2009/12/09

男と女、無性と有性

例えば、質問としてよくあるのが、「今度生まれ変われるとしたら、男と女どちらが良い?」
 おそらく生まれ変わっても、女性は女性に、男性は男性にと答えるケースが多いように思う。

一度会社の同僚の女性に質問してみたことがある、その答えが面白く印象に残った。
「うーん、一度女性を経験したから、今度は男性でいいかな。あはは」
生れ変りが実際にあれば、前世の記憶を引き継げれば良いかもしれないが、残念なことにそれは誰にもわからない。(例と思われるのも僅かしかない)

ある生物は食料が得やすく生き延びる機会が増大すると無性生殖となり、逆に環境が厳しくなれば有性生殖へと切り替えることで種の存続を図るという。つまり、人間に男女の区別があるのは、多様な遺伝子を組み込むことで、進化の速度を促し、環境の変化への対応が有利に進めることが出来るからだと言える。
(参考『雌と雄のある世界』 (集英社新書) 三井 恵津子 著)

現代の医学では男性女性のそれぞれの性は手術により転換をすることが可能となっている。
ただ法整備は整ってはいない。しかも人間は人間としての種が出来て以来、男性女性と性が分れ、それを前提とした精神と社会を構築しているため、転換は時として不幸な結果を招く。

例えば一定の割合で産まれている両性具有者が、産まれた時点で本人の意思に関係なく性が確定される場合とか。性同一性障害により性転換を行ったが周囲の性偏見により苦しめられたりとか。

さらに男性を定めるY染色体は劣化の一途をたどっているため、いずれ男性は人間の性から無くなるのも確実だと言われている。そのうち女性だけで、様々な技術を使い生殖を行っていくことになるのだろう。ただ、そこに至る前に、おそらく性への概念は今とは全く違ったものになっているように思う。 例えば、女性から男性に、もしくはその逆も、装置もしくは薬剤で簡単に転換できる様になっているかもしれない。その時代は、人間の常識・倫理・道徳などは全く様変わりしていることだろう。結婚の制度も意味を失うため消失しているはずだ。性だけではなく自分の姿も簡単に変えられるようになっているかもしれない。ただその時、その生物は人間と言えるのかは、僕には何ともわからない。

もしかすれば現代は既に性が揺らぐ時代へと突入しているのかもしれない。ふとそんなことを考える。男性も女性も、互いに違う性があることを前提にしていることが如何に多いことか。だからいずれ社会的にもしくは心理的に、それを乗り越える人間の新たなデザインが必要となるのでは、と僕は思っている。万能細胞の技術革新もおそらく、難病が治るとか、失われた肢体が復元するとか、そう言った再生医療への可能性だけではないように思えるのだ。今はあくまで感覚的なものでしかないが。

こういうことを言えば、それらはクイア・スタディにて理論的に構築もしくは実践中ではとの声も上がることだろう。確かにクイア理論は新たな人間へのデザインの萌芽となるかもしれない。僕はクイア理論について殆ど無知でもあるので積極的に展開することが難しいが、ただこの理論はもともと非異性愛者からの切実な思いから発しているため、異性愛者からの切実さに欠ける点がある様に思う。そしてそこが根本的な問題でもある様に思えるのだ。

さらに言えば、僕は性のない世界という現時点では荒唐無稽なところから発している。人間の進化と技術的な進歩から、あながち荒唐無稽でもなく、逆にその方向から生殖への思考を進めるのも良いのではないかと言う発想からだが、その前に性もしくは生殖に係わる解決すべき問題群が巨大であるのも感覚として知っているつもりだ。

何かまとまりのない文章になってしまった。もう少し語れるようになるために勉強しなくてはと最近特にそう思う。

柴又へ

家から柴又帝釈天に行くには幾つかの電車を乗り継ぐ必要がある。まずは半蔵門線で終点の押上まで行く、押上で京成電鉄に乗り換える。そこまでは僕でもわかる。難しかったのはそれ以降だ。

丁度来た電車は青砥(あおと)行きだったのでとりあえず乗り込んだ。青砥で乗り換えると思っていた。でも幾ら待っても柴又方面の電車は来ない。時刻表を見るとどうやら昼間は高砂から出ているらしい。でもその高砂がどこなのかが全くわからない。駅員に聞いてみる。

