僕がブログを始めた当初、「ブログって何?」という素朴な疑問に答えてくれたブログがいくつかあります。その中に「図書館員の愛弟子」とそこから経由してしった「夏のひこうき雲」(左近さん)があります。左近さんからはいつも教えて貰うばかりで、ブックマーク「浮雲」はいつも参照させてもらっています。
今回「夏のひこうき雲」で拙文「吉野弘の詩「夕焼け」を誤読する」の感想( [Web][レビュー] 「夕焼け」再読)をいただきました。それは、僕が左近さん記事に以下のコメントを書いたのがきっかけです。
『詩人が途中で下車するのは、詩作として意図的な技法だとは思うのですが、それらの一連的な作詩技法に、悪く言えばプロパガンダの技法を感じたのです』
詩の感想は共通事項が少なく個別事項の割合が高くなると思いますが、その上で、僕の上記のコメントに誠意を持って答えてくれた左近さんに感謝しています。そこで僕自身としては、自己の個別事項を正当化する方向で展開するのでなく、逆にきっかけとなったコメントから遡る事で、出来れば左近さん感想との共通事項に辿り着き、そこから個別事項になった理由を洗い出す仕方が、左近さんの誠意に答える事だと思い今回の記事となりました。
しかしこれはやってみると意外に難しいのです。プロパガンダと感じるまでの流れは、所々飛躍があるようにも思えますが、しかし実際それらは飛躍ではなく、その中にはそこに至る自分なりの根拠があるはずで、自分がそれを忘れているのか、もしくは流れる意識の中で動いてしまい、少しズレが発生しているようです。つまり、この手法を用いて考えると言うことは、一旦何処かで停止してから辿る必要があると言うことになります。こういう思考法でもそれなりに訓練が必要なんだと思った次第です。考えてみれば、僕は毎回流れに任せて進むだけで、振り返ることはやってこなかったなぁ、という反省をしました。
プロパガンダと感じたものは一体なんだったのか、そのときに浮かんだのは一枚の絵です。その絵には下方に文字が書かれています。「やさしい心に責められながら」とか「受難者」というような言葉です。
絵といっても具体的にどこかに存在する絵ではありません。僕がこの詩を読んで一枚の絵を自分の意識の中で造り上げた絵です。その絵が僕にとってこの詩をプロパガンダと思わせたのだと思います。絵だけではそうは考えなかったと思うのですが、絵に書かれた文字によってそのように感じたのです。つまり、絵だけでも十分に理解できるというのに、これでもかと繰り返す文字のせいで。
その文字のせいで、僕はその絵が「絵画」ではないと思いました。それは一種のキャンペーン用ポスターでした。
ここで、どんな絵だったのかを語るのは意味がないと思います。ただ少女の気持ちが抽象的な姿で迫る絵です。なぜ僕はその絵に文字を浮かび上がらせたのか。さらに文字を浮かび上がらせることにより、なぜ僕はその絵を「絵画」でなくキャンペーン用ポスターとみたのでしょうか。
ここで、「夏のひこうき雲」の中で、左近さんが提示されている良い例があるので、それを使って考えてみたいと思います。
それはアフリカの飢饉が危機的な状況を強く訴えた「すぐ近くの背後に止まっているハゲタカにじっと見つめられている、飢えて死にそうな黒人の少女」の写真です。僕もこの写真の印象は左近さんの考えに同感します。
この写真のように事実をありのまま写すフォトジャーナリズムの仕方を仮に(A)とします。(A)に描かれている世界はひとつの事実を切り取ったものです。写真の構図に写真家の意図はあるのかもしれませんが、ただ写真家が自ら創り上げた世界を切り取った風景でないと僕は思います。
次に、その写真家が少女を雇い、かつハゲタカの剥製を横に配置して撮ったとします。目的は(A)と同様にアフリカの飢饉を訴えることです。それを(B)とします。その世界は(A)と違い、写真家が自ら造り上げた世界となります。でも見え方は(A)と同じです。
今度は、さまざまな画像をコラージュし、写真のいろいろな技法を駆使し、アフリカの飢饉を訴える一枚の写真を造ったとします。それにより芸術的な品質まで高めた作品です。それを(C)とします。さらにその(C)の作品に文字を挿入したものを(C')とします。
僕にとって「夕焼け」という詩は、上記の例えでは(C')に位置します。たぶん左近さんは上記例では(A)に近いものと見られているように思えます。
僕が掲げた問題点、なぜ文字を浮かび上がらせたのか、文字を浮かび上がらせることによってなぜプロパガンダと思ったのかは未だ不明です。上記の例で言えば、なぜ僕はこの詩を(C)と見て、さらに(C')としたのかということです。何故(C')がプロパガンダかという話もありますが。
