僕の中には一つの懐かしいと感じる風景がある。原風景と言えば聞こえはいいが、その風景がそれに該当するのかはわからない。それは荒涼たる白い原野だ。白い原野とは津軽の地吹雪が吹き荒れる雪に覆われた場所であり、その吹雪に耐えて家が静かに建っている光景となる。通常は地吹雪からの被害を防ぐために風に面して壁を造るのだが、僕のその光景に建つ家はその様なものが一切ない。ただただ冬の強風で舞い上がり叩きつける雪に耐えている。
無論、東京産まれの東京育ちの僕にその様な場所で生活をしたという経験はない。ただ3歳から5歳くらいまで家の都合で東北は青森に暮らしたことがあった。青森市内でも決まった午後のある時間になると地吹雪に近い状態にはなり、身をかがめて歩く街の人々の印象は強く残っているが、だからといって白い原野の光景と同じではない。
その光景に強く惹かれるのに気がついたのは学生の頃だった。その頃に読んだ東北詩人高木恭造の詩集「まるめろ」にその光景が写された写真が載っていたのである。初めてその写真を見たとき、それは書店だった、強い衝撃と言う程でもなかったが、ただその写真から目を離すことが出来なかった。詩集を購入し、詩を読みながらも、それ以上に僕はその写真を眺め続けた。
眺め続け、僕の中に浮かぶ何かを言葉に出すのは難しい。でも僕はその何かを知っていた。知らないわけがない、だからこそ僕はその光景に眼が奪われたのだ。知っている何かは、子供時代の記憶と結びつく。その情景を言葉に紡ぐことはできる。ただ、それらを紡いだところで、その何かが現れるわけではない。その頃からの僕の一つの願い。その写真と同じような光景を、実際にその場にいて撮影してみたい。写真から僕はその何かに気がついたのだから、きっと同じような写真が撮れる事だろう。
今思えば、写真から何かを感じ得ていたことって意外に多い。そのどれもが人が撮った写真からだ。自分が撮った写真から浮かぶことは少ない。自分が撮る写真は、ただそこにあるものを見るような、そんな感じに近い。
2009/11/29
穏やかならざる心で「木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン展」を見ての感想
金曜日までの仕事が残響として土曜日の僕の中に残り続けていた。それは僕の身体の中で別の何かと共振し、そして反響し合いながら、時として増幅され、時には穏やかな湖面のような波となりながらも、決して休まることがなかった。
それほど気分転換は下手なほうではない。少なくとも自分ではそう思っている。ただ時折こういう状態にもなる。こういう日はおとなしく家でアクション映画でも見ながら時間が過ぎるのを待つしかない。でもどういうわけか僕は恵比寿の東京写真美術館にやってきている。
「木村 伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」という写真展だ。
写真界における二人の巨人の写真展と言うこともあり、普段よりは鑑賞する人が多い。こうやって二人並べると、活動する地域的な場所の違いがあるにせよ、二人はとてもよく似ているのがわかる。それは二人とも同じカメラとレンズを使い街頭でのスナップ写真を主としていると言うだけでもない。
無論それは写真撮影のスタイルを定めるからとっても重要だ。ただそのスタイルは何をどう写したいので決まるのだ。似ていると言うのはカメラを向ける対象、つまり何を写すかの選択だと僕は思う。
ただ似ているからといって、二人の写真に対する考え方まで同じとは限らない。似ているからこそ、二人の微妙な違いも際立つこともあるのだ。いわば二人はお互いを補完しあわない。二人は競合しあう。
違いが際立つのは、彼らのカラー写真への考え方の違いに現れている。美術展ではその違いを次のように説明していたと思う。木村伊兵衛は写真的現実のなかで色が定まるとし、アンリ・カルティエ=ブレッソンはカラー写真は現実の色を表すのは不可能と考えていた。
写真的現実が一体何を指し示すのか、おそらくそれはリアリズムに近いように思う。写真を写真として際立たせるのであれば、極端な話、色などどうでも良い。突き詰めるとそういうことになるのかもしれない。現実の色がカラーフィルムでは実現出来ないとしたアンリ・カルティエ=ブレッソンにとって、現実の色とは彼の視覚経験での色のことだろう。私が見るこの色を出せるフィルムなどない。
ここで、僕は違いと称したカラー写真への考え方が、二人とも根底では合い通じることに気がつく。つまり色を正確に表すことは出来ない、と言うことだ。ここにきて「東洋と西洋のまなざし」と区分けされた違いが同じとなる。ただ一つ、二人の写真を眺めることで、僕の中に浮かんだ違いは、木村伊兵衛の写真は「静」であり、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は「動」と言うことだ。
こういうことを考えながらも幾つものうねりが僕の心を襲う。一度は美術館中央の長いすに座り落ち着くのを待った。それらは、誰それが会議で言ったこととか、期限のこととか、やり残した幾つかのこととかが、漠然としたイメージの波として僕の中に現れる。それらのイメージを拒否することは、更なる大きなうねりとなって再び現れることに繋がる。そして思考は入り乱れ収支がつかなくなる。
人が写真を語るとき、技術的側面か、もしくは写っている対象についてかのどちらかの話となる。それらの話はその一枚の写真がわかったような気にさせる。TV番組「美の巨人たち」を観て理解したような錯覚に陥るのと同じ話。絵画などの表現芸術は記号としての言語と同じかもしれない。写真も記号と言えば記号かもしれないが、それは言語とは少し違うように思う。写真を語ることの難しさは、写真の本質を垣間見せている。自分の見るままを言葉に出すのが苦手なように。
木村伊兵衛の写真のなかで特に気に入ったのは、永井荷風を写した写真だった。街中で撮られた写真は文学者永井荷風を写しながらも優れたスナップ写真でもあった。写真を9分割し構図を表せば、永井荷風は右の線上に二マスいかないくらいの大きさで正面を向いて立っている。街はどこかの商店街風で、最初僕は浅草寺の参道の風景を思い出した、遠近法で商店街の入口が見える。しかしその奥から手前への商店街を歩く人は少ない。逆に殆どの人たちは商店街を横切り歩いている。そして永井荷風は横切る人たちの少し前に立っている。彼は黒っぽい背広で帽子をかぶりステッキを握っている。横の流れの中で正面を向いている彼の姿は、時代の流れから離れ自分を貫く、もしくは結果として貫かざるを得ない一人の人間として、写真に表されている。この写真は永井荷風を写しながら、永井荷風を指し示してはいない。日本社会から少し離れざるを得ない一人の近代人の孤独と自尊が現れているように僕には思えた。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は既に何枚も見知っていた。写真史に登場する何枚もの写真は、有名だからこそ、ある固定観念が伴って僕の前に現れた。彼が唱えた「決定的瞬間」とは、写真とは何かについて、彼がどう考えていたのかを端的に表す言葉だろう。彼の多くの写真にはその「決定的瞬間」があった。彼のスナップ写真は現代でも構図として参考になるものばかりだった。しかし、写真を「決定的瞬間」と言い表すほど僕らは単純でもなくなってしまったようにも思う。
なんていうか、二人の巨人の写真に囲まれても僕の心は支離滅裂だった。50年ほど前の写真の多くは、50年前へと続く窓のようなものだったが、僕はそういう感想よりも、なにかこういやに生々しい現実を実感していた。二人の写真に写された人々の多くは、おそらくこの世には既にいない。それでいながら、写真には彼らの笑い声や話し声で満ちていたし、その声を僕は騒々しく感じていたのだった。写真を見ながらも、僕は自分のことで精一杯だったのだ。
かといって二人の写真展が面白くなかったのかと言えばそんなこともない。僕は行きつ戻りつする心のなかで、写真と自分の落ち着きどころを探し彷徨っていたし、その中で、逆にその中だからこそ写真を面白く感じていた様にも思うのだ。
2009/11/28
篠山紀信さんの公然わいせつ罪容疑について
篠山紀信さんの路上ヌード撮影が公然わいせつ罪容疑に問われた事件について、写真を愛好する者として意見を述べるべきとの感覚から日記に書こうと思ったが、既に僕が書こうと思っていたものと似たような内容が産経新聞で飯沢耕太郎氏が述べていた。
今回の篠山紀信さんの公然わいせつ罪の要は、作品のわいせつ性が問われたわけではなく、路上撮影の違法性が問われている。しかし篠山紀信さんにとっては20年近く前から路上撮影をしてきている訳なのだから、問題は何故今頃になって、という素朴な疑問に尽きる。
それについて、飯沢耕太郎氏は『時代背景を考えるべき』と語り、続けて次のように言う。
『日本の写真表現は、ずっと縮み傾向にあると思う。危ないもの、怖いものを覆い隠そうという意識が強い。クレーム社会になって、文句を言われそうなものはやめよう、出さないでおこう、と自己規制も強まっている。写真家も萎縮してしまって、悪循環が続いている』
公募展へはヌード写真が少なくなってきているのだそうだ、また街頭スナップでは人の顔が写った写真も減っているのだそうだ。
写真は、それを写す者が意識をするしないにかかわらず、結果的に日本の社会を写している、ということなのだろう。(ここでは写されないということで)
数年前から携帯電話で死に顔を写す若者が増えているといった新聞記事を読んだことがある。街では歩く人の写真を撮ることが心理的な圧迫を感じるようになってきている。この双方に何らかの繋がりがあるように思えるのは何故だろう。
ここで僕はかつて友人の女性が教えてくれた話を思い出す。
あるとき彼女が公園で花壇に咲く花を携帯で写真を撮っていた。その時何か自分が見られているような感じを受けた。少し首を動かし視界を変えてみると、そこに一眼レフのカメラを彼女に向けている男性の姿を見つけた。彼女はそのカメラを凝視する。するとその男性はカメラの先を少しずらし何食わぬ顔で周囲を撮っているようなそぶりを見せた。
彼女は彼に意識して、それでもなお花壇の花を撮り続けた。でもまたカメラが自分に向けられているような感じを受け、再度彼を見つめる。少しの間があり、そのうちにその男性が彼女の元に近づき、「写真を撮らせていただいても構いませんか」とたずねてきた。彼女は言下の元で拒絶する。
気分が悪かったと彼女は言う。私を写真を撮ったとして、それがネット時代の中でどのような使われ方をするのかわからない。そして彼女の友達にその事を話す。友人たちは口々に「私だったら撮してもらうわ、そのくらい良いじゃない」と言ったそうだ。「でも私は嫌だ」と彼女は断言する。
友人たちの言葉は、他人事でもある。ストーカ、もしくは犯罪に使われることもあり得る。おそらく自分が同じような眼にあったら、友達も嫌悪するだろう、彼女はそう思っている。
同じ彼女が今度は何かのイベントに参加した。そのイベントはテレビカメラが入り、放送は全国放映されるのだそうだ。「もしかして私が写るかも知れない」などと僕に告げた。少しだけテレビで彼女の姿を見る。後から聞くと、少し落ち込んだ様子でこう語る。「がっかりした。自分の年齢相応の姿がそこに映っていた。やはりそう若くはない」
写真で撮られることに嫌悪感を持つ彼女が、テレビカメラに勝手に写されることへの反応の違いが、彼女には意識することがない。僕は黙って頷き、「そんなことないよ。テレビの写りが悪かっただけだ」などと慰める。反応の違いを指摘することはない。なぜなら僕もその違いが、現代では、違いとして存在しないとわかっているからだ。
テレビだけではない。至る所に配置された監視カメラは治安強化の名目で、さらに増え続けている。無機質な監視カメラには責任を伴う撮影者はそこにはいない。
今を生きる僕としても、人の写真を撮る行為がどういうことなのか理解をしているつもりだ。肖像権があり、プライバシーの問題もあり、なにより人からカメラを向けられる事へのいらだちが以前より増している感覚とか。それらの感覚は、死に顔を携帯で取る行為が増えているということと、監視カメラに写されているという「安心感」と、テレビカメラに写りたいという気持ちと、そして今回の篠山紀信の路上撮影での公然わいせつ罪の適用とかに、今日の日本人社会の底で繋がっているように思える。
新聞記事の中で飯沢耕太郎氏は次のようにも語っている。
『若い人が、篠山さんでもダメなんだから、やめておこうと思うのがこわい。路上ヌードは撮れなくなるかもしれない。この傾向が強まれば、すべての路上写真がだめになる。ヌードに限らず、公共の場で一切の撮影ができなくなってしまう。そんな危機をはらんでいる』
そのような日が来て欲しいとは思わないが、確実に近づいていると僕は思う。現時点では、すくなくとも僕は篠山紀信さんを応援する他はない。
今回の篠山紀信さんの公然わいせつ罪の要は、作品のわいせつ性が問われたわけではなく、路上撮影の違法性が問われている。しかし篠山紀信さんにとっては20年近く前から路上撮影をしてきている訳なのだから、問題は何故今頃になって、という素朴な疑問に尽きる。
それについて、飯沢耕太郎氏は『時代背景を考えるべき』と語り、続けて次のように言う。
『日本の写真表現は、ずっと縮み傾向にあると思う。危ないもの、怖いものを覆い隠そうという意識が強い。クレーム社会になって、文句を言われそうなものはやめよう、出さないでおこう、と自己規制も強まっている。写真家も萎縮してしまって、悪循環が続いている』
公募展へはヌード写真が少なくなってきているのだそうだ、また街頭スナップでは人の顔が写った写真も減っているのだそうだ。
写真は、それを写す者が意識をするしないにかかわらず、結果的に日本の社会を写している、ということなのだろう。(ここでは写されないということで)
数年前から携帯電話で死に顔を写す若者が増えているといった新聞記事を読んだことがある。街では歩く人の写真を撮ることが心理的な圧迫を感じるようになってきている。この双方に何らかの繋がりがあるように思えるのは何故だろう。
ここで僕はかつて友人の女性が教えてくれた話を思い出す。
あるとき彼女が公園で花壇に咲く花を携帯で写真を撮っていた。その時何か自分が見られているような感じを受けた。少し首を動かし視界を変えてみると、そこに一眼レフのカメラを彼女に向けている男性の姿を見つけた。彼女はそのカメラを凝視する。するとその男性はカメラの先を少しずらし何食わぬ顔で周囲を撮っているようなそぶりを見せた。
彼女は彼に意識して、それでもなお花壇の花を撮り続けた。でもまたカメラが自分に向けられているような感じを受け、再度彼を見つめる。少しの間があり、そのうちにその男性が彼女の元に近づき、「写真を撮らせていただいても構いませんか」とたずねてきた。彼女は言下の元で拒絶する。
気分が悪かったと彼女は言う。私を写真を撮ったとして、それがネット時代の中でどのような使われ方をするのかわからない。そして彼女の友達にその事を話す。友人たちは口々に「私だったら撮してもらうわ、そのくらい良いじゃない」と言ったそうだ。「でも私は嫌だ」と彼女は断言する。
友人たちの言葉は、他人事でもある。ストーカ、もしくは犯罪に使われることもあり得る。おそらく自分が同じような眼にあったら、友達も嫌悪するだろう、彼女はそう思っている。
同じ彼女が今度は何かのイベントに参加した。そのイベントはテレビカメラが入り、放送は全国放映されるのだそうだ。「もしかして私が写るかも知れない」などと僕に告げた。少しだけテレビで彼女の姿を見る。後から聞くと、少し落ち込んだ様子でこう語る。「がっかりした。自分の年齢相応の姿がそこに映っていた。やはりそう若くはない」
写真で撮られることに嫌悪感を持つ彼女が、テレビカメラに勝手に写されることへの反応の違いが、彼女には意識することがない。僕は黙って頷き、「そんなことないよ。テレビの写りが悪かっただけだ」などと慰める。反応の違いを指摘することはない。なぜなら僕もその違いが、現代では、違いとして存在しないとわかっているからだ。
テレビだけではない。至る所に配置された監視カメラは治安強化の名目で、さらに増え続けている。無機質な監視カメラには責任を伴う撮影者はそこにはいない。
今を生きる僕としても、人の写真を撮る行為がどういうことなのか理解をしているつもりだ。肖像権があり、プライバシーの問題もあり、なにより人からカメラを向けられる事へのいらだちが以前より増している感覚とか。それらの感覚は、死に顔を携帯で取る行為が増えているということと、監視カメラに写されているという「安心感」と、テレビカメラに写りたいという気持ちと、そして今回の篠山紀信の路上撮影での公然わいせつ罪の適用とかに、今日の日本人社会の底で繋がっているように思える。
新聞記事の中で飯沢耕太郎氏は次のようにも語っている。
『若い人が、篠山さんでもダメなんだから、やめておこうと思うのがこわい。路上ヌードは撮れなくなるかもしれない。この傾向が強まれば、すべての路上写真がだめになる。ヌードに限らず、公共の場で一切の撮影ができなくなってしまう。そんな危機をはらんでいる』
そのような日が来て欲しいとは思わないが、確実に近づいていると僕は思う。現時点では、すくなくとも僕は篠山紀信さんを応援する他はない。
2009/11/25
清水穣氏の写真評論「不可視性としての写真」を読んでの初めての感想
写真について書かれた書籍の中で、僕は清水穣氏の写真評論「不可視性としての写真」が最上だと考えている。この評論は写真を語る上で極めて重要な評論であるのは間違いないにもかかわらず、それほど多くの方が読んでいないことが残念でもある。無論、これは僕の考えでしかない。一歩身を引いて考えれば、写真一般について考えるのは、哲学について考えるのと同様に、人生においては意味は殆ど無い。故に、残念であるというのは僕の感傷に過ぎないとも思う。
「不可視性としての写真」は1995年にワコウ・ワークス・オブ・アートが数量限定で発行している。殆どが関係者に配布されたため、実売部数は殆どなかったのではないだろうか。僕は清水穣氏の写真評論の仕事に注目をしていたため、この本の名前だけは聞いていた。しかしどの図書館に行っても置いてなかった。国会図書館にはあると言うことだったが、国会図書館から借りた書籍は、家に持ち帰ることができず、かつコピー機での複写も許されてはいない。それを聞けば借りる気が失せた。
それでも2年ほど前、どうしても読みたくなり近くの図書館を通じ国会図書館から借りることにした。そして一読し是非とも手元に置いておきたくなった。そこで全文を手書きで複写することにした。手書きとはいえ、複写は著作権の関係上、約半分までしかできない。しかし本書が多くの人の眼に入らないのは文化的損失だと僕は思う気持ちもあった。
手書きの複写は会社帰りに2時間使い十日間ほどかかった。短い評論ではあるが、読んで不明点があれば繰り返し読んで、それから手書きでの複写なので、思った以上に時間がかかった。書いている間は夢中だったが、それでも時折思ったものだ、俺は一体何をやっているんだろうと。
どうやら僕は元来こういう無意味なことをしたり考えたりするのが好きらしい。