「柴又に行くにはどうすればいいのですか」

「一度、高砂まで行ってください。そこで金木行きの電車に乗り換えてください」と駅員

「高砂とはどちらですか、あっちですか?こっちですか?」

指で上りと下りを示して聞く。内心まるで「初めてのお使いシリーズ」だと恥ずかしくなる。
駅員は僕の動作に面食らった感じで、少しだけ間が空く。

「あっちです。このホームで待って次の電車に乗ってください。一つ目の駅です」

待っていると確かに電車が来た。でも車両側面には北総鉄道と書かれている。一瞬京成電鉄じゃないのかと迷うが、駅員が間違うはずもなくそのまま乗り込む。あっさりと高砂に着いた。ホームに下りしばらく待つと金木行き電車がホームに入ってくる。調べてみると高砂の次の駅らしい。つまりは迷った青砥から二つ目の駅ということになる。しかしこの間30分以上はかかっている。遠い。

柴又の駅は、何度も寅さんの映画に出てくるのでなじみがある、はずだったが、どうも映画とは少し違うようだ。向かって左側面が工事中だったので全面を見ることが出来ないのもあるかもしれない。それに映画だと駅前は少し広場のようになっていたと思う。実際も広場にはなっているが狭く感じる。これでは浅丘ルリ子演じるリリーの帰りを寅さんが待つ場所が見当たらない。

既に駅前から帝釈天の参道となっている。これも映画とは少し違う。リリーと相合傘で寅さんが歩く距離が短すぎる。これではロマンチックになる前に家にたどり着いてしまう。

しかもだ、リリーが寅さんに会いに行くとき、一度は帝釈天の方から歩いてきたように思う。しかし駅からだと帝釈天に向かうので、彼女は柴又駅からではなく別の駅(例えば新柴又駅)からくることになる。その距離をハイヒールのリリーは歩いたと言うのだろうか。

またまたリリーが餃子を造る為に寅さんと買い物をするシーンがあるが、参道には八百屋も肉屋もなかった。彼らはどこで餃子の材料を買ったのだろう。

それもまして参道の人の多さはどうだろう。ちょっとした原宿の竹下通りに近い。この人の多さは寅さんの映画の世界には全くなかったと思う。無論近くには印刷工場などなく、参道のお店で人が暮らしている感じもしない。

映画の柴又と現実の柴又を比べること自体が誤っているのかもしれないし、休日と平日の違いもあることだろう。それはわかる。でも寅さんの、しかもリリー3部作にこだわっているファンの心情も理解して欲しい。

しかしわかったこともある。寅さんもしくは出演者が江戸川の土手で別れるシーンが時折あるが、別れた際にどこに向かうのかがわからなかった。でも土手を下流に向かって歩くと京成線にぶつかるのだ。20分近くは歩くことになるとは思うが。

そんなことをだらだらと書けば、いかにも僕が熱心な寅さんファンだと誤解をされそうだ。
「好きなんですね」、と聞かれたら素直に認めよう。ただ僕の場合は、浅丘ルリ子演じるリリー3部作(実際には4作品)しか見ていない。少し変則的なファンなのだ。(この日記でリリーしか登場しないのはそういう訳だ 笑)

たまたまテレビで放送していて、それをたまたま観て、こんなにも面白いのかと驚いた。何よりも浅丘ルリ子のリリーが女性として魅力的で可愛く、どちらかといえば彼女に惚れて観始めたといったほうが正確かもしれない。

・男はつらいよ 寅次郎忘れな草     11作目 公開1973年8月4日
・男はつらいよ 寅次郎相合い傘     15作目 公開 1975年8月2日
・男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 25作目 公開1980年8月2日
・男はつらいよ 寅次郎紅の花      48作目 公開1995年12月23日

このうち最終話となった48作目の「紅の花」は別格扱いなので、通常はリリー3部作となっているのだそうだ。確かに48作目は、寅さん役の渥美清さんの内側から来る生命力が感じられない、だからかいつもは寅さんが演じる役回りを甥の満男(吉岡秀隆)が肩代わりをしているようだ。

映画と実際の違いは時代の違いもあるかもしれない。11作目は今から36年前なのだ。そのころであれば、まだ映画と実際は限りなく近かったかもしれない。ただ町並みとか帝釈天は寅さんの映画のイメージがあった。そんなことをあれこれと考えながら僕は柴又の参道を歩いた。

