tag:blogger.com,1999:blog-88832469358041212392023-06-15T23:00:24.085+09:00Amehare's MEMO投壜通信としてのブログAmeharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.comBlogger726125tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-63255803839544786692012-08-31T01:40:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.820+09:00写真覚書1<p>西脇順三郎は彼の詩論「超現実主義詩論」の冒頭で以下のように語る。<br />「詩を論ずるは神様を論ずるに等しく危険である」<br />何故危険なのかはともかくとして「詩」を「写真」と置き換えても支障はないように私には思える。<br />西脇はこの詩論で詩を論ずることの不可能性を示唆している。写真とは何かという問いも同様なのではなかろうか。何故写真へのそのような問いが不可能なのか。無論ここでいう問いの対象としての写真はあまねく全ての写真を指している。特定の誰それの写真とかドキュメンタリー写真等の特定のカテゴリ写真を言っているわけではない。</p><p>かつて清水譲は写真の本質について以下のように語ったことがある。<br />「写真は常に既に「何かの」写真である、ということにすぎない」<br />「写真」という言葉が二つ並んでいることに注意しよう。言わずもがな最初の「写真」と後者の「写真」とは意味が違う。<br />続けて彼は語る。「つまり、写真は、「撮るもの」からも「撮られるもの」からも独立しているということ」。<br />この文章にあえて「それを鑑賞するもの」 も付け加えても良いだろう。つまり写真自体は彼の言うとおりに「リアリズム」も「ドキュメント」も「心理」とも「記憶」とも関係がない。</p><p>「写真である」とは化学物理の作用により、そこに「何か」が写し込まれる現象でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそそれを論じること自体不毛な行為と見なされて然るべきかもしれない。<br />清水譲は写真が写真として成り立つために「写真性」という考えを導入した。これは不毛な行為に意味を持たせる一つの戦略とも受け取れる。ただそれは成功したとは私には思えない。ただ写真を論ずる出発点は「現象」から出発する他はないとは思う。</p><p> </p><p> </p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-77254216394740287562012-08-28T00:25:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.833+09:00グループ展「写真。」に行って<p>大阪で開催したグループ展「写真。」に行ってきた。グループ展「写真。」はFaceBookで繋がった有志30名がそれぞれ2点の合計60枚の写真で構成されている。「B0サイズ、一人二点」のルールを設け、あとは各々の裁量に任せる。ただ「写真とは」という問いかけに対する30人30様の答えとサブタイトルにあることもあり、今まで撮ったどの写真を選択するかを出展者達は悩んだことだろう。でも、おそらくそれ以上に悩ませたのは「B0サイズ」というルールかも知れない。作品のサイズは現代写真において重要な位置を示す。その作品の大きさはある意味必然でなければならない。逆に言えば「B0サイズ」のルールは「B0サイズ」の写真を選択せよとの命令でもあるのだ。</p><p>東京を出発し大阪に着いたのは午後の1時過ぎだった。朝から何も食べていない。折角に大阪に行くのだから着いたら美味しいものでも食べようと思っていたのだ。そして着いたら着いたらで先に目的を済ませてしまおうと、初めての大阪での地下鉄を経験しながら最寄りの駅「大阪港」に着いた。着いた時間は午後の2時頃。「大阪港駅」は大阪のベイエリアとしてなかなかに人気のある場所らしい。人の流れに沿って歩いていたら、反対側の出口に向かって歩いていた。慌てて引き返す。そして展示場である「海岸通ギャラリー・CASO」に着いたのは午後の2時半頃だった。きっと僕はワクワクしていたのだろう、空腹であることなどすっかりと忘れて展示場の中に入っていった。</p><p>グループ展はCASOの入り口の大きな一室にて開催していた。四面の壁にぐるりと上下二枚の30組が飾られている。さすがにB0サイズの写真は大きい。しかし大きいサイズの写真に見慣れているせいかサイズから来る圧迫感は殆ど感じられない。天気は雲が少なく青空が広がる。展示場の部屋のガラス窓から明るい日差しが差し込む。この明るさもこの写真展の開放感を助長しているようだ。ぐるりとゆっくりと写真を眺める。それぞれの出展者達の思いを感じる。写真展に行くのが好きな理由はまずはここにある。写真は人の世界からやってくるものだから、写真にそれらが写っていなくとも、人はフォトグラファーの思いを推察することが出来る。</p><p>実を言うと気に入った写真が何枚かあった。これからその事について書こうと思う。</p><p>中澤有基さんの作品。「写真とは」のテーマで昔から有る手法。剥がされた写真、残された写真。