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2005/03/19

あれやこれや

レイモンド・カーヴァーの感想文が破綻しそうな雰囲気です。でも続けるつもりです。世の中に意味不明の文章が一つ増えるくらい、どうってことないでしょう。

東京目黒の図書館から予約していた書籍が届いたとの連絡があり、早速行ってきました。
最近の図書館は本当に便利です。ネットで、予約と貸出期間の延長が出来ます。だから、読みたい本があるとまず図書館の検索で本を探し、ひとまず予約しておきます。

自宅は東京の世田谷区と目黒区の狭間に位置しているので、両区の図書館を利用しています。これって結構便利です。両区の検索を使えば、たいていの書籍が借りることが出来るからです。図書館のシステムを大いに利用するようになり、書籍を購入する事がめっきり少なくなりました。

それでもやはり手元に置きたい書籍はあります。最近購入したのが、ビジネス書の「イノベーションの解」、そして内田樹さんの「他者と死者」。内田さんの書籍は現在読んでいるところですが、とっても刺激的で面白い。刺激的とは、内容がレヴィナスとラカンを扱っているので、難しいと言うこと。でもそれを、いつものことながら見事に内田さんがわかりやすく説明してくれています。面白いから、再読する予定。

今日図書館から借りてきた書籍は、雑誌ユリイカのロラン・バルト特集の2003年12月号と宮台真司さんのエイリアンズ。どうやったらロラン・バルトの様な文章が書けるのかって思います。勿論すごすぎて、較べようもないのですけど・・・

「リュウ」という漫画があります。少し前にブックオフで買いそろえました。数店舗のブックオフを、数ヶ月かかり、少しずつそろえていき、やっと全7巻がそろいました。この漫画は昭和61年から63年まで少年サンデーに連載した漫画で、以前に友人の所で読んで、手元にそろえたいと思っていたのです。原作は矢島正雄さん、作画は尾瀬あきらさんです。個人的にはSF漫画の傑作と思っていたりしています。矢島正雄さんといえば、あの弘兼憲史さんとコンビをくんだヒューマンドラマ「人間交差点」を思い出しますし、尾瀬あきらさんといえばやはり「夏子の酒」でしょうか。この二人が組んでのSF漫画。ね、何か面白そうでしょ。

そういえば、映画「ローレライ」を見てきました。一言で言えば、格好が良い!、それにつきます。
主演の役所広司さんって、何を演じても様になるなぁと思いました。たぶん良い意味で役者として癖が少ないからだろうと思いました。実は以前に学生の頃、素人演劇集団に所属していました。だから、隅っこをほんの少しかじった程度に、あの世界を知っているですが、役者になれる人って、何か元々持っている物が違うんだなぁと感じたことがあります。僕は最初から役者になるつもりは微塵もなく、音楽担当で過ごしました。逆に言えばその時のわずかな経験から、効果音は気になってしまいます。「ローレライ」の音楽は、映画の感想と同じく、格好良かったです。(気になって、その程度の感想か!と自分で突っ込んでみる)

何を見ても何を読んでも、感想は良いとしか浮かばないので、こんな感想で申し訳ない。

2005/03/18

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」感想(その2)

僕らがいくら「愛」を語ろうと、語る瞬間から言葉は迷宮の暗闇へと誘う。迷宮の奧には何がいるのだろう。それは犠牲を拒んだ結果産まれた、人肉を食らう異形の者が住むだけなのかもしれない。もしくは聖なる秘宝が冒険者の手に委ねられるのを待っているのかもしれない。でもひとたび、語り漂う言葉を求め迷宮を彷徨えば、僕らは自力ではそこから抜け出ることが出来ない。迷宮の奧から戻るには、愛する者が提供する麻糸をたどるしかないのだ。

レイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」の感想を書くつもりでいた。実際に少し書いてもいた。でもいま僕はそれを放棄しようかと思い始めている。
のど元まで出かかった様々な思いが、言葉となって出てこないのだ。僕の中には確かに、この小説を読み、感じた想いが在る。それは、僕らが「愛」を語ろうとしても語れない事だったり、「愛」を成就する為に必要な「第三者の死」という供物の話だったりする。しかし、それらを物語の「あらすじ」と小説の「引用」で説明することの限界を僕は感じている。

もっと自由に、膨らんだイメージだけで読後の感想を書き表すことが出来ないだろうか。そんなことを考える。それこそない物ねだりということかもしれない。結局僕は出来るだけ、慎重に進んでいくことしか出来ないのかもしれない。でも、あらすじの説明と引用は最小限に控えよう。それより自分のイメージを言語化することを考えよう。うまくいかないかもしれないが。

