2011/08/10

断片3

「われわれはまだデジタル写真画像を経験しておらず、それをいまだに銀塩写真として経験してしまっているのかも知れないのだ。」(荒金直人)

写真は元々世界を見たまま固定的に記録したい欲望を動機として発展してきた様に思う。フィルム写真の発展は、殆どが技術的な発展と言えるが、その動機を適えるためのものだった。でも面白いことにデジタル写真の場合はそれではない(と思える)。既に完成の域に到達したかのように思えるフィルム写真に近づけるようにデジタル写真は発展していったかのようだ。当時のデジタルカメラの広告はフィルム写真を意識していた。

でも写真そのものではなく、「銀塩写真として経験」とは一体どのようなことをいうのだろう。これほどデジタルカメラが普及し、場合によってはフィルム写真を知らない人もいると思われる現代において、「銀塩写真として経験」(写真を観る際に、その写真を銀塩写真として観る)してしまうことなどあり得るのだろうか。

断片2

写真家は被写体を撮る際にカメラを取り出し、そのカメラに取り付けるレンズを定め、フィルムを選び、絞りシャッター速度などで露出を決める。そのどれもがどの様な写りになるか技術者たちが徹底的に試験を重ね製品化してきたものでもある。いわばそれら個々をとっても作為がそこに存在する。写真家はそれらを組み合わせて結果的にどの様に写り込まれるかは経験的に把握をしている。後工程として現像と焼き付けによっても写真の見栄えは変わる。
デジタル写真は好きではないと言うかたは案外に多いようだ。写真の本質はデジタルであろうがフィルムであろうが変わることはないと思えるが、彼らにとってはそうではないらしい。以前にどこかの雑誌でフィルムカメラで写真を撮る方々を称し教養主義者と言っていた写真家がいたが、その乱暴な物言いが案外適切ではないかと思うこともある。

断片1

フィルムで撮った写真をFlickrの様なインターネットサービスにアップする時、その写真はデジタル化されることになる。デジタルカメラで撮った写真をプリントする時、その写真はアナログ化することになる。フィルム写真に独特の味わいがあるとして、その写真をデジタル化した際に味わいが損なわれなかったとすれば、その味わいはデジタルカメラでも現すことが可能ということになる。