多くの人は「意味のないことはない」と語る。確かに社会においては「意味のないことはない」と語るべきなのだ。脆い社会を維持するためにはそのような神話は必要なことだと僕は思う。その意味で僕も「意味のないことはない」もしくは「努力は実を結ぶ」に同感する。社会を離れて人間を考えることは難しいが、それでも一歩離れて考えれば、逆に「意味があることが」珍しいことだと思えるし、「努力が実を結ばない」事例はいくらでもある。
「不可視性としての写真」の手書きでの複写は、「意味もなく」かつ「努力が実を結ばない」典型的な例だと思う。ただ僕はそれまでの写真論に飽き足らない気持ちが強かった。日本の写真論と言えば、ベンヤミン、バルト、そしてソンタグの三人を中心に回っていたし、おそらく今でもそうだろう。(僕は密かにこの三人を写真の御三家と呼んでいる)
この三人の思想を解釈し咀嚼しそれの解説書を書くのはそれはそれでよい。ただそれだけであれば日本の写真論の深みは全くと言って良いほど得ることは出来ない。もっと変わる何か、そしてそれは出来れば一般理論であればよい。僕はそう考えていたし、それを望んでいたのだった。そして「不可視性としての写真」はその僕の願いを叶えてくれた初めての、そして唯一の書籍だったのだ。
「不可視性としての写真」の要の一つに、まず写真に対する前提にあると思う。清水穣氏は写真についてまずは以下のように語る。
『写真という言葉は、記号の1つの特殊な様態を意味するものとする。それを写真性と呼ぶならば、写真性を持ったものは全て写真である。』
そして「写真性をもった写真」とは、表現形式で語るモノではないとしたうえで以下のように続く。
『写真性にとって、カメラは二次的な装置である。写真性というのは汎歴史的なものであり、アレゴリー、顔、 ヒエログリフは既に写真であった。』
僕はこの言説に納得をし正しいとさえ考える。しかしこの写真性による写真の範囲を広げる理由は他にもある。それは写真がカメラという機材を使ってのみ得られるモノであれば、それは人間の手の内にあるモノでもあると言える。それば例えば椅子とかランプとか炊飯器とかベッドとか、そういった類のものと同等であると言うことだ。そしてもしそうであれば、写真について僕らが不思議だと感じることとか、難しいと感じることとか、衝撃を受けることとかは、解決可能であるし、その理由についてもお互いに合意が出来ることだろう。
しかし現実には写真には、「写真の問題」と言うべき問題が隠すまでもなく厳然と在ると思われるし、そしてその問題から醸し出される謎が写真の一つの魅力を造っているようにさえ僕には思えるのだ。
写真性があるものが全て写真とすることで、写真を人間の手の内から解き放し、そのことで一般論として語る意味を冒頭で清水穣氏は宣言しているのだと僕は思う。しかしこの点は極めて重要なことだと僕には思える。写真について語る意味、写真の問題が議論に値することとして提示するには、その問題を明らかにする必要があるからだ。
ただ、「不可視性としての写真」は哲学的な体裁を持ちながら、あくまで評論でもある。そこがこの書籍の全体を通しての問題でもあるのだが。僕がこう言うこと自体、優れた評論家である清水穣氏に対して不遜なことであるのは重々承知している。ただ哲学的な視点で見れば、この評論の言説は理由が明らかにされずに論理的飛躍が随所に見られるのだ。
『さて、その結果、世界と自己は1つである。写真とは、ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく(それなら単なるリアリズムに過ぎない)、そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。つまり、そこでは自己とか世界といった言葉は何の意味もなさず、また世界と自己は同時には存在しない。あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、あなたとはあなたが見ている世界である。』
まず「主客分離に先立つ」ことが「あなたとはあなたが見ている世界である」も繋がることが僕には不明である。なぜ清水穣氏は「あなたとはあなたが見ている世界である」と言い切れるのであろうか。それが言い切れること自体、主客分離されていることではないのだろうか。ここで清水穣氏はいとも容易く「他我問題」を乗り越えている。
「私とは私が見ている世界である」と何故言わないのだろう。ここでは「私」と「あなた」とはイコールで結びついているのではないだろうか。つまり一般的な「私」は「あなた」と同じなのである。しかし、「私とは私が見ている世界である」と私が叫んだとき、その私とは一般的な私ではなく、まさにこの私のことでしかない。
言うなればこの乗り越えが容易く行われたことが、この評論の根本的な問題を潜在させることになった。
まぁそれも無視しよう。でも残念なことに。重要な言説である「写真性」の説明が僕には伝わってこない。「写真性」の存在は、僕にとって、実感が伴い生々しく感じることが出来るというのに、逆にその説明および写真性がある場所を含めて疑問を呈する結果になっている。つまりは今のところ漠然とだが、「写真性」は清水穣氏が語るモノではないような気が徐々にしてきているのだ。
簡単に言えば、この評論の肝とも言える「写真性」の説明について、こういう反論はできないだろうか。
例えばある写真があるとする。その写真にある人は写真性があると公言し、別のある人はその写真に写真性はないと断言する場合、どちらが正しいのであろうか。というか、どちらが正しいと判断を示す根拠など原理的にないのでなかろうか。つまりここでも「他我問題」は執拗に絡んでくるのだ。
おそらく清水穣氏のその後の評論を読めば、写真評論する者の鑑識眼を鍛えると言うことになるのかも知れない。ただ写真性に関して言えば、それが心理面に左右する以上、その限りではない。写真の問題はこう展開すべきだったと僕には思える。「何故写真は写真として生成された瞬間から心理面のみとなるのであろうか」と。
具体的に僕の意見も書かずに批判的な事を述べているかもしれない。ただこの冒頭で言ったように、「不可視性としての写真」は優れた評論であるのは間違いないし、それはある意味ではバルトもしくはソンタグの写真論より優れているとも言える。僕はこの写真論を批判的に学習することで写真について勉強することが出来た。そしてそれはおそらく今後も続くことのように思える。まだまだこの書籍から離れることは出来ない。
「不可視性としての写真」は1995年にワコウ・ワークス・オブ・アートが数量限定で発行している。殆どが関係者に配布されたため、実売部数は殆どなかったのではないだろうか。僕は清水穣氏の写真評論の仕事に注目をしていたため、この本の名前だけは聞いていた。しかしどの図書館に行っても置いてなかった。国会図書館にはあると言うことだったが、国会図書館から借りた書籍は、家に持ち帰ることができず、かつコピー機での複写も許されてはいない。それを聞けば借りる気が失せた。
それでも2年ほど前、どうしても読みたくなり近くの図書館を通じ国会図書館から借りることにした。そして一読し是非とも手元に置いておきたくなった。そこで全文を手書きで複写することにした。手書きとはいえ、複写は著作権の関係上、約半分までしかできない。しかし本書が多くの人の眼に入らないのは文化的損失だと僕は思う気持ちもあった。
手書きの複写は会社帰りに2時間使い十日間ほどかかった。短い評論ではあるが、読んで不明点があれば繰り返し読んで、それから手書きでの複写なので、思った以上に時間がかかった。書いている間は夢中だったが、それでも時折思ったものだ、俺は一体何をやっているんだろうと。
どうやら僕は元来こういう無意味なことをしたり考えたりするのが好きらしい。
多くの人は「意味のないことはない」と語る。確かに社会においては「意味のないことはない」と語るべきなのだ。脆い社会を維持するためにはそのような神話は必要なことだと僕は思う。その意味で僕も「意味のないことはない」もしくは「努力は実を結ぶ」に同感する。社会を離れて人間を考えることは難しいが、それでも一歩離れて考えれば、逆に「意味があることが」珍しいことだと思えるし、「努力が実を結ばない」事例はいくらでもある。
「不可視性としての写真」の手書きでの複写は、「意味もなく」かつ「努力が実を結ばない」典型的な例だと思う。ただ僕はそれまでの写真論に飽き足らない気持ちが強かった。日本の写真論と言えば、ベンヤミン、バルト、そしてソンタグの三人を中心に回っていたし、おそらく今でもそうだろう。(僕は密かにこの三人を写真の御三家と呼んでいる)
この三人の思想を解釈し咀嚼しそれの解説書を書くのはそれはそれでよい。ただそれだけであれば日本の写真論の深みは全くと言って良いほど得ることは出来ない。もっと変わる何か、そしてそれは出来れば一般理論であればよい。僕はそう考えていたし、それを望んでいたのだった。そして「不可視性としての写真」はその僕の願いを叶えてくれた初めての、そして唯一の書籍だったのだ。
「不可視性としての写真」の要の一つに、まず写真に対する前提にあると思う。清水穣氏は写真についてまずは以下のように語る。
『写真という言葉は、記号の1つの特殊な様態を意味するものとする。それを写真性と呼ぶならば、写真性を持ったものは全て写真である。』
そして「写真性をもった写真」とは、表現形式で語るモノではないとしたうえで以下のように続く。
『写真性にとって、カメラは二次的な装置である。写真性というのは汎歴史的なものであり、アレゴリー、顔、 ヒエログリフは既に写真であった。』
僕はこの言説に納得をし正しいとさえ考える。しかしこの写真性による写真の範囲を広げる理由は他にもある。それは写真がカメラという機材を使ってのみ得られるモノであれば、それは人間の手の内にあるモノでもあると言える。それば例えば椅子とかランプとか炊飯器とかベッドとか、そういった類のものと同等であると言うことだ。そしてもしそうであれば、写真について僕らが不思議だと感じることとか、難しいと感じることとか、衝撃を受けることとかは、解決可能であるし、その理由についてもお互いに合意が出来ることだろう。
しかし現実には写真には、「写真の問題」と言うべき問題が隠すまでもなく厳然と在ると思われるし、そしてその問題から醸し出される謎が写真の一つの魅力を造っているようにさえ僕には思えるのだ。
写真性があるものが全て写真とすることで、写真を人間の手の内から解き放し、そのことで一般論として語る意味を冒頭で清水穣氏は宣言しているのだと僕は思う。しかしこの点は極めて重要なことだと僕には思える。写真について語る意味、写真の問題が議論に値することとして提示するには、その問題を明らかにする必要があるからだ。
ただ、「不可視性としての写真」は哲学的な体裁を持ちながら、あくまで評論でもある。そこがこの書籍の全体を通しての問題でもあるのだが。僕がこう言うこと自体、優れた評論家である清水穣氏に対して不遜なことであるのは重々承知している。ただ哲学的な視点で見れば、この評論の言説は理由が明らかにされずに論理的飛躍が随所に見られるのだ。
『さて、その結果、世界と自己は1つである。写真とは、ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく(それなら単なるリアリズムに過ぎない)、そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。つまり、そこでは自己とか世界といった言葉は何の意味もなさず、また世界と自己は同時には存在しない。あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、あなたとはあなたが見ている世界である。』
まず「主客分離に先立つ」ことが「あなたとはあなたが見ている世界である」も繋がることが僕には不明である。なぜ清水穣氏は「あなたとはあなたが見ている世界である」と言い切れるのであろうか。それが言い切れること自体、主客分離されていることではないのだろうか。ここで清水穣氏はいとも容易く「他我問題」を乗り越えている。
「私とは私が見ている世界である」と何故言わないのだろう。ここでは「私」と「あなた」とはイコールで結びついているのではないだろうか。つまり一般的な「私」は「あなた」と同じなのである。しかし、「私とは私が見ている世界である」と私が叫んだとき、その私とは一般的な私ではなく、まさにこの私のことでしかない。
言うなればこの乗り越えが容易く行われたことが、この評論の根本的な問題を潜在させることになった。
まぁそれも無視しよう。でも残念なことに。重要な言説である「写真性」の説明が僕には伝わってこない。「写真性」の存在は、僕にとって、実感が伴い生々しく感じることが出来るというのに、逆にその説明および写真性がある場所を含めて疑問を呈する結果になっている。つまりは今のところ漠然とだが、「写真性」は清水穣氏が語るモノではないような気が徐々にしてきているのだ。
簡単に言えば、この評論の肝とも言える「写真性」の説明について、こういう反論はできないだろうか。
例えばある写真があるとする。その写真にある人は写真性があると公言し、別のある人はその写真に写真性はないと断言する場合、どちらが正しいのであろうか。というか、どちらが正しいと判断を示す根拠など原理的にないのでなかろうか。つまりここでも「他我問題」は執拗に絡んでくるのだ。
おそらく清水穣氏のその後の評論を読めば、写真評論する者の鑑識眼を鍛えると言うことになるのかも知れない。ただ写真性に関して言えば、それが心理面に左右する以上、その限りではない。写真の問題はこう展開すべきだったと僕には思える。「何故写真は写真として生成された瞬間から心理面のみとなるのであろうか」と。
具体的に僕の意見も書かずに批判的な事を述べているかもしれない。ただこの冒頭で言ったように、「不可視性としての写真」は優れた評論であるのは間違いないし、それはある意味ではバルトもしくはソンタグの写真論より優れているとも言える。僕はこの写真論を批判的に学習することで写真について勉強することが出来た。そしてそれはおそらく今後も続くことのように思える。まだまだこの書籍から離れることは出来ない。
2009/10/27
サルガド写真展のパンフレットを買わずに追分団子を買って帰った話
セバスチャン・サルガドの写真展に行った際、売店でパンフレットを購入しようかと考えた。価格も2200円なので写真展のパンフレットとしてはそれほど高くはない。そのつもりで手に取りパラパラとページをめくる。多少写真が小さいのは価格を考えると致し方ない。しかもパンフレットにはサルガドの言葉とか評論家の解説なども載っているから読み物としてもおもしろい。そんなことを考えてパンフレットの後ろにある解説を読んでみた。
名前は忘れてしまったが女性漫画家の解説と言うよりは個人的な感想文だった。彼女の感想は次のようなことが書かれていた。サルガドはフォトジャーナリズムを芸術の域まで高めた、ほかの芸術はもっとわかりやすくすべきだ、云々。
何を言っているんだろうこの人は、というのが正直な僕の感想。でもネットでサルガドのことを調べてみると案外に芸術家であるとの評価を持っている人が多いのに気がついた。どういうことなのだろう。
例えばだ、今回の写真展にこんな写真があった。ルワンダ紛争から一年後の1995年に撮影されている、ある学校にある数百のツチ族の遺体の写真。サルガドらしくその写真には吐き気を及ぼすような嫌悪感は少ない。しかし、この写真を芸術作品と言えるのだろうか。
その漫画家に聞きたいことは、彼女が考える芸術の定義そのものだ。仮に僕がフォトドキュメンタリーの一人だったとしよう。社会の問題点を僕の視点で切り取った写真が高く評価されたとしよう。その際、僕がその社会の問題を写した写真を観客が見て芸術性が高いと言われたとき、僕はジャーナリストとしてどう思うのだろうか。芸術という称号を与えられて喜ぶのだろうか。そんなことはない。逆に、芸術性が高いと言うことで、ジャーナリズムとしての写真の価値が下がるように感じることだろう。はっきりと言えば、自分が芸術家だろうがなかろうがそんなことはどうでも良い。それが一部の人たちにとって褒め言葉になるのだとしても、そういう称号に何の意味があるというのか。
芸術としての称号を与えることは作品を特別な位置に高める、という凡庸な考えはどこから来るのだろう。僕には殆ど理解できない。そして、それを基準にしてものを語る感想ほどつまらぬものはない。
それから芸術はもっとわかりやすく云々について、誰にとってわかりやすくなのだろうか。彼女がそういう風に思い語ると言うことは、その漫画家にとってわかりやすいということなのだろう。一般的にと言うのであれば、その基準などを明確にすべきであろう。そうでなければ単なる愚痴でしかない。さらに言えば、いわゆる芸術家たちはあなたのことを考えて創作活動を続けているわけでもない。
などと、その感想文を読んで頭の中で思った。お金を出してこの手の感想を読まなくてはならない道理などどこにもない。だから僕はパンフレットを買うのをやめた。
帰りに渋谷の東急東横店のれん街にて追分だんご本舗のみたらし団子などを約2000円分買った。これがセバスチャン・サルガドのパンフレット代わりだと僕は思った。
名前は忘れてしまったが女性漫画家の解説と言うよりは個人的な感想文だった。彼女の感想は次のようなことが書かれていた。サルガドはフォトジャーナリズムを芸術の域まで高めた、ほかの芸術はもっとわかりやすくすべきだ、云々。
何を言っているんだろうこの人は、というのが正直な僕の感想。でもネットでサルガドのことを調べてみると案外に芸術家であるとの評価を持っている人が多いのに気がついた。どういうことなのだろう。
例えばだ、今回の写真展にこんな写真があった。ルワンダ紛争から一年後の1995年に撮影されている、ある学校にある数百のツチ族の遺体の写真。サルガドらしくその写真には吐き気を及ぼすような嫌悪感は少ない。しかし、この写真を芸術作品と言えるのだろうか。
その漫画家に聞きたいことは、彼女が考える芸術の定義そのものだ。仮に僕がフォトドキュメンタリーの一人だったとしよう。社会の問題点を僕の視点で切り取った写真が高く評価されたとしよう。その際、僕がその社会の問題を写した写真を観客が見て芸術性が高いと言われたとき、僕はジャーナリストとしてどう思うのだろうか。芸術という称号を与えられて喜ぶのだろうか。そんなことはない。逆に、芸術性が高いと言うことで、ジャーナリズムとしての写真の価値が下がるように感じることだろう。はっきりと言えば、自分が芸術家だろうがなかろうがそんなことはどうでも良い。それが一部の人たちにとって褒め言葉になるのだとしても、そういう称号に何の意味があるというのか。
芸術としての称号を与えることは作品を特別な位置に高める、という凡庸な考えはどこから来るのだろう。僕には殆ど理解できない。そして、それを基準にしてものを語る感想ほどつまらぬものはない。