「夕焼け」を一枚の絵に見立て、そこに文字を浮かび上がらせたのは、勿論ぼくの個別事項です。左近さんはその様に「夕焼け」を読んではいません。
それに、写真および絵画に文字を挿入することは大いにあります。その文字は必然的に挿入されていれば、絵にとって必要不可欠な文字となるはずです。僕は「夕焼け」の絵に浮かんだ文字を必然性があるとは思わなかった。そう考えたようです。
僕にとって不必要な文字とはなんだったのか。それは語り部である「僕」が電車を降りた以降の言葉にあると思っているようです。
(C)の様に、造られた世界と思ったのは、満員電車のイメージが、通勤ラッシュ時の山手線にあったのは事実です。その中で、「僕」の立ち位置が実感できませんんでした。すぐ横にいるのでしょうが、「いつものとおり」ということを確認すること自体が不能な混み具合をイメージしたと思います。お互いに押され押し合い、触れ触れ合う電車の閉じられた空間。そこで少女の状態を確認することが僕のイメージの中では難しかったのです。しかも、そこは窓の外を眺めることさえ躊躇われる状況です。僕の中に浮かぶ経験上の満員電車とはそういうものでした。
「風景」という言葉を使ったのは誤りだったと思います。「風景」としたとき、左近さんの言われるとおりに少女の姿は日常に見られます。僕もそう思います。その点において僕と左近さんは同一線上にあります。
詩人が作詩する世界は、彼が思うように造ればよいと思っています。そこには何の制限もないのかもしれません。しかし、そこには何らかの一線があるように僕は考えているようです。この詩の場合、「僕は電車を」降りないでも成り立つことが出来ます。何故「僕は電車を降りた」のかが、僕にとってはとても気になった様です。
この詩はメッセージ性が強いと思います。それはまさしく左近さんが例に挙げた一枚の写真に通じます。だからこそ、左近さんの例は適切でした。しかも、僕はその一枚の写真には耐えられますが、この詩の少女には耐えられなかったようです。うまくいえませんが、それは一枚の写真が現実世界を切り取ったものであるし、この詩も現実世界を切り取ったものであるのですが、本拙文で言えば、(A)でなく(C)の様なものと受け取っている点が事が強いようです。(A)と(C)の違いは、一言で言えばその世界を意図的に造られたか否かだと思っています。
また作詩であれば、僕自身の考えとして、社会性を含むべきではないと考えている点が強いようです。僕はこの詩に社会的なメッセージを受けてしまいました。
本来であれば、日常的な出来事、普段であればそのことに対し疑問を持たずに過ごしてきていることに、振り返って考えてみよう、と言ったメッセージだったのかもしれません。実は左近さんの感想を読んでそう感じました。
それをそれ以上の社会的なメッセージを感じたのは、詩の中で「僕」が電車を降りる前までに十分に少女の気持ちが僕に伝わり、「もうそれ以上やめて」、といった気持ちになったからです。何故、その様な気持ちになったのか。それは、以前の僕の拙文と、それに対する左近さんの記事を見比べるとよくわかります。
僕は以前の記事でこう書いています。
『攻撃に敏感な「少女」と、攻撃をしていることに鈍感な「としより」』
それに対し左近さんの記事ではこう書いています。
『お年寄りのつらさがわかっているからこそ、少女は下唇を噛んで自分を責め続けるわけです』
つまり僕の場合、相手からの攻撃が主であり、左近さんの場合、やさしさゆえに自分で自分を傷つけているという構図です。僕がこの詩を読んで「もうそれ以上やめて」と思う背景には、自分がこの詩により攻撃を受けている気持ちがあるからではないかと思った次第です。
攻撃を受ける自分、誰からでしょうか、それはこの詩とそれを読む自分自身です。それを過剰に思えた自分がそこにはいる。それが一枚の「夕焼け」の絵を僕の内に描かせた。その詩が作者をして造られた世界と感じるのであればあるほど、僕はそう感じてしまう。そこが、僕のこの詩の出発点だったのかも知れません。
その点を考慮して、再度この詩を読み直しました。以前より少し薄まった気もしますが、それでもやはり似たような感想を持ってしまう僕がいます。それについては僕の課題として念頭に置くこととします。
左近さんの感想はとても自然に思えました。ですから逆に僕の感想との落差に、自分の世界観を振り返るきっかけになったと思います。それは、自分の世界観のどこまでが共通事項で、どこからが個別事項かの線引きをすることが、なんとなくですが、見えたようにも思えます。その線は極めて薄い破線ではあるのですが。
