2008/12/18

渋谷スクランブル交差点、スケッチ

渋谷スクランブル交差点、夜の7時、12月。ハチ公側から人の群れを見ると、前方のセンター街の灯りで群集がシルエットとなって浮かんでいる。群衆と言っても彼らに(無論、僕も含めて)何らかの繋がりはない。ただ前方の信号が青く点灯するのを待ち続けているのだ。

信号が青に変ると黒い人の群れは何らかの意思を持ったかのようにそれぞれの方向に動き始める。おそらく上空からこの光景を眺めると何らかの法則を持っているかのように思うことだろう。勿論、何らかの法則はある。僕らは道のある方向にしか歩けないし、その道も複数あれば、一定の割合で配分があるかもしれない。

僕もハチ公側からセンター街に向かって歩き始める。対面から歩き近づきそして離れる。様々な顔、年齢、そして姿。友人と笑いながら、恋人と手を繋ぎながら、遅れる妻を振り返りながら、もしくは一人で、たった数十秒の間で交差しあう。そこでの出会いは一瞬だし記憶に残ることもない。しかも交差するのは一人一人だが、感覚の中では群れと群れの交差であり、そこに個人はいない。

その女性が対面から近づいてきているのを僕は数秒前から気がついていた。センター側からハチ公方面へと歩いてきているのだ。これほど多くの人の中で、彼女を集団の中から発見したことに多少の混乱があった。勿論僕には未知の人だ。細身で背が高く、まっすぐにこちらを向き、周囲と同じ速度で歩いてくる。まっすぐにこちらを向く顔でまず引き寄せられたのは彼女の眼だ。街の灯りに反射して眼がキラキラと光っている。あたかも泣いているようだ。いや、実際に泣いているのだ。

僕は驚きと共に交差点の中ほどで立ち止まる。彼女は同じ姿勢で、僕など見もせずに横を通り過ぎる。

僕は慌てて後ろを振り彼女を探すが、もうそこには黒い群集の背中が見えるだけだ。動き、交差する中で、僕は立ち止まったまま、周囲を見渡す。少し世界の色が変る。錯覚だったのかもしれない。渋谷のスクランブル交差点での束の間の夢。今見た光景が誤りであるかは、僕の経験で推し量るしかない。現実問題として、えっ現実問題って何だ!?。

僕が誰かと一緒に歩いていたら、その人に確認することが出来る。でも僕一人が見て、そう見えたのであれば、誰も否定も肯定も出来ないのではないのか、僕自身も含めて。

別に泣いている女性が渋谷のスクランブル交差点を横断していても全然構わないではないか。怒りながら、もしくは笑いながら歩いている人だって大勢にいるし、外からわからないが、嫉妬しながら、妬んでいながら、喜んでいる人や、何かを恨んでいる人だって、この交差点には大勢いるはずだ。ただ僕はそれらを判別出来ないだけ。それに彼女だって、たまたま眼にごみが入っただけかもしれない、もしくは涙目なのかもしれない。そんなことを考えながらも、僕はこういうことで混乱する自分に驚く。

目の前の信号が点滅を始める。僕はまだスクランブル交差点の中ほどで立ち止まったままだ。

その点滅に促されるように、僕はスターバックのほうに向かって歩き始めた。喚声をあげて横断する人とすれ違う。「彼が」とか「可笑しいでしょ」との言葉が聞こえる。やがて信号は赤となり、車が走り出す。騒音で言葉がかき消され、人がこんなに多いのに話し声は聞こえない。

この拙いスケッチで僕は何を言いたいのか自分でも良くわからない。単なる心象的なスケッチだと受け取って欲しい。人にとっては何の意味もない、でも僕にとっては大事なことなのだろう。

その後僕はTSUTAYAでCDをレンタルし何枚か写真をとって家に帰った。でもスクランブル交差点で交差した女性の顔は意識の中に残り続けていた。