ラベル 宮沢賢治 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 宮沢賢治 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009/08/27

宮沢賢治と猫

賢治は猫が嫌いだったという説がある。彼の詩「猫」が発端のこの説は、無論取るに足らない話である僕には思える。

詩「猫」は短い詩だ。宮沢賢治が友人宅で年老いた猫と顔を合わせたところから詩は始まる。賢治はその猫を見て「パチパチ火花を出すアンデルゼンの猫」を思う。
年老いた猫は賢治の方に歩いてくる。そして彼の「猫は大嫌い」という言葉が続く。その年老いた猫が賢治の方に歩いてくる描写がとても美しい。
「実になめらかによるの気圏の底を猫が滑ってやって来る。
(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)」
(宮沢賢治 「猫」より抜粋)
猫は賢治のそばで身繕いを始める。その姿を見た賢治は、何か得体の知れない網のようなものが猫の毛皮を覆うように感じる。その後、年老いた猫は小さく鳴いて暗闇の方に去っていく。また賢治は思う。「どう考へても私は猫は厭ですよ」と。

この詩に登場する猫はまぎれもなく現実界に存在する猫だ。そして「猫が大嫌い」という言葉とは裏腹に、猫を正確に、しかも文学的に描いているように思える。
賢治が年老いた猫の登場から去るまでの間、その猫を凝視していたのがとてもよくわかる。だからか、この詩の短さの中に、賢治の内的な時間の経過が読み取れる。
正直に言えば、僕は、この詩はそれほど優れた作品とは思っていない。ただ賢治のまなざしは的確に現実の猫の存在を捉えていたと僕は思う。

宮沢賢治の童話の中に登場する山猫を含めた猫たち。特に山猫ではなく猫が登場する童話として「猫の事務所」が知られていいる。
ただ「猫の事務所」に登場する猫たちは擬人化されていて、詩「猫」の猫とは全く違う。
擬人化は、直接に語り得ないことを、動植物を擬人化することで、そのものに語らせるための文学的手法だと僕は思う。だから、「猫の事務所」に登場する猫たちは、猫として登場するが、実際は猫ではない。

賢治の「擬人化」を多言語主義もしくは植民地主義を背景として初めて捉えたのが、西成彦「森のゲリラ宮沢賢治」だったと思う。

山猫を含め擬人化された動物たちは、日本語と、そして彼らの言葉と、複数の言葉をしゃべる。何故、彼らは複数の言語を操るようになったのか。何故、山猫は自分たちの文化を恥じなければならなかったのか。
この問いかけは、もう一つの方向もあると僕には思える。何故、複数の文化と複数の言語が単一にならなければならなかったのか。

詩「猫」に登場する猫は、賢治にとって嫌な存在として写る。(しかしそれでいて彼は猫の体の中を考えることが出来るのだ。)その年老いた猫は賢治に擬人化をさせることを許さない。それは1個の存在として賢治に対峙する。だからこそ、逆に賢治はその年老いた猫に一種畏怖に近い感情を持ち、「私は猫は大嫌ひです」となったのではないかと、僕は考える。
それはあくまでも、彼の文学的感性ゆえの言葉、詩作ならばこその言葉であったと僕には思えるのだ。

ところで、詩にある「パチパチ火花を出すアンデルゼンの猫」とは何だろう。アンデルセンの童話は絵本としても童話としても読んだが、この猫だけははっきりと思い出せない。ただ「みにくいアヒルの子」の中で、猫とニワトリの会話において、そんな猫が登場していたような記憶がある。違っただろうか。