ここまで書いて、辿りなおすと言いながら少しも遡っていないことに気がつきます。なんか行ったり来たりの繰り返しですね。えらそうなことを言ってしまい、誠に赤面の至りです。
ただ、ここまで出来ないながらも考えてみて、現時点から振り返ると「プロパガンダ」という過去に書いた表現は過激すぎるかもしれないと思い始めています。
2005/05/14
2005/05/03
吉野弘の詩「夕焼け」を誤読する
最近日記で楽しく読んでいるのが「Rest in Peace」
確か15才の高校一年生の日記だ。(もう16才になったのかな?)
少し前にバイク関連の検索でヒットしたブログで、伸び伸びと、かつ率直に、自分の意見を書いているのが楽しくてつい読んでしまう。
その日記で知ったのだが、最近ブログ記事で話題になっているのが「席を譲らなかった若者」(らくだのひとりごと)らしく、「Rest in Peace」のところでも、記事を読んでのコメントが書かれている。僕は本記事は読んではいないが、「Rest in Peace」のコメントは読んだ。
「なるほど、そうなんだ」と彼のメディア・リテラシーに感心するのみである。そして、それ以上のコメントは僕には持たない。
ただ、読んでいない本記事のタイトルで、吉野弘さんの詩「夕焼け」を思い出した。一部の中学教科書にも載っているので、知っている方も多いと思う。
本記事を読んでいないのだから、詩「夕焼け」を載せる理由において、上記2つのブログは一切関係がない。ただ思い出しただけなのだ。(だからTBはしない)
ネットで検索(吉野弘 夕焼け)すると、3,330件の結果となるので、多くの方がこの詩について感想を述べられているように思う。どんな感想を持たれているのだろうか、少し気になる、後で少し読んでみよう。
僕の場合、この詩は現実を写しているのだろうが、あくまで詩人による作詩だと思う。つまり、この詩で起きていることは、詩人が見た風景だとは思うが、体験もしくは経験を写実したのではないと思うのだ。あくまで詩人の心象であり、造られた世界だと思う。
(現実的には起こりえない風景だと思う)
僕の解釈だが、この詩において少女の姿に「やさしさ」とかを前面にだして、この詩を読むと誤読しそうな気がしている。この詩はそういう詩ではない、「やさしさ」を前面に出して読むと、「やさしくない」ものが出てくるし、そこから安直に偽善だとかに結びついてしまう。そういう対立構造の現出は簡単だと思うが、簡単にわかるものは正しくないのが多い様にも思える。
一体、「少女」とは誰だろう、「若者」とは、「としより」とは。席を立って譲らなければならない相手とは、一体誰のことだろうか。「少女」は何故唇を噛みしめるのだろう。何故「少女」は3度目で席を譲らなかったのだろうか。受難者とは一体なんだろう。
受難とは難を受けるものを言うのであれば、難を与えるものとは誰だろう。「としより」は、常に押し出され「少女」の前に立つ、「としより」は黙っている、そして少女は2回席を譲る。
無言の「としより」の姿に、「少女」は攻撃を受けていたと感じていたといえないだろうか。「としより」は席を譲って欲しくて「少女」の前に来たのではない。押し出されて来たのだ。つまり、「としより」は「少女」に対し、そのような攻撃を与えている意識は毛頭ない。
攻撃に敏感な「少女」と、攻撃をしていることに鈍感な「としより」。誰のせいでもないのに、日常の中で繰り返される残酷さ。勿論、いつも満員の電車とは日本の社会を現している。「少女」とは誰だろう、それは僕らだと思う。「としより」とは誰だろう、それも僕らだと思う。
哲学者の中島義道はこの詩の中に『他人の加害性に関しては恐ろしく敏感な人たち』と『他人を裁き他人に暴力を振るっているという加害者性には恐ろしく鈍感な人たち』が形成する日本の残酷さをみている。
さらに解釈してみたい。
押されて出てくるとは、そこに自分の意志を感じられない。この言い回しに、僕は2つの意味を感じてしまう。一つは、「としより」はマイノリティをイメージしていると思われること。もう一つは、人はいつも押し出されて目の前に現れると言うこと。そして「としより」と書かれていることから、前者の方を意味していると思うのだ。そして、押し出されて目の前に現れるのはいつも「としより」である。
この詩の設定は「いつも満員の電車の中」となっているが、具体的な登場人物は「若者」と「少女」と「としより」でしかない。