そして写真の写真。残された写真が良い。その写真が残されることで、逆に剥がされた写真の輪郭が想像できる。それ以上に好きになった写真は同じく中澤さんの集団写真の写真だ。これも写真の写真の形式を取っているが、この集団写真はフィルム写真をデジタル化し、その上でB0サイズに引き延ばしている。ゆえに少し近くに寄ればピクセルの四角い枡で集団写真が構成されているのが明確にわかる。写真の写真という写真の不同定性だけではなく、フィルム写真とデジタル写真からくる写真とはの問題設定が見えてくる。さらにB0サイズへの必然性がこの写真にはある。それに問題設定が重なる点で僕は中澤さんの写真に気を止めたのかも知れない。</p><p>タウラボさんの作品は赤いスカートをはいた人物がバーベルを持っているという修辞性が高い作品。おそらくタウラボさんは写真をその様に考えているのだろうと想像できる。無論のことスカートをはいているからと言って、顔が見えない限り、性別は不明。ダンベルの象徴性は使い古されてはいるが。単純な構図でB0サイズの真ん中に赤いスカートの構成はなかなかに目を惹く。</p><p>そして友人の野坂実生さん。今回のグループ展は彼女に誘われて観に行った。元々彼女の写真には叙情といったものを僕は感じている。ロマンティックという言葉は適切ではなく、あえて言うのなら日本的なもの。それに内容はウエット。勝手な思い込みだが題材に「水」が多い様に思う。コラージュもしくはフォトモンタージュして造られる作品は、それらの手法を駆使することが彼女の作品の特異性を示しているわけではない。僕からみると彼女の作品で彼女らしさを出しているのは色だと思う。そしてその色こそが、おそらく日本的なものを僕に感じさせるようにも思えるのだ。きっと色分析をすれば和の色の使用頻度が高いように思えるのだがどうだろう。もうひとつ言えば、写真にて何を現そうと彼女の作品の根底には楽天的な印象を受ける。「和」「水」そして「楽天性」。きっと野坂さんは僕の感想を否定するかも知れない。でもそれでも構わない。これまでの中澤さんの写真、タウラボさんの写真も含めて僕の単なる印象に過ぎないのだ。</p><p>写真展には一時間くらいいたかもしれない。さすがに空腹であることを思い出してきた。久しぶりとは言いながら前回は出張で来ただけなので初めてに近い。中心街に向かって行ってみよう。そこで何か美味しいものを食べるのだ。CASOを一歩出ると夕方とは思えない日差しの強さに一瞬たじろいだが僕は駅に向かって歩いた。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-79996045268008796692012-08-20T02:00:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.836+09:00メモ ルーシー・リッパード<p>「命名すること」(naming)<br />「語ること」(telling)<br />「手に入れること」(landing)<br />「混交すること」(mixing)<br />「転倒すること」(turning around) <br />「夢見ること」(dreaming)</p><p>他者によって規定されたことを自らが表象し「命名」すること、<br />再度振り返り検証し語り直すこと、<br /> そして手に入れ、<br />それを元に他者と混交し、<br />価値の転倒をはかり、<br />まだ見ぬ未来を夢見ること。</p><p>(参考:笠原美智子著作、Lippard,Lucy:Mixed Blessings)</p><p> </p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-38920103323624938862012-08-17T02:21:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.814+09:00撮る欲望<p>人間の見ている風景・モノをそのまま残したい(「記録」したいという意味でもなく、「したい」という欲望の意味で)欲望の発動は人類発祥からかもしれないが、写真の登場によりその欲望は変質したと思う。つまりは絵を描いたり文章で記録したりする欲望と写真を撮る欲望は何か根本的なところで違う様な気がしている。そして写真を撮るという欲望を人類が初めて得た時に、撮られたモノと実際に自分の眼で見たモノとの違和感も同時に得ることになったように思えるのだ。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-15848055667753436782012-08-17T02:18:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.802+09:00「写真とは」とは 2<p>僕が最初に購入したデジタルカメラはAppleのQuickTakeだった。35万画素のカメラは双眼鏡のような形をしており大きかった。さらに内蔵メモリに画像を蓄える方式だったのでメモリの拡張も出来ずカメラ本体とパソコンをつなげての伝送は使い勝手が悪かった。それでも画像がそのままパソコンに出力できるのは画期的なことだった。次に購入したのは富士フイルム製のデジカメだった。小型で外部メモリカードに画像を蓄えることが出来る仕様だった。画素数は同じく35万画素。先だって掃除をしていたらこの外部メモリが出てきた。