帝釈天で参拝し、帰りに草団子を食べた。店の人は愛想良く対応してくれる。

すっかりとテーマパーク化している柴又に、テーマパークしていることを求めて僕はやってきたという事だ。そしてテーマパークが徹底されていないと嘆き、テーマパーク化されていることにも嘆く。わがまま極まりなく無責任な観光客の一員として僕は柴又を楽しんだ。そしてそれを柴又の参道は受け入れてくれた。

テーマパークと書いたが、それこそ失礼だったのかもしれない。テーマパークの代名詞でもあるディズニーと言えども東京で開園してからまだ30年しか経ってはいない。「男はつらいよ」1作目から今年で40年である。それ以前に帝釈天の参道として賑わいを見せてからは、200年以上は経っている。テーマパークとしても、お客さんを接待する伝統と重みが違うのだ。寅さんであろうと新参者であることに変わりはない。でもとっても強力な新参者であることも間違いないが。

寅さんのリリー3部作の感想を書こうと思ってからだいぶ時間が過ぎた。書こうと思う都度、僕はこの映画を観た。既に何回見たのか忘れるほどだ。でも一向に飽きることがない。寅さん、リリー、さくら、おいちゃん、おばちゃん、その他多くの人たち、柴又の街並み。観るたびに、何かを教わると言うより、知らずに引き込まれ楽しんでいる自分を見つけるのだ。同じ箇所で笑い、同じ箇所で照れ、同じ箇所で感動する。あらかじめ筋がわかっていても関係ない。今回の柴又に行くのを決めたのも寅さんが発端だし、おそらく多くの人が僕と同じだろう。

帰りに江戸川の土手を少し歩いた。矢切の渡しが見えた。実に多くの人達がそれぞれに楽しんでいた。風はあるが雲一つない青空だ。少し歩くと寅さん記念館があるという。ここまで来て行かないことはない。柴又にも当たり前だが多くの人が住んでいた。彼らは寅さんの幻影を求めてこの街に住んでいるわけではない。閑静な住宅地は、まるで僕の思惑を知っているかのように、逆に堂々と暮らしの有様を見せる。おそらく寅さんはこの暮らしの中にこそいるのだと、その時僕は初めて気がついた。

2009/12/08

ポパイ

Googleの検索サイトに行ってみたらロゴがポパイだった。
調べてみるとポパイの原作者であるエルジー・クライスラー・シーガーの誕生日なのだそうだ。ポパイにも原作者がいたんだ、という当たり前のことが最初の印象。そりゃぁいるだろうと即座にアホな疑問を打ち消したけど、それが率直な感覚だった。だからエルジー・クライスラー・シーガーも今回初めて知った。

でもこのGoogleのロゴはポパイの雰囲気を良く出している。網掛けの色使いからくるポップな感覚は今でも十分に通用しそうだ。

ポパイと言えばほうれん草、ほうれん草会社がこの漫画のスポンサーであると真しやかなうわさが流れたことがあった。しかし、ほうれん草会社のイメージが全く浮かばなかったし、ほうれん草の缶詰だって売っているものを見つけたこともなかった。

ポパイは今の漫画と較べれば品質面で劣るように思うが、それでも観てしまえば最後まで見てしまう面白さがあった。何よりも難しいことなどどこにもない大らかさ、オリーブとブルータスとの絡みの単純さ、結末がわかる安心感が、そこにはあったように思う。しかし戦前から日本に紹介されていたとは全く知らなかった。(それを考えれば十分に品質は高いとも思える)

しかもWikipediaによれば、ポパイは最初脇役だったのだそうだ。当初の主人公の名前はハム・グレイヴィ、ハムの恋人は勿論オリーブ。それが脇役であるポパイの人気が上がり、ついにはオリーブを奪い、ハムを主役から追い落とした。実はこのことに僕はとっても興味がわく。といって掘り下げるつもりもないが。

ポパイは雑誌の名前にも使われた。ご存知の通りのマガジンハウスの雑誌である。創刊が今から30年以上前だというから、すごい雑誌と言えるかもしれない。雑誌ポパイでは、そのターゲット層が10代後半から20代ということもあり、男性のことを「~少年」と呼んでいたように記憶している。今では少年はそれほど使われなくなり、変りに「女子」と対抗しての「男子」が使われるようになった。でも僕はこの「~少年」という言い方の方が好きだ。