「いつものことだが」が2回繰り返される。それは時間の経過を現していると思う。
そして「いつものことだが」座っているのは「若者」と「少女」であり、「としより」は立っている。「としより」は若者に較べ行動が遅い、いわば身体的能力における弱者ともいえる。つまり、身体的強者だけが弱者に対し、席を譲るか否かの選択が可能だという構造が現れているのかもしれない。そして、強者は誰が弱者なのかわからない。でもそこまで読むのは誤読であるのは間違いない。
誤読ついでに別の解釈をしてみる。
電車とは閉じられた空間でもある。そして詩の中に登場する人たちは一つの共同体を持っている。共同体には共有する文化を持ち、同じ道徳を持っている。「少女」はその中で、「としより」に2回席を譲る。でも「少女」は個人として、その共同体に違和感を憶え始めている。それは、「としより」が前に立つことが攻撃として感じる。しかし「少女」は共同体の中で生きるしかない。だから、共同体からの攻撃を避ける意味で、「少女」は「としより」に席を譲る。でも3回目で抵抗を試みる。
「僕は電車を降りた」、なぜ詩人は途中で降りたのだろう。電車を降りるという事は、その共同体から抜けることを意味しているのでないだろうか。簡単に自分の意志で抜けられるが、それができない人もいる。例えば「少女」のように。
日本国民として同一化作用がそこにないだろうか。嫌でも同じ共同体として、時には席を譲り、同じ方向に向かって進む、というような感じ。それを「やさしさ」という情動的な言葉で覆い隠しているようにも思える。
上記の解釈は誤読を承知で書いている。ただ、そう解釈すると、中学の教科書に採択された理由が見えてくる。みんな「やさしく」なりましょう。「おとしより」は大事にしましょう。同じ日本人としてこの国に生きているのだから。国と文化的共同体を同じにして、この詩を教えているのかもしれない。
僕にとっては、子供もおとしよりも大事にしなくてはいけない。それは同じ電車に乗っているからではない。僕がこういう共同体論に組していないからだと思うが、こういう考え方は、得てして共同体から外れる人に対しては辛い仕打ちをする同義付けになるように思える。
実をいえば、僕は途中で詩人が電車を降りることで、この詩が好きではない。詩人はこの少女に対して有責だと思うのだ。だから途中で電車を降りるべきではない。これは僕の倫理観だが、そんな風に思っている。
さらに「席を譲る」ということに考える。
マナーとルールのせめぎ合いで、マナーがルールに変わることは、そこにルール化しないと共有できない状況があると思う。でもそれには限界があるとも思う。
自分より優先するものとは誰のことだろう。それは自分の愛する子供たちのことだろうし、年老いた両親かも知れない。有縁であれば、その線引きは可能かも知れない、では無縁の人たちに対してはどうだろう。そこに共有するものを僕らは持っているのであろうか。
例えて言えば、沈みかかっている船の中で救命ボートに乗せる順番を決めるのに繋がる。電車の中で席を譲る優先度の延長線上に救命ボートに乗る順番があると思うのだ。
さらに、現代では、若者、少女、おとしよりだけでなく、様々な人がそこに登場する。身障者、在日、アイヌ、ジェンダー、ホームレス、病気の人たち、エイズ患者、外国人労働者、難民、亡命者、移民者、等々と永遠に続く。そしてそれらの方々もひとくくりにくくれない。在日の方と言っても、在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人、在日外国人、がいるし、さらに一人ひとりに差異がある。状況も考慮しなくてはならないだろう。その中で自分より優先することの倫理を僕は持っているのだろうか。
そんなことも、この詩を読んで突きつけられる。勿論、それも誤読には違いない。
*******************
「夕焼け」
いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッっと噛んで
身体をこわばらせてー。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行っただろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。
1959年刊詩集『幻・方法』所収
『現代詩文庫 12吉野弘』思潮社より
*******************
確か15才の高校一年生の日記だ。(もう16才になったのかな?)