それから芸術はもっとわかりやすく云々について、誰にとってわかりやすくなのだろうか。彼女がそういう風に思い語ると言うことは、その漫画家にとってわかりやすいということなのだろう。一般的にと言うのであれば、その基準などを明確にすべきであろう。そうでなければ単なる愚痴でしかない。さらに言えば、いわゆる芸術家たちはあなたのことを考えて創作活動を続けているわけでもない。
などと、その感想文を読んで頭の中で思った。お金を出してこの手の感想を読まなくてはならない道理などどこにもない。だから僕はパンフレットを買うのをやめた。
帰りに渋谷の東急東横店のれん街にて追分だんご本舗のみたらし団子などを約2000円分買った。これがセバスチャン・サルガドのパンフレット代わりだと僕は思った。
2009/10/26
東京写真美術館 セバスチャン・サルガド AFRICA展
セバスチャン・サルガドの撮る写真は美しい。そしてまさしくそのことが彼の写真の問題であると僕は考える。そして彼の写真が世界に多く受け入れられた理由としてその美しさがあるのも間違いない。
サルガドは現在でも活躍している著名なフォトジャーナリストでもある。その彼の30年間に及ぶアフリカでの撮影をまとめた写真展が東京写真美術館で開催されているので行って来た。美術館で入手したカタログには「フォトジャーナリズム」ではなく「フォトドキュメンタリー」とあった。そして彼はその「フォトドキュメンタリー」の先駆者でもあるらしい。
「フォトジャーナリズム」と「フォトドキュメンタリー」の区別は、両者は報道写真(フォトジャーナリズム)の範疇に入りながらも、前者がニュース性を求めることに対し、後者は写真家の視点を残しながら淡々と現状を切り取っていく姿勢にある。故にフォトドキュメンタリーの場合、写真家のスタイルが全面に出ることになる。セバスチャン・サルガドのスタイルを僕が簡単に説明することは難しい。ただ一目瞭然なのは、モノクロで広角レンズを多用し画面を大きく構成しているということだろう。
写真には不可視な何かが写っている。その何かを写真家はカメラのシャッターを押せば写りこまれるというわけではない。清水穣は、「それは写真に写っている対象の真実でもなく、写真を見て感じる我々の心理や感情とは無関係」として、その上で、「写真の奇跡は、見えないものが写るということである。見えていなかったものが写っているといっているのではない、写っているのだが見えないのである」とした。そしてその何かを写真的不可視であると語る。
写真として成立するためには、その不可視な何かが写っていなければならない。それを写真性と呼ぶのであれば、それでも良い。ただこの何かは写真家の思惑を超えて在るわけではなく、写真家とは無関係に在るのだと僕には思える。写真家のダイアン・アーバスは常々カメラは自分の思い通りにならないと言い続けた。思い通りにしようと望むこと自体、それは不可能なことなのだろう。
写真家が出来ることと言えば、多くの写真を撮ること、そして多くの写真を見ることしかないのでなかろうか。その上で、不可視の何かが写りこまれている写真の選択にのみ写真家の自己表現があるといったら言いすぎだろうか。
写真は写すものを美しく見せる、とは確かスーザン・ソンタグの「写真論」での言葉だ。彼女の写真論の基軸には「他者の苦痛へのまなざし」があるように思う。そしてこの基軸の言葉はそのまま次の写真論のタイトルにもなった。
彼女はこの「他者の苦痛へのまなざし」の中でセバスチャン・サルガドのある一枚の写真「集団移住者の群れ」に向けられた批判を肯定している。批判とは「スペクタクル的で映画的とされる美しい構成をもった大きな写真」を写したことで、個々の問題と悲惨さが無化され、かつ抽象化され、それらの問題解決に向かわないということにあった。
『現実がスペクタルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している』記号としての写真は、これも清水穣の言葉を借りるのであれば、表象がない指向対象(レフェラン)のみの特殊な記号である。例えば雲の写真は雲が写真にあるのではなく、雲の指向対象(レフェラン)が写っているということになる。それであれば、他者の苦痛が写っている写真のレフェランとは何になるのであろう。
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
原理的に他者の苦痛を僕らは知ることは出来ない。それでも人間の社会構造はいかなる文化であろうとも同一であるという立場から、僕らは他者の痛みがどの様なときに起こるのかを把握する。苦痛の原因・苦痛の表象・苦痛の内実、僕らにわかるのはそのうち原因と表象となるのだろう。アフリカでの苦痛の原因の多くを僕らは知っている。貧困・飢餓・紛争・破壊・病気・虐殺などなど。そしてそれらの原因と表情に現れる苦痛とで、その写真に写る人の痛みを感じることとなるのだ。つまり苦痛の対象指向とは、写真の誰それに向かうと同時に僕らにも向かうのである。
『震撼させる写真が衝撃の力を必ず失うとはかぎらない。だが理解するということにかけては写真はそれほど助けとならない。物語はわれわれに理解させる。写真の役目は違う。写真はわれわれにつきまとう。』つきまとうのは何か。それは僕らに向かうレフェランではなかろうか。仮に写真に写る不可視の何かが薄まったとしたとき、もしくはレフェランが弱い場合、その写真には何が現れるのだろう。無論、これらは可算名詞なのかと言った問いかけもあるとは思う。その点について僕には未だ分からない。ただサルガドの写真を説明する際、その言い方が適切のように僕には思えるのだ。
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
セバスチャン・サルガドが写した様々なアフリカの風景は美しい。砂漠を写した写真は何度見ても飽きない。10頭近くものシマウマが並んで池の水の飲む姿は、シマウマの模様が群れ全体で一つの調和をなし、それだけでも何らかのデザインとなっている。アフリカに住む人々の姿は躍動感に満ち、瞳は美しく、命の美しさを讃えているかのようだ。
そして内紛・紛争・虐殺に逃れた人々の難民キャンプの風景も美しい。ある写真では、兵士二人が砂丘に立ち、その足元には完全に腐乱し人間の原型をとどめていない死体が大の字になって倒れている。兵士の顔はその死体に驚くこともなく平然とした顔つきで立っている。その写真は不思議なことに嫌悪感を持つことがない。美しいのだ。兵士も、彼らが立つ風景も、そして無残に朽ち果てた死体も。
また別の写真では食料の配給を待つ女性が体を斜めにし顔をカメラに向けていた。彼女の目は不思議な模様を見せていた。説明文を読めば砂嵐と慢性の眼病で視力が失われているのだそうだ。しかし写真の構図とまっすぐにカメラを見つめるその姿は美しい。
セバスチャン・サルガドの写真はよく言われるように映画的である。それは僕らが美しいと感じる構図とコントラストによって構成されている。こうあるべきだという美しさのフレームワークに僕らは逃れることはできない。そしてそれは逆に僕らが望んでいる美しさでもある。美しい写真は、人間である限り同じ価値観を共有するという安心感を根拠無く与えるが、写真の衝撃とつきまとうものは殆ど無い。
スーザン・ソンタグの問題提議を無視することは難しい。ただサルガドへの写真評価に係わることは、批判する者も擁護する者も、両者の倫理観もしくは写真に係わる信念の対立とも言える。それらの闘争にどちらが勝っていると誰が言えるのだろう。
サルガドの写真にはレフェランの強さがない。もしくはレフェラン自体が欠けている。故に写されたものは、その写真に留まることになる。写された対象は写真の構図の中で留まり、よって対象とその構図からの美しさが全面に現れる。例えが悪いが、サルガドの写真は観光地の絵はがきに近い。しかもそれは廃刊となったリーダーズダイジェストなどに掲載される珍しくも美しい写真に近いかもしれない。
ただその観光地の絵はがきに数十万人の難民が生活するキャンプも写され、その中で暴動・殺戮が頻繁にある姿があったとしたら、見る者は美しいと同時に一種の違和感を感じることだろう。そういう種類の違和感が、サルガドの写真を見終わった後に残り続ける。それはまとわるといった種類ではないが記憶には残る。
確かに写された人々の個々の問題はサルガドの写真では無化するほかはない。それはサルガドの写真の本質に係わる部分だからだ。だからといってアフリカの現状を伝えていないというわけでもない。サルガドの写真は写真であることを抑えることで、逆にアフリカの状況を伝えているのだと僕には思える。
※写真は、「パガラウ放牧キャンプのディンカ族、南部スーダン、2006年」
***************************
セバスチャン・サルガド アフリカ
生きとし生けるものの未来へ
東京写真美術館
■会 期:2009年10月24日(土)→12月13日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:2階展示室
■料 金:一般 800(640)円/学生 700(560)円/中高生・65歳以上 600(480)円
2009/10/20
Nikon Small World
神々の創造はミクロに宿る。猫の造形は既に遺伝子の中に宿っているし、その遺伝子は数十億年と言う生命の繋がりの中で形成してきたのだから。
つまり神の創造は生命誕生のその瞬間にあることになる。ただその瞬間は地球と言う銀河系辺境の惑星があればこその起点でもある。ゆえに神の御手はさらに遡る事が出来る。最終的には宇宙誕生の瞬間にこそ神の奇跡が行われたと言う事になるかも知れぬ。それであれば、宇宙誕生以前の無の中で神は一体何処におわしたのだろう。
ミクロの世界への旅はゆえに広大な宇宙への旅に似ている。そしてどちらもが人間の領域を離れる旅でもある。しかしその領域も一旦写真に収められれば状況は一変する。写真として撮られることで、その領域は人間の場所に変っていくのだ。写真は、いわば植民地主義の尖兵の役割を担っている。それはキリスト教伝播の際に神父を最初に送り込むのに似ている。
写真はどこが神父に似ているのだろう。宗教と科学という区分けはあまりにも陳腐かもしれない。中世と近代と言う歴史区分はあまりにも欧米的だとの謗りを受けるかもしれない。それに僕自身がこのような時代区分に組しないのもある。ただカメラ及び写真技術の誕生と発展は近代と密接に絡んでいるようにも思えるのも事実だ。
カメラと言う道具は単に化学・物理的反応を起こす箱に過ぎない。問題は写真そのものにある。例えば、写真史を認識論を中心にして眺めると一つの疑問が浮かんでくるのだ。「一体何故僕らは写真に写りこまれた画像を過去の事実として信じるに至ったのか」という素朴な疑問が。現代では、写真は聖書に変る新たな伝道の書として僕らの眼前に提示される。その点において写真と神父はそれほど変わることはない、と僕には思える。
Nikon Small World写真コンテスト2009年度の発表が先だって行われた。
顕微鏡写真は色鮮やかで美しく、造形も変化に富んでいる。おそらくミクロの世界は人間の時間より早く進んでいくのだろうか。毎年のコンテストで発表される一連の写真群はどれもが違う。僕らの領域が未だ太陽系を超えられないと同じように、ミクロの領域も当然のことながらあるのだろう。
ただ顕微鏡写真の技術面は年々その未知なる領域をも侵犯している。
Nikon Small Worldの一群の写真を見るとき、その美しさに息を呑むのだが、それでいて衝撃を受けるということでもない。既に僕らの眼は、日々生み出される無限とも思われる写真によって、新たな映像に対する感受性が鈍っているのかもしれない。
いやそうではない、と僕の感性は告げる。既にこれらの世界は見知った世界なのである。土星の衛星タイタンの写真を見たときも驚きは特になく、そこまでに人間が到達したのかと言う感慨しかなかった。タイタンの姿は想像を超えていたが、それでも僕らが信奉する物理学の枠を超えて存在しているわけではない。人間は対象をモデリングしイメージとして捉える。その中に、これらの一群の顕微鏡写真もあるのだと僕には思える。
無論、美しいし、見ることによって何らかのインスピレーションを得られるかもしれない。これらも我らの世界の一部に変わりはないのだから。
http://www.nikonsmallworld.com/
つまり神の創造は生命誕生のその瞬間にあることになる。ただその瞬間は地球と言う銀河系辺境の惑星があればこその起点でもある。ゆえに神の御手はさらに遡る事が出来る。最終的には宇宙誕生の瞬間にこそ神の奇跡が行われたと言う事になるかも知れぬ。それであれば、宇宙誕生以前の無の中で神は一体何処におわしたのだろう。
ミクロの世界への旅はゆえに広大な宇宙への旅に似ている。そしてどちらもが人間の領域を離れる旅でもある。しかしその領域も一旦写真に収められれば状況は一変する。写真として撮られることで、その領域は人間の場所に変っていくのだ。写真は、いわば植民地主義の尖兵の役割を担っている。それはキリスト教伝播の際に神父を最初に送り込むのに似ている。
写真はどこが神父に似ているのだろう。宗教と科学という区分けはあまりにも陳腐かもしれない。中世と近代と言う歴史区分はあまりにも欧米的だとの謗りを受けるかもしれない。それに僕自身がこのような時代区分に組しないのもある。ただカメラ及び写真技術の誕生と発展は近代と密接に絡んでいるようにも思えるのも事実だ。
カメラと言う道具は単に化学・物理的反応を起こす箱に過ぎない。問題は写真そのものにある。例えば、写真史を認識論を中心にして眺めると一つの疑問が浮かんでくるのだ。「一体何故僕らは写真に写りこまれた画像を過去の事実として信じるに至ったのか」という素朴な疑問が。現代では、写真は聖書に変る新たな伝道の書として僕らの眼前に提示される。その点において写真と神父はそれほど変わることはない、と僕には思える。
Nikon Small World写真コンテスト2009年度の発表が先だって行われた。
顕微鏡写真は色鮮やかで美しく、造形も変化に富んでいる。おそらくミクロの世界は人間の時間より早く進んでいくのだろうか。毎年のコンテストで発表される一連の写真群はどれもが違う。僕らの領域が未だ太陽系を超えられないと同じように、ミクロの領域も当然のことながらあるのだろう。
ただ顕微鏡写真の技術面は年々その未知なる領域をも侵犯している。
Nikon Small Worldの一群の写真を見るとき、その美しさに息を呑むのだが、それでいて衝撃を受けるということでもない。既に僕らの眼は、日々生み出される無限とも思われる写真によって、新たな映像に対する感受性が鈍っているのかもしれない。
いやそうではない、と僕の感性は告げる。既にこれらの世界は見知った世界なのである。土星の衛星タイタンの写真を見たときも驚きは特になく、そこまでに人間が到達したのかと言う感慨しかなかった。タイタンの姿は想像を超えていたが、それでも僕らが信奉する物理学の枠を超えて存在しているわけではない。人間は対象をモデリングしイメージとして捉える。その中に、これらの一群の顕微鏡写真もあるのだと僕には思える。
無論、美しいし、見ることによって何らかのインスピレーションを得られるかもしれない。これらも我らの世界の一部に変わりはないのだから。
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2009/09/26
映画「毛皮のエロス」感想ではなく迷宮で彷徨った記録
映画「毛皮のエロス」(2006年)をDVDで観たのだがどうもしっくりと来ない。「毛皮のエロス」はダイアン・アーバスをモデルにしたフィクションだと映画の冒頭で語っている。でもダイアン・アーバスが名前だけではなく、主人公の生い立ちまで参考にしている以上、現実のアーバスと重ね合わせてしまうのは無理からぬ話だろう。
「毛皮のエロス」は簡単に言えば、夫に従うだけの主婦が芸術家へと目覚めていく過程を描いた映画のように思う。アーバスが芸術家へと目覚めたことは、映画冒頭でのシーンと映画最後のシーンとを状況的に同じにし、それへの対応の仕方が違うことで明らかにしている。そしてその差異がしっくりとこないのだ。
主人公であるダイアン・アーバスを演じているのはニコール・キッドマン。彼女の演技力と美しさには毎度のことながら眼を見張るものがある。
映画の中で彼女はダイアン・アーバスを演じきっていた。しかしそれは僕がイメージするところの現実のアーバス個人では勿論無い。でもそれはそれで一向に構わない。映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよいと思う。
このしっくりこなさは、映画と実際のアーバスを較べてしまうことに発するにせよ、観客に共感を得やすいように、アーバスが変っているのは彼女が芸術家だからだ、といういわばステレオタイプに包括させてしまっていることにある。また、ダイアン・アーバスが写真家であり、カメラ及び写真がアーバスに与えた重みも全く描かれてはいない。
「カメラは道具であり、写真は単に表現者が選んだ素材にしかすぎない」
、という、おそらく一般に浸透するこの考えは確かなことなのだろうか。
でも実際のアーバスは違っていた。彼女はカメラを特別な機械と考えていたし、写真に写るものの中にこそ、自分が現したいことがあると考えていたと思える。アーバスをモデルにする場合、少なくとも、この視点を外すことは出来ないと僕は思うのだ。
映画に現れる数々の映像と言葉はこの映画のメッセージを露骨と言えるほど声高に語る。例えば、原題「fur」は毛皮を意味する、アーバスは高級毛皮商人の子供、映画の冒頭の毛皮ファッションショー、熊と呼ばれた多毛症の男性、その全身長毛に覆われた男の毛を剃るシーン、毛を剃ると現れる気品ある男性の顔、ヌーディストキャンプでの撮影時に言われる「服を脱げば撮影可能です」の言葉、などなど。
芸術家とは自分自身の欲望の発露に忠実であること、そのために内側からくる情熱を受け入れ開放すること、その当時に好奇の眼に晒された人々こそ貴族的であること、など上記の映像から受けるメッセージは現代においては受け入れやすい。
映画は観客のことを考えなくてはならない。だからこそ、観客に受け入れやすいように、様々な操作が行われる。これも僕らにとっては何を今更と言う話だろう。それによって、実際のアーバスとの乖離は修復不可能となる。僕は二人のアーバス、この映画のアーバスと僕が知りえたアーバスの間で揺れる。ただ勝者はほぼ決まっているのだ。
結論から言えば、この映画でダイアン・アーバスをモデルにするフィクションであれば、設定を大幅にかえるべきである。また、ダイアン・アーバスの名前さえ使わないほうが良かった。アーバスを多少知る者がこの映画を観たとき、混乱を与え映画を楽しめることが適わなくなる。
・・・・・・・
OK!! 僕の進め方はフェアじゃないのを認めよう。確かに僕はアーバスを、僕なりのイメージとして持っている。アーバスの生い立ちを含めた記録も知っている。そこから映画へ逆にたどり評価するのはアンフェアなのを認める。その行為は、「映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよい」という自分の考えにも反するのも認める。
