば、既に道徳の教科書とも言えないかも知れないが。

そう考えていくと、今の学生の有り様は、現代を写しているとも思えるのである。つまりは、片方に根強く市村氏がコラムで語られた考え方があり、しかし実際にはその方向には向かってはいない、でも流れをその方向に変えようとする力が、今の政府の中にあり、そこから現実との間に歪みが生じ、結果的に教員と学生に現れているのではないか、ということである。恣意的な言葉の羅列は美しいが、美しいが故に、言葉が一人歩きをする場合も多い、もっと技術的に考えていった方が良いのではないかと、僕は思う。

市村氏にとってみると、現在の日本は荒廃した心の人々の集まった所、と見られているのかも知れない。でも1人の人間の生を考えた時、老婆心ながら、そのように世の中も見る彼の心の不幸を偲ばずにはいられない・・・

追記:本記事で「Amehare's MEMO」も500エントリーを迎えた。しょうもない事ばかり書いてはいるが、それも500となると、良くも悪くもよく書いたものだと思う。

2007/03/15

オヤジについて考えた小さなメモ

吉田拓郎の「ふるさと」の歌詞は確か次のように始まっている。

「親父を愛し お袋を愛し 兄貴や姉貴を愛し そして 自分を愛す」

既にこの歌が現そうとしている「ふるさと」は、戦後の高度成長時代とともに解体されてしまっている。だから「ふるさと」を現すのに、歌い手は個々を一つ一つ取り出していくしかない。「ふるさと」を構成する「親父」「お袋」「兄貴」「姉貴」とは、同時に、解体されてしまった「家族」でもある。しかし、それら挙げている個々を総和しても「ふるさと」「家族」が現前することはない。だから最後に歌い手は、唯一の拠り所になってしまった「自分」を「愛す」と歌うしかないのである。

ただ、この歌の中での「親父」は愛されていた。それは現在のように、イメージ固定され流布している言葉ではなく、常に、それを使う者の特定の誰かであった。その点においては、現在において、「お袋」とは違っている。「お袋」は男性である息子が自分の母親に対して使う言葉で、それは今でも変わってはいない。「お袋」の「袋」とは、無論子宮であり、
かつて自分がそこにいて、そこから出てきた場所でもある。娘が自分の母親のことを「お袋」と言わないのは、自分自身も「袋」を具有しているからで、その点において娘は母親と対等関係にあるからだろう。逆に言えば、「親父」にはそのような特徴はない、よって「親父」に向ける眼差しは、少なくとも息子にとっては、彼の行動に向けられ、それが「親父」と接続される。

ネットなどで自らを「親父」「オヤジ」と呼ぶ方を、僕は不思議な存在として眺めている。僕にはない感覚。おそらくそれは、僕自身が父親を知らないことと無縁ではないだろう。3才の時に父親が病死した僕にとっては、決して中高年になった自分が父親と重なることはない。

自分を「親父」と呼ぶ為には、基準となるべき父親の存在が不可欠と思う。しかし、ネットの中で自分を「親父」「オヤジ」と呼ぶということは、他者が見ても納得する、社会の中で共有化された「オヤジ」像も必要となる。しかし、一体そのような「オヤジ」像は存在するのだろうか。

ある面で言えば共有化された「オヤジ」像は、息子・娘からの視点で構築されたのは間違いない。自らを「オヤジ」と呼ぶ時、そこに息子・娘の視線を意識しているのもあるだろう。いうなれば、「オヤジ」という言説(といっても差し支えなければ)には「他者性」がない。満員終電車の中で顔を赤くした男性が酒臭い息を嗅ぐ時の嫌悪感は、自分の父親像と接続され、その男性を「オヤジ」と呼ぶ。また、社会において押さえ込まれた中高年の性への衝動が、時折ふとした弾みで顕わになる時、彼は「オヤジ」と呼ばれる。現代において
「オヤジ」とは特定の誰か、つまりは自分の父親のことだけを指してはいない。「オヤジ」とは、公的領域と私的領域の中高年男性の双方の落差である。それは態度であり、顔であり、言動であり、そのほか諸々の中に現れる。