少し前にバイク関連の検索でヒットしたブログで、伸び伸びと、かつ率直に、自分の意見を書いているのが楽しくてつい読んでしまう。
その日記で知ったのだが、最近ブログ記事で話題になっているのが「席を譲らなかった若者」(らくだのひとりごと)らしく、「Rest in Peace」のところでも、記事を読んでのコメントが書かれている。僕は本記事は読んではいないが、「Rest in Peace」のコメントは読んだ。
「なるほど、そうなんだ」と彼のメディア・リテラシーに感心するのみである。そして、それ以上のコメントは僕には持たない。
ただ、読んでいない本記事のタイトルで、吉野弘さんの詩「夕焼け」を思い出した。一部の中学教科書にも載っているので、知っている方も多いと思う。
本記事を読んでいないのだから、詩「夕焼け」を載せる理由において、上記2つのブログは一切関係がない。ただ思い出しただけなのだ。(だからTBはしない)
ネットで検索(吉野弘 夕焼け)すると、3,330件の結果となるので、多くの方がこの詩について感想を述べられているように思う。どんな感想を持たれているのだろうか、少し気になる、後で少し読んでみよう。
僕の場合、この詩は現実を写しているのだろうが、あくまで詩人による作詩だと思う。つまり、この詩で起きていることは、詩人が見た風景だとは思うが、体験もしくは経験を写実したのではないと思うのだ。あくまで詩人の心象であり、造られた世界だと思う。
(現実的には起こりえない風景だと思う)
僕の解釈だが、この詩において少女の姿に「やさしさ」とかを前面にだして、この詩を読むと誤読しそうな気がしている。この詩はそういう詩ではない、「やさしさ」を前面に出して読むと、「やさしくない」ものが出てくるし、そこから安直に偽善だとかに結びついてしまう。そういう対立構造の現出は簡単だと思うが、簡単にわかるものは正しくないのが多い様にも思える。
一体、「少女」とは誰だろう、「若者」とは、「としより」とは。席を立って譲らなければならない相手とは、一体誰のことだろうか。「少女」は何故唇を噛みしめるのだろう。何故「少女」は3度目で席を譲らなかったのだろうか。受難者とは一体なんだろう。
受難とは難を受けるものを言うのであれば、難を与えるものとは誰だろう。「としより」は、常に押し出され「少女」の前に立つ、「としより」は黙っている、そして少女は2回席を譲る。
無言の「としより」の姿に、「少女」は攻撃を受けていたと感じていたといえないだろうか。「としより」は席を譲って欲しくて「少女」の前に来たのではない。押し出されて来たのだ。つまり、「としより」は「少女」に対し、そのような攻撃を与えている意識は毛頭ない。
攻撃に敏感な「少女」と、攻撃をしていることに鈍感な「としより」。誰のせいでもないのに、日常の中で繰り返される残酷さ。勿論、いつも満員の電車とは日本の社会を現している。「少女」とは誰だろう、それは僕らだと思う。「としより」とは誰だろう、それも僕らだと思う。
哲学者の中島義道はこの詩の中に『他人の加害性に関しては恐ろしく敏感な人たち』と『他人を裁き他人に暴力を振るっているという加害者性には恐ろしく鈍感な人たち』が形成する日本の残酷さをみている。
さらに解釈してみたい。
押されて出てくるとは、そこに自分の意志を感じられない。この言い回しに、僕は2つの意味を感じてしまう。一つは、「としより」はマイノリティをイメージしていると思われること。もう一つは、人はいつも押し出されて目の前に現れると言うこと。そして「としより」と書かれていることから、前者の方を意味していると思うのだ。そして、押し出されて目の前に現れるのはいつも「としより」である。
この詩の設定は「いつも満員の電車の中」となっているが、具体的な登場人物は「若者」と「少女」と「としより」でしかない。
「いつものことだが」が2回繰り返される。それは時間の経過を現していると思う。
そして「いつものことだが」座っているのは「若者」と「少女」であり、「としより」は立っている。「としより」は若者に較べ行動が遅い、いわば身体的能力における弱者ともいえる。つまり、身体的強者だけが弱者に対し、席を譲るか否かの選択が可能だという構造が現れているのかもしれない。そして、強者は誰が弱者なのかわからない。でもそこまで読むのは誤読であるのは間違いない。