と言っても既に規格として無くなってしまった仕様だったので中身を見ることはできなかったが。いずれも1994年から5年までの間のことだ。</p><p>その当時のデジタルカメラの画像はフィルムからの写真を目指していた様に思える。製品の紹介もフィルム写真と較べていた。無論フィルム写真とは質の面で較べようもなかった。フィルム写真を超えるようなデジタルカメラができることなんて想像も出来なかった。</p><p>その時に使いながら感じたのは、デジタルカメラの画像の品質がフィルム写真を目指すことへの違和感だった。無論先行し基準でもあったフィルムを技術的に目指すことはある面正しいのかも知れない。ではとその時に思ったのはフィルムは一体何を目指していたのだろうかということだった。フィルムが目指しているのが人間が見ているままであれば、デジタルも当然にそれを目指すべきだとその時の僕は思った。逆に言えばデジタルはフィルムを意識する必要は全くないということだった。しかしデジタルカメラはしばらくはフィルムを意識し続けた。デジタルがフィルムを意識しなくなったのは最近のことのように思える。そしてその気分が一般の写真家達まで浸透していき、「写真とは」と写真についてあらためて考える様になっていったのだと僕は思っている。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-69498907041482536342012-08-16T02:05:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.823+09:00ブロッコリーとアスパラ<p>夕食は野菜中心の食事が続く。帰りにブロッコリーとアスパラが無性に食べたくなった。で、帰りのスーパーで買って帰る。実を言うとブロッコリーを調理するのは初めて。ネットで色々と検索し知識を得るが、実際には戸惑うことばかり。結果、かなり柔らかめのブロッコリーを食べることに。アスパラは短時間煮てからオリーブオイルでニンニクと一緒に炒めた。こっちの方は成功だと思う。また近々チャレンジする予定。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-2320437044311967432012-08-16T01:53:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.805+09:00映画「麒麟の翼」<p>この映画が持つ閉塞感はどこから来るのだろう。映画とはつい先日レンタルで鑑賞した「麒麟の翼」のことだ。東野圭吾原作の加賀恭一郎もの作品で人気ドラマを別ストーリー版だから見られた方も多いことだろう。「東野圭吾史上最も泣ける感動作」とネット上では宣伝されていた。でもこの作品をどんな方々が見るのだろう。東野圭吾作品愛好者?TVドラマ「新参者」視聴者?それとも邦画ミステリーファン?いずれにせよそれなりの年配者が多いように思える、一言で言えば映画の中で被害者となった中井貴一さんと同世代とか、もしくはそれに近い世代の方々、つまりは家庭を持ち父親もしくは母親の立場を担っている方々が多いのではないだろうか。</p><p>この映画を単純化すれば大人と若者の対立構造の視点での感想もありえる。つまりはどこまでも正しい大人(親)と子供との対立構造。親の子供への愛情の深さを現実の世界で表現できない人はこの映画を見て自らを慰めることが出来るだろう。</p><p>さらに若者に対応する大人は父親の他に教師もいる。劇団ひとりさんが演じる教師は丁度中井貴一さん演じる父親の対角線上にいる。若者に迎合する大人と対峙する大人。無論映画での教師の存在は父親の毅然とした態度を美しさとして強調する為だけにある。いずれにせよ映画の中で間違いを犯すのは若者なのだ。</p><p>丁度この記事を書いている日に大津市の教育委員会教育長が19歳の自称大学生にハンマーで襲われたとのニュースを聞いた。義憤に駆られた若者は生きる目的を暴力へと向かわせた。さて映画の中で息子達は一体何をしたいと願って生活していただろうか。無論映画の若者達は何もしていない。彼らが自らの歩みを止めたのは彼ら自身に起因する過去の過ちからでしかない。でもハンマーの大学生と映画の大学生とどちらが現実なのかと問えば、自ずから答えが出てくる。</p><p>ハンマーの大学生の罪を一般化するつもりなど毛頭無い。罰は個人に向かっていく。ただハンマー事件の背景を僕らは知っている。そしてその複雑さの中で解決への目処を持たずにいる。単にいじめと学校の隠蔽体質だけでこの問題解決が出来ると思えるほど単純でもないのだ。</p><p>さらに経済不振と年金問題そして政治不信。大人達が享受してきた利益をこれからの若者は同じように享受できることはない。若者の大人への不信感は、自らが大人になる毎に経済的な負担と共に増していくことだろう。誰が一体間違っていたのだろう。</p><p>「あなたは人の死をみていない。あなたが見ているのは死体だけだ」<br />加賀とその父親との関係をもう少し深めることが出来れば事件を横糸にした縦糸となり一枚の人間模様が描き出されることができただろうに、いかんせん横糸だけでは深みがでない。それでもなんとか物語として成り立っているのはこの映画の世界観が映画の世界から一歩も出ることなく完全であるからだ。そして完全であるが故に何と現実から乖離した物語になっていることだろう。</p><p>主人公の加賀は看護師が彼に語った言葉だけではない。