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2005/02/19

情報資本主義

「情報過多の社会では、ドライで利己的なくらいでちょうどよく、愛想がよくて奉仕的な人はぼろぼろになってしまうのではないか。そういうなかで、さらに加速度的に情報資本主義が進むと、もう適応不可能になる人たちが続出し、現実適応のために乖離したり、ひきこもったり、多重人格化したりしていくのではないだろうか。」(田口ランディ「情報資本主義について」から引用)
▼「情報資本主義」とは「貨幣」の変わりに「情報」を運用することで利潤を産み出すと言うことなのだろうか。でも「利潤」を生み出すほどの「情報」ってどういうものなんだろう。多分、ネット・新聞・雑誌などから得る情報でないのは確かだろう。これらの情報は既に誰かが知っていてそれを入力していることが前提だからだ。入力していなければ僕はそれを得ることが出来ない。

▼つまり、そうやって知ることが出来た情報は、ある意味使い古された情報と言うことが出来る。そう言う情報から利潤を見いだすことが出来るとは思えない。多分、利潤を産み出す情報って、出来るだけ発生元に近い所で入手しなくてはならない様な気がする。もしくは、発生元から最初に教えてもらう必要がある。

▼ゲイツが言っていたことだけど、彼の場合、最新情報は誰かが必ず教えてくれるそうだ。だから自分からリサーチする必要がないと言っていた。そういうのを聞くと、情報資本家とはそういう人達のことを言うのだろうと思う。自らネットを調べて情報を得ること自体、既に情報資本主義の中ではルンペンみたいな者かもしれない。

▼それに、情報富豪は情報を持っていることを人には見せないとも思う。情報に価値があるのは、価値を持っている期間だけとなるし、その価値が一番高いときに利用する事になると思うから、わざわざ自分が情報を持っていると人には間違いなく言わない。そんなことを人に話したら、情報の価値が薄まるというものだ。

▼これも想像だけど、情報富豪にとって情報が氾濫して、そこに埋没してしまう事なんてあり得ないようにも思う。だって彼らは情報によって利潤を得ているのだから、逆にどんな情報が利潤を産むかを知っているだろうし、その情報に関してのみ気にしていればいいわけだから、情報の量はある程度限定されるように思う。

▼「貨幣」は交換、即ちコミュニケーションの道具としてみたときに、その意味は「情報」も同じだと思う。だから、情報富豪は自らコミュニケーションを働きかけないし、必要な情報が何かを知っているから、不必要なコミュニケーションは時間の無駄と考えているような気がする。ランディさんの言うところのライブドアの堀江社長の話は、そう言う意味で情報富豪の資質をきちんと持っているようにも思える。

▼でもここでいう情報って具体的に何だろう。それがよくわからない。利潤を産み出す情報で想像するのは、株価を左右する企業情報、新たなビジネスチャンスを掴むための最新技術動向、新たな製品を考える際の市場動向、官僚・企業の人事情報・・・等々。でもこれらって今までもそうだった様な気がする。それとも、こう考えること自体「情報資本主義」から見ると既に前近代的な輩と言うことになるのだろうか。

▼僕にとっては情報の種類は1つじゃないと思う。そして「情報資本主義」の情報富豪達の情報はその中の1つではないかと思う。コミュニケーションの過程の中で、情報は変質し、全く別の価値を生み出す場合だってあると思う。つまりは、情報富豪達にとっては価値のない情報でも、コミュニケーションの中で無価値が有価値に変わることは間違いなくある。

▼利潤を産み出す情報は、鮮度が保たれている中で交換される情報と、コミュニケーションの中で価値が新たに創造された情報、の2種類あるような気がしている。それであれば、「情報資本主義」に乗り遅れそうな前近代的な人達(つまり僕です)の戦術は自ずから決まってくる。それは、大いにコミュニケーションしよう、と言うことだ。それこそ、近くの酒場でビールでも飲みながら、同席する人達とたわいのない会話を楽しむのだ。その中から新しい発想が浮かぶかもしれない。

▼勿論、この戦術は、情報を得ようと思ったり、新たな価値を創造しようと考えてコミュニケーションしてはいけない。そんなことを考えても情報は逃げていくだけだ。情報は利潤を得るために求めると、逆に得られないものだとも思う。徹底した「情報資本主義」で情報貧民にならないためには、情報を追い求めないことの様な気がする。