誤読ついでに別の解釈をしてみる。
電車とは閉じられた空間でもある。そして詩の中に登場する人たちは一つの共同体を持っている。共同体には共有する文化を持ち、同じ道徳を持っている。「少女」はその中で、「としより」に2回席を譲る。でも「少女」は個人として、その共同体に違和感を憶え始めている。それは、「としより」が前に立つことが攻撃として感じる。しかし「少女」は共同体の中で生きるしかない。だから、共同体からの攻撃を避ける意味で、「少女」は「としより」に席を譲る。でも3回目で抵抗を試みる。
「僕は電車を降りた」、なぜ詩人は途中で降りたのだろう。電車を降りるという事は、その共同体から抜けることを意味しているのでないだろうか。簡単に自分の意志で抜けられるが、それができない人もいる。例えば「少女」のように。
日本国民として同一化作用がそこにないだろうか。嫌でも同じ共同体として、時には席を譲り、同じ方向に向かって進む、というような感じ。それを「やさしさ」という情動的な言葉で覆い隠しているようにも思える。
上記の解釈は誤読を承知で書いている。ただ、そう解釈すると、中学の教科書に採択された理由が見えてくる。みんな「やさしく」なりましょう。「おとしより」は大事にしましょう。同じ日本人としてこの国に生きているのだから。国と文化的共同体を同じにして、この詩を教えているのかもしれない。
僕にとっては、子供もおとしよりも大事にしなくてはいけない。それは同じ電車に乗っているからではない。僕がこういう共同体論に組していないからだと思うが、こういう考え方は、得てして共同体から外れる人に対しては辛い仕打ちをする同義付けになるように思える。
実をいえば、僕は途中で詩人が電車を降りることで、この詩が好きではない。詩人はこの少女に対して有責だと思うのだ。だから途中で電車を降りるべきではない。これは僕の倫理観だが、そんな風に思っている。
さらに「席を譲る」ということに考える。
マナーとルールのせめぎ合いで、マナーがルールに変わることは、そこにルール化しないと共有できない状況があると思う。でもそれには限界があるとも思う。
自分より優先するものとは誰のことだろう。それは自分の愛する子供たちのことだろうし、年老いた両親かも知れない。有縁であれば、その線引きは可能かも知れない、では無縁の人たちに対してはどうだろう。そこに共有するものを僕らは持っているのであろうか。
例えて言えば、沈みかかっている船の中で救命ボートに乗せる順番を決めるのに繋がる。電車の中で席を譲る優先度の延長線上に救命ボートに乗る順番があると思うのだ。
さらに、現代では、若者、少女、おとしよりだけでなく、様々な人がそこに登場する。身障者、在日、アイヌ、ジェンダー、ホームレス、病気の人たち、エイズ患者、外国人労働者、難民、亡命者、移民者、等々と永遠に続く。そしてそれらの方々もひとくくりにくくれない。在日の方と言っても、在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人、在日外国人、がいるし、さらに一人ひとりに差異がある。状況も考慮しなくてはならないだろう。その中で自分より優先することの倫理を僕は持っているのだろうか。
そんなことも、この詩を読んで突きつけられる。勿論、それも誤読には違いない。
*******************
「夕焼け」
いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッっと噛んで
身体をこわばらせてー。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行っただろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。
1959年刊詩集『幻・方法』所収
『現代詩文庫 12吉野弘』思潮社より
*******************
登録:
投稿 (Atom)