使い古された言葉を使えば、彼は、もしくは東野作品は、木をみて森を見ていない、さらに森からの視点で一本の木を見てもいない。</p><p>唯一この映画で胸に迫る点があるとすれば、中井貴一演じる父親の言葉だろう。<br />「私はどうしようもない父親です」そして彼は命を賭して息子にメッセージを伝えた。僕ら大人が今の若者に送ることが出来るメッセージもおそらく同様の覚悟が必要なのだろう。そしてそれは少なくとも僕自身はまだ果たしてもいない。 </p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-91581006405020134202012-08-15T02:36:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.846+09:00「写真とは」とは?<p>最近僕の周りで、もしくは写真を扱う場所もしくは人々の間で「写真とは」を前面に出しているのが多くなった様に思える。例えば東京写真美術館で現在展覧している「写真の表現と技法」はまさしくこの問いを全面にだしているし、今月の美術手帖の特集は「写真2.0」で写真の次のバージョンについての考察でもあるし。無論いままでだって美術館もしくは写真家達はこの問いを発し続けてもいた、でもこれほど一つのうねりのような状況になっていることは無かったように思えるのだ。しかもこの日本で。大学で写真を教えることも無く、写真の理論研究もすくなく、それでいて実践では世界から評価される人が多い国で、このような状況になったのは僕的には少々信じられぬ感があるのだ。しかもそこには、どうせ一過性だよと冷めた思い以上に、一度は死んだと思われた写真史の中に確かに僕も居るような感覚があるのも確かなのだ。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-81279628453052143812012-08-15T02:17:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.842+09:00石けん<p>友が造った石けんを愛用している。とても僕に合う。それまでは液体石けん派だった僕が今では完全に石けん派になっているくらいだ。それでも使い始めた頃、一個の石けんがあっという間になくなってしまう。そしてそんなものだと思っていた。友から早い!と驚かれてもその早さを早いと実感することもできずに、でもしょうがないじゃんなどと考えていた。でもあらためた。僕は石けんを大事に使っていないのに気がついた。まずは石けんをおく環境を変えてみた。ずっと湿気のある場所に石けんを放置するとぬめりが消えずに消費が早くなることに気がついたのだ。人によっては当然のことかも知れないがそれに気がつくまでに数ヶ月かかった。まぁ僕としては案外に早い方かも知れないけど。石けんは大事に優しく丁寧にあつかうこと。これ鉄則。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-13102768797205226812012-07-12T00:13:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.798+09:00人に受け入られる言葉<p>人に受け入られる言葉がある。そしてその逆も。<br />一体何故だろう。<br />そして今は人に受け入られる言葉がなんて多いんだろう。 <br />僕らは何かに縛られている。そう思わないか。 </p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-2669311169132228612012-06-18T00:55:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.808+09:00茶箱<p>青山の茶道具の店に寄った。僕は今売られている茶箱とか茶巾袋がどのようなものか知りたかった。</p><p>その店の女主人はとても話し好きな方で色々なことを僕に語ってくれた。カタログとか店で売っている道具を色々と見せてくれた。<br />今は茶箱も中に収める道具付きのセット売りが殆どだという。野点をしたい場合も同様で、野点向きの茶筅とか茶さじなどもその一点での販売は行っておらず、セットものしかないとのこと。例えば茶筅の場合、持ち運びが便利な小ぶりのものが望ましいし、消耗品なのでいずれは摩耗するわけだから、単品売りがないのは少々厳しい。それに自分の気に入った道具類を集めてテーマに合わせての組み合わせが出来ないのも残念だ。そんな話を主人と語り合った。「今では外に多くの遊びがあるのだけど、それらは工夫なしでセット売りのような遊びばかりですよね」と語る主人の言葉は僕にとっても厳しい一言だ。</p><p>もとより僕に茶の作法の心得などはしらない。でも茶の目指すものは知っているし共感は持てる。僕にとってはそれだけで十分だ。あとは茶道具の一つ一つの機能とか使い方さえ知っていれば良い。僕はただ外で抹茶を飲みたいだけなのだ。川辺とか海辺とか、もしくは寺の境内とか気持ちの良い公園とかでお茶を点て飲めたら美味しいだろう。そんなことしか僕は考えていない。結局の所お茶は、ある人にとっては生涯をかけても良いほどの、遊びなのだと僕は思う。だからこそ自分の好みを優先したいと思うのだ。