このカルト的な映画は、映画だけでなく観客との相互作用により何かを創造するべく組み立てられているように思う。この映画を観る人は多少のアーバスの知識を持ち合わせていることだろう。アーバスのことを知らずにこの映画を観る人はある意味幸福なのだ。その人は葛藤を知らずにこの映画に没頭できる。
実際のアーバスは語る。映像は虚構で写真は現実だと。ここでアーバスの言葉を引き出すことはルール違反なのは分かる。ただこの映画の姿を知るためには必要不可欠な言葉だと僕には思える。
文脈を提示せずに言葉のみ提示するのもフェアではない。僕が受けるアーバスのこの言葉は、補助線をつけることで分かりやすい。
「映像は虚構のように見え、写真は現実のように見える」
この映画は、映画冒頭で語るようにフィクションである。だから僕が考え書いていること自体、殆ど意味はないかもしれない。ただ僕はこの映画を通じて、あらためてアーバスを見直しているのも事実なのだ。そしてそれは、この文章がそうであるように、新たな迷宮へ歩むことだと僕は感じている。
それにこの映画の制作者は実際のアーバスのこの言葉を当然に知っているはずだ。だからこそ、あえてアーバスをモデルとしたフィクションを製作したのだと思う。それを根底にすることで、僕はこの映画の意図・姿を、おぼろげながら、言葉として伝えられないが、垣間見れるように思う。
垣間見れるのは、アーバスにおけるブレなのだ。逸話は殆どフィクションであるが、人としてのアーバスとは微妙に重なるのである。アーバスの逸話を全て載せるのは不可能だ。だからこそ、その象徴として多毛症の男性を登場させる。幾重にも張られた伏線は、映像を飛び出し、実際のアーバスとも絡まるようになる。逆に言えば、写真では全く見えないアーバスを、映画の虚構に取り込み、虚構の中で虚構と宣言し、実際にはない多毛症の男との絡みのなかで、アーバスの現実をあぶり出しているようにも思える。
虚構と現実の両方のアーバスを観客の中で化学反応させることで、よりアーバスという人間を知ることが出来る。それを目的とした映画のように僕には思える。
「毛皮のエロス」は簡単に言えば、夫に従うだけの主婦が芸術家へと目覚めていく過程を描いた映画のように思う。アーバスが芸術家へと目覚めたことは、映画冒頭でのシーンと映画最後のシーンとを状況的に同じにし、それへの対応の仕方が違うことで明らかにしている。そしてその差異がしっくりとこないのだ。
主人公であるダイアン・アーバスを演じているのはニコール・キッドマン。彼女の演技力と美しさには毎度のことながら眼を見張るものがある。
映画の中で彼女はダイアン・アーバスを演じきっていた。しかしそれは僕がイメージするところの現実のアーバス個人では勿論無い。でもそれはそれで一向に構わない。映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよいと思う。
このしっくりこなさは、映画と実際のアーバスを較べてしまうことに発するにせよ、観客に共感を得やすいように、アーバスが変っているのは彼女が芸術家だからだ、といういわばステレオタイプに包括させてしまっていることにある。また、ダイアン・アーバスが写真家であり、カメラ及び写真がアーバスに与えた重みも全く描かれてはいない。
「カメラは道具であり、写真は単に表現者が選んだ素材にしかすぎない」
、という、おそらく一般に浸透するこの考えは確かなことなのだろうか。
でも実際のアーバスは違っていた。彼女はカメラを特別な機械と考えていたし、写真に写るものの中にこそ、自分が現したいことがあると考えていたと思える。アーバスをモデルにする場合、少なくとも、この視点を外すことは出来ないと僕は思うのだ。
映画に現れる数々の映像と言葉はこの映画のメッセージを露骨と言えるほど声高に語る。例えば、原題「fur」は毛皮を意味する、アーバスは高級毛皮商人の子供、映画の冒頭の毛皮ファッションショー、熊と呼ばれた多毛症の男性、その全身長毛に覆われた男の毛を剃るシーン、毛を剃ると現れる気品ある男性の顔、ヌーディストキャンプでの撮影時に言われる「服を脱げば撮影可能です」の言葉、などなど。
芸術家とは自分自身の欲望の発露に忠実であること、そのために内側からくる情熱を受け入れ開放すること、その当時に好奇の眼に晒された人々こそ貴族的であること、など上記の映像から受けるメッセージは現代においては受け入れやすい。
映画は観客のことを考えなくてはならない。だからこそ、観客に受け入れやすいように、様々な操作が行われる。これも僕らにとっては何を今更と言う話だろう。それによって、実際のアーバスとの乖離は修復不可能となる。僕は二人のアーバス、この映画のアーバスと僕が知りえたアーバスの間で揺れる。ただ勝者はほぼ決まっているのだ。
結論から言えば、この映画でダイアン・アーバスをモデルにするフィクションであれば、設定を大幅にかえるべきである。また、ダイアン・アーバスの名前さえ使わないほうが良かった。アーバスを多少知る者がこの映画を観たとき、混乱を与え映画を楽しめることが適わなくなる。
・・・・・・・
OK!! 僕の進め方はフェアじゃないのを認めよう。確かに僕はアーバスを、僕なりのイメージとして持っている。アーバスの生い立ちを含めた記録も知っている。そこから映画へ逆にたどり評価するのはアンフェアなのを認める。その行為は、「映画であれば映画の中でリアリティを出せばそれでよい」という自分の考えにも反するのも認める。
このカルト的な映画は、映画だけでなく観客との相互作用により何かを創造するべく組み立てられているように思う。この映画を観る人は多少のアーバスの知識を持ち合わせていることだろう。アーバスのことを知らずにこの映画を観る人はある意味幸福なのだ。その人は葛藤を知らずにこの映画に没頭できる。
実際のアーバスは語る。映像は虚構で写真は現実だと。ここでアーバスの言葉を引き出すことはルール違反なのは分かる。ただこの映画の姿を知るためには必要不可欠な言葉だと僕には思える。
文脈を提示せずに言葉のみ提示するのもフェアではない。僕が受けるアーバスのこの言葉は、補助線をつけることで分かりやすい。
「映像は虚構のように見え、写真は現実のように見える」
この映画は、映画冒頭で語るようにフィクションである。だから僕が考え書いていること自体、殆ど意味はないかもしれない。ただ僕はこの映画を通じて、あらためてアーバスを見直しているのも事実なのだ。そしてそれは、この文章がそうであるように、新たな迷宮へ歩むことだと僕は感じている。
それにこの映画の制作者は実際のアーバスのこの言葉を当然に知っているはずだ。だからこそ、あえてアーバスをモデルとしたフィクションを製作したのだと思う。それを根底にすることで、僕はこの映画の意図・姿を、おぼろげながら、言葉として伝えられないが、垣間見れるように思う。
垣間見れるのは、アーバスにおけるブレなのだ。逸話は殆どフィクションであるが、人としてのアーバスとは微妙に重なるのである。アーバスの逸話を全て載せるのは不可能だ。だからこそ、その象徴として多毛症の男性を登場させる。幾重にも張られた伏線は、映像を飛び出し、実際のアーバスとも絡まるようになる。逆に言えば、写真では全く見えないアーバスを、映画の虚構に取り込み、虚構の中で虚構と宣言し、実際にはない多毛症の男との絡みのなかで、アーバスの現実をあぶり出しているようにも思える。
虚構と現実の両方のアーバスを観客の中で化学反応させることで、よりアーバスという人間を知ることが出来る。それを目的とした映画のように僕には思える。
2009/09/07
9.11と写真
評論家であり翻訳家でもある近藤耕人は、「今日あらためて写真を論じようとすれば、01.9.11のテレビ映像から出発しないわけにはいかない」と語る。
その理由として、ある編集者が 知人の電話でWTCから煙が上がっていると聞かされるが信じられない、そしてテレビのスイッチを入れ映像を見て初めて現実となったエピソードをあげている。
「映像が現実認識に取って代わったという事態が、人間の現実感の喪失と転位を含意しており・・・」
確かに9.11は21世紀で語られるニュースの先頭を飾る。僕もその時、家のテレビに釘付けになりその映像を見続けた。家人は横に座り僕と一緒にテレビを見ていた。
誰もが思うように僕もこれから何かが変わると思った。隣の彼女は疑いを持った眼差しで映像を見ていた。そして僕に言った。
「これって本当の出来事なの?」
「もちろんだよ。疑う必然性は何処にもないよ」
あれから8年経ち、毎年9.11がきて、過去の映像をどこかのニュース番組で流すたびに、彼女から同じ質問が繰り返される。
「これって本当の出来事なの?」
9.11以降の世界に幾つもの争いが起きたように、家にも様々な出来事が起きた。
それは「テロへの戦い」という名の覇権・利権争いの一方に日本が組み込まれざるを得ない状況の中で、争いから来る悲惨さのどれ一つとっても我々に関係ないことはないという事への、いわばさざ波のような余波が家を襲っていたのかもしれない。
今から思えば、仕事をコントロールしているようで実は流され、愛すべき人達を守ろうと逆に傷つけていた。それは何処にもある極めて平凡な一つの時代でもあった。
9.11から世界は変わったわけではなく、仮に変わったとしても、それは9.11が変化し続ける人間社会の中で大きな変化に至る過渡期の一つの現象でしかないと今の僕は思う。
変わると認識した僕も含めた多くの人達は、何かが起きるという潜在した意識を9.11の出来事で解放しただけなのだ。
冒頭の近藤耕人の言葉は次への続く。
「その錯誤のために、過去160年にわたって人間の現実感覚を深め、研ぎ澄ましてきた写真が、ついに自ら墓穴を掘って墜落したのである。」
彼の言うところの「人間の現実感覚」とは一体何を示すのか僕には正直わからない。ただ、「写真が現実を撮してきたのか」と言う問いに対しては、「現実とは何か」という問いと共に相殺される問いだと僕には思える。それを「人間の現実感覚」の根底においてあるのなら、その言葉自体が無意味に陥りかねない。
カメラは、写真は、常に僕らの現実とは無関係に存在している。さらに、写真が写っている「何か」に僕らにとっての現実を見たとしても、その写っている「何か」を指し示す「何か」は、僕らにとって経験がなければ、単に表象でしかない。僕らにとっての現実とは、そこに痛みを伴う内実そのものなのだ、と僕は思う。
9.11以降多くの内紛、虐殺、紛争、戦争があった。それらは映像として僕らの前に提示されたものもあったが、殆どは隠された。しかし隠されてもなお、それらは僕らの日常を写す幾多の表象の中に姿を変えて現れる。そして僕はそれらに囲まれて軽い苛立ちを覚えるのだ。
今年もまた9.11がまた巡ってくる。人類がその歩みを止めない限り、時間は止まることは無い、9.11が追憶の彼方に消え去ったとしても、名前を変えてそれは現れることだろう。
今年もまたニューヨークの空に巨大な二本の光の柱が登場するのだろうか。そしてそれを美しく写真に収める人もいるのだろうか。写真はどのような情景も美しくさせる力がある。光の二本の柱は、夜空を確かに美しく、9.11とそれ以降の悲惨を感傷的に彩ることだろう。
8年の年月は僕に何をもたらせたのか。営みの中で僕が感じ確信として得てきたものは何だったのか。おそらくそれは家人のこの言葉に集約されている。
「これって本当の出来事なの?」と。
その理由として、ある編集者が 知人の電話でWTCから煙が上がっていると聞かされるが信じられない、そしてテレビのスイッチを入れ映像を見て初めて現実となったエピソードをあげている。
「映像が現実認識に取って代わったという事態が、人間の現実感の喪失と転位を含意しており・・・」
確かに9.11は21世紀で語られるニュースの先頭を飾る。僕もその時、家のテレビに釘付けになりその映像を見続けた。家人は横に座り僕と一緒にテレビを見ていた。
誰もが思うように僕もこれから何かが変わると思った。隣の彼女は疑いを持った眼差しで映像を見ていた。そして僕に言った。
「これって本当の出来事なの?」
「もちろんだよ。疑う必然性は何処にもないよ」
あれから8年経ち、毎年9.11がきて、過去の映像をどこかのニュース番組で流すたびに、彼女から同じ質問が繰り返される。
「これって本当の出来事なの?」
9.11以降の世界に幾つもの争いが起きたように、家にも様々な出来事が起きた。
それは「テロへの戦い」という名の覇権・利権争いの一方に日本が組み込まれざるを得ない状況の中で、争いから来る悲惨さのどれ一つとっても我々に関係ないことはないという事への、いわばさざ波のような余波が家を襲っていたのかもしれない。
今から思えば、仕事をコントロールしているようで実は流され、愛すべき人達を守ろうと逆に傷つけていた。それは何処にもある極めて平凡な一つの時代でもあった。
9.11から世界は変わったわけではなく、仮に変わったとしても、それは9.11が変化し続ける人間社会の中で大きな変化に至る過渡期の一つの現象でしかないと今の僕は思う。
変わると認識した僕も含めた多くの人達は、何かが起きるという潜在した意識を9.11の出来事で解放しただけなのだ。
冒頭の近藤耕人の言葉は次への続く。
「その錯誤のために、過去160年にわたって人間の現実感覚を深め、研ぎ澄ましてきた写真が、ついに自ら墓穴を掘って墜落したのである。」
彼の言うところの「人間の現実感覚」とは一体何を示すのか僕には正直わからない。ただ、「写真が現実を撮してきたのか」と言う問いに対しては、「現実とは何か」という問いと共に相殺される問いだと僕には思える。それを「人間の現実感覚」の根底においてあるのなら、その言葉自体が無意味に陥りかねない。
カメラは、写真は、常に僕らの現実とは無関係に存在している。さらに、写真が写っている「何か」に僕らにとっての現実を見たとしても、その写っている「何か」を指し示す「何か」は、僕らにとって経験がなければ、単に表象でしかない。僕らにとっての現実とは、そこに痛みを伴う内実そのものなのだ、と僕は思う。
9.11以降多くの内紛、虐殺、紛争、戦争があった。それらは映像として僕らの前に提示されたものもあったが、殆どは隠された。しかし隠されてもなお、それらは僕らの日常を写す幾多の表象の中に姿を変えて現れる。そして僕はそれらに囲まれて軽い苛立ちを覚えるのだ。
今年もまた9.11がまた巡ってくる。人類がその歩みを止めない限り、時間は止まることは無い、9.11が追憶の彼方に消え去ったとしても、名前を変えてそれは現れることだろう。
今年もまたニューヨークの空に巨大な二本の光の柱が登場するのだろうか。そしてそれを美しく写真に収める人もいるのだろうか。写真はどのような情景も美しくさせる力がある。光の二本の柱は、夜空を確かに美しく、9.11とそれ以降の悲惨を感傷的に彩ることだろう。
8年の年月は僕に何をもたらせたのか。営みの中で僕が感じ確信として得てきたものは何だったのか。おそらくそれは家人のこの言葉に集約されている。
「これって本当の出来事なの?」と。
2009/09/01
稲越功一の写真「心の眼」
本年2009年2月25日に亡くなられた稲越功一氏の写真展が恵比寿にある東京写真美術館であったので行ってきた。本写真展は生前稲越氏が自ら構成を慎重に準備を進めてきた。亡くなられた時、写真展をどうするか話し合われたそうで、稲越氏の奥様を含めほぼ全員が開催の意向を示したと聞いている。また、その時に本写真展は没後の初めての写真展ではなく、稲越功一最後の写真展として開催するとも決まったそうだ。
稲越功一氏は雑誌カタログなどの書籍をデザイン的に美しく、かつ読みやすくするための、エディトリアルの写真家として活躍されてきた。つまりはその活躍の場の多くを商業的な場で行ってきたことになる。それでも、プライベートに自分が好きな写真も撮り続けてきた。今回の写真展はそのプライベートな写真、特にモノクロームの写真を中心に集めている。
僕が写真展に行った際に、鑑賞する仕方はいつも決まっている。まずは少し早めに全体を鑑賞する。次に写真展会場に大抵部屋のほぼ中央にある長椅子にすわり、そこから全体を見回す。そして写真展の雰囲気というか空気感を感じ取るように心がける。写真展は大抵は薄明で静かなので、椅子に座りながら、ぼんやりと考えることには最適なのだ。それから、また最初から今度は少し丁寧に鑑賞する。そしてまた長椅子に座りぼんやりする。そういうことを3サイクルくらいやっている。そうするとなんだかこの写真展会場と一体感みたいなものを感じるときがある。
だからといって写真展の何か真実が見えてくるというわけじゃない。そんな大それた事は少しも考えない。おそらく僕は、美術館、写真館、の会場独特のひんやりとした空気感が好きなのだ。作品にスポットライトが浴び、そこに人が立ち鑑賞している、そういう姿をぼんやりと眺めているのが好きなのだ。
稲越功一氏の作品はどれも良かったし面白かった。中央の椅子に座り、モノクロームの写真が飾られている壁を見る。作品の一つ一つにはタイトルはないことに気がつく。これは稲越氏のプライベートな写真へのこだわりなのだろう。タイトルがないことで、写真そのものへの回帰を促しているように思えてくる。
写真は記号論でみたとき、表象が無く指向性のみの特殊な記号だという言説に、僕は一般論として賛同する。つまり、僕らが愛する人が写っている写真を見るとき、その写真を見ているのではなく、実際はその写真が指し示す愛する人を見ているのだ、ということだ。それであれば、この写真に写っている愛する人は何なのかということになる。ロランバルトはそれを「それはかつてあった」と呼んだ。
稲越功一氏の写真集に「meet again」(1973年)があり、今回の写真展にも作品が飾られていた。その作品群はどれも一見したところ焦点があっていない、しかも写っている対象の多くは人の部位となっている。例えば、腕時計を触る手、ポケットに入れている手、ボール、などだ。写真家にとって、カメラを向ける先の何に焦点をあてるのかは、何を写真で表現するかの要となる。逆に言えば、稲越功一氏の焦点がぼやけているかのような写真群は、表現自体を焦点をぼかすスタイルをとることで、なおかつ人の部位のみ載せることで、写真が指し示す対象を曖昧にさせ、その写真自体に指向性が留まる効果を与えているのではないかと思う。
ただ「meet again」の写真群はそれだけでもない。あらためて見ると、写真のそれぞれに、写真を引き裂く亀裂が撮し込まれている。その亀裂の幅は太いものもあれば、線のように細いものもある。また色も黒だったり白だったりする。おそらく現像時に稲越氏が意図的に挿入させたものだろう。
もしかすれば、焦点が定まっていないと思ったのは誤りだったのかもしれない。ふとそんな気がしてくる。仮に、「meet again」の写真一枚一枚が、何らかの写真の一部の拡大とした場合、極限まで拡大すれば、あたかも焦点がぼけているように見えることだろう。そしてこれ以上拡大すれば写真として成立しない点、つまり写真としてぎりぎりの写真、それらがこれらの写真なのではないだろうか。