「愛について語るとき」に「愛」そのものを語ることは難しい。「我々の語ること」は「愛」にまつわると信じる経験を語るしかない。その語る言葉は「愛」の回りを漂うだけだ。
タイトルで僕が感じることは、愛について語ろうとするとき、我々は愛とは別の何かを語ってしまうと言うことだった。「愛」に言葉で辿り着くことは難しい。それは語れない何かだからだ。

この小説は2組4人が集まり、ジンを飲んでいる設定から始まる。2組4人とは、僕(ニック)、僕の妻ローラ、心臓の専門医である友人のメル、そしてメルの妻であるテリ、で仲の良い友人同士。
小説のあらすじは、この4人がメルの家の台所で語り合って終始する。レイモンド・カーヴァーの他の小説と同様に、何も特別なことは起こらないし変わらない。何気ない些細な日常の中にある一抹の不安が顔をだす寸前の所で、この物語は終わる。

彼ら4人は「愛」について語り合う。その中で色々な話が登場する。テリが前に一緒に過ごした男性、メルの愛についての考察、事故にあった老夫婦の話、メルが生まれ変わりたい中世の騎士の事。メルの前の細君の話。
それらの話題に共通するものは何だろう。それが逆に言えば「我々が語ること」の何かに繋がると思う。まずは、テリが以前に一緒に暮らしていた男の話をみてみる。

『私がメルと一緒になる前に暮らしていた男は愛するあまり私を殺そうとしたのよ、とテリは言った。「ある夜、彼は私をさんざん殴りつけたの」とテリは言った。「そして私の足首をつかんで居間じゅう引きずり回したの。彼はこう言い続けていたわ、『愛しているよ、愛しているよ、こん畜生』って』

メルはテリの以前の男の行動が「愛」によるものだとは信じることが出来ない。
「僕が話している愛というのは、人を殺そうとしたりはしないものなのさ」
でもテリは頑として、前の男は私を愛していたと譲らない。そういう愛の姿もあるというのだ。

「愛」には対象となるものがそこには在る。そして、そのものとの関係性の中でしか理解できない状況と「愛」がある様に思う。テリはそういう「愛」を理解して欲しいわけではなく、ただ認めて欲しいとメルに望む。

テリの以前の男は、テリとメルの愛が成就する事によりピストル自殺を試みるが失敗する。彼は頭が通常の倍以上に膨れ、3日間意識が戻らないまま死んでいく。その彼をテリは3日間病室で看病する。テリにとっては、自分を愛する故の死なのだから、彼女は彼に何らかのお返しをしなくてはならないと思う。でもメルはその気持ちがわからない。

本ブログは単なる感想なので、自殺について記述するつもりはまったくない。ここで書きたいことは、メルとテリの関係の外に、一人の男の死があったということなのだ。
このパターンは彼らが「愛」を語る話題に全てあてはまる。それは第三者の死、とでも名付ける事が出来る。第三者とは、愛し合う二人に関係ない者の死のことだ。

例えば、事故にあった老夫婦の話の場合には、事故の原因としての「酔っぱらい運転の少年」が登場しハンドルが胸骨を突き破り即死する。メルが時空を越えて生まれ変わりたい中世の騎士は、逆に馬から転落し身動きが取れない状態の中で、見知らぬ相手に愛のために殺される。別れたメルの細君をメルは死んで欲しいと願い、妄想の中で蜂を使って殺す姿を想像している。

愛の成就の為に必要な「第三者の死」の図式に何があるのか、実は僕にはよくわからない。ただ、「愛について語るとき我々が語ること」は「死」についてということであるかのようだ。
(その3に続きます。ただし不定期です)

2005/03/17

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」感想(その1)

レイモンド・カーヴァーを語るときどうしてもはずせない話題が3つあると思う。一つ目は編集者ゴードン・リッシュとの関係、二つ目は後に結婚するテス・ギャラガーとの生活、三つ目は短編小説という小説のジャンルについてだ。特に一つ目のリッシュとの関係は、レイモンド・カーヴァーの作家としての自立性が問題となる話なので、特に人によっては重要かもしれない。

でも僕にとっては、これら三つの話題はそれほど重要ではない。ただ、一つ目の話題について少しだけ触れたいと思う。この話題は1998年にニューヨークタイムズの日曜付録版「サンデーマガジン」に掲載されたD.T.マックスの記事「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか」が出発点となっている。日本語訳は村上春樹氏が行い、書籍「月曜日は最悪だと言うけれど」に掲載されている。

