2010/05/30

古屋誠一 「メモワール.」を観てクリスティーネとの短い対話

chn11_rpt2152_TE_02_412 見ることは見られることだ。古屋誠一「メモワール.」のクリスティーネ。正面を向きカメラアイを正視する彼女の視線は、その写真を見る者に向けられた視線でもある。1985年に亡くなった彼女の物語は、写真撮影年を遡ることで最終的に伊豆での一枚の写真(1978)年に集約する。過去の時点から、それは彼女にとって最終時点でもある、さらに過去に辿るメモワールは、彼女への写真家の現在の思いを明らかにする。その意味で過去から過去への物語は現在に繋がる物語となっている。

「あなたは私の物語を知っている。それはアンフェアだわ。私は1978年には幸せだった。わかるでしょ。その時の写真を結果から見るのは正しいとは思えないのよ。1978年の私、1983年の私、そして1985年の私、それぞれの私はそれぞれの思いの中で生きていたの。この回顧録は無論私のじゃないわ。夫であった写真家のものなのよ。写真なんかに実際の私なんかわかりはしないの」

確かに1978年の写真の意味はクリスティーネの垂直落下によって変わってしまった。僕らは結果からしか物事を見えない。いやそれは物事を見ているとも言えない。振り返るのは前を見ていることとは決して言えないからだ。ただ僕らは過去の出来事を何らかの形で精算するほか未来に向かって歩けない。

「本当に過去の出来事を精算できると思っているの?人は決して忘れることが出来ないことがあるの。精算って都合の良い言葉だわ。結局、過去を歪め自分を正当化するか、紛らわせる何かを見つけるか、そう言う事でしょ。そんなことをしてもいずれは捕まるわよ。私という、あなた自身が造り上げた亡霊にね。私はね、忘れないでいて欲しいの。もし私を忘れて欲しかったら全然違う死に方をしたわ。そうじゃなくて。私と私の思いと共に生きて欲しいの。その上で、ああ、愛しい私の男の子、ごめんなさい、言える立場じゃないことは十分にわかっているけど、あなた達には幸せになって欲しいのよ」

そうだ、確かにそうだ。精算なんかできっこない。過去の出来事で僕らは苦しみ、その苦しみと痛みは生きようとする僕らを、まさにそのことで変えてゆく。変わるのは過去の出来事を精算するためではない。その出来事と共に生きてゆくために僕らは変わらざるを得ないのだ。

僕は東京写真美術館にて開催している古屋誠一「メモワール.」にて、写真ではなく、写真に写る「クリスティーネ」と僕の中でこうやって会話をした。無論現実ではない。

本展は、1989 年より20 年あまり発表し続けている「メモワール」の主題の集大成となる展覧会です。「彼女の死後、無秩序な記憶と記録が交差するさまざまな時間と空間を行きつ戻りつしながら探し求めていたはずの何かが、今見つかったからというのではなく、おぼろげながらも所詮なにも見つかりはしないのだという答えが見つかったのではないか」(2010年1月インタビューより)という古屋の思いは、ピリオドを打った展覧会タイトル「メモワール.」にも表れています。(東京写真美術館のサイトから)

「所詮なにも見つかりはしないのだ」 それは写真家の実感だろう。出来事と共に生きるという事は、出来事の理由もしくは意味を見つけることではない、と僕は思う。

古屋誠一 メモワール.
「愛の復讐、共に離れて…」 2010年5月15日 ( 土 ) ~ 7月19日 ( 月・祝 )