写真として成立するぎりぎりの写真、写真を分断するかのような亀裂、それらのスタイルは、見る者を戸惑わせる。焦点が定まらぬ写真は観客の焦点に影響を与えるのだ。そして観客自身が、自らの中の記憶の断片に焦点をあてなくてはならなくなる。写真の対象として、どこにでもあるもの、どこにでもある風景、が選ばれているため、その傾向は強まることだろう。観客の中でその写真は再構築される。それは写真の本質への反抗のようにさえ思えてくる。
「meet again」の次の写真集である「記憶都市 東京」(1987年)も印象に残る。その写真集に載る写真は全て建物となっている。そして人は写っていない。建物の多くは木造で、建てられてから相当の年数が経っていると思われる風情がある。それらの建物に人が住んでいるかはわからないが、当然に人が住んでいた時期もあったのは間違いない。記憶都市と古い木造建築の繋がりを想像するのは容易いし、それは正しいとも思える。しかし僕がこれらの写真群をみて考えさせられたのは、写真の対象物ではない。
それらの写真の共通するスタイルは、焦点が明瞭であること、全体的にグローがかり薄いもやのような幕がおりていること、モノクロームでコントラストが強いこと、などだ。また対象となっている木造建築も、確かに古いが、だからといって特別な建築物ではない。かつてどこにでもあり、見慣れているようなそんな建物なのだ。それらの写真は、見る者がかつてその建物を知っていたかのような錯覚を持たせると思う。
2009年の今となってはどうかはわからないが、写真集が出版された1987年は、かつて知っていたと今より思わせることだろう。つまり「記憶都市 東京」も前作である「meet again」と写真家の表現の方向性は同じだと僕は思うのだ。
稲越功一氏の写真とは、写真の記号としての指向性を曖昧にすることではなく、逆に指向性を強めること、それは写真を見る者が自らの記憶の一片に向かわせること、のように僕は思う。だからこそ、あえて写真家は写真の一枚一枚にタイトルをつけてはいない。その写真の指向性を具体的に写真家が設けることは避けなければならないからだ。
しかし、それにしても稲越功一氏のモノクローム写真は美しい。全て銀塩写真だという。デジタルとの差異を述べるつもりはない。問題はそう言うことではないと僕は思うからだ。稲越氏はプライベートでエディトリアルの現場では撮すことが出来ない写真を撮ってきた。しかし、その技術の殆どはエディトリアルの現場で培われたものだ。特に現像の技術が素晴らしいと思う。「meet again」「記憶都市 東京」を含む全ての写真にそれは当てはまる。
僕はもう少しこの写真展の中に留まりたかった。モノクロームの写真に囲まれた静かな空間で、もう少し自由な想像の世界に浸っていたかった。でも閉館時間が迫っていた。外は台風が近づいている。またこの場に来るかもしれないと僕は思った。この写真展は10月12日まで続く。こういう場合、僕の予感は外れることがない。
稲越功一氏は雑誌カタログなどの書籍をデザイン的に美しく、かつ読みやすくするための、エディトリアルの写真家として活躍されてきた。つまりはその活躍の場の多くを商業的な場で行ってきたことになる。それでも、プライベートに自分が好きな写真も撮り続けてきた。今回の写真展はそのプライベートな写真、特にモノクロームの写真を中心に集めている。
僕が写真展に行った際に、鑑賞する仕方はいつも決まっている。まずは少し早めに全体を鑑賞する。次に写真展会場に大抵部屋のほぼ中央にある長椅子にすわり、そこから全体を見回す。そして写真展の雰囲気というか空気感を感じ取るように心がける。写真展は大抵は薄明で静かなので、椅子に座りながら、ぼんやりと考えることには最適なのだ。それから、また最初から今度は少し丁寧に鑑賞する。そしてまた長椅子に座りぼんやりする。そういうことを3サイクルくらいやっている。そうするとなんだかこの写真展会場と一体感みたいなものを感じるときがある。
だからといって写真展の何か真実が見えてくるというわけじゃない。そんな大それた事は少しも考えない。おそらく僕は、美術館、写真館、の会場独特のひんやりとした空気感が好きなのだ。作品にスポットライトが浴び、そこに人が立ち鑑賞している、そういう姿をぼんやりと眺めているのが好きなのだ。
稲越功一氏の作品はどれも良かったし面白かった。中央の椅子に座り、モノクロームの写真が飾られている壁を見る。作品の一つ一つにはタイトルはないことに気がつく。これは稲越氏のプライベートな写真へのこだわりなのだろう。タイトルがないことで、写真そのものへの回帰を促しているように思えてくる。
写真は記号論でみたとき、表象が無く指向性のみの特殊な記号だという言説に、僕は一般論として賛同する。つまり、僕らが愛する人が写っている写真を見るとき、その写真を見ているのではなく、実際はその写真が指し示す愛する人を見ているのだ、ということだ。それであれば、この写真に写っている愛する人は何なのかということになる。ロランバルトはそれを「それはかつてあった」と呼んだ。
稲越功一氏の写真集に「meet again」(1973年)があり、今回の写真展にも作品が飾られていた。その作品群はどれも一見したところ焦点があっていない、しかも写っている対象の多くは人の部位となっている。例えば、腕時計を触る手、ポケットに入れている手、ボール、などだ。写真家にとって、カメラを向ける先の何に焦点をあてるのかは、何を写真で表現するかの要となる。逆に言えば、稲越功一氏の焦点がぼやけているかのような写真群は、表現自体を焦点をぼかすスタイルをとることで、なおかつ人の部位のみ載せることで、写真が指し示す対象を曖昧にさせ、その写真自体に指向性が留まる効果を与えているのではないかと思う。
ただ「meet again」の写真群はそれだけでもない。あらためて見ると、写真のそれぞれに、写真を引き裂く亀裂が撮し込まれている。その亀裂の幅は太いものもあれば、線のように細いものもある。また色も黒だったり白だったりする。おそらく現像時に稲越氏が意図的に挿入させたものだろう。
もしかすれば、焦点が定まっていないと思ったのは誤りだったのかもしれない。ふとそんな気がしてくる。仮に、「meet again」の写真一枚一枚が、何らかの写真の一部の拡大とした場合、極限まで拡大すれば、あたかも焦点がぼけているように見えることだろう。そしてこれ以上拡大すれば写真として成立しない点、つまり写真としてぎりぎりの写真、それらがこれらの写真なのではないだろうか。
写真として成立するぎりぎりの写真、写真を分断するかのような亀裂、それらのスタイルは、見る者を戸惑わせる。焦点が定まらぬ写真は観客の焦点に影響を与えるのだ。そして観客自身が、自らの中の記憶の断片に焦点をあてなくてはならなくなる。写真の対象として、どこにでもあるもの、どこにでもある風景、が選ばれているため、その傾向は強まることだろう。観客の中でその写真は再構築される。それは写真の本質への反抗のようにさえ思えてくる。
「meet again」の次の写真集である「記憶都市 東京」(1987年)も印象に残る。その写真集に載る写真は全て建物となっている。そして人は写っていない。建物の多くは木造で、建てられてから相当の年数が経っていると思われる風情がある。それらの建物に人が住んでいるかはわからないが、当然に人が住んでいた時期もあったのは間違いない。記憶都市と古い木造建築の繋がりを想像するのは容易いし、それは正しいとも思える。しかし僕がこれらの写真群をみて考えさせられたのは、写真の対象物ではない。
それらの写真の共通するスタイルは、焦点が明瞭であること、全体的にグローがかり薄いもやのような幕がおりていること、モノクロームでコントラストが強いこと、などだ。また対象となっている木造建築も、確かに古いが、だからといって特別な建築物ではない。かつてどこにでもあり、見慣れているようなそんな建物なのだ。それらの写真は、見る者がかつてその建物を知っていたかのような錯覚を持たせると思う。
2009年の今となってはどうかはわからないが、写真集が出版された1987年は、かつて知っていたと今より思わせることだろう。つまり「記憶都市 東京」も前作である「meet again」と写真家の表現の方向性は同じだと僕は思うのだ。
稲越功一氏の写真とは、写真の記号としての指向性を曖昧にすることではなく、逆に指向性を強めること、それは写真を見る者が自らの記憶の一片に向かわせること、のように僕は思う。だからこそ、あえて写真家は写真の一枚一枚にタイトルをつけてはいない。その写真の指向性を具体的に写真家が設けることは避けなければならないからだ。
しかし、それにしても稲越功一氏のモノクローム写真は美しい。全て銀塩写真だという。デジタルとの差異を述べるつもりはない。問題はそう言うことではないと僕は思うからだ。稲越氏はプライベートでエディトリアルの現場では撮すことが出来ない写真を撮ってきた。しかし、その技術の殆どはエディトリアルの現場で培われたものだ。特に現像の技術が素晴らしいと思う。「meet again」「記憶都市 東京」を含む全ての写真にそれは当てはまる。
僕はもう少しこの写真展の中に留まりたかった。モノクロームの写真に囲まれた静かな空間で、もう少し自由な想像の世界に浸っていたかった。でも閉館時間が迫っていた。外は台風が近づいている。またこの場に来るかもしれないと僕は思った。この写真展は10月12日まで続く。こういう場合、僕の予感は外れることがない。
2008/10/07
眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った
右目に眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った。出血は右目の視界の半分を曇らせ、かつ見る物を歪ませた。眼科医で診察を受け、出血の原因は眼からのものではないと言われた。眼の曇りから網膜剥離を想定していたので、医者のその言葉は意外だった。多くは高血圧もしくは糖尿病が原因なのだそうだ。そういえば昨年の定期健診で血圧が高いと言われたことを思い出す。実は最近まで血圧が低い方だと思い込んでいた。かつて血圧が低く保険に入るのに苦労した。血が薄いと言われ赤十字の採血を拒まれたこともある。だから、血圧が高いと言われたとき、自分への思いと医者からの言葉とが一致せず多少混乱したのも事実だ。糖尿病を現す数値は今まで出たことがない、そうであればこの眼底出血は高血圧が原因の一つであるのは間違いない。昨年の定期健診で血圧が高いと言われてから、それまでに時折訪れる身体の不調が高血圧の症状と繋がり、多少ながら自覚していたせいか眼科医が言う原因の幾つかの中で、僕は漠然とそう信じた。
眼からの情報量は約80%だと聞く。右目の下半分の視界が損なわれている僕は、つまりは約20%の情報量が失われていることになる。でも実感としてはそういうものではない。私の見える世界は以前とほぼ変わらぬ世界である。ただ全く同じというわけではないし、右目だけで見れば、曇りと歪みとで近くの人の顔さえ判別不能な状態である。左目からの映像と合わせることで、脳内で補正をかけて以前と変わらぬ像を描いているのだろう。しかし静止視力は以前と比べ著しく落ちた。強いてカメラレンズに例えれば、僕が見る世界は絞りを開放した世界に近い。大げさに言えば、焦点が定まったものは確かに見えるか、その他はぼけて見える、そういう感じである。だからか、この眼で見る世界は以前と比べとても美しい。
僕の眼が眼底出血という「病気」に罹ったと言えるのは、眼底出血前の状態、つまりは欠損前の状況を把握・記憶しているからだ。さらに眼科医から見せられた激しい出血の跡を示す眼底写真。だから僕は医者から処方された薬を毎日飲み、してはいけないと注意されたことを守る。しかし僕はこの眼の状態をどこかで「病気」であるとは考えてはいない。確かに眼底出血の為に、バイクに乗るのは控えているし、仕事でのPC作業は疲れる、次第に読書時間は減っていったし、なによりもカメラのファインダを左目で見ざるを得ず慣れるのに苦労している。でも僕は現在のこの眼で世界を見、そして感じている、そしてそのこと自体に欠損は少しもない、世界に欠損がないように。性能低下はあるが見えるという機能的な事を言っているわけではない。逆に言おう、今回のことで僕は「見ると言うこと」に以前と比べ少し意識するようになった。
カメラでピントが激しくずれた写真を眺めたとき、僕は人間の眼では捉えられない世界が確かにあると思ったことがある。ピントが合っていない写真、ぶれて対象が何重にもながれている写真、歪んで写っているものが判別不能な写真、それらは僕らの世界に確かに存在する「もの」の姿を現していた。その時、僕にとってカメラは人間の眼では見ることができない「もの」の姿を写す道具だった。人間が見える世界は、人間にとっていわば都合のよい世界なのだ。カメラで捉える失敗とされた無数の写真のように、光を捉える時間と静止しない視点、さらに光の波長を読み取る幅により、そこに在る「もの」の姿は人間の現実を簡単に超えてしまう。
左目による脳内の補正は、僕の過去の経験を根拠にしているのだろう。こうあるべきだ、という世界。それとも僕の脳は人間にとって在るべき世界を知っているのだろうか。そしてその世界を僕の右目は拒否しようとしている。時折感じる右目の違和感は、まるで失敗とされた写真と同様に、右目からの世界も受け入れるべきだと僕に訴えているかのようだ。
眼からの情報量は約80%だと聞く。右目の下半分の視界が損なわれている僕は、つまりは約20%の情報量が失われていることになる。でも実感としてはそういうものではない。私の見える世界は以前とほぼ変わらぬ世界である。ただ全く同じというわけではないし、右目だけで見れば、曇りと歪みとで近くの人の顔さえ判別不能な状態である。左目からの映像と合わせることで、脳内で補正をかけて以前と変わらぬ像を描いているのだろう。しかし静止視力は以前と比べ著しく落ちた。強いてカメラレンズに例えれば、僕が見る世界は絞りを開放した世界に近い。大げさに言えば、焦点が定まったものは確かに見えるか、その他はぼけて見える、そういう感じである。だからか、この眼で見る世界は以前と比べとても美しい。
僕の眼が眼底出血という「病気」に罹ったと言えるのは、眼底出血前の状態、つまりは欠損前の状況を把握・記憶しているからだ。さらに眼科医から見せられた激しい出血の跡を示す眼底写真。だから僕は医者から処方された薬を毎日飲み、してはいけないと注意されたことを守る。しかし僕はこの眼の状態をどこかで「病気」であるとは考えてはいない。確かに眼底出血の為に、バイクに乗るのは控えているし、仕事でのPC作業は疲れる、次第に読書時間は減っていったし、なによりもカメラのファインダを左目で見ざるを得ず慣れるのに苦労している。でも僕は現在のこの眼で世界を見、そして感じている、そしてそのこと自体に欠損は少しもない、世界に欠損がないように。性能低下はあるが見えるという機能的な事を言っているわけではない。逆に言おう、今回のことで僕は「見ると言うこと」に以前と比べ少し意識するようになった。
カメラでピントが激しくずれた写真を眺めたとき、僕は人間の眼では捉えられない世界が確かにあると思ったことがある。ピントが合っていない写真、ぶれて対象が何重にもながれている写真、歪んで写っているものが判別不能な写真、それらは僕らの世界に確かに存在する「もの」の姿を現していた。その時、僕にとってカメラは人間の眼では見ることができない「もの」の姿を写す道具だった。人間が見える世界は、人間にとっていわば都合のよい世界なのだ。カメラで捉える失敗とされた無数の写真のように、光を捉える時間と静止しない視点、さらに光の波長を読み取る幅により、そこに在る「もの」の姿は人間の現実を簡単に超えてしまう。
左目による脳内の補正は、僕の過去の経験を根拠にしているのだろう。こうあるべきだ、という世界。それとも僕の脳は人間にとって在るべき世界を知っているのだろうか。そしてその世界を僕の右目は拒否しようとしている。時折感じる右目の違和感は、まるで失敗とされた写真と同様に、右目からの世界も受け入れるべきだと僕に訴えているかのようだ。
2007/05/07
鎌倉の海
連休中に急に海の写真を撮りたくなった。その思いは突然に僕の中に沸き上がった。
その時、近くの公園の様子でも撮りに行こうと僕は表に出たばかりであった。
空は青く、風は心地よい。僕は交差点で、公園を目の前にして真っ青な空を見上げた。
空の青さから海の青さを連想したわけでもない、甘い花の香りから潮風が恋しくなったわけでもない。
ただ、どうしようもなく僕は、今日これから海辺に立って海風に当たるプランを素敵に思ったし、それを実行したいと思った。
そして僕は海に向かった、というわけだ。
鎌倉の海に着いたのは午後の2時頃だったと思う。浜辺には思った以上に人がいて、それぞれに楽しんでいる。
浜辺以上に、海ではウィンドサーフィンを楽しむ人たちがいて、浜辺から見ると、それらの帆の色の鮮やかさが、海の色、空の色に映えてとても美しい。
海風は強く、上空ではカラスと海鳥が凧のように漂っている。
沢山の写真を撮った、でもそれらは写すと同時に、結果として良い写真でもないのがすぐに伝わる。
いつもの写真サイト(Flickr)に投稿しようとは思えない一連の写真。
写ったものは、鎌倉の海だけではない、僕の気持ちもどうしようもなく顕れている。
僕はカメラの液晶で絵を確認しながらそう思う。
しばらくして、 僕は海の写真を撮るのをやめる。おそらく計画のどこかで僕は間違ったのだ。
僕はこのような写真を撮りたいと願ったわけではない。
でも今日は、現在の僕は、こんな写真しか撮れない。
それは構図とか、露光とか、そういった技術的な問題ではない。
どうしようもなく僕の目は、周りの風景に写真を見つけてしまうのだ。
世界が写真に満ちあふれているのであれば、写真を撮る意味などどこにあろうか。
久しぶりの海だった。それはそれで楽しい思い出ではある。
ただその思い出は、これら一連の写真によってしか喚起されない記憶に成り果てることも間違いない。
僕は海の写真を撮りにここまで来て、そして失敗したというわけだ。
しばらく浜辺に坐り、ただ海を眺め続けた。
遠くで子どもの歓声か聞こえる。そして同時に母親の笑い声も。
幾分幸せな気持ちになる。
三浦半島の山間を抜けて僕は帰った。
所々に小さな畑があり、そこには色とりどりの小さな花が咲いていた。
空はどこまでも青い。雲は遠くの憧れのように、ゆっくりと流れていく。
道が二つに分かれている。僕はまっすぐを選んだ。
風が一段と強く吹いた。
その時、近くの公園の様子でも撮りに行こうと僕は表に出たばかりであった。
空は青く、風は心地よい。僕は交差点で、公園を目の前にして真っ青な空を見上げた。
空の青さから海の青さを連想したわけでもない、甘い花の香りから潮風が恋しくなったわけでもない。
ただ、どうしようもなく僕は、今日これから海辺に立って海風に当たるプランを素敵に思ったし、それを実行したいと思った。
そして僕は海に向かった、というわけだ。
鎌倉の海に着いたのは午後の2時頃だったと思う。浜辺には思った以上に人がいて、それぞれに楽しんでいる。
