2010/09/08

ちょっとした宣言

書こうと思っているブログ記事は少なからずある。でもそれらを追求する力が今は欠けている。それでもある程度で妥協して記事を載せればよいとも思うが、そのある程度が問題で、いまだその程度に達してはいない。

今までこの場で何回か宣言をしている。それは万が一これを読む人にとってはどうでも良い宣言ではあるが、僕にとってはやはり一つの宣言ではある。自分で自分を決めること、それが今の時代にある少ない自由の表れだと僕は考える。だから宣言とは自由へのリハビリでもあるのだと僕には思える。

前置きが長くなったが、たいしたことを言うつもりもない。ただもう少し今までより記事の公開を多く行うつもりだということだ。例えばこの記事の様に他愛のない語りを載せていこう。僕は所謂感性的な人間だが、記事は理性的でありたいと願っている。感傷に溺れる事無く淡々と書ければそれにこしたことはない。

僕の心臓はどうやら自らの力で動くことが出来なくなりつつあるようだ。一分間の心拍数が約40回とはその危険性を数値で表している。ペースメーカーの埋め込みを行うようにと医者から宣言された。この宣言から僕はいずれ(10月末までに)手術を行うことになる。医者の診断は僕に二つの選択肢しか与えられない。つまりはペースメーカーを埋め込むか、このまま心拍数の減少から、いずれは脳貧血もしくは突然死の可能性を高めてゆくかだ。

二つの選択肢は、いずれかを選んだところで、僕はその選択に自由は与えられない。ただもう少し生きたいと願う心情がペースメーカー埋め込みの選択を行わせる。何故もう少し生きたいのかという質問は愚問だろう。生きるというのは人間に与えられた義務だと思うから。それ以上深める必要がない問かけだと思うのだ。仮にその問いかけを行えば生は無意味に陥る他はない。しかし生が無意味であれば、いわずんば死も無意味となるほかはない。

もしかすればその先を突き詰めると新たな答えがあるのかもしれない。しかしそれは僕にとって興味のある問いかけではない。今のところ。

宣言とは一つの投企でもある。投企は明日も生きるという前提に立っている。恐らく人間は死の直前まで明日のことを考えているのかもしれない。僕が義務だと思うのはそういう感性的な部分から来ている。このちょっとした宣言は、「ちょっとした」という形容詞で括りながらも、宣言する僕の心情はちょっとしたものではないのだ。まだ語りたいことがある。きっと語りつくせないし、中途半端に終わるのかもしれないが、それでもまだ語りたいことがある。
自律した人間の自由な語りであれば、きっと世の中の何人かには届くだろう。そんな思いが僕の中にはあるのだ。そしてその思いは即座に僕に戻ることになる。果たして僕は自律した人間なのかと。

朝起きるたびに今日も目覚めたと思う。そう思いながら20数年経った。ただそうは思いながらも僕は人間としての生を生きているわけではない。写真のことを考えるとは、僕が僕に与えた義務ではあるが、そのことが僅かながらも僕に人間としての生を与えているのも事実だと思う。