今回は下見程度のつもりで店を覗いただけだが主人との語らいで思わぬほど気持ちが入ってしまった。まずは家にある道具で試してみようかなと思い始めている。</p><p><br /><br /></p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-72350155942673265332012-06-18T00:30:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.827+09:00おじさん図鑑<p>姉に聞いて初めて知った「おじさん図鑑」。巷ではかなりの人気図書らしい。人気が出ようが出まいがそんなことで本に対する興味を持つことはないが、タイトルがこうであれば少しは気になる。僕は一体どこにカテゴライズされているのだろう。</p><p>そういえば、おばさん研究の本はかつてあった、女子高校生も女子大生もはたまたOLとか主婦についても。でもおじさんを主にしたこの手の本は未だなかったようにおもう。それは何故かというと、結局の所出版されても売れないと思われていたということだろう。この手の書籍の購買層は若者とくに女性に興味が持たれなかったら売れるはずもない。逆に言えばおじさんの生態が若い女性にとって不思議で面白く見られるようになったということなのだろうか。</p><p>ネットでこの本を解説していた。そのなかで中高年男性女性に「自分を中高年と思うか」と聞いてみたのだそうだ。その結果は二十数パーセントの男性女性が「イエス」とのことだった。つまり残りの七十数パーセントは「ノー」ということになる。この数値を高いとみるか低いとみるかはどっちでもいい。それ以前にこの設問自体がおかしい。「おじさん」も「おばさん」も他称であって自称ではない。自称だとする場合、どこかに意識の線引きをする必要があるが、流れている意識の中でそんなものを持つ理由もない。つまり他称から始まり、結果的に人にいわれる前に自称するようになるということだろう。無論制度的には中高年・高齢者などの定義は決められているとは思う。ただそれはあくまでも年齢的なことであって、「おじさん」「おばさん」のように外見が主と思われる区別とは全く違う。勿論「おじさん」も「おばさん」も当然に年齢と無関係であるはずはない。ただ単純に年齢だけでもないのが実際で、僕的にいえば社会との関わり方の違いが表面化しているだけのように思っている。</p><p>一言で言えば、「おばさん」はローカル化し、「おじさん」はフロート化する。おばさんのローカル化はこれはよく知られている。全国誌のファッション雑誌を読んでいたOLまでは全国何処に行っても同じような姿をしている女性達は結婚し子供が産まれ専業主婦化すると地域の知人達の中で同化していくという道筋となる。ではおじさんのフロート化とはどういうことかといえば、企業の中で働き、その中で文化とか価値観が養われ、それが定年後に企業から離れても捨て去ることは出来ずに、かといって企業というある意味共同体にも属しておらず、ただただ浮いていくということだ。</p><p>フロート化し地域にも同化せずにただ浮いていくことになれば、逆に言えばそりゃ生態的に興味深い(面白いという意味で)人たちが揃っているに決まっている。それらの人たちをどのように書籍にしているのかが興味がある。</p><p>さてと、こんど書店で立ち読みでもしてきますか(笑</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-59905229329675578312012-06-13T03:14:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.817+09:00現場<p>限られた時間の中で作業をこなす。来てもらった人たちは殆どが専門家。細かな調整不足、思わぬ事態、利害の対立等々を時間内にこなして流していく。少しでも対応を誤れば多くの費用が無駄になる。ヒロヒリとする緊張感が心地よい。ただこの心地よさには前提がある。ミスで何百万を失ったとしても人の命が失われることはないということ。それを考えればなんでもない。だからか僕は混乱の現場を楽しめる。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-31737408412702667932012-06-13T03:08:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.811+09:00JINS PC<p>液晶画面専用の眼鏡を買った。綺麗な緑色のフレームの眼鏡だ。心持ちかけていると眼が楽になったような気がした。視界の端に見える緑色の境界が僕の世界を縁取っているのも気持ちがよい。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-76770196162831619892012-06-13T02:49:00.000+09:002017-05-09T21:22:39.830+09:00告知<p>あごひげを剃った。髪の毛はまだ黒いがひげだけは不思議なことに真っ白だった。そのひげを切った。僕の事を「サンタ」と呼ぶ女の子はきっと残念がるかも知れない。でも冬まではまだまだ長いから大丈夫。残した口ひげは今度緑色にでも染めようか等と考えてる。