浜辺以上に、海ではウィンドサーフィンを楽しむ人たちがいて、浜辺から見ると、それらの帆の色の鮮やかさが、海の色、空の色に映えてとても美しい。
海風は強く、上空ではカラスと海鳥が凧のように漂っている。
沢山の写真を撮った、でもそれらは写すと同時に、結果として良い写真でもないのがすぐに伝わる。
いつもの写真サイト(Flickr)に投稿しようとは思えない一連の写真。
写ったものは、鎌倉の海だけではない、僕の気持ちもどうしようもなく顕れている。
僕はカメラの液晶で絵を確認しながらそう思う。
しばらくして、 僕は海の写真を撮るのをやめる。おそらく計画のどこかで僕は間違ったのだ。
僕はこのような写真を撮りたいと願ったわけではない。
でも今日は、現在の僕は、こんな写真しか撮れない。
それは構図とか、露光とか、そういった技術的な問題ではない。
どうしようもなく僕の目は、周りの風景に写真を見つけてしまうのだ。
世界が写真に満ちあふれているのであれば、写真を撮る意味などどこにあろうか。
久しぶりの海だった。それはそれで楽しい思い出ではある。
ただその思い出は、これら一連の写真によってしか喚起されない記憶に成り果てることも間違いない。
僕は海の写真を撮りにここまで来て、そして失敗したというわけだ。
しばらく浜辺に坐り、ただ海を眺め続けた。
遠くで子どもの歓声か聞こえる。そして同時に母親の笑い声も。
幾分幸せな気持ちになる。
三浦半島の山間を抜けて僕は帰った。
所々に小さな畑があり、そこには色とりどりの小さな花が咲いていた。
空はどこまでも青い。雲は遠くの憧れのように、ゆっくりと流れていく。
道が二つに分かれている。僕はまっすぐを選んだ。
風が一段と強く吹いた。
2007/03/26
「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 写真を撮ると言うことについて
「PHOTO IMAGING EXPO 2007」に行った時のことを語ろうと思う。内容は主に写真を撮るという「行為」に偏るかも知れない。でもそれは致し方がない。何故なら僕自身が写真を始めた動機がそれについて知りたいと思ったからだ。
展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。
現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。

と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、それを期待しているかのような行動をしていることだった。
発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。

彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている)によって、企業の宣伝効果は高まる。
それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・
アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。
コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。

おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。
それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。
写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。

例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット)し続けている姿と重なったのである。
恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。
目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。
そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。

消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。
スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。

僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。
展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。
現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。
と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、それを期待しているかのような行動をしていることだった。
発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。
彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている)によって、企業の宣伝効果は高まる。
それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・
アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。
コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。
おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。
それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。
写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。
例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット)し続けている姿と重なったのである。
恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。
目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。
そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。
消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。
スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。
「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、現代写真ジャーナリズムの忘れることのない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。」前者の「見ることの倫理観」を後に続く文章で無効化している。しかし、どのような場合にも「写真の方を選択する」ことへの批判的な問いを消去することは出来ない、と僕は信ずる。その写真が無思慮で身体の欲望のおもむくまま撮られた写真であっても、やはりそこには撮影者の倫理観が在るのは事実だと思うのである。そのうえで、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」での撮す者と撮される者との関係は、僕にはとても新鮮な状況として目に映ったのである。
僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。
2007/03/07
写真よ、ブレろ!
最近自分が撮ろうと思う写真は、美しさを排除したい、叙情性を排除したい、感傷を排除したい、色彩を排除したい、明るさを排除したい、空気感を排除したい、そんなことを願う。
あるがままの現実など信じない。ただ写真にあるのは写真でしかない。自分が見た色を信じない。自分の写真のピントを信じない。僕はおそらく自分の撮った写真を信じない。
帰り道になんでもない月夜を撮った。ビルとビルの狭間にある暗い道。空には煌々と光る月。写真を撮る動機こそが、僕にとって重要な問題であり、根本はそこにある。写真を撮る価値を認めない写真を撮りたい。
後々詰まらぬと自分自身が見向きもしない写真を撮りたい。それらの写真の集積に、おそらく僕は僕を見つける。商品価値のある「自分」ではなく、その真逆の自分。もっとブレろ!、意識せずに写真よブレろ!
2007/01/26
スーザン・ソンタグ「写真論」読書以前に
飯沢耕太郎氏は彼の著書「デジグラフィ―デジタルは写真を殺すのか? 」(2004年)で、デジタル画像をフィルムによる写真と区別するため、「フォトグラフィ」ではなく「デジグラフィ」と呼ぼうと提唱している。幸いなことにその言葉が一般に流布することはなかった。
タイトルに惹かれ読もうと思ったが数ページ読み本を閉じた。「デジタルが写真を殺すのか?」という副題を付けるのであれば、著者にとって「写真」の定義を明確にする必要がある。そしてその定義がデジタル化により崩される状況を読み手に説得させなかければならない。それがなければ、その刺激的な副題は単に商業的な意味しかないと判断されても致し方あるまい。無論、最後まで読み切れなかった僕が言うことではないのではあるが。
フォトグラフ(photograph)のフォト(photo)はギリシャ語の「ひかり」を意味する「φωτοs」(フォートス)を語源に持つのは知られている。写真術が、光とそれに感応する物質との化学と物理作用がその技術の根本にあることを考えれば、「光の画」を意味する言葉「フォトグラフ(photograph)」の命名は適切なのかも知れない。でもその単語「フォトグラフ」の命名が技術的な理由でのみ語られるとすれば、これはあくまでも僕の想像の域を超えてはいないのだが、単純すぎるようにも思える。
神の最初の言葉は「光(フォートス)あれ」であった。神と共に言葉 (「λογοs(ロゴス)」があり、その言葉から「光 φωτοs(フォートス)」が産まれる。ヨハネ福音書では神と共にあった言葉 (ロゴス)と光(フォートス)にはキリストが宿っていたと語られている。写真術が開発されたとき、そしてその術が「フォトグラフ」と名付けられたとき、キリスト教圏の人びとが旧約聖書の、もしくはヨハネ福音書の言葉を意識しなかったとは僕には思えない。そして幾ばくかの神に対抗する意識が「フォトグラフ」への命名に繋がった、そういうこともあったように思える。
日本の「写真」黎明期に忘れてはならない人物がいる。下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一のことである。彼らが「写真術」に至る経緯はその後の日本の「写真」を考える際に極めて象徴的である。一人は化学者から、一人は写真師(絵師)からの転職なのである。
つまりは、日本において「写真」とは「科学的」な見方と「芸術的」な見方の双方が、時代と共にどちらかが重みを持ちながら歩んできているのだと思う。一方は、フィルム・レンズそして露出と絞りなどの化学・物理的要素に重みを置き、もう一方では構成と色と被写体深度に重きを持つ。両者とも重要ではあるが、西洋との決定的な違いは、 「フォートス」の意味に対する重みであろう。日本には幸か不幸かそういう呪縛はなかった。「写真師」の仕事に使う絵筆に変わる道具として登場し、それ故「フォトグラフ」は「写真」と訳され現在に至ることになる。
ネットワーク的な視点での写真論の登場が必要なのだと、僕は思う。そして、前段の僕の意見に矛盾するかも知れないが、少なくともソンタグの「写真論」の解釈次第で、それらも射程に入るか糸口が存在する可能性があるように、僕は思っている。
それには写真のことばかり考えている状況から脱しなければならない。そしてそれが現代の「写真家」に求められていることなのではないかと、僕には思える。つまりは人間にとって重要なモノの一つである写真の状況を堕としているのは、写真の専門家達なのだ。
タイトルに惹かれ読もうと思ったが数ページ読み本を閉じた。「デジタルが写真を殺すのか?」という副題を付けるのであれば、著者にとって「写真」の定義を明確にする必要がある。そしてその定義がデジタル化により崩される状況を読み手に説得させなかければならない。それがなければ、その刺激的な副題は単に商業的な意味しかないと判断されても致し方あるまい。無論、最後まで読み切れなかった僕が言うことではないのではあるが。
フォトグラフ(photograph)のフォト(photo)はギリシャ語の「ひかり」を意味する「φωτοs」(フォートス)を語源に持つのは知られている。写真術が、光とそれに感応する物質との化学と物理作用がその技術の根本にあることを考えれば、「光の画」を意味する言葉「フォトグラフ(photograph)」の命名は適切なのかも知れない。でもその単語「フォトグラフ」の命名が技術的な理由でのみ語られるとすれば、これはあくまでも僕の想像の域を超えてはいないのだが、単純すぎるようにも思える。
「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。」旧約聖書の創世記1章冒頭の一節である。
神の最初の言葉は「光(フォートス)あれ」であった。神と共に言葉 (「λογοs(ロゴス)」があり、その言葉から「光 φωτοs(フォートス)」が産まれる。ヨハネ福音書では神と共にあった言葉 (ロゴス)と光(フォートス)にはキリストが宿っていたと語られている。写真術が開発されたとき、そしてその術が「フォトグラフ」と名付けられたとき、キリスト教圏の人びとが旧約聖書の、もしくはヨハネ福音書の言葉を意識しなかったとは僕には思えない。そして幾ばくかの神に対抗する意識が「フォトグラフ」への命名に繋がった、そういうこともあったように思える。
神の真の光「フォートス」は、近代の技術により写真術となった。それでは「ロゴス」はいったい何になったのであろうか。写真術が開発された1839年から現在に至るまで写真が求めることは変わらない、と僕は思う。それは「ただそこに在る何か」を写し撮ることである。そしてそれにより人間が「世界」を収集しえた、現実を把握しえた、と感じ取れるまで、おそらく写真は撮り続けられるのであろう。そして写真を撮る眼差しの根本には神の眼差しが潜んでいるようにも思えるのである。
しかし日本において、写真の登場は西洋とは違っていた。江戸末期、写真術が日本に入ってきたとき、既に「写真師」と呼ばれる人たちが存在していた。明治の始まりと共に日本の近代は突然に始まったのではない。それは江戸末期から徐々に社会の変化はあったのである。
当時はちょっとした旅行ブームで、旅行代理店なども存在していたという。旅行者は、旅行する際に自分の似顔絵を細密画絵師に描いてもらった。そしてそれを「写真」と呼んだ。元々、「写生」と「写真」は中国の画論から派生した言葉であって、そこには明確な違いがあった。西洋からの「写真術」渡来により、「写真師」は徐々に絵筆からカメラに道具を変えていった。そして「写真」という言葉が残った。
「もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、道釈人物を対象とするこの 「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。」
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 ぺりかん社 編者:辻惟雄)
日本の「写真」黎明期に忘れてはならない人物がいる。下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一のことである。彼らが「写真術」に至る経緯はその後の日本の「写真」を考える際に極めて象徴的である。一人は化学者から、一人は写真師(絵師)からの転職なのである。
つまりは、日本において「写真」とは「科学的」な見方と「芸術的」な見方の双方が、時代と共にどちらかが重みを持ちながら歩んできているのだと思う。一方は、フィルム・レンズそして露出と絞りなどの化学・物理的要素に重みを置き、もう一方では構成と色と被写体深度に重きを持つ。両者とも重要ではあるが、西洋との決定的な違いは、 「フォートス」の意味に対する重みであろう。日本には幸か不幸かそういう呪縛はなかった。「写真師」の仕事に使う絵筆に変わる道具として登場し、それ故「フォトグラフ」は「写真」と訳され現在に至ることになる。
「フォートス」の意味に対する呪縛が無いことは、別の見方をすれば、日本の写真術発展史の中に、西洋における一つの革新的な意識の変化はなかったことも意味する。それが日本の今に通じる写真の状態が現れていると、僕には思うのである。つまりは、江戸後期に登場した「写真師」の延長線上に「写真家」は存在している。無論これは根拠無い僕の直観ではあるが。
飯沢氏が言うように、「デジタルは写真を殺す」ことはない、と僕は思う。もともと西洋が意識する「写真(フォートス)」はなかったのだから。世界にある数多いカメラメーカーの中で、日本のメーカーがデジタル化への移行が速やかに行われたのは、単に技術的もしくはビジネス面だけで捉えられるべきではないと思うのである。ただ、デジタル化への移行により、日本において殺されたものは確かにある、そしてその中に「写真家」が入るのは間違いないとも思っているが、大したことではあるまい。ただデジタル化により、数量面及び技術面から、写真の位置づけに大きな変化が行われ続けているのは事実だとは思う。
スーザン・ソンタグの「写真論」が捉えた射程の長さは、本評論が現在の日本における写真評論家達に与えている影響の強さを考えれば事足りる。2004年出版の書籍「写真との対話」 (近藤耕人編)の中で、「あらためてソンタグの「写真論」を読み返してみて、現代においても少しも古びていないことに驚いた」、みたいなことが書かれてあった。少なくとも誰彼の著作に関わらず写真に関する考察が日本に乏しいことは事実ではあるが、その理由として僕は前段で述べた、ソンタグの「写真論」に捕らわれ続けている日本の写真評論の現状が垣間見ることが出来る。
ただ僕が言うのは僭越ではあるが、仮にソンタグが現在に存命で活発な活動を続けていたとしたとすれば、おそらく「写真論」の内容は大きく変わったに違いない、と思うのである。それはソンタグが冒頭の語り、それがソンタグの出発点である限りに置いて、変わらずはおえない状況が現代にあるからだと僕には思える。