村上春樹氏もこの記事紹介の前置きに書いているが、アメリカでの作家と編集者の関係は日本とはまるで違うらしい。作家は出版会社を固定し、かつ担当となる編集者も固定らしく、作家と編集者の結びつきはかなり強い。編集者が、作家が提出した文章を訂正するのは、珍しいことではない環境がそこにはある。ただ、マックスの記事によれば、レイモンド・カーヴァーの場合、リッシュの訂正と書き換えはその程度を越えているらしく、共著と言ってもいいほどだったらしいのだ。

今回、このブログで書く予定の短編集、「愛について語るときに我々の語ること」についても、その例外ではない。逆に、カーヴァーの「訂正しないで欲しい」懇願にも係わらず、リッシュは自分の考えを押し通し、かなりの訂正と書き込みをこの短編集に対しおこなったとのことだ。

ただ、個人的な印象では、本短編集の標題にもなっている小説「愛について語るときに我々の語ること」について言えば、リッシュの訂正は少なかったのではないかと思う。
勿論、訂正の書き込みがある生原稿を見たわけではないので、確証は全くない。ただ本短編集の後書きにおいて、村上春樹氏がこの小説について述べている、「本短編集に載せるよりは「大聖堂」の短編集に載せる方が文体として似合っている」という一言が、その印象を持った唯一の根拠でしかない。短編集「大聖堂」では、殆ど編集者の訂正はされなかったからだ。

僕は以前のブログで書いたように、作家の自立性にはそれほど価値をおいていない。それ以前に作家の経歴および人物についても知りたいとは思わない。勿論、それらを知ることで、作品解釈において深みを増す場合も多いかもしれない。その場合は大いに知るべき話だと思う。でも今回の様に、カーヴァーの一つの作品に対する感想を書く場合、僕は特に必要生を感じない。

多分、作家の自立性が問題になる歴史的背景として、著作権の確立があると思う。著作権誕生以前にはその様な考え方自体なかったのではないだろうか。
勿論、作家が経済的自立により、創作活動が活発におこなわれる事は望ましいことだと思う。それは読み手である僕らにとっても嬉しいことだ。だから、作家の自立性は、その点においてのみ確定すべき事で、作品が優秀であれば、制作過程がどのような状況であっても気にしない。

例えて言えば、映画制作の様なものだ。映画は大勢が関与して制作される。監督一人だけの力、プロデューサー一人の力、もしくは俳優だけの力では、良い映画を制作することが出来ないのは自明だと思う。
大勢が関与して制作される映画であっても、良い映画は良い。なぜ、小説において一人の作家での創作にこだわる必要があるのだろう。それはある意味、芸術活動に対する神話に我々が縛られているからではないのだろうか。

また僕は本筋から話題を離れさせようとしている。これは悪い癖だ。
レイモンド・カーヴァーについて的を絞り、作家としてどうみるかと問われれば、答えは一つしかない。村上春樹氏も言っているように、「カーヴァーは圧倒的に優れた作家」なのだ。それはD.T.マックスの記事が正しかろうが誤っていようが作家としての評価には関係ない。特に、編集者の訂正が殆どなかった後期の作品群にいけばいくほど、優れた作品を創出している事実があるのだ。

何回かに分けて、レイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」の感想をブログに書きたいと思う。どちらかと言えば長文が多い僕のブログの中で、この感想はひときわ長くなりそうな気がしている。誰が読むのだろう。書く前からそんな心配をしている。

この小説を感想文に選んだ理由は、凄く単純な話だ。読んでよくわからなかったからだ。でもなぜか跡が残る小説だった。そこらへんの理由を僕は知りたいと思った。

小説には面白いかつまらないの2つしかないので、評論とか感想とかで、あれこれと理屈を付けることが無意味だと思っている方が本当に多い。その気持ちは僕にも本当によくわかるし、その考えに同意する。
逆説的に言えば、同意するからこそ、僕は小説の感想を書く。優れた小説を読むのは、一種の快楽に近い陶酔感を読後に味わう事が出来る。僕はその快楽を、さらに得たいと思う。感想を書くのはひとえに快楽への追求に他ならない。

当然に、僕のこの快楽は、ブログの僕の感想を読んでも得られないかもしれないので、一人勝手な行為かもしれない。でもこの快楽はマスターベーションではないと思う。
なぜなら感想とは、関係すべき対象がいるし、僕は対象とすべき相手に強引な手法を使うつもりはない。出来れば繊細なタッチで相手が喜ぶように感想を書いていければと思う。

そのための感想の原則は守るつもりだ。僕にとっての感想の原則とは、決して批判しないこと。つまらない小説は批判する以前に読むことはない。それは快楽以前の話であることも間違いない。

では始めさせていただきます。