2009/10/13

感性についての拙いメモ

果たして僕の感性は年齢と共に衰えているのだろうか、と自問してみる。

答えは既に僕の中に用意されている。論理的には回答不能であり、問題にはならない問であるという結論だ。

人間はそれぞれに一回性の生を生きている。その人生の中であらゆる出来事は一回性の出来事である。仮に10年前と全く同じ出来事が今日起きたとしても、それぞれに一回性の出来事なのだから、その両者はその意味で違うことになる。

その違う出来事同士の比較は、感性を果たして比較可能かどうかは別として、表象される事象での比較にならざるを得ず、それは両者が違うことの証とはなりえるだろうが、価値評価までは難しいと思うのだ。

ただしかし、過去に抱いた感性の記憶が、現在のそれと比べ、衰えていると感じるのは、感じるその人にとっては実感でもある。その実感を否定することは僕にはさらに不可能なことと考える。
ちなみに僕の場合は、若いときの感性は素朴であった、だから素朴ゆえの強い説得力を持っていたかもしれない、ただそれは現在が衰えているということの証拠には繋がらない、程度には言えるとは思う。勿論、それは「そう思う」としか言えず、証明することは不能だと考えるし、これから先のことはわからない。

ただここで僕として注意しなければならないのは、年齢による衰えと言葉を綴った瞬間に既に一つの価値観で縛られていると言うことだ。衰えとは、おそらく現在では良いとはされていない。年齢による感覚の「衰え」の中に記憶力の「衰え」があるとしたとき、記憶力の衰えは記憶力が悪いという言葉に繋がる。言葉を正確に言えば、これらは「衰え」ではなく「変化」であろう。

言葉が内包する価値に反抗して物事を語ることは不可能に近い。仮にそれが出来たとしても、相手に伝わることがないのだから。言霊とはよく言ったものだ。象形文字から変化し、その組み合わせから成り立つ漢字を母体にした日本語表記は文字一つに様々な意味を持つ。明治以前は日本には5万語に及ぶ漢字が使われていたのだそうだ。その時代であれば、僕が伝えたいことを漢字で表すことができたかもしれない。勿論、漢字の量の多さでも難しいと直ぐに気が付くが・・・。

「感性」という言葉は西周が造った。つまりそれ以前には存在していない日本語だった。その他に「理性」「悟性」「主観」「客観」「意識」「現象」などなど、西洋から伝わった概念は何故か漢字二文字の熟語が多い。西周が造ったこれらの言葉には漢字文化圏を背景を持ちながら、そこにキリスト教的世界の価値観が挿入されている。おそらくこれらの言葉は、僕らが知らずのうちに使っているにせよ、それらから逃れることは難しいだろう。

話を元に戻す。感覚は人間の感覚諸器官からの刺激を受けて情報の取捨選択を行う機能を持っている。人間関係の中で、感覚が合う合わないは取捨選択する情報を表象することで実感することになる。感覚は実感を伴う。

肉体的な感覚機能が変化したとき、例えば視力が良かった人が、老眼により近くのものが見えづらくなったとき、その方の感覚はそれに応じて変化するのだろうか。正直に思うのは、影響を受けないはずはないということだ。ただ感性の違いを他者がわかることはないのではなかろうか。よってこの問は無意味なのかもしれない。

仮に、皮膚から突然に何も感じなくなった人がいたとする。痛いも寒いも感じないその方は、それでも痛い寒いがどのような状況で現れるのかを記憶している。よって他者とのコミュニケーションの中で、相手にそれを感じさせることなく対応することが可能となるし、おそらくその様に対応することだろう。

感性は感覚からの情報に価値判断を付与する。「美しい」「美味しい」「うまい」「良い」などの価値評価を下すことになる。おそらく感性は感覚を土台にするが、感覚と感性はそれぞれが独立しているようにも思う。例えば富士山を認識するが、それに対し「美しい」とかの価値判断を行えない人はいるかもしれない。ただ僕としてはその逆は無いと考えている。富士山を認識せずに「美しい」とは思えない。

感性の違いは価値判断の違いとなって現れる。これは人間関係の中で、特に価値観の相違となって現れるように思う。よく聞く「価値観が同じ人」というのは感性が似たような人と同義ではないだろうか。そしてその価値観は、生来から持つ動物的価値観と訓育から得る価値観との二つに分かれるように思う。勿論、ここで言うのは訓育で獲得する価値観のことである。

感性はその枠を広げることは可能だと僕は思う。広げるためには感覚への新たな刺激が必要となる。その際に、感覚として捨て去る刺激ではなく、逆に捨て去ろうとすることを防ぐ力が必要となるように思う。ただそれは感性だけでは難しいように考える。おそらく悟性が必要となるのだろう。悟性とは自分であり続ける意識のようなもののように今のところ思っている。意識との違いは視点の違いだけかもしれない。

感性が豊かなこと、感性の枠を広げること、それらは一概に良いと言うことではない。物事にはやはり一定のバランスが必要なのだ。無論、僕はバランスが必要なことを証明することはできない。ただ人間社会の中で、並外れた豊かな感性を持っている人と殆ど枠がないほどの感性の広がりを持っている人がいたとき、これらの人はおそらく社会から排除されるか自滅をしていくことだろう。

全てを肯定することも認めることもできるわけではないのだから。

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