飯沢氏が言うように、「デジタルは写真を殺す」ことはない、と僕は思う。もともと西洋が意識する「写真(フォートス)」はなかったのだから。世界にある数多いカメラメーカーの中で、日本のメーカーがデジタル化への移行が速やかに行われたのは、単に技術的もしくはビジネス面だけで捉えられるべきではないと思うのである。ただ、デジタル化への移行により、日本において殺されたものは確かにある、そしてその中に「写真家」が入るのは間違いないとも思っているが、大したことではあるまい。ただデジタル化により、数量面及び技術面から、写真の位置づけに大きな変化が行われ続けているのは事実だとは思う。
スーザン・ソンタグの「写真論」が捉えた射程の長さは、本評論が現在の日本における写真評論家達に与えている影響の強さを考えれば事足りる。2004年出版の書籍「写真との対話」 (近藤耕人編)の中で、「あらためてソンタグの「写真論」を読み返してみて、現代においても少しも古びていないことに驚いた」、みたいなことが書かれてあった。少なくとも誰彼の著作に関わらず写真に関する考察が日本に乏しいことは事実ではあるが、その理由として僕は前段で述べた、ソンタグの「写真論」に捕らわれ続けている日本の写真評論の現状が垣間見ることが出来る。
ただ僕が言うのは僭越ではあるが、仮にソンタグが現在に存命で活発な活動を続けていたとしたとすれば、おそらく「写真論」の内容は大きく変わったに違いない、と思うのである。それはソンタグが冒頭の語り、それがソンタグの出発点である限りに置いて、変わらずはおえない状況が現代にあるからだと僕には思える。
「この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、広げたりしている。写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企画のもっとも雄大な成果は、私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。」
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 近藤耕人訳)
ネットおよびそこに展開するWEBの状況を鑑みたとき、現在において「写真」にそこまでの力があると実感は出来ない。問題なのは、その写真に辿り着くまでのアクセスなのである。アクセスへと及ぼす行為にこそ、そこにイデオロギーがあり、そして何を見たらよいのか、つまり何を知ったらよいのかを規定している。
現代においても「写真」は一つの文法であろう、でもそれはそれに付随するキャプションにより変化もする (これについてはソンタグも語っている)。でも如何に優れた写真とキャプションであっても、人に見られなければ何の意味もない。現在において文法となり、我々の倫理観を規定しているのは、日夜垂れ流されるネット上の情報であり、蓄積されネット上でいつでも参照可能な映像である、それへのキャプションとなるブログを含めた各種メディアの存在なのだと思う。
忘れていけないのは、グーグルなどのネットにおける検索システムが、展開する国家の要請によりフィルターをかけている事実である。そのフィルターは検索システムを提供する企業自体でもおこなう場合もある。例えば、二十世紀の代表的な写真の一枚である天安門事件の
「戦車を止める男」の写真は中国国内からアクセスは出来ない。無論、チベットなどへの侵攻における惨状も写真などが検索できるとは思えない。
またソンタグも言っているが、写真の意味は、常にその写真の後からついてくる。写真の意味を変えるのも国家を含めた権力であり、もしくはその時点で主流となるイデオロギーに他ならない。アクセスへの方向を左右する力とイデオロギーが意識的に結びついたとき、おそらく我々の進むべき道は、選択が与えられているかのようで実際は操作されている、そんな状況に陥るのだろう。
しかも写真自体、本来的にバイアスがかかっているものなのだと思う。しかもそのバイアスは無自覚なことが多い。写真を撮るとは、写真に撮られない現象があると言うことであり、その現象を撮さなかったということから写真家は逃れることが出来ないのだと思う。
忘れていけないのは、グーグルなどのネットにおける検索システムが、展開する国家の要請によりフィルターをかけている事実である。そのフィルターは検索システムを提供する企業自体でもおこなう場合もある。例えば、二十世紀の代表的な写真の一枚である天安門事件の
「戦車を止める男」の写真は中国国内からアクセスは出来ない。無論、チベットなどへの侵攻における惨状も写真などが検索できるとは思えない。
またソンタグも言っているが、写真の意味は、常にその写真の後からついてくる。写真の意味を変えるのも国家を含めた権力であり、もしくはその時点で主流となるイデオロギーに他ならない。アクセスへの方向を左右する力とイデオロギーが意識的に結びついたとき、おそらく我々の進むべき道は、選択が与えられているかのようで実際は操作されている、そんな状況に陥るのだろう。
しかも写真自体、本来的にバイアスがかかっているものなのだと思う。しかもそのバイアスは無自覚なことが多い。写真を撮るとは、写真に撮られない現象があると言うことであり、その現象を撮さなかったということから写真家は逃れることが出来ないのだと思う。
「さらに、忘れてならないのは、「ナショナル・ジオグラフィック」誌が創刊から8年目の1896年に、果敢な決断を下している点だろう。この年、本誌は世界の人々をありのままの姿で伝え、写真に細工を加えるようなことをしないという方針を打ち出している」
(「ナショナル・ジオグラフィック傑作写真ベスト100」 編集長 William L.Allen)
「写真に細工を加えない決断」がそこにあったとしても、数万の写真の内から編集者が選択しキャプションを付けた時点で、その写真はメディアが意図するイデオロギーを補強する部品となる。「世界の人々をありのままの姿」とは一体どういうことなのだろう、それが一つのオリエンタリズムに陥っている可能性を誰が否定できるのだろう。ナショナル・ジオグラフィック誌は確かに良質な写真を世界に送り続けている、でも僕にとってはそれはあくまでも写真の「リーダーズダイジェスト」なのである。そして、僕にとって最も恐ろしいのは無自覚な思考である。
だからといってソンタグの「写真論」が、もしくは写真について語ることに意味が無いとも思わない。逆に各先達者を踏まえて、現状における「写真の考察」を新たに行う必要があると思っている。そして、そこに考慮を加えるとすれば、ソンタグの活躍した時期には想像も出来ないほどのデジタルカメラの普及だと思う。デジタルカメラはあらゆる道具に装着可能であって、携帯電話に付いたデジタルカメラはネット上の一つのノードとなり空間を瞬時に無効化する。
ネットワーク的な視点での写真論の登場が必要なのだと、僕は思う。そして、前段の僕の意見に矛盾するかも知れないが、少なくともソンタグの「写真論」の解釈次第で、それらも射程に入るか糸口が存在する可能性があるように、僕は思っている。
冒頭に戻るが、「デジタルは写真を殺すのか?」という質問は適切ではない。そもそも現代の日本に置いて「写真」を語ることに意味があるのかという質問の方が、写真評論にとっては重要なのだと僕には思える。しかし現在でも写真評論家は、写真専門誌上で「写真」だけを語る。彼等の射程の短さは、単に「写真」が人間の趣味の一つとしてしか、その位置が許されていないかのようである。故に「写真論」は現在の日本では全く浸透していない結果となってしまったとも思えるのである。
「写真の考察」をなおざりにしてきた日本の現状が、諸外国の各著作者達の「写真論」の邦訳が滞っていることにも現れている。2004年出版の書籍「写真との対話」(近藤耕人編)で中心となるのは、ベンヤミン、バルト、ソンタグの写真論御三家でしかない。そしてその中での対談で、写真家畠山直哉氏は語る。写真家の存在自体が無くなっているのではないかと。求められているのは、現代に即した、新たな写真への考察であり、その理論に基づき撮された写真なのである。
「写真の考察」をなおざりにしてきた日本の現状が、諸外国の各著作者達の「写真論」の邦訳が滞っていることにも現れている。2004年出版の書籍「写真との対話」(近藤耕人編)で中心となるのは、ベンヤミン、バルト、ソンタグの写真論御三家でしかない。そしてその中での対談で、写真家畠山直哉氏は語る。写真家の存在自体が無くなっているのではないかと。求められているのは、現代に即した、新たな写真への考察であり、その理論に基づき撮された写真なのである。
それには写真のことばかり考えている状況から脱しなければならない。そしてそれが現代の「写真家」に求められていることなのではないかと、僕には思える。つまりは人間にとって重要なモノの一つである写真の状況を堕としているのは、写真の専門家達なのだ。
この拙い記事は、僕が写真のことを考える出発点にする思いで書いている。だから僕が「写真の考察」を行う際の問題とする面をあげ、僕なりの答は殆ど書いていない。「何故写真を語ることに意味があるのか」という問いに対してもなおざりにしたままだ。ただ「見る」と
「知る」はギリシャ語では語源を同じにすると言うことと、「知る」ことが人間の「活動」の元だと思うのである。それに写真とは、それを人に見せた段階で多かれ少なかれ政治的なものに変化するのだとも僕は思う。答えになっていないが、出発点としてはそれで十分だろう。
2007/01/20
捨てられるから良いんです
近くの公園には梅林があり、ちらほらと花が咲き始めた。その中でも桃色の梅は花が早い。殆ど満開状態となっている。小正月が終わったばかりだというのに、梅花は春の到来が確実にくることを僕に教えてくれる。
見ると年の頃60代と思える婦人が、両手でデジカメを持ち、背伸びをし少しでも梅花に近づこうとして写真を撮っていた。僕はその姿を写真に撮る。するとそれに気が付いたのか、婦人が僕の方に振り向く。少し目線が合う。そして僕の方に近づき話しかけてきた。
「梅はどうやって撮れば良いんでしょうか?」
質問の意味がわかるのに数秒かかった。どうやら梅花を撮っても画面全体が暗くなり、自分が思ったイメージにならないようだった。
「日を背にして、日が当たる梅の花を撮られると良いと思いますよ」、と答える。彼女はふむふむと聞いている。
きっとデジタルカメラを購入したばかりなのだ、そんなことを僕は推察する。続けて彼女は僕のカメラを見て、 「私も以前はフィルムのカメラを使っていたんです。でも今はこれ。写ったものが捨てられるから良いんです」と話してきた。
「あ、これもデジタルカメラなんですよ」、と僕は答える。その答えに彼女は驚き、そして「ああ、今はこういうデジタルカメラもあるんですねぇ」と感心する。
それからはお互いのカメラ談義となった。婦人のデジタルカメラは、今使っているので2代目なのだそうだ。その前はコンパクトのフィルムカメラを使っていたとのことだった。
「デジタルカメラは便利ですよね、捨てることが出来るから」、そう彼女は話す。気が付けば、彼女のカメラ談義の中で何回も 「捨てられる」という言葉が出ていた。どうやら婦人にとって、デジタルカメラの最大の利点は「画像が捨てられる」ことにあるらしい。
その意見が面白いなと思う。
話を聞いていると、どうもフィルムカメラを使っているときは、自分が気に入った写真もそうでない写真も両方とも焼き付けるので、写真だけ溜まってしまいその処置に困っていたらしい。それがデジタル化することにより、気に入らぬ写真はその場で消去できる、そのことが彼女にはとても良いことと思えるのである。
「パソコンはやられるのですか?」、と僕は聞いてみた。残念そうに彼女は首を横に振る。「もうこの歳では無理です」
「そんなことはないですよ」、と僕は言いながら、確かに今のパソコンのマンマシンインターフェースは、ある意味、老齢を迎えられている方々には優しくないだろうなとは思う。
(マンマシンインターフェースには色々と思うことがあるが、それはまた別の話)
では彼女はデジタルカメラをどのように使っているのかと言えば、デジタルカメラに差しているメモリカード(256MB)は1枚だけで、写真をある程度撮り画像が溜まれば、それを持って写真屋に行き、気に入った写真のみプリントアウトするのだそうだ。そしてその後、メモリカードの画像は全て消去する。
フィルムカメラはフィルム代・現像費・プリント料などお金がかかる。でも気に入った写真は何枚も複製が出来るという利点があった。デジタルカメラは、お金はかからないけど気に入った写真の複製が出来ない。そう彼女は語る。僕は面白いなぁと思う。
複製のしやすさ、画像の保存のしやすさ、画像管理のしやすさ、それらは一長一短はあるもののデジタル化の方に軍配が上がると僕は思っていた。それが彼女にとってはどうやら逆らしい。
どうやら彼女にとって「写真」とは、紙に焼き付けられた(もしくはプリントアウトされた)状態を言うらしい。その前の状態は「写真」とは言わない。それらは写真以前のもの、つまりはフィルムで言えばネガのような、そういう状態のようだ。そう考えれば、婦人の写真への対応の仕方には一本の筋が通っているし、パソコンを利用しないデジタルカメラの楽しみ方としては、ある意味合理的かもしれない。
婦人にとっては、フィルムもデジタルも関係ない。できあがる写真が気に入るか否かである。実を言えばその点で、僕は彼女に賛同する。さらに「写真」とは紙に焼き付けられた状態のもの、との意見にも別に異論をはさむつもりもない。
「捨てられるんです」の背景に、「捨てられなかった(プリントアウトした)」貴重な一枚の写真が見えるからである。個人が撮す「写真」とは「捨てられなかった」貴重な一枚の積み重ねにあるのかもしれない。そんなことを思う。
そのほかにも彼女から様々なことを聞いた。60代と思っていたけど、実際は70代だそうだ。夫が数年前に亡くなったこと。自宅は四国の高松であること。娘夫婦が東京に住んでいて、年の三分の二はこちらで暮らしていること。高松への往復時には必ず京都に途中下車し写真を撮りまくること。写真旅行で色々な場所に行ったこと。写真仲間の最年長で80代の方がいて、その方の写真がプロに褒められ、とても嬉しいと言っていたこと。四国に行くときは、瀬戸内海の小豆島がお奨めであること。カメラの他は手芸の趣味もあること。公園の近くに長渕 剛の邸宅が建築中であること、等々・・・。
だいたい一時間近くは話を聞いたかも知れない。でも話は面白かったし、第一僕は人の話を聞くのが大好きなのだ。
それに同じく写真が好きな僕にとって、年齢とは関係なく、彼女の話が自分に思い当たることも多かった。自分が気に入った写真を、自分の友達に見せ、同好同士が見せ合い、色々なコメントとか評価をもらう。褒められれば嬉しいに違いない。そしてそれら全てが楽しくてしょうがない。それは僕が頻繁にネットを通じてしていることと同じことでもある。
色々な人の意見を実際に試すことで、他人が喜ぶ写真が見えてくる、あとはそれと自分の感性との折り合いであろう。さらに彼女はデジタルカメラの操作を覚えたことから、携帯電話の操作、特にメールについて、違和感なく習得出来たそうである。
人生を楽しんでいるなぁ、僕は彼女の話を聞きそう思った。そしてその中心にカメラがあることが何故か嬉しかった。
2006/12/29
僕が撮りたいと望む写真
写真の一枚一枚には必ず5W1Hがついて回る。そしてそれらが写真の内容を示しているのなら、写真の一枚はどんなものであれユニークな存在でもあると僕は思う。
しかし写真は内容よりも様式(スタイル)の方が重みがあるとも僕は思う。様式を中心に見れば、僕が写す写真はどれも似たような写真に見える。しかもそれらはテクニック的に言えば、どれもこれも今までの写真の真似でもある。だからこそ、その中で自分のスタイルを確立することの難しさが見えてくる。
今から80年ほど前、「新即物主義」という美術運動があり、写真の世界も少なからぬ影響を受けた。彼らは「世界は美しい」との標語の元、様々な写真を写した。「新即物主義」の精神は、表現方法の道具としてのカメラと相性が良かったと僕は思っている。主観を廃した物の美しさへの表現はまさしく写真にとっておあつらえ向きだったにだったに違いない。
「世界は美しい」という発想は、今でも脈々と写真家の中に生き続けているように思える。ただアルベルト・レンガー=パッチュの写真集「世界は美しい」に掲載されている写真は、彼の主観を伴う美意識と構成したスタイルで貫かれている。それらを「新即物主義」の美術運動に組み込むこと自体、正直に言えば多少の抵抗が僕にはある。
さらにこれもよく言われることだが、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」からの「世界は美しい」に対する批評は、写真の対象への意味を露わにせず、またその現実さえも無視することを痛切に切り込み、未だにその力を失っていない。
僕自身が写真の内容(意味)よりスタイル重視と語る先に、「新即物主義」への再帰が当然の帰着として在るのだろうか。いやそういうことではない、おそらく写真のイズムの中にスタイルへの道程が導き出されるように思える。そしてその写真のイズムには、人間の現象界の境界線を乗り越えることは難しい。写真における新たな地平への模索は、僕にとっては悲観的なのである。おそらくそれは、新たなスタイルの構築だけではなく、人間を核とした新たなテクノロジーとネットワークを持ってしか実現可能性はないのでなかろうか。そんな気さえしている。
誰もが単純に「美しい」と思える写真ではなく、衝撃的な報道写真でもなく、それでいて人間の感性の枠を広げてくれるような写真。現有するカメラのシステムで、偶然でも良いし、一枚だけでも良いので、奇跡的な写真を撮してみたい。僕が密かに願っている事である。
2006/12/18
写真はスタイル
写真にとって一番重要な事は何かと問われれば、僕は「スタイル」であると答える。どの様なモノでも、写真家はファインダ越しに対象を捕らえるとき、スタイルを考えざるを得ない。光線の加減、構図の模索、色彩の配置、等々と写真家が考えることは多い。
写真の内容が重要視される場合でも、スタイルの重みが消えることはない。無論、写真の内容に重みが行くほど、選択するスタイルの幅は少なくなるとは思うが、決してスタイルの重みが軽くなると言うことではない。
写真に内容が求められるのは、いかなる場合だろう。例えば、親密度が高い関係の者の写真はそれに該当する。誰でも自分の愛する者の写真は、写真のスタイルの善し悪しとは関係なく、常にそれを見る者にある種の情感をもたらせる。
風景写真を内容重視でみれば、それは絵葉書に近いものになる。女性の裸体はポルノとなり、ある種の状況を撮した写真は内容重視で報道写真となる。いずれにせよ、そのスタイルは内容をより際だたせる方向となるのは間違いない。
写真は表象した世界を対象としている。よって写真のスタイルは、あくまでもその表象を崩すことには向かわない。例えば、椿の葉を撮すとき、写真家によっては葉の色をオレンジにするかも知れない、しかしその場合葉の形を変えることは殆どないだろうし、他者が撮された写真を見ても「椿の葉」であることが理解できるように配慮することだろう。