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-69261096915394428462012-06-13T02:38:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.373+09:0012日<p>12日はハードだった。世界中の人々がこの日に何かを成し遂げようかと目論んでいるかのように、様々な要求が僕を振り回した。不思議だが人と人が何らかの形で繋がっている限りこういう日は在るように思う。きっと12日の様々な思いによって動かされた人々は時差を持って別の人々を動かすことだろう。そしてその思いは地球を一回りしながら、また12日のような日が僕に訪れるのだろう。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-59038723767440573392012-05-30T19:21:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.360+09:00新しい表象<p>例えば誰かが全く新しい表象をしたとする。しかしそれを観た人が共感し感想として言葉に現すとき、全く新しい表象が何処にでもある表象となってしまうのだ。逆に何でもない表象が誰も聞いたことがない言葉のイメージで綴られるとき、その表象は全く新しいものとなる。新しさとは言葉によって産み出される様に思う。たとえばアルトーの言葉「器官なき身体」の様に。全く新しい言葉を聞きたいと思う。強くそう思う。誰もが共感するような言葉は何か社会のシステムをただ強化しているだけのように感じてしまう。正直に言えばそんな言葉は聞きたくはない。感性の枠を広げてくれるような、つまりは枠というものを感じさせてくれるような言葉を僕はいつも求めている。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-66479624659004642292012-05-30T00:24:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.368+09:00・・・・<p>誰もがそうかも知れないが、僕は言葉を綴り、振り返って自分が書いた文章を読むときに、総じて「僕はこんな文章が書きたい訳じゃない」と読めてしまう。なにか言葉の牢獄の中でうごめいている感じ。結局の所この言葉は僕が造った訳じゃなく、だから一つの単語の意味もある程度(幅を持って)規定されている中で、僕が僕の心の中をどうやって書こうかと思うと、それらの言葉が殆ど全て僕の気持ちを表していないという現実に驚いてしまうのだ。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-77173514821446166232012-05-20T12:02:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.378+09:00個別に語る<p>例えば「日本人の男性は」と人が語るとき、その中の一員に僕は組まれていることにとても違和感を感じる。暗黙にその方は「日本人」とか「男性」を規定している。そしてその規定は属している社会によって造られる。僕が日本を離れ数十年他国に暮らした場合、おそらく僕は「日本人の男性」とは違った者に見えることだろう。そして「日本人離れしている」と言われたとしても、やはり僕はその語りにも違和感を感じるのだ。結局の所、その方の語りは「日本人」中心であるのだというその一点において。一般論もしくは統計、さらに普遍的と呼ばれる語りは個別に対しては正しくはない。僕はそれらの中にはいない。決して。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-52844306068107030832012-05-20T11:42:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.353+09:00リフレクション 桑原甲子雄さんの写真 マネキン<p>マネキンの撮影を続けている。何故マネキンなのかを語れば色々とあるが、それは今だから答えられる話でもある。始めた当初は都会のショウウィンドウに飾られた姿がとても哀しく感じられたからだ。それに都会の喧噪のただ中にありながらマネキンの在る場所は一種独特の空気感がそこに漂っている様に思えた。僕はその雰囲気に魅力を感じたし、哀しく感じられたその空気感を撮りたいと思ったのだ。</p><p>都会のショウウィンドウに在るマネキンを撮る場合、どうしてもリフレクション効果を考えずにはいられない。多くはガラス越しに撮ることになるのだから、そのガラスに映り込む明かりとか情景とかの配置をどうしても考えてしまうことになる。場合によってはそこに自分も写り込むことになる。それらを排除するかそれとも積極的に写し込むかは何を撮りたいかによって変わってくる。</p><p>リフレクションを手法として単純に考えた場合、重要となる要素はガラス面に対するカメラの位置だろう。さらに陽の光。撮す時間帯によっても大きく変わる。時間によっては撮したい角度での撮影は難しくもなる。さらに露出も難しい。それらが上手く出来たとしても写り込ませたい情景がその時点で揃っていなければならない。でも僕にとって一番大事なのはマネキンそのものの表情である。撮りたいと思わせるマネキンは都会には、こんなにもショウウィンドウに溢れているにも関わらず、案外に少ない。</p><p>マネキンとは何だろう。