2008/01/25

2008年1月24日、東急田園都市線

朝日新聞によると以下のような顛末だったらしい。
「田園都市線では同日午後5時半ごろ、川崎市高津区二子の高津駅で人が通過中の電車に飛び込む事故があり、午後7時15分まで救助や復旧作業が続いた。(asahi.comより)」
最初の事故は人身事故だった。この事故で電車は二時間近く止まった。
二度目の事故は用賀駅で線路に亀裂が発見されたことによるものだった。最初の人身事故との関連性は全くない。
「レールの継ぎ目の溶接部分が何らかの原因で切れたとみられ、レールを流れる信号用の電流が途切れて近辺の信号が赤になったという。鉄道関係者によると、冬は寒さでレールが縮みやすく、溶接部分や傷のある部分でレールが切れることがあるという。(asahi.comより)」
この事故で途中の10分間の再開を除き約1時間40分電車は止まった。二度目の事故の発覚は午後8時頃だったので、人身事故からの復旧からまだ間のないことがわかる。

田園都市線は渋谷から神奈川の中央林間まで通じている。しかも田園都市線は地下鉄半蔵門線と東武電鉄に直結しているため、両線にも影響を与えた。田園都市線が不通の間、東武押上から渋谷までの折り返し運転となり、電車は乗客を次々に澁谷に送っていた。当然に半蔵門線渋谷駅のホームは人であふれた。勿論渋谷から田園都市線を利用する人も多い。故に一時は渋谷駅で乗客の入場を制限する処置まで行われたほどである。何人かが体調不調を訴え救急車で運ばれた。

人々は不確かな情報を伝えるアナウンスと再開時期が不明な状況にうんざりした面持ちで、それでも殆どの人は無言で電車が動くのを待ち続けた。僕は半蔵門線を利用している。丁度帰宅のため駅に着いたのが午後8時あたりだと思う。ホームに降りると電車が停車していたので、これはついていると迷わず電車に乗り込んだ。でもいつまで待っても出発しない。不思議に思い始めたとき駅のアナウンスが流れた。

アナウンスは、その時点での状況を伝えようとしているのは声の調子で感じるが、全く要領を得なかった。僕が理解できたのは、東急田園都市線で人身事故があったこと、電車の点検のためその電車を回送すること、回送が終わるまで駅に停車している電車は出発できないこと、この電車は渋谷までで田園都市線には乗り入れないこと、などであった。

後から新聞情報を知れば、半分はその通りだが線路の亀裂のことなどは知らされなかった。でも乗客にとって一番に知りたいことは、駅に停車している電車がいつ動き出すのかと言うことだ。でもそれを想像することさえできない内容だった。これも後から知り得たことだが、この一連の事故で約16万7千人の足が大きく乱れたとのことだった。

しばらく電車の中で待っていると東急線が開通したとのアナウンスがあり、電車も渋谷行きからさらに先の中央林間行きに切り替わった。それで帰ってこれたのだが、後から知れば、その稼働も10分間だけの一時的なことだったらしい。

この事故を都市の脆弱性に結びつけて話をするのは簡単なことだ。しかしその様なことは誰もが承知の話である。我々はまるでカミソリのエッジの上を危ういバランスを保ちながら歩いているようだ。でもそれを告げて何かが変わるわけでもない。

影響を大きくしたのは線路の亀裂の発覚の方だろう。その事故を振り返ってみれば、停車時間は、体調不良になられた方には大変に申し訳ないが、たったの1時間40分である。人に言わせれば、その1時間40分で個人的・社会的に致命的な状況に陥る人もいるかも知れないし、体調不良を訴え最悪の場合亡くなる方もでるかもしれない、でもそれでもたった1時間40分なのである。

普段では何も問題のなかった交通システムが、1時間40分間停止しただけでこのような混乱状態になったということは、逆に言えばそれだけのボリュームを交通システムが日常処理していたということになる。これはある意味凄いことだと僕は思う。そして都市交通システムを維持し運営する人の社会的使命の意識の高さで、復旧を短時間(人によって考えは違うとは思うが)で行えたのも素晴らしいことかも知れない。渋谷駅で殆どの利用者が我慢できたのも、都市システムの脆弱の中でそれを復旧しようとする彼らの姿に、わが身の日常を重ねていたからだと思うのだ。

つい少し前まで、ネットが普及の兆しを見せ始めた頃、会社の業務は在宅化するのではないかとの予想が多かった。フレックスタイムを多くの会社が採り入れたころだ。その傾向は、現在では、個人情報保護及び情報セキュリティのかけ声のもと吹き飛んでしまったかのようである。今、多くの人たちは会社でまるで図書館の閲覧室にて仕事をしている感覚に囚われているかもしれない。在宅勤務の夢は遠のき、今でも都市交通システムに依存してそれぞれの仕事は成り立っている。

身体的にはネットのインフラよりも交通システムの方が社会的に重要なライフラインなのである。現代では、過去の民族大移動のように毎日人は肉体を動かしている。そしておそらく人はそのような習慣の中で肉体を動かすこと、つまりは行動(反応)することが重要だとする価値観を身体性にまで落とし込んでいることだろう。今回の一連の事故も、自らその肉体を粉砕するという人身事故に始まり、線路の亀裂を最初に発見したのも利用者の眼であったし、それらの事故の復旧の為に関係者は駆け回り、利用者は立ち続けた、という風に、一連の流れは肉体的なレベルに均しても説明がつくし、新聞などの報道もそれに準じている。

新聞でインタビューに答える人たち。彼ら・彼女らの言葉は心の有り様を素直に表現している。心は身体の反応に連動する。それぞれの肉体の状態において心の有り様は、個々に様々とはいえ、反応の仕方では同じ方向を向いていたと思う。勿論それが人間の常態であるかもしれない。無論人はそれぞれに違う。ただ、反応に対しては僕も含め何かしら人々は似ているように見える。

だからか、この様な事故があり大勢の人々が一カ所に群れのように集まると、僕は自分の存在の薄さを多少なりとも感じるのである。電車は途中で減速・停車しながら通常の約倍の時間で下車駅に着いた。無言で改札を出る人々に混じりながら僕は周囲の安堵した様な表情の顔を眺める。帰りは散歩がてら遠回りをして家まで歩いた。家について最初の人身事故が自殺(25歳独身女性)である可能性が高いことを知った。少しだけ彼女の人生と家族のことを思った。

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