写真を撮す対象が表象した世界である限り、その枠を越えることは難しく、あくまでもスタイルは表象界の中で常識の範囲を超えることはない。Flickrなどの写真サイトで多くの人が「美しい」と感じる写真は、それ故に民族を越えて美しいと感じられることになる。
僕が写真を撮ることに熱中してからしばらく経つ。始めに興味を持ったのは「写真を撮る」という行為であった。
だから結果としての写真には、それほどの興味がなかった。ある対象を写真に撮りたいと思い、それにカメラを向ける。そしてカメラを通して対象の見つめ、色々と構図を決め、その中でピントを合わせるポイントを定める、実際にシャッターを押すかどうかは、それらの試行錯誤が、対象を見たときに抱いた朧気なイメージに近く、より具体性を帯びた内容になったと確信してからである。
スタイルが定まったとき、僕はシャッターを押す。無論、それで写真が出来たとは思えない。現像という処理が後ろに控えている。つまり、写真を撮るという行為には、写真に撮りたいという情動、その対象をどの様に撮すかの模索と確定、そして現像処理、の3つの段階が有ると言うことになる。そしてそれぞれに、写真家は「思考」と「意志」と「判断」という精神活動を行うことになる。
カメラという不思議な機械は、表象界(及びその身体性)を対象にしながら、強く精神活動にも結びついていることにあると、僕は思っている。時々僕は、「写真を撮るという行為」は「行為」もしくは「行動」と言えるのだろうかと疑問を持つ時がある。よく聞く、 「写真は対象と語りながら撮っている」という言葉、それは実際面では、一体誰と語り合っているのだろうか。
これらのことを含め、僕は写真についての思索を、時折、本ブログに書いていこうと思う。つまらぬブログで、さらにつまらぬ内容、でもカメラ、写真について、その技術面以外の話は僕にはとても大事なことのように思える。
2006/08/16
MEMO 朝顔三十六花選、服部雪斎、朝顔のことなど
朝顔には大別すると大輪と変化の二つに分けられるが、現在では朝顔と言えば殆ど大輪系となる。変化種は絶滅しそうなほど少なく、一部の植物園で保存されるのみとなっている。ただ時代と共に朝顔の流行も、大輪中心と変化中心を繰り返していて、いずれは変化が流行る可能性もあるかもしれない。最近花屋で花部が桔梗型の朝顔が売られているのを見かけ、新鮮な印象を持った。
朝顔は熱帯・亜熱帯地域に原生する植物なので、それらの地域には様々な朝顔の仲間達がいるのも知っている。しかし、黄色い朝顔というのは未だ見かけたことがない。何故黄色い朝顔の話をするかと言えば、江戸時代後期に変化朝顔が流行ったときに、黄色の朝顔が図鑑に載っているのを見かけたからだ。その図鑑とは「朝顔三十六花選」である。
国会図書館のサイトに様々な図版が掲載されている(ギャラリー)のをご存じの方も多いと思う。その中の一つに「江戸時代の博物誌」というコーナーがあり、そこの「第二章 独自の園芸の展開」に載っていた。
この黄色い朝顔を読み解いてみる。黄色い朝顔の画のページ左上に朝顔の名称が書かれている。「変化渦南天葉極黄菊○○切牡丹度サキ」とある。朝顔の名称は、見方としては、交配した遺伝子の組み合わせの名称でもある。
朝顔、特に変化朝顔については次のサイトにで画像として参照することが出来る。
その本によると、維新後、幕府体制下での庇護を離れ、市井の絵師として市ヶ谷に住んだ雪斎は、自らの職業を「写真画」と称したらしい。「写真」という言葉について、本では次のように語る。
江戸と明治の両時代をまたがって雪斎は活躍した。おそらく彼も、画に対する人々の眼差しの変化を、双方の時代の違いとして、感じ取ったことだろう。雪斎がフォトグラフィーとしての写真の存在を知っていた可能性は高い。もしかすれば直に写真を見たこともあるかもしれない。そして、当時の写真技術レベルであれば、自分が描く画と較べ精度の面で、自分の技能の方が優れていると思ったことだろう。しかし、その写真機械の可能性は感じ取ったはずだと僕は思う。
朝顔は熱帯・亜熱帯地域に原生する植物なので、それらの地域には様々な朝顔の仲間達がいるのも知っている。しかし、黄色い朝顔というのは未だ見かけたことがない。何故黄色い朝顔の話をするかと言えば、江戸時代後期に変化朝顔が流行ったときに、黄色の朝顔が図鑑に載っているのを見かけたからだ。その図鑑とは「朝顔三十六花選」である。
国会図書館のサイトに様々な図版が掲載されている(ギャラリー)のをご存じの方も多いと思う。その中の一つに「江戸時代の博物誌」というコーナーがあり、そこの「第二章 独自の園芸の展開」に載っていた。
「アサガオは文化末年から文政初年と弘化末年から文久初年の2回のブームを呼びました。この資料は弘化末年にはじまる第二次ブームの頃のもので、当時主役だった奇妙な形態の花や葉をもつ「変化朝顔」の数々が描かれています。なかにはアサガオとは思えない姿をした花もあります。当時は黄色い花をつけるアサガオもありましたが、現在では失われてしまっています。著者の「万花園」は幕臣の横山正名の号で、図は服部雪斎によるものです。もっとも優れた朝顔図譜といわれ、書名のとおり、36品を所収しています。」その黄色い朝顔の図版はおそらくこれだと思う。
(国立国会図書館 「朝顔三十六花選」の説明文を引用)
確かに朝顔らしからぬ姿をしている。しかし考えようによっては、現在の朝顔も、突然変異(例えば色など、原生は青一色)と品種改良 (花部の直径、原生は小振り)により今の姿になったわけで、おそらく原生種の姿とはかなり異なると思う。
さらに、「朝顔の姿とは何か」の問いに、原生種の姿を求めるのは、何かしら純血主義的な感を持ち、個人的には好まないのもある。生物は、勿論人間も含めて、持続する為に変化していくものだと思うのだ。
この黄色い朝顔を読み解いてみる。黄色い朝顔の画のページ左上に朝顔の名称が書かれている。「変化渦南天葉極黄菊○○切牡丹度サキ」とある。朝顔の名称は、見方としては、交配した遺伝子の組み合わせの名称でもある。
「渦」とは葉の文様の事で、後の「南天葉」にかかる。「南天葉」とは1枚の葉が3つに大きく切り分けられた葉を言う。「極黄」とはおそらく色を示すのではないかと思う。「切」とは花が切れて別れているものをいう。そして「牡丹」とは、まさしく牡丹のような花の形であること、「度サキ」とは二重に咲いている花であることを示す。
朝顔の専門家に言わせると、「朝顔三十六花選」の中で一番の変わりものは、最後のページにある花だそうだ。名称は、「孔雀変化林風極紅車狂追泡花真曼葉数○生」と書いてある。ここまで来れば僕などが読み解くのは難しい。
朝顔、特に変化朝顔については次のサイトにで画像として参照することが出来る。
- アサガオホームページ
(変種朝顔 約1000種の画像参照)
- アサガオ画像データベース
(研究目的であれば画像の利用可能)
- 貝の図譜 「目八譜」
(目と八を組み合わせる貝になる事と、人が傍らから見る事を「八目」と言うことから)
- 食用となる鳥の図譜 「華鳥譜」
(華の字を分解すると、六つの十と一つの一からなる、61種類の鳥の図譜)
- 虫の図譜 「千蟲譜」
- フクロウの図譜 「錦○禽譜」
(○はあなかんむりの「くぼみ」、音読みは「カ」)
- 「写生帖」
- 「写生物類品図」
- 「本草図譜」
- 「雪斎写生草木鳥獣図」
その本によると、維新後、幕府体制下での庇護を離れ、市井の絵師として市ヶ谷に住んだ雪斎は、自らの職業を「写真画」と称したらしい。「写真」という言葉について、本では次のように語る。
もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、道釈人物を対象とするこの「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)
違う単語同士で同じ意味を持つ言葉はあるが、それぞれの言葉は生活の中で、微妙なニュアンスの違いにより使い分けられているように思う。「写真」と「写生」の違いは、後に「写真」がフォトグラフィーの訳語にのみ使われる経緯により、その両者の違いをうかがい知ることが出来る。
雲停とは雪斎と並び称される博物誌画家 関根雲停(せきねうんてい)である。特に本領は動物画で、その絵は動きに溢れ、「静」の雪斎、「動」の雲停と言われた。幕末から明治初期にかけては、下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一といった職業的な「写真師」がすでに活動していた。雲停や雪斎らが博物図譜のために動植物の「写真」をしていた頃には、すでに「写真」は別の意味をもち始めていたのである。
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 (ぺりかん社 編者:辻惟雄)から引用)
雪斎の写真画は、現在で言うところのアートではない、と僕は思う。ここで言うアートとは、詩人リルケが語る 「個人の感覚の領域を拡げるため」の機能としての道具、それはまさしくスーザン・ソンタグが60年代後半にアートに対し述べたもの、とした意味と捉えての話である。
無論、現代の尺度で雪斎の画を計るのはフェアではない。しかし同様の評価は、明治になり、彼の博物誌画以外の作品に対し与えられているのである。維新以前は絵に対し、そのような見方をする者はいなかった。
江戸と明治の両時代をまたがって雪斎は活躍した。おそらく彼も、画に対する人々の眼差しの変化を、双方の時代の違いとして、感じ取ったことだろう。雪斎がフォトグラフィーとしての写真の存在を知っていた可能性は高い。もしかすれば直に写真を見たこともあるかもしれない。そして、当時の写真技術レベルであれば、自分が描く画と較べ精度の面で、自分の技能の方が優れていると思ったことだろう。しかし、その写真機械の可能性は感じ取ったはずだと僕は思う。
誰が撮影したにせよ、フォトグラフィーとしての写真には権威が既にある。図譜が明治の体制の中で博物誌と呼ばれ、知識の中央集権化が進む中で、当然に権威が求められる博物誌が、画からフォトグラフィーとしての写真へと移行するのは当然とも言える。
江戸後期は「見たまま」を忠実に写生する要請が強くなっていった時代でもある。そしてその要請に応えたのが、高度に発達した木版技術であり、雪斎らのような写真画達であった。しかし、彼等の時代は化学反応による写真の登場と、その急激な発達により、日本の美術史の中から早々に消えてゆくことになる。
僕は、何故だか理由はわからないが、国立国会図書館のギャラリーの多くの博物誌の中で、雪斎の作品が特に印象に残った。彼の画は、自己主張が殆ど無い。描く対象を、誰が見てもそれとわかるように、構図及び彩色に気を配っている。そして、だからこそ博物誌画家としての自尊心の高さが、逆に僕には見えるのである。
服部雪斎は明治21年 (1888) 以降の消息はつかめていない。忽然とではなく、近代以前から近代への歩みの中で、徐々にスライドが新たな画面へと切り替わるように、彼もまた徐々に消えていった。そんな風に思える。
2006/07/16
写真と遺影
従兄弟の遺影をじっと見つめていると、彼の娘さんが僕の側に来てささやく。
「良い写真でしょ」
僕は黙って頷く。一人で写っている写真が見あたらなくて、孫のお宮参りの記念写真を引き伸ばしたのだそうだ。どうりで少しはにかんだ嬉しそうな表情をしている。その時の従兄弟のことを想像し少しだけ微笑む。
遺影として生前の写真を飾るようになったのはいつの頃からだろうか。写真の普及と共にそれは広まったにせよ、そこには身体の中で特に顔を重視する眼差しと、写真が持つ何かが結びついたと僕には思える。
無論ソンタグは亡き人の写真を特定して述べているわけではない。でも僕が従兄弟の遺影をみて感じたことは、もう時を刻むことがない彼と、写真に撮された彼が、同質であるような、そんな奇妙な感覚であった。
人は遺影を見て、今は亡き人の面影を偲ぶと同時に、 凍結された写真の時間から喪失感を感じるのだと思う。遺影を見る人が、亡き人と関係が近ければ近いほど、 自身の記憶を呼び起こすことにもなり、浮かび上がった喪失感を感傷へと変質させていく。それは喪失によってぽっかりと空いた穴を埋めるというのでなく、逆に穴を日常の状態に置いたままにする、ということのように思える。
遺影として使われる写真は、多くの場合、初めは斎場に飾られることを目的にして撮影されたものではないだろう。例えばそれは様々なイベントの一つの記念であったり、旅行などの記録であったり、に違いない。でも一度遺影として使われると、その写真の意味と、向けられる眼差しは変わることになる。
遺影は家のどこかに常時飾られ、訪れた人は、撮された人物を見知っているか否かに係わらず、興味深く眺めることだろう。それは遺影に写った人がかつては確かに存在したという証でもあるが故に、凍結された写真の時間と今実際に眺めている時間の大きな隔たりを見いだすことでもある。
かつて彼はここにいた。そして今はもういない。
人が重大で悲惨な病気だと感じるとき、患者の容姿の、特に顔の変貌の強さに驚くときだと僕は思う。かつてのふくよかな生気に満ちた顔が、青白く、頬が痩せこけ、目は落ち込み、別人の様相を呈しているのを見たとき、人は声を失い、患者が抱え込んでいる病いが重大であることを意識する。
また愛する者に死が訪れるとき、その死が苦痛も恐怖もない、「安らかな死」 であることを祈る。実際はその死が安らかであるか否かを他者は知ることが出来ない。でも「死に顔」がまるで「眠っている」 かのような顔であれば、人は悲しみの中で僅かな救いをそこに見いだすのだと僕は思う。
近代で身体にどれほど考察を加えようと、未だに顔は別格となっている。主に遺影として現れる姿は、顔が全体のほとんどを占める。遺影とは顔の写真ということであり、それは顔がその人の総てを現しているという認識でもある。
遺影に使われる写真は元気だった頃の写真を使う。誰も死に瀕した状態の姿を遺影にはしない。穏やかな表情、もしくは楽しげに笑っている表情、どれもが良い表情をしている。しかし送葬の式場に集まる中で、それぞれの時間の中で過ごす人達の中で、遺影に撮された人の時間だけが既に刻むことはないのである。それを遺影という以前に、写真そのものが、それを見る人達に意識させるのだと僕は思う。
遺影が広まったのは写真技術の普及と共にだが、これはある意味自然なことだった、と僕は思う。今では、遺影に写真以外の技術を使うことも可能ではあるが、しかし写真以上に繋がりと喪失を感じさせるとも思えないのである。
「良い写真でしょ」
僕は黙って頷く。一人で写っている写真が見あたらなくて、孫のお宮参りの記念写真を引き伸ばしたのだそうだ。どうりで少しはにかんだ嬉しそうな表情をしている。その時の従兄弟のことを想像し少しだけ微笑む。
遺影として生前の写真を飾るようになったのはいつの頃からだろうか。写真の普及と共にそれは広まったにせよ、そこには身体の中で特に顔を重視する眼差しと、写真が持つ何かが結びついたと僕には思える。
「いまはまさに郷愁の時代であり、写真はすすんで郷愁をかきたてる。写真術は挽歌の芸術、たそがれの芸術なのである。写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる。醜悪な被写体もグロテストなものも、写真家の注意で威厳を与えられたために感動を呼ぶものになる。美しい被写体も年とり、朽ちて、いまは存在しないがために、哀愁の対象となるのである。写真はすべて死を連想させるものである。写真を撮ることは他人の(あるいは物の)死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、写真に撮られたものはすべて今は存在しないものであるが故に哀愁を帯びる、というソンタグの言葉が特に具体性を持つのは遺影が最たると思う。逆に言えば、人物のポートレイトというのはどこかで遺影に繋がっているのかもしれない。
すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。」
(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 から引用)
無論ソンタグは亡き人の写真を特定して述べているわけではない。でも僕が従兄弟の遺影をみて感じたことは、もう時を刻むことがない彼と、写真に撮された彼が、同質であるような、そんな奇妙な感覚であった。
人は遺影を見て、今は亡き人の面影を偲ぶと同時に、 凍結された写真の時間から喪失感を感じるのだと思う。遺影を見る人が、亡き人と関係が近ければ近いほど、 自身の記憶を呼び起こすことにもなり、浮かび上がった喪失感を感傷へと変質させていく。それは喪失によってぽっかりと空いた穴を埋めるというのでなく、逆に穴を日常の状態に置いたままにする、ということのように思える。
遺影として使われる写真は、多くの場合、初めは斎場に飾られることを目的にして撮影されたものではないだろう。例えばそれは様々なイベントの一つの記念であったり、旅行などの記録であったり、に違いない。でも一度遺影として使われると、その写真の意味と、向けられる眼差しは変わることになる。
遺影は家のどこかに常時飾られ、訪れた人は、撮された人物を見知っているか否かに係わらず、興味深く眺めることだろう。それは遺影に写った人がかつては確かに存在したという証でもあるが故に、凍結された写真の時間と今実際に眺めている時間の大きな隔たりを見いだすことでもある。
かつて彼はここにいた。そして今はもういない。
人が重大で悲惨な病気だと感じるとき、患者の容姿の、特に顔の変貌の強さに驚くときだと僕は思う。かつてのふくよかな生気に満ちた顔が、青白く、頬が痩せこけ、目は落ち込み、別人の様相を呈しているのを見たとき、人は声を失い、患者が抱え込んでいる病いが重大であることを意識する。
また愛する者に死が訪れるとき、その死が苦痛も恐怖もない、「安らかな死」 であることを祈る。実際はその死が安らかであるか否かを他者は知ることが出来ない。でも「死に顔」がまるで「眠っている」 かのような顔であれば、人は悲しみの中で僅かな救いをそこに見いだすのだと僕は思う。
近代で身体にどれほど考察を加えようと、未だに顔は別格となっている。主に遺影として現れる姿は、顔が全体のほとんどを占める。遺影とは顔の写真ということであり、それは顔がその人の総てを現しているという認識でもある。
遺影に使われる写真は元気だった頃の写真を使う。誰も死に瀕した状態の姿を遺影にはしない。穏やかな表情、もしくは楽しげに笑っている表情、どれもが良い表情をしている。しかし送葬の式場に集まる中で、それぞれの時間の中で過ごす人達の中で、遺影に撮された人の時間だけが既に刻むことはないのである。それを遺影という以前に、写真そのものが、それを見る人達に意識させるのだと僕は思う。
遺影が広まったのは写真技術の普及と共にだが、これはある意味自然なことだった、と僕は思う。今では、遺影に写真以外の技術を使うことも可能ではあるが、しかし写真以上に繋がりと喪失を感じさせるとも思えないのである。
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