2008/02/01

ブッシュ大統領の一般教書演説と万能細胞

最大の焦点を経済においた米国ブッシュ大統領の最後の一般教書演説で、経済以外で気になる事項が二つあった。一つは環境問題に関すること、もう一つは所謂「万能細胞」の研究促進を国是として改めて主張したことである。
「大統領は受精卵を壊さずに万能細胞を取り出せる新たな研究を「過去の論争を乗り越える突破口」と高く評価し、受精卵を使う胚性幹細胞(ES細胞)の支援法案に拒否権を発動した姿勢を大きく転換した。議会に対し「倫理上問題が大きい」とみる細胞関連の実験や研究成果の取引、特許の流用などを禁じる法整備も求めた。(2008/1/30 日経新聞)」
ES細胞の作製には受精卵を使う方法とクローン技術を応用する方法の二種類があるが、どちらの共通項は卵子を使うと言うことだろう。受精卵を使う方法のみが大きく取り上げられ、そこに「倫理上の問題」を組み込むことで「万能細胞」の研究に一定の歯止めをかけていたとも言える。皮膚から「万能細胞」が作製可能とする研究は、始まったばかりで多くのハードルがあるが、「倫理上の問題」という歯止めを取り外すことで、将来における新たな国力の礎となりえる可能性を持つことに誰も疑いを持たない。

ブッシュ大統領の演説でわかることは、「倫理上の問題」を「受精卵を壊さない」こと、さらには「人間の生殖系」に適用しないことに取り纏めたことだろう。倫理上の問題とすれば、その他にも様々な問題があるのは事実だと思う。それらを、ES細胞作製の方法としてのクローン技術の応用を無視したように、除外して「倫理上の問題」を一つにまとめた発言ともとれる。逆に言えば、ブッシュ大統領にとっても、支持基盤である保守層の意向を無視することは出来ず、しかしそれらが将来の米国における国益に対してボトルネックになりつつあると感じていたように思う。その中で新たな研究成果(iPS細胞)が発表されたので彼は飛びついたのではないだろうか。

共有する倫理問題であれば、ES細胞の研究当初より生殖系の「細胞関連の実験や研究成果の取引、特許の流用などを禁じる法整備」が行われてしかるべきだ。iPS細胞の登場によって法整備を行うとするのはどう考えても順番は逆であろう。つまりは「倫理上の問題」といっても「将来の国益」の視点からみればその程度の問題なのだ。

日本でも1月28日に万能細胞(iPS細胞、ES細胞)における生殖系研究は「当面」禁止とする方向で動いているので米国と同様である。
「iPS細胞や胚性幹細胞(ES細胞)から展開が考えられる生殖系の研究には(1)精子や卵子を作る(2)作った精子や卵子を受精させる(3)受精させた胚を子宮などに戻す、などの段階がある。研究が先行していたES細胞では、現在(1)からすべて禁止している。 文科省は、iPS細胞はES細胞のように受精卵を壊すことはないが、当面はES細胞と対応をそろえるのが妥当と判断した。(2008/1/28 朝日新聞から)」
映画「アイランド」(2005年米国)では、顧客の細胞から移植用の各臓器を作製しようと試みるがことごとく失敗する。臓器が臓器として作製されるためには器としての人間が必要だったのである。そこで科学者は顧客のクローン人間を造り一カ所に集めて管理し育てる。そこではクローン人間は人間ではなく、人間の言語を使う心臓だったり、肝臓だったり、子宮だったりとなるわけであるが、クローン人間達は自分が何者かは知らない。クローン人間達は自分たちが最終戦争の生き残りであり、最後の楽園「アイランド」に行くための準備をしているのだと洗脳されている。「アイランド」に行くことは実際は彼らの心臓・肝臓・子宮などを摘出することであり、器としての役目を終える時でもある。

iPS細胞から臓器だけの製作は将来において可能と科学者たちは語る。リセットされた細胞は特定コードの挿入により、コードに見合った姿に製作される。おそらく語るほど単純なことではなく、様々な関係要素により実際は何ができるかわからないのが本当のところだろう。もしかすればネズミの姿をした心臓、ウサギの耳を持つ肝臓、人間の内臓を持つ猿がそれらを代行することになるかもしれない。人間のために製作されたモンスター。現代のフランケンシュタインは継ぎ接ぎだらけではないはずだ。仮にそうなった時、倫理上の問題はどの様な姿で浮上するのだろう。