落差があればあるほど「オヤジ」としての強度は増す。例えば、山田太一監督作品の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんは、年齢を重ねても「オヤジ」と呼ばれることはない。何故なら彼の生活領域は全て私的領域であるから、落差が起こりえようがないのである。そういった意味では、彼は常に安定している。何故落差が起きるのか。というか、落差が少しもない男性など現実にはいないとは思うのだが・・・・。「公的領域」が立ち上がることのなかったこの国で、「社会」が衰退していく一方のこの国で、「美しい日本」とJRキャンペーン並みのコピーを述べたとしても、それらに「国」が代わるとは思えない。私的領域のさらなる浸食で、元々「公私」の区別を論じること自体無意味な中で、それでもなお、「会社」もしくは様々な「仕事の場」が「公」と信じて疑わない男たちは、その場を一歩離れた瞬間に私的領域の「顔」に変貌していく。その顔は、家庭の奥まった中で、今まで家族以外の誰にも見られることがなかった顔である。

公的領域が立ち上がらなかったとはいえ、それでも少し前までは、「会社」と「家庭」の間は「見知らぬ他人と交差する場」との意識があったと思うが、それも「私的領域」に浸食され殆ど無くなった。その結果、「オヤジ」が、その他の様々な妖怪達(笑)とともに顕れたのだ。
「中高年男性らでつくる「東広島おやじ連」が一般公募していた父親応援歌の歌詞が広島県内から50編余り寄せられ、100番までの応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」が完成した。ユニークな詞が多く、市内で来月開く「おやじサミット」で発表」
(中国新聞 2007/1/19)
♪でてこい!おやじ!♪」の歌詞100番の内容は、「 おやじの生き様見せてやれ おやじの背中で見せてやれ 汗水たらして働いた おやじの勲章みせてやれ」となっている。別に本歌詞を批判するつもりはない。ただ、作者は誰に「おやじの生き様」を見せたいのだろうか。自分の息子・娘であれば、家庭の中で、愛されようが、憎まれようが、無視されようが、父親としての「おやじ」は了解されている。ただ悲しいことに、「おやじの背中」・「おやじの生き様」を見せたくても、見て欲しい人は「働く」だけでは見てくれない。さらにタイトルの「♪でてこい!おやじ!♪」とは、どこに出て行けば良いのだろう。

おやじの定義などを聞くのは野暮であるし滑稽でもある。そんなことはどうでも良い。ただ一つ言うとすれば、「生き様」を見せるためには、「働く」姿を見せることではない。人が人を認めるのは、他に変えられぬ存在だからだと僕は思う。現代において、それは彼自身の固有の行動と言論においてのみ、それが得られると思うのである。ゆえに「仕事」と「労働」だけでは、その人が行動しているとは誰も思わない。「汗水たらして働いた」姿を見せるより、毎朝近所を掃除する姿、もしくは家事の手伝いをする姿のほうが、息子・娘は父親を誇りに思うことだろう。

何故、この歌名に「おやじ」を使っているのだろう。実をいえばこの記事は、応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」、のことをNHKで見知ったことが発端になっている。たいした意味はない、とは思うが、だからこそ時代の反映がそこに隠されている。色々な言葉に接頭語として「おやじ」が付けられるようになってから随分と経つ。そしてその過程は、おそらく、「社会」の衰退と同期を持っているように思うのである。無論、「社会」が画一主義と同義であれば、それは大いに結構なことだ。ただその場合、公的領域なきこの国で、いかなる事柄が人々に要請されるかと言えば、それは行動主義に他ならないように思える。私的領域での行動主義は、時として、他者の存在を拒む。

「おやじ」という言説そのものが、「他者性」を排除している、と僕は思う。僕は貴方の「おやじ」でもなければ「父親」・「息子」でもない。お互いに、この世界に今まで現れたことがない者同士として、同時代を生きる。それは「見せてやれ」との命令ではなく、対話と了解しあうこと、それがやはり大事なのではないかと思うのである。

2007/03/07

写真よ、ブレろ!



最近自分が撮ろうと思う写真は、美しさを排除したい、叙情性を排除したい、感傷を排除したい、色彩を排除したい、明るさを排除したい、空気感を排除したい、そんなことを願う。

あるがままの現実など信じない。ただ写真にあるのは写真でしかない。自分が見た色を信じない。自分の写真のピントを信じない。僕はおそらく自分の撮った写真を信じない。

帰り道になんでもない月夜を撮った。ビルとビルの狭間にある暗い道。空には煌々と光る月。写真を撮る動機こそが、僕にとって重要な問題であり、根本はそこにある。写真を撮る価値を認めない写真を撮りたい。

後々詰まらぬと自分自身が見向きもしない写真を撮りたい。それらの写真の集積に、おそらく僕は僕を見つける。商品価値のある「自分」ではなく、その真逆の自分。もっとブレろ!、意識せずに写真よブレろ!