▼このパラドックスの中では、徹底すればするほど情報貧民はいなくなるのではないかな。だって情報富豪は自らを富豪とは見せないだろうし、見せなければ誰も富豪と自分との差異を意識しなくてすむし、さらに意識しなければ自分を情報貧民と認識しなくてもすむし。そのうえ、情報を得ようとすれば逃げるのであれば、情報を求めなくなる方向に流れるかもしれない。なにか「情報資本主義」を徹底することで行き着く先は、その社会の自己崩壊のような気がして、そんな社会を本当にライブドアの堀江さんが作ろうとしているのか、少し疑問がわいてきた。

▼まぁ僕が考えたことだから、間違いは沢山あると思うけど・・・鈍いものだから、ランディさんほど気にしていないだけなんです。

2005/02/17

変わらないもの

「ネットの世界をぐるぐる回って、いろんな事を読んで、そして、ああ、しんどいなあ……と思って外に出て、近所の酒場でビールを飲んだり、行きつけのそば屋のおばさんと世間話をしたり、そういう事でかなりほっとする。現実は小さい。狭くて小さい現実にほっとする。」
(田口ランディ「情報資本主義について」から引用)

▼正直言ってしまえば、ライブドア堀江社長には全く個人的興味が持てない。勝手にやればと突き放して見てしまう。でもランディさんにとっては少し違うのかもしれない。恐らくランディさんは僕より多くの人間に興味を持ってしまうのだろう。興味の対象として堀江社長という人間を捉(とら)えた時、一抹の不安を覚えたのではないだろうか。僕が人間に興味を覚える時、知らないうちに、まず範囲を限定してしてしまう。そしてその範囲に堀江社長は入らない。

▼僕はなぜ堀江社長に興味が持ないのだろう。実はこの視点でランディさんの記事を読んだ。ランディさんが見ているものは、堀江社長という人間をフィルターにして、そこから眺めている人達かもしれない。つまり、ランディさんの言うところの情報資本主義に適用した人間たちを見ているような気がする。多分僕はそういう人達に興味が持てないのかもしれない。

▼堀江社長が言う言葉は、現在明らかな最新技術動向を基に語っている。でもただそれだけの様な気がする。彼の話の中にはビジョンがないと僕は思う。企業ビジョンは確かにあるだろう。でもそこに人々の「暮らし」とか「人間の営み」とかがどう変わるべきかの視点がないように思うのだ。だから、彼の言葉に僕はリアリティを感じられない。

▼ネット家電が社会を変えるかどうかは僕にはわからない。でも過去に起こり、今後も起こるだろう技術革新により人間の社会は変わっていくものだと思う。今からたった100年前と現代ではまるで違うはずだ。それがこれから100年(もしくは10年)経ったとして、今と同じとは思えない。

▼物事が何が変わったか、もしくは何が変わるかの視点で捉えると、変化は時として辛い。でも100年の間でも変わらないものが、僕はあるような気がしている。それが何なのか、正直言えば答えられない。でも古典落語に笑い泣き、明治の小説にリアリティを感じる事があるのだから、それは確かにあるような気がする。

▼それは、朝に親から起こされ暖かいみそ汁の一杯から、どこそこの漬け物が美味しいとの話から、「ちゃんとかんで食べなさい」との親の小言から、眠たい目をこすりながら通勤通学する事から、等々あげればきりがないほどの、人が生活する営みの中で些細な出来事の数々の集積になるのかもしれない。それを何と言うのだろうか。「暮らし」とでも言うのかもしれない。

▼いくらネット家電が出現したとしても、それが社会の監視とか統制に使われない限り、洗濯板での洗い物が電気洗濯機に変わった程度の違いだろう。勿論それだって社会を変える力を持っていた。あくまで想像だけど、フェミニズムの拡大にこれら電気家電が果たした役割は大きかったに違いないと密かに思っている。だからといって「暮らし」の本質が変わったとも思えない。

▼確かに現代は置き換え可能で合意不能な複雑な社会になっている。それにますます個人が扱う情報は巨大化するのは間違いない。また社会は思う以上に脆弱かもしれない、ころっと変わる可能性もある。でもそれは1人の人が強引に変える事が出来るとも思えない。なんというか僕にとって社会が変わるのはそう言う力ではない様に思えるのだ。

▼技術者もしくは学者は、新しい技術が開発すると社会が変わると言う。でもそれによって「人の営み」の何が変わるかの視点で語る人を僕は知らない。技術は一体何のためにあるのだろう。ふとそんな事を考える。ランディさんは作家だから、社会を背景にして、人の営みがどう変わったのかを物語で伝える事が出来る。逆に僕はそこに期待してしまう。

▼堀江社長のインタビュー記事?面白くなさそうだから僕は読みません(笑