ある人から魯迅を教わった。魯迅の小説は学生時代に何冊かは読んでいた。でも日常の中ですっかりと忘れていた。僕はまだ、魯迅を再び思い出させてくれたその人の本を読んではいない。だから彼が魯迅をどのように書いているかは未だわからない。でも僕は魯迅を思い出させてくれたことに深く感謝する。
静かな夜である。外は穏やかなのだろう。先日まで聞こえた風音も聞こえない。不思議とこの静けさの中で孤独は感じない。この一瞬が過去から何億年も積み重ねの凝縮であり、今後も人間から見ると永劫にも思える時を刻むことを知っていようとも、僕がその狭間で押しつぶされる感覚を持つこともない。不思議なほどの静けさの中で、キリスト教の聖なる恩恵の僅か一欠片を異教徒でもある僕は感じるのである。
そして今僕は彼から教わった魯迅のことを考えている。魯迅の有名な散文詩集「野草」の中の一編「希望」の中で彼はこう言っている。
「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じだ」
この言葉はハンガリーの詩人ペテーフィの詩の一節でもある。真の暗闇を知らなければ光を知ることはない。両者が虚妄だと断定する魯迅の人生は、逆に絶望と希望とを知る人生でもあった。でも両者を知る者は魯迅だけでなく、あらゆる世界のあらゆる人達も、自分を生きていく中で知るのだと僕は思う。
真夜中の暗闇もいずれ明けて朝が訪れる、使い回された歌詞の言葉、でもそれは今を生きる僕等には、信じ裏切られることのない事実でもある。いずれ今年の聖夜も終わり、次の新たな日がくるのだろう。この静かな夜に、紫煙漂う部屋で、僕はたわいのない事をつらづらと考える。