「男子」が男性一般的な使われ方をするのに対し、「少年」には明らかな年齢の区分がそこにはある。だから使われ方としては、大人に対して少年とは言わずに、「少年のような」という言い方をする。どうも「男子」と繋がるのは「トイレ」とすぐに発想してしまう、この身の発想の貧弱さがそこにあるのも事実だが・・・

雑誌ポパイが世の中に受け入れられた理由として、よく言われるようにポップカルチャーの隆盛にある。そしてそれは深化を続け「かわいい」から派生した携帯文化で現在に至る。その経緯で外面もしくは年齢よりは、より内面の状態を前面に出した文化でもあるように僕には思える。その文化はIT技術を背景にしたヴァーチャルと自分の内面を重ねることで、自分を一種のアバター化してもいる。

ポップカルチャーの流行の一端を担った雑誌の名前がポパイであることは偶然ではないと僕は思う。ポパイの漫画の中に既にその芽が見出せるような、Googleのロゴを見てそんなことも思った。

ちなみに原作者のエルジー・クライスラー・シーガー(1894/12/8-1938/10/13)さんが誕生してから今日が115年目となる。

図補足:上が2009/12/8のGoogleロゴ、下がポパイの前の主人公で、オリーブの元彼。

2009/12/07

白い原野

僕の中には一つの懐かしいと感じる風景がある。原風景と言えば聞こえはいいが、その風景がそれに該当するのかはわからない。それは荒涼たる白い原野だ。白い原野とは津軽の地吹雪が吹き荒れる雪に覆われた場所であり、その吹雪に耐えて家が静かに建っている光景となる。通常は地吹雪からの被害を防ぐために風に面して壁を造るのだが、僕のその光景に建つ家はその様なものが一切ない。ただただ冬の強風で舞い上がり叩きつける雪に耐えている。

無論、東京産まれの東京育ちの僕にその様な場所で生活をしたという経験はない。ただ3歳から5歳くらいまで家の都合で東北は青森に暮らしたことがあった。青森市内でも決まった午後のある時間になると地吹雪に近い状態にはなり、身をかがめて歩く街の人々の印象は強く残っているが、だからといって白い原野の光景と同じではない。

その光景に強く惹かれるのに気がついたのは学生の頃だった。その頃に読んだ東北詩人高木恭造の詩集「まるめろ」にその光景が写された写真が載っていたのである。初めてその写真を見たとき、それは書店だった、強い衝撃と言う程でもなかったが、ただその写真から目を離すことが出来なかった。詩集を購入し、詩を読みながらも、それ以上に僕はその写真を眺め続けた。

眺め続け、僕の中に浮かぶ何かを言葉に出すのは難しい。でも僕はその何かを知っていた。知らないわけがない、だからこそ僕はその光景に眼が奪われたのだ。知っている何かは、子供時代の記憶と結びつく。その情景を言葉に紡ぐことはできる。ただ、それらを紡いだところで、その何かが現れるわけではない。その頃からの僕の一つの願い。その写真と同じような光景を、実際にその場にいて撮影してみたい。写真から僕はその何かに気がついたのだから、きっと同じような写真が撮れる事だろう。

今思えば、写真から何かを感じ得ていたことって意外に多い。そのどれもが人が撮った写真からだ。自分が撮った写真から浮かぶことは少ない。自分が撮る写真は、ただそこにあるものを見るような、そんな感じに近い。

2009/12/03

平山郁夫氏悲報に接し思い出す幾つかのこと

ゴーギャン展で国立近代美術館に行った際、閉館までに時間が多少あったので常設展示を見て回った。想像以上の素晴らしい作品とその量だった。これは嬉しい誤算だと喜んだが、とてもじゃないけど閉館時間までの短い時間では落ち着いて観る事が叶わなかった。
急ぎ足で館内を歩き、その速度を緩めることなく作品を一瞥する。記憶にも残らない鑑賞の仕方だが、とりあえずは下見のつもりだった。