マーケティング視点(ビジネス面)を外して考え直してみた時、こんな風に考えられないだろうか。マネキンは人間の姿を模して造られた。それはあたかも神が自分の姿に似せて人間を創ったように。マネキンの視点から見ると神とは人間のことである。そして彼ら・彼女らは一定の法則に則った場所に置かれる。マネキンとは人間の世界の内に在りながら外部に在る人間に似たものなのだ。マネキンを撮るということはあたかも神の視点で撮ると言うことだ。そして外部に在るマネキンを通じて都会の孤独感・閉塞感・疎外感・寂しさ・哀しさが写し出される。</p><p>それらの孤独感・閉塞感・疎外感などの感覚は、マネキン自体で現す物質文明もしくは消費文化だけが起因するわけでもない。おそらくそれらは情報の非対称性からやってくる様に思う。声を出す者が、その出した声の通りになるとすれば、その者は閉塞感を感じることは少なかろう。声を出しても届かない状態、そしてそのことに自己責任と安易に単純に押しつける傾向。メディアは繰り返し非対称の意見を繰り返している現状。インターネットはそれらを打破するツールになり得たかと言えば、結局の所、やはり声の大きな者と専門知識をひけらかす者たちの場になってなっている。でもまだこうやってネットを使える者は良いかも知れない。</p><p>リフレクションをもう一度考えてみる。マネキンと一緒に写り込まれた映像はなにかというと、主に、カメラの角度にもよるが、マネキンが見ている世界である。そしてマネキンとその世界の間には透明な壁がある。そしてマネキンは狭い空間に閉じ込められている。またガラスに映り込まれている情景はカメラの背後にあり、撮影者は直にそれを見ることはできない。ガラスに写っているのはいわば虚像でもある。マネキンからの視点では世界はただ見るだけであり、撮影者の視点から言えばマネキンが見ている世界を一枚の写真に収めることが出来るがそれが本当の世界かどうかはわからない。リフレクションという手法はある面では情報の対称性を目指していると思うが、しかしそれは完全ではなく新たな疑問を呈する手法でもあるようだ。それでもマネキンを対象物としリフレクションでの撮影が目指す表現とは都会に住む人間の姿であるとは思う。</p><p>東京写真美術館で現在開催している写真展「光の造形 操作された写真」で桑原甲子雄さんのマネキンの写真「京橋区銀座」を観た。昭和十一年の東京を撮した写真集(1974年)に載っている写真のようだ。正直に言ってこの写真には驚いた。その写真にはマネキンとガラスに映った銀座の情景が見事に写っていた。マネキンの表情も良かった。僕が撮したいと思っていた写真がそこにはあった。だからこそか僕は桑原さんがこの写真をどの様な気持ちで撮したのかがとてもよく分かるような気がした。</p><p>桑原甲子雄さんのこの写真は隅々まで計算されている写真である。偶然が産み出した写真ではこのようには撮せない。トリミング、覆い焼き、焼き込みなどの現像時の手法を駆使しイメージ通りに仕上げたとしか僕には思えない。実際に僕はこの写真を観た翌日にカメラを持って街に行きマネキンをリフレクションを使って試してみた。一日では得ることは無論難しい。僕の写真は散々だった。しかしその試行で考えたのがこのブログ記事となる。</p><p>桑原さんの写真からのメッセージは明確である。それはおそらく多くの人がこの写真を観て感じることだろう。それぞれの思いは違っていたとしても言葉として語るとすればこの写真の一つの方向性を指し示すはずだ。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-61027744575364767962012-05-16T00:31:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.363+09:00素足に履く<p>ある記事で女性にとって男性の行動で理解できない事項の一つに「素足で靴を履く」と言うのがあるそうだ。曰く、足がくさそう、蒸れるんじゃない、靴に匂いがしみこむ等々と散々な言葉が続く。その記事を読み逆に女性は素足で靴を履かないのかと不思議に思った。勿論素足に履く靴は「素足で履くための靴」であるのが前提で、石田某の様に革靴を素足で履くのはやはり蒸れそうだとは思うが。夏になるとやはりその様な靴を履きたいと思う。例えばインディアンモカシン。今でも少なからず売っているようだ。で、調べてみると案外に高い。ミネトンカはこれこそモカシンという感じの靴を造っていて食指が動くが価格をみて一歩身を引いてしまう。モカシンだよ、たかがモカシン、と毒づくがそれでも売れているらしい。でもかつてはあんなに高くはなかったと思う。そう言えば先だってインカ展に行った際にかつてチャスキ(インカの飛脚のようなもの)が履いていたようなサンダルが売られていた。とても興味がわいたがそれでもサンダルの値段ではなくやはり買わずに眺めただけだった。それにそのサンダルの色の組み合わせも好みではなかった。なんだかんだ言ってやはり今年の夏もコンバースで過ごしそうな気がしている。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-44411868199495990152012-05-15T00:05:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.344+09:00映画「愛を読むひと」<p>人にとって一番楽しく素晴らしい記憶が思い出したくもない苦しみに繋がるとしたときに、その人はきっと希望を持つことが難しくなるように思う。