宮沢賢治の童話「フランドン農学校の豚」では、人間の言語を覚えた豚がなまじ人間とコミュニケートできてしまうことで、食肉になる契約をするように仕向けられる。童話の中では、動物は食用と言えども権利が認められ、食用のため屠殺される場合、動物の任意同意書が必要なのである。契約はあくまでも自発であり、人間たちは動物たちが自らの犠牲的精神で持って、その身を供することを疑わない。
作中のヨークシャイヤは「私儀永々御恩顧の次第に有之候儘、御都合により、何時にても死亡仕るべく候」なる奇怪な文章に前肢の爪印を捺すように求められ、どうにもブタらしからぬやり方で最後には屠られるのです。なまじニンゲンの言語を理解し、文字能力を身につけたばかりに、ヨークシャイヤは擬人化されないままのブタには要求されるはずもない武士道的従順さを強いられ、かといって擬人化の恩恵にたいして浴するわけもなく、ただ無残に、ニンゲンを肥やすための食材とされるわけです。(『擬人化の未来』西成彦)
宮沢賢治の童話における擬人化はあくまでも状況の比喩である。しかし僕らは比喩ではなく、動物が人間の言語を操る、内臓が走り回る、オリジナルと複写の区別がない生命が在る時代を迎えようとしているのである。米国と日本が生殖系の研究を「倫理上の問題」として禁止したとしても、誰かはその一線を踏み越える。そして米国と日本の研究者たちも彼らに追従して研究可能な場へと流れてゆくことだろう。だから日本でも生殖系の研究を解禁すべきと言っているのではない。止めることは難しいと言っているのだ。僕らは「禁止」だと叫ぶだけでなく、それに対応した考えを構築する必要もあると思うのである。

iPS細胞やES細胞を「万能細胞」と誰が名付けたのであろう。「万能」であると言うことは無限定であると言うことだ。つまりは無限と言うことだろう。万能で無限である存在、僕はその存在を「神」しか思い描けない。「万能」は限定で有限な僕の中に存在している。無限を有限が包括できるのかと一瞬とまどうが、それは「限定で有限な僕」という例えが誤りなのだろう。おそらく「万能細胞」は無限ではなく、僕は有限でもないのだ。人間の生を物質レベルで考えれば、誕生から死までの線分で捉える必要もない。僕を構成する物質は死んでもなお残り続ける。

おそらく万能細胞は言葉通りに「万能」ではない、と思う。しかし先々は整形医術・サイボーグ技術と一体もしくは棲み分けて、人間の欠損を補い、機能を拡張し、さらには新たな生命を創ることだろう。「万能」細胞に対する期待は、現在語られているような内容だけに収まりきれないのも事実だと思う。それが人間の精神にどのような影響を与えるのか、このことについて僕は間違いなく内部にいる。

2006/01/21

雪の朝

用事があり雪の中を出かけた。今朝から降り始めた雪は夜半まで続くらしい。積雪は15cmくらいになるという。薄暗い灰色の空から真っ白な雪が降りてくる。それにしても何故雪は白いのだろう。そんなことを考える。白く見えるだけなのかもしれないが、仮に雪色が薄いピンクだったら、もしくは透き通ったブルーだったら、僕らの思考はどう変わっていたのだろう。何の意味を持たぬ話ではあるが、ピンクに染まった雪景色を想像し少し笑う。

あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまえがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたしのすべてのさいはひをかけてねがふ
(宮沢賢治「永訣の朝」から抜粋)

宮沢賢治は、愛する妹であり自分を深く理解してくれた妹・トシの末期の願いを叶えるため、雪の中に飛び出す。そしてトシが「雪を取ってきて」と賢治に頼んだことは、本当は残される自分の為だったと気づく。その時、トシへの最後の一腕となる、薄暗い空から降る雪は、天の恵みに賢治には思えたことだろう。

野山に降り積もる雪は天然の貯水池となり春に豊富な水を提供する。また雪があってこそ生業を得ている方も多いことだろう。その雪が今冬人々に多くの被害をもたらせた。天の采配は人智の及ぶところではないが、東京に降る雪に北国の生活を思う。

広島原爆投下の後に黒い雨が降った。その時冬であれば黒い雪になったのであろうか、それだけはあってほしくはない雪の色だと思う。