最上階だったと思う、奥の一間が薄暗い照明で何点かの日本画が展示されているのがわかった。閉館間際の美術館の最上階、殆ど人はいない、静かな雰囲気と薄明かりに照らされた日本画がとても自然に調和している。そしてその前に一人のご婦人が佇んで一枚の絵を観ていた。微動だしない自然体の姿勢は、絵画への照明で黒いシルエットとなって浮かび上がっている。

何の絵を観ているのだろうか、と彼女の真剣な眼差しの先にある方向を見ると、そこには平山郁夫の絵が飾られていた。大きな絵だ。タイトルは実を言えば覚えていない。でもそのご婦人の美しい姿勢と真剣な眼差しが印象的だった。

僕は平山郁夫の隣に飾られていた上村松篁の「星五位」という絵のほうに気持ちが動いていた。ゴイサギが5羽バランスよく立ち姿が描かれていた。素晴らしい絵だと思った。
今朝の新聞で平山郁夫氏が亡くなられた事を知り、まず思い出したのがそのことだった。新聞を読むと平山氏は若くしてその才能を開花された方らしい。日本画家のイメージから、勝手に晩成された方だと思い込んでいた。国民的な画家だから、誰もが彼の絵のスタイルを知っているし、逆に言えば、彼の絵を十分に知らずに既に飽きている気持ちにもなっていた。

それが国立近代美術館での見知らぬご婦人の真剣な眼差しに啓発されたのか、今までとは少し違った目線で平山郁夫氏の絵を観ることが出来そうだと感じている。ゴーギャン展の感想日記に、今度は常設を観に行くと書いたが、その背景には、これらの話があったのだ。
もう一つ、その時に特別展示されていた川田喜久治氏の写真集「ラストコスモロジー」のオリジナルプリントを観ることができたのも幸運だった。写真が近代美術館に展示されることへの多少の違和感はあった。それは写真が表現芸術として認めるか否かの素朴な問いかけから発するものの、結局は絵画(美術)と写真はまったく別のものだという感覚から来ているのも間違いはなかった。

ただ川田喜久治氏の写真は紛れもなく表現芸術の一つであった。何かを明確に写してはいないが、そこには何かが写っていた。写真が面白いのは、何かを写すとき、その何かが表象として崩れれば崩れるほど、別の何かが立ち上がってくるということだ。そしてその立ち上がった何かが、写真の衝撃を僕らに与えるように思える。
平山郁夫氏死去の記事から繋がる最近の事柄を書いてみた。最後になってしまったが、平山郁夫氏のご冥福をお祈りいたします。

2009/12/02

外苑銀杏並木の黄葉

外苑の銀杏並木が黄葉したという。行ってみたが予想より多くの人が集まっていた。
銀杏の黄葉は青空が似合う。外苑の銀杏は一本一本が見事な大木でもあるから、それが並木となれば見ごたえがある。大勢の人が写真を撮っている。黄色い葉が日差しを受けてキラキラと光る。

僕の横を子供連れの一家が通り過ぎる。お父さんが子供たちに向かって「どうだ、来て良かっただろう」と聞いている。子供たちはそれに答えずはしゃぎまわり、代わりにお母さんが「本当にね」と答えている。

乳母車に子犬を数匹連れた夫婦も見かけた。子犬を落葉した黄色い葉に置いて写真を撮っている。多くの人たちは絵画館を背にして記念撮影をしている。片手でカメラを持ち顔を寄せ合い撮っている恋人たち、若いお父さんがお母さんと子供たちにカメラを向ける、もしくは友達同士でカメラを向け合いシャッターを押すたびに喚声を上げている女の子たち、それぞれが銀杏の黄葉の中で生き生きと笑顔で楽しそうだ。

無論僕と同じように写真が目的で来ている人たちも多い。しゃがみこみ地べたすれすれにカメラを構えている人、並木の一群を構図を考えながら撮る人、思い思いにファインダーを覗き、そして何か新たな視点を求めてカメラを構えなおす。

実を言えば僕は写真を撮る人たちを眺めているのが好きだ。何故だかとてもその姿に惹かれる。僕は銀杏の紅葉の写真を撮りながらも、カメラを構えている人たちにもレンズを向ける。

外苑の銀杏並木でカメラを向ける先は人様々だろう。でも一つだけ共通していることがある。それは親愛なる人たちであれ、美しい光景であれ、カメラを向け写真に残したいと思う何かがそれらにはあると言うことだ。その何かを見つめるとき、人の目は輝きを増す。そして僕はその眼に惹かれるのだろう。