これは角田光代さんの小説「八日目の蝉」の話だ。「八日目の蝉」では主人公である恵里菜は自分が誘拐された幼い頃の記憶を忘れようとしている。しかしその記憶は彼女にとって今までに最も幸福な時代でもあった。幸福な記憶が同時に忌まわしい記憶である状態。それはこの映画「愛を読むひと」の主人公マイケルの状態に近いと思う。彼はその結果、人を信頼し素直に交わることが出来なくなっている。彼がその状態から脱するのは15歳の頃に心の底から愛した女性ハンナの自殺によってだった。マイケルにとって幸福な記憶はハンナとの逢瀬の記憶であり、逆に忌まわしく恥ずかしい記憶もハンナとの関係の中にあった。ハンナの死で幸福な記憶だけが残ったという単純なわけでは決してない。そうではなくハンナの苦しみをマイケルが理解し受け入れたことが、そしてハンナとの関係を人に伝えることで二人の出来事を認めることが、その状態から脱していくきっかけになったということだと思う。この映画に関して言うとハンナ演じるケイト・ウィンスレットの演技が印象的だし、脚本でもハンナの描き方が丁寧だと思う。確かにハンナはこの映画の要で在るのは間違いない。でも同様に肝心な成人したマイケルの心境がハンナに較べて多少丁寧さに欠けるように思う。この映画は至る所に感想を想起させる要素がある。例えば文盲とかナチス戦犯裁判(まるでアイヒマン裁判のようだ)とか年上との一夏の恋(まるで映画「思い出の夏」だ)だとか・・・、さらに本を読めるようになったハンナが本を足場にして自殺するシーンもそこから何かを語ることは可能だろう。でも僕がこの映画で受けたのはそんなことではなく人が存在する寂しさというものにつきるかも知れない。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-28198261388812261302012-05-14T22:53:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.330+09:00声<p>2年ほど前に初めて入院した時、僕にとって良い看護師とは声の良さだった。それこそ波長が合うというのはあるものだ。特に体が弱っているときにその好悪は生理的なレベルで現れると思う。いくら技術を持っていても身体に障る声の看護師は近くによって欲しくはなかった。無茶な話をしているがそれがその時の実感だった。視覚は権力作用がそこに現れる。容姿の良し悪しはまさに時代が造ったものだろう。でも聴覚は視覚ほどそれが現れないと思う。音は、もしくは声は直接的に人間の深い部分と繋がっていると思える。ここでいう声とは言語のことを言っている訳じゃない。言語以前に発する声を言っている。何故人間は様々な声を発することが出来るのだろう。</p><p>ラフカディオ・ハーンは目が悪かったのだという。だからか彼の文章には音の表現が多いようだ。彼に物語を語ったのは女性だったそうだ。何故か男の耳には女性の声は心地よく聞こえ気持ちが落ち着く様に思う。その逆もまた真なりかは僕が男だから実感としてわからないが、そうあって欲しいと願う。きっとラフカディオ・ハーンは女達の語りに目を閉じて聞いていたと思う。そして穏やかな気持ちで想像の世界に身を委ねていたに違いない。それは一つの、まさに大いなる快楽だったに違いない。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-52440506199236955592012-05-13T22:42:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.347+09:00今日歩いた道のり<p>渋谷から原宿、原宿辺りでウロウロする。そこから信濃町にいき中央線沿いに市ヶ谷・四谷を過ぎて飯田橋から水道橋に。ここまで散歩ついでに歩けると言うことは渋谷から上野も歩けると言うことだ。水道橋からメトロの南北線・半蔵門線を使い家に戻る。でも結局NHKの平清盛を見すごしてしまった。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8883246935804121239.post-40368639829878770562012-05-12T12:30:00.000+09:002017-05-09T21:22:17.335+09:00ボルサリーノ<p>会社の同僚に帽子をかぶって出社する男が一人いる。帽子は上質な中折れハットで丁寧に造られたことが一目でわかる。あまりにも格好が良いので彼が帰宅する際にどこの帽子かと聞いてみたら、彼はすこし微笑んで小声でボルサリーノと答えた。実際に僕がボルサリーノを見たのはこれが最初だった。ボルサリーノと言えば、映画の影響かギャングを思い出す。それも下っ端などではなくボス級が被る帽子というイメージだ。そして映画に出てくる彼らは一様に格好が良い。今ではお目にかかれない絶滅品種的な格好良さだ。日本で言えば明治終わりから昭和の初め頃の男子の格好良さに近いかも。何というか色気みたいなものがある。きっと僕はボルサリーノをみてその色気に憧れを持っているんだろう。でもただ帽子を被ったって色気が出てくるわけじゃない。それが残念。</p>Ameharehttp://www.blogger.com/profile/11639119999124172086noreply@blogger.com0