2009/12/03

平山郁夫氏悲報に接し思い出す幾つかのこと

ゴーギャン展で国立近代美術館に行った際、閉館までに時間が多少あったので常設展示を見て回った。想像以上の素晴らしい作品とその量だった。これは嬉しい誤算だと喜んだが、とてもじゃないけど閉館時間までの短い時間では落ち着いて観る事が叶わなかった。
急ぎ足で館内を歩き、その速度を緩めることなく作品を一瞥する。記憶にも残らない鑑賞の仕方だが、とりあえずは下見のつもりだった。

最上階だったと思う、奥の一間が薄暗い照明で何点かの日本画が展示されているのがわかった。閉館間際の美術館の最上階、殆ど人はいない、静かな雰囲気と薄明かりに照らされた日本画がとても自然に調和している。そしてその前に一人のご婦人が佇んで一枚の絵を観ていた。微動だしない自然体の姿勢は、絵画への照明で黒いシルエットとなって浮かび上がっている。

何の絵を観ているのだろうか、と彼女の真剣な眼差しの先にある方向を見ると、そこには平山郁夫の絵が飾られていた。大きな絵だ。タイトルは実を言えば覚えていない。でもそのご婦人の美しい姿勢と真剣な眼差しが印象的だった。

僕は平山郁夫の隣に飾られていた上村松篁の「星五位」という絵のほうに気持ちが動いていた。ゴイサギが5羽バランスよく立ち姿が描かれていた。素晴らしい絵だと思った。
今朝の新聞で平山郁夫氏が亡くなられた事を知り、まず思い出したのがそのことだった。新聞を読むと平山氏は若くしてその才能を開花された方らしい。日本画家のイメージから、勝手に晩成された方だと思い込んでいた。国民的な画家だから、誰もが彼の絵のスタイルを知っているし、逆に言えば、彼の絵を十分に知らずに既に飽きている気持ちにもなっていた。

それが国立近代美術館での見知らぬご婦人の真剣な眼差しに啓発されたのか、今までとは少し違った目線で平山郁夫氏の絵を観ることが出来そうだと感じている。ゴーギャン展の感想日記に、今度は常設を観に行くと書いたが、その背景には、これらの話があったのだ。
もう一つ、その時に特別展示されていた川田喜久治氏の写真集「ラストコスモロジー」のオリジナルプリントを観ることができたのも幸運だった。写真が近代美術館に展示されることへの多少の違和感はあった。それは写真が表現芸術として認めるか否かの素朴な問いかけから発するものの、結局は絵画(美術)と写真はまったく別のものだという感覚から来ているのも間違いはなかった。

ただ川田喜久治氏の写真は紛れもなく表現芸術の一つであった。何かを明確に写してはいないが、そこには何かが写っていた。写真が面白いのは、何かを写すとき、その何かが表象として崩れれば崩れるほど、別の何かが立ち上がってくるということだ。そしてその立ち上がった何かが、写真の衝撃を僕らに与えるように思える。
平山郁夫氏死去の記事から繋がる最近の事柄を書いてみた。最後になってしまったが、平山郁夫氏のご冥福をお祈りいたします。

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