絵画館前の噴水広場には丁度半円まで屋台が建ち並び、焼き鳥やら、おでんやら、たこ焼やら、焼きそばやらが売られている。多くの人たちが同じように半円に並べられているテーブルで食べて談笑している。

外苑という場所柄もあるのかもしれないが、もみじの紅葉と比べて銀杏の黄葉は何かにぎやかだ。万葉の歌は黄葉の歌の方が紅葉よりも多いと聞いたことがある。おそらく今では紅葉といえばもみじの紅がイメージされるが、遥か昔はそうではなかったのかもしれない。

青空と笑い声、そして銀杏の黄葉。押しなべて全体を語るつもりもなく、個々には様々な出来事があることだろう。でもここでは皆思い思いに初冬の黄葉を楽しんでいる。そのひと時がたまらなく美しい。

2009/12/01

12月、美しい人、悲しい出来事

12月に入った。単に11月から12月になっただけなのに、このザワザワ感は一体何なのだろう。

所詮、年末とは人間が造り上げたものでしかなく、しかもグレゴリー暦での世界だけの話だと、斜に構えて語ったとしても僕に染み付いた感覚は拭いようもなく、取り立てて何かがあると言うわけでもないのにただ落ち着かない。

仕事はどこでもそうである様に、筍のように後から後からと生えて来る。筍であればまだ食べられるから良いとは同僚の言葉、煮ても焼いても食えないものばかりだと彼は笑う。仕事は会社がある限り忙しいものだ、必要にして十分な仕事だけのはずなのに、得てしてそれだけでもないようにも思えるのは、これも皆が感じることだろう。

12月に入って、知人たちからの年始挨拶のお断りの手紙も届き始める。大抵はご両親だったり、祖母祖父だったりとするのだけど、それでもその方が見知った方であればそれなりに寂しさも募る。昨日届いた喪中のはがきは、灰色の枠組みに書かれていたのが知人その人だったのでとても驚いた。

僕には姉がいて、その姉の先輩に当たる女性だった。僕にとっては歳の離れた大姉と言う感じの人だ。彼女のことで覚えているのは、メンズクラブという男性向けファッション雑誌を創刊号から読んでいたということ。生粋のアイビーだったので、その頃アイビーを知るにはメンクラしかなく、女性のファッション雑誌もなかった時代、メンクラを読み続けていた。
それは徹底していて、彼女が和服を着たとき、会社の人から足元はローファーを履いてくると信じられたほどだった。

彼女はおしゃれでセンスが素晴らしく、そしてとても美しかった。アイビーもしくはトラッドを徹底することで、着こなしの基本的なルールなどをしっかりと身に付いてもいた。そんな彼女は小さい頃の僕の憧れの女性であり服装の先生でもあった。素敵な女性を思い浮かべるとき僕は彼女を思い出す。

はがきにはご主人の手書きでこう書かれてあった。

「妻の強い希望でお知らせしませんでした。良い想い出のなかに自分を留めておきたいと言っていました」

既に今年の2月に亡くなられていたらしい。原因は何だったのかも書かれていない手紙には、彼女の強い意志と願いを感じたのだった。そしてそれは彼女そのものだった。
急いで姉に電話する。姉のところにもはがきは届いていて、ショックを隠せない様子だった。

「きっと癌だろうね。余命も知っていたんだろうね。せつないね」と語る姉の言葉を頷きながら電話越しに聞く。

一人の人が死ぬと言うことは、おそらく一つの世界がなくなるということだ。その方は女性であり、妻であり、母であり、友人であり、そして憧れの女性でもあった。人の様々な視点の中に様々な彼女がいるのだろう。でも人は、その人がいかなる関係の人であっても、彼女の世界に完全に入ることは出来ない。彼女の世界は彼女だけの世界で、そして今年の2月にその世界は消えていたのだ。その重さに、僕は彼女を知るがゆえに畏れおののく。そしてその畏れこそが僕の彼女の冥福を祈る気持ちの現れなのだ。

今年は29日から年末年始の休暇となるらしいが、前後にお休みをとられる方も多いのだと言う。クリスマスと続く年末年始に、今から早いが皆様